竜は誓いの意味を明かさなかった
風竜共和国の山城に伝わる、風が凪ぐ日にだけ姿を消した始祖の妻の伝説。レイブンは開かずの塔に鱗まじりの衣を見つけるが、竜自身には最後まで出会えない。逃げたのか、選んだのか。答えは風の中に残される。
一 風凪の谷、山城の紋章
風唄の谷に踏み入った瞬間、レイブンは自分の耳が急に軽くなったように感じた。
風竜共和国エアリアル・セプトの領内を旅していると、どこへ行っても絶えず風の音がついてまわる。稜線を渡る音、谷を吹き抜ける音、旗布がはためく音。共和国の民は、その音のない場所を落ち着かないとさえ感じるのだと、道中で聞いたことがあった。ところがこの谷だけは違った。両側から迫る切り立った岩壁に音を吸い込まれてしまうのか、風は確かに吹いているのに、そのざわめきだけが妙に静かなのだ。谷底を縫う小道を進みながら、レイブンは何度も足を止め、耳を澄ませずにはいられなかった。
谷の奥、切り立った崖の上に、風見の砦が黒い輪郭を晒していた。石段は長く、踊り場ごとに古い風見鶏の像が据えられていたが、そのどれもが動かずに固まっているように見えた。息を切らしながら登り切ると、門の脇に立つ老爺が、レイブンの旅装束と背に負った記録帳とに、値踏みするような一瞥をくれた。
「珍しいでしょう、その紋章」
門番の老爺はそう言って、頭上を指差した。渦を巻く風の意匠の中に、上半身が女性、下半身が竜の姿をした像が抱かれている。よくある紋章のようでいて、その竜の尾の先端だけが、まるで最初から彫り損なわれたかのように、風の渦の外へと途切れていた。
レイブンが旅の記録者だと名乗ると、老爺は気安く頷いた。
「うちの御領主様の御一族には、代々伝わる家訓がありましてな。――風凪の日には、北の塔に誰も近づいてはならぬ、と」
「風凪の日、というのは」
「この谷では七日に一度、なぜだか風がぴたりと止む日があるのですよ。谷の外では吹いておるのに、ここだけは。理由は誰も知らん。ただ、その日だけは、北の塔の扉に鍵をかけて、誰も足を向けんことになっとる」
老爺はそう言うと、それ以上は詮索を避けるように、レイブンを城内へと通した。石造りの回廊を歩きながら、レイブンは記録帳を開き、「風凪の日」「北の塔」「欠けた竜の尾」という三つの言葉を、まずはそのまま書き留めた。意味づけを急いではいけない。旅を重ねて身についた、数少ない教訓のひとつだった。
回廊の途中、開け放たれた小部屋の前を通りかかると、書物机に向かう痩せた男の背が見えた。城付きの書記だという男は、フェンウィックと名乗り、レイブンが記録者だと知ると、困ったように肩をすくめた。
「北の塔について何かご存じかと聞かれても、正直、大した記録は残っておらんのですよ。何代か前の当主が、火事で焼けかけた蔵書のうち、塔に関する記述だけを意図的に選んで書き写さなかった、という噂もありましてな。……真偽のほどは分かりませんが」
その言葉は、意図的な沈黙が代々受け継がれてきたことを示唆しているようで、レイブンの記録帳の余白に、また一つ問いが増えた。
中庭では、収穫を終えたばかりの葡萄が木箱に積まれ、召使いたちが忙しく立ち働いていた。壁に掛けられた古いタペストリーにも、あの半身が竜の女性の姿が織り込まれている。ただしそちらは尾の先まで欠けることなく描かれていた。門の紋章だけが尾を欠いていることに、レイブンはあらためて小さな違和感を覚えた。
回廊の奥、執務室らしき部屋の扉が開き、恰幅のよい壮年の男が姿を現した。谷の名誉領守、ガレスだと名乗った男は、旅の記録者を歓迎する一方で、その目にはどこか値踏みするような色を浮かべていた。
「風見の砦にようこそ、記録者殿。……この谷の言い伝えに興味がおありだとか」
「ええ。北の塔と、風凪の日について。差し支えなければ、お聞かせ願えますか」
ガレスは少しの間、窓の外に落ちる夕日を見つめていた。答えるかどうか迷っているというより、どこから語り始めるべきか、言葉を選んでいるような沈黙だった。
「……よろしい。ちょうど今宵は、その話をするのにふさわしい晩かもしれん」
夕餉までのわずかな時間、レイブンは案内された客間の窓から谷を見下ろした。斜面に貼りつくように並ぶ家々の煙突からは、夕餉の支度を告げる細い煙が幾筋も立ち上り、遠くの牧草地では、羊の群れが柵の中へと追い立てられていくのが見えた。すべてがどこにでもある山里の夕暮れのようでいて、北の塔の周りだけは、他のどの建物よりも早く、闇に沈んでいくように感じられた。窓辺に佇んだまま、レイブンはしばらくの間、その一角から目を離せずにいた。
二 名誉領守の語る始祖夫婦
夕餉の席で、ガレスはワインで喉を湿らせてから、ゆっくりと語り始めた。長い食卓には、リーサをはじめとする一族の者たちも顔を揃え、幾度も聞かされてきたはずの話に、なお静かに耳を傾けていた。
「数百年前、この谷を切り開いたのは、オーレンスという若い開拓者だった。まだ何もないこの荒れ地に迷い込んだ彼は、風がぴたりと凪いだ泉のほとりで、一人の美しい女に出会う。名を、エリシアといった」
「風が凪いだ、泉のほとりで」
「そうだ。彼女はどこの生まれかも語らず、ただ、この谷を愛おしく思っていると言った。オーレンスが求婚すると、彼女はそれを受け入れる代わりに、たった一つの条件を出した。――七日に一度訪れる、風の凪ぐ日にだけは、決して自分を探さず、姿も見ないこと。それさえ守れば、生涯あなたのそばにいる、と」
「オーレンス様は、なぜそれほど容易く、その条件を受け入れられたのでしょう」
「わしも幼い頃、同じことを父に尋ねたものだ。父はこう答えた。――オーレンスにとって、条件など些細なことだった。荒れ地に一人で迷い込んだ彼にとって、風が凪いだ泉のほとりで出会ったエリシアの声そのものが、もはや何ものにも代え難かったのだ、と。伝わっている限り、彼女はこうも言ったそうだ。『あなたが本当に知りたいと望むまで、わたしは何も隠してはいない』」
ガレスは杯を置き、指先で紋章の刻まれた燭台をなぞった。
「オーレンスは誓いを守った。二人は結ばれ、この荒れ地に次々と砦や町を築いていった。エリシアは知恵に優れ、風の吹く道を読むことに長けていて、谷の民に水路の引き方や、風を味方につけた交易路の拓き方を教えたという。この谷が今日のように栄えたのは、彼女の力によるところが大きいと、うちでは伝えられている。実際、当時築かれた七つの砦のうち、五つは今も現役でこの共和国の交易を支えている」
「幸福な始まりだったのですね」
「ああ。だが、幸福というのは、疑いを知らぬ者にしか長く続かんものだ」
ガレスの声に、わずかな苦みが混じった。
「オーレンスの弟に、ロデリックという男がいた。兄の栄達を妬んでいたのか、あるいは本当に義姉を案じていたのか、それは今となっては分からんが、ある時彼は兄にこう吹き込んだ。――兄上の妻が七日に一度姿を消すのは、余所の男のもとへ通っているからではないか、と。愚かしい話だと分かっていながら、オーレンスの心には、一度根を張った疑念が消えなかった」
「それで、禁を破ってしまわれた」
「ああ。ある風凪の日、彼は誓いを破って北の塔の一室に忍び込み、湯浴みの扉の隙間から中を覗いてしまった。そこで見たのは、下半身が竜の鱗に覆われた、エリシアの本当の姿だった。オーレンスは声も出せず、その場を離れたという」
「その後、二人はどうなったのですか」
「不思議なことに、彼はそれでもエリシアを愛することをやめなかった。誰にも話さず、二人はそれまでと変わらぬ暮らしを続けた。だが、幾年か後、些細な諍いの末に、オーレンスは激情に駆られて、家臣たちの前でこう口走ってしまった。――お前は、蛇女ではないか、と」
食卓に、しばしの沈黙が落ちた。遠くで召使いが皿を下げる音だけが響いていた。若い召使いの一人が、思わずといった様子で息を呑む音が、レイブンの耳にも届いた。
「その言葉を聞いた瞬間、エリシアの体は、皆の見ている前で翼を持つ竜の姿に変わり、北の塔の窓から飛び去っていったという。それきり、人の姿では二度と戻らなかった。……以来この一族に大きな厄災が迫るときには、決まって北の塔の奥から、声にならない嘆きが聞こえるのだと伝えられている」
「紋章の竜の尾が欠けているのも、その名残だと」
「そう語る者もいる。もっとも、あの紋章を彫った石工の家系には、別の言い伝えもあってな。……最後まで尾を彫り終えることを、当の石工が拒んだのだ、と。理由は伝わっておらん。ただ、完全な姿に彫り上げることを、恐れたのか、あるいは、はばかったのか」
「今も、その嘆きは聞こえるのですか」
「わし自身、聞いたことはない。だが、わしの父は聞いたと言っていたし、祖父もそうだった。……信じるかどうかは、記録者殿の判断に任せよう」
ガレスはそう言って、話を締めくくった。だがレイブンは、その口ぶりのどこかに、語り尽くしていない何かが残っているような気がしてならなかった。食卓の端で、リーサが黙って葡萄酒の杯を見つめていたことにも、レイブンは気づいていた。
三 リーサと迫る採決
翌朝、レイブンは中庭で、鍵束を提げたリーサに出会った。北の塔の外壁沿いを、ゆっくりと歩いているところだった。
「父から伝承をお聞きになったのですね」
「ええ。……あなたは、その鍵で」
「北の塔の、下の階のものです。上の階には、わたしも滅多に入りません」リーサは苦笑した。「代々、当主の娘が塔の管理を任されるのです。もっとも、今のわたしの仕事は、鍵をかけておくことと、風凪の日に誰も近づかないよう見張ることくらいですけれど」
そう言いながら、リーサは塔の基部にある小さな窪みへとレイブンを案内した。そこには、干からびかけた花と、小さな水差しが供えられていた。
「これは」
「わたしが、こっそり続けている習わしです。父にも、あまり大っぴらには話していません。……エリシア様が本当に、この谷を厭って去ったのだとしたら、こんなことをしても仕方ないのかもしれない。でも、そう思うたびに、逆にやめられなくなってしまって」
塔を見上げながら、リーサはさらに声を落とした。
「実を言うと、近ごろこの塔の存続そのものが危ういのです。共和国の行政官が、視察にいらしていて」
「行政官が、この塔に何を」
「行政官のドノヴァン様は、うちの谷を含む一帯の砦を、共和国の物流拠点として整備し直す計画を進めているの。北の塔は使われていない上に老朽化が進んでいるから、取り壊して見張り台に建て替えるべきだ、と。……三日後、谷の評議会で採決が行われます」
リーサの表情には、単なる不安以上のものが滲んでいた。
「あなたは、それに反対なのですね」
「ええ。ただの迷信だと言われれば、それまでかもしれない。でも、わたしはこの塔を、ずっと大切なものだと思って育ってきたから」
昼下がり、リーサはレイブンを城壁の見回りに誘った。石畳の狭間から谷全体を見渡せる場所で、リーサは指を差しながら、七つの砦のうち今も残る五つの位置を教えてくれた。
「あちらの砦は、代々の当主が交易の要として大切にしてきた場所。……こちらの、崩れかけた方は、もう百年近く誰も使っていません。エリシア様が去られてから、少しずつ縮んでいった一族の力の分だけ、砦も朽ちていったのだと、父は言います」
「あなたご自身は、どうお考えですか」
「分かりません。……ただ、力が衰えたことと、竜が去ったこととを、簡単に結びつけて語ってしまうのは、少し違う気がするんです。エリシア様がこの谷に遺したものは、砦の数だけでは測れないものだったはずだから」
その日の午後、レイブンは中庭で件のドノヴァンとも顔を合わせた。恰幅のよいガレスとは対照的な、痩身で神経質そうな男だった。開拓当初の砦の配置図を手に、若い測量士たちに指示を飛ばしている姿からは、単なる官僚仕事以上の、この土地への並々ならぬ執着が感じられた。
「記録者殿も、あの家訓に興味がおありか。……古い言い伝えを尊重する気持ちは分かるが、共和国の物流を預かる身としては、いつまでも空き部屋一つに七日ごとの見張りを割く余裕はないのでね」
「もし、伝承に何か根拠があるとしたら」
「根拠、ね」ドノヴァンは薄く笑った。「風が凪ぐ日があるのは、単に谷の地形のせいだろう。三日後の採決までに、その塔から具体的な何かでも出てくるというなら、話は別だが」
その言葉には挑発めいた響きがあったが、同時に、わずかな含みも感じられた。レイブンは記録帳にドノヴァンの言葉を書き留めながら、三日後という期限を、あらためて意識せずにはいられなかった。
夕刻、谷では収穫祭を兼ねた「凪ぎ待ちの宴」の準備が進んでいた。風が凪ぐことを厄災の予兆として恐れる一方で、この谷の民は、風が凪ぐ夜そのものを、静けさへの感謝として祝う習わしも持っているのだという。若者たちが軒先に風鈴を吊るし、女たちが料理の下ごしらえに追われる中、リーサは畑仕事の合間、レイブンにぽつりと打ち明けた。
「わたし、小さい頃から時々思うことがあるんです。エリシア様は、本当に覗かれたことで追われるように去ったのかしら、って。……人の姿というのは、彼女にとって、もともと仮のものだったのかもしれない。風凪の日に竜へ還ることは、罰でも逃避でもなく、彼女自身がずっと選び続けてきたことだったのかもしれない、って」
「それは、家に伝わる話とは、違う解釈ですね」
「誰にも話したことはありません。……ただの、娘の勝手な想像です」
そう言って俯くリーサの横顔には、しかし、単なる想像とは思えない確信のようなものが、かすかに滲んでいた。レイブンはその横顔を、しばらくのあいだ黙って見つめていた。
四 開かずの塔、鱗の衣と採決の夜
三日後の朝、レイブンはガレスに願い出て、ようやく北の塔の最上階に立ち入る許しを得た。ドノヴァンの視察を前に、伝承の実態を確かめておきたいというレイブンの申し出を、ガレスも、そしてリーサも、拒む理由を持たなかった。
埃をかぶった階段を上ると、円形の小部屋に行き着いた。長らく開かれなかった鎧戸の隙間から、細い光が差し込んでいる。壁には色褪せた壁画があり、風の渦の中を舞う竜の姿が、消えかけた顔料でかろうじて残っていた。その傍らには、竜と寄り添うように立つ人影が二つ、大人と子供とおぼしき大きさで描かれている。ガレスの語った伝承には、子についての言及は一度もなかった。レイブンはその壁画の前で足を止め、しばらく動けずにいた。部屋の中央には古い木箱があり、リーサが鍵を差し込むと、蝶番が軋みながら開いた。
中に納められていたのは、一枚の衣だった。裾のあたりが、布地ではなく、乾いて硬く変色した鱗のようなものへと、境目もなく移り変わっている。まるで、人の衣のまま体だけが竜に変わっていく、その途中の姿を留めたもののようだった。木箱の底には、他にも小さな品が幾つか眠っていた。彫りの粗い風見鶏の飾り、子供の手形が刻まれた小さな石板、そして半分ほど解けかけた組紐が一本。組紐には、大人と子供、二対の手のひらほどの大きさの結び目が、対になるように編み込まれていた。
「これは……」
リーサは組紐を両手で包み込むように持ち上げ、しばらく声を失っていた。
「家に伝わる話に、子供のことなど、一度も出てきたことはありません。……でも、これを見ていると、いなかったとは、とても思えない」
「壁画の子供の姿も、同じことを物語っているのかもしれません」
「もしそうなら、なぜ誰も語り継がなかったのでしょう。誇るべきことのはずなのに」
その問いに、レイブンも答えを持たなかった。二人はしばらくの間、組紐の結び目をただ見つめていた。リーサが息を呑む横で、レイブンは窓辺に歩み寄った。木の窓枠には、内側からも外側からも、幾筋もの深い爪痕が刻まれていた。一度きりの傷ではない。幾度も、幾度も、同じ場所を出入りした痕跡だった。
「もし、これが一度だけ覗かれて逃げ去った証だとしたら」レイブンは呟いた。「これほど何度も、窓を出入りした跡が残るでしょうか」
「……分かりません。でも」
リーサが木箱の底から、色褪せた一葉の紙片を取り出した。古い文字で、短くこう記されていた。――風の凪ぐ日にだけ、わたしは本当の姿に還る。それは失うことではなく、思い出すことだった。
二人が言葉を失っていると、階下から慌ただしい足音が響いてきた。紙片のことも忘れて振り返ると、召使いの一人が、評議会の採決が繰り上げられ、今夜行われることになったと告げた。ドノヴァンが「悠長に待つ理由はない」と押し切ったのだという。
その夜、谷の評議会には、住民たちも詰めかけていた。広間には篝火が焚かれ、老いも若きも押し合うように集まっている。ガレスが伝承の由緒を語り、続けて、白髪の古老が立ち上がって「わしの若い頃、確かに嘆きの声を聞いた者を知っている」と証言すると、広間はざわめいた。ドノヴァンはそれを遮るように、物流拠点としての合理性を、丁寧だが揺るぎない口調で説いた。議論は平行線をたどり、採決の刻限が迫っていた。
そのとき、谷全体を渡っていたはずの風が、ふいに凪いだ。
誰かが「風凪の日ではないのに」と呟いた声が、広間に走った。次の瞬間、遠く北の塔の方角から、声とも風ともつかない、長く尾を引く音が聞こえてきた。人の嘆きにも、竜の遠吠えにも聞こえるその音は、しばらく谷にこだまし、やがて静かに消えていった。松明の炎さえ、その一瞬だけ揺らぎを止めたように、レイブンには見えた。
誰かの子供がしゃくり上げるように泣き出し、母親が急いでその口を塞いだ。老いた住民の幾人かは、目を閉じて胸に手を当て、聞き慣れた祈りの句をつぶやいていた。広間は静まり返った。ドノヴァンでさえ、しばらくは口を開かなかった。
「……これが、あなたの言う迷信ですか」
リーサの問いに、ドノヴァンは答えなかった。彼は手にした配置図を、無意識にきつく握りしめていた。やがて彼は小さく息を吐き、疲れたように首を振った。
「わたしには、あれが何だったのか説明できん。……だが説明できないというだけの理由で、拙速に事を進めるのは、行政官として賢明ではないだろう。塔の取り壊しは、いったん保留とする」
その言葉に、広間からわずかな安堵の声が漏れた。ガレスがリーサの肩に手を置き、深く頷いた。レイブンはその一部始終を、静かに記録帳に書き記していった。だが、あの声の主が本当に竜だったのか、それとも風が岩肌をなぞっただけの音だったのか、確かめる術は誰にも残されていなかった。
五 二つの記録、山城を辞す夕暮れ
翌日、レイブンは谷を発つ支度を整えた。塔の存続は当面守られることになり、ガレスもリーサも、いくぶん肩の荷が下りたような表情を浮かべていた。フェンウィックは、昨夜の出来事だけは記録に残しておくと言って、久しぶりに筆を執っていた。
門のところで、リーサが見送りに来てくれた。
「あの衣と傷のこと、どう書き記すおつもりですか」
「二つとも、書き記すつもりです。……覗かれたことで人の世を追われた竜という、家に伝わる伝承と。人の姿はもともと仮のもので、風凪の日に竜へ還ることは、彼女自身の選択だったのかもしれないという、あなたの解釈と。どちらが正しいかを、私が決めることはできません」
リーサは少しの間、驚いたような顔をしていたが、やがて静かに微笑んだ。
「それでいいと思います。うちの一族も、何代もかけて、それを決めることができなかったのですから」
「組紐のことも、書き記してよろしいですか。……語られてこなかった子供のことも」
リーサは少し迷うように視線を落としたが、やがて小さく頷いた。
「ええ。誰かが記憶しておくべきことだと、わたしも思います。うちの家では語れないことでも、あなたの記録帳になら、居場所があるかもしれない」
坂を下りながら、レイブンは何度も塔を振り返った。朝の光の中では、北の塔はただの古い石積みにしか見えなかった。それでも、あの鱗まじりの衣と、幾筋もの爪痕だけは、確かにレイブンの記憶に刻まれていた。
谷を出る手前、レイブンは足を止め、記録帳の最後のページを開いた。
――竜は、誓いの意味を最後まで明かさなかった。覗かれたことで人の世を追われたのか、それとも風の凪ぐ日ごとに、自ら選んで本当の姿へと還っていったのか。わたしにはまだ、判じることができない。ただ、幾度も同じ窓を出入りした爪痕だけは、彼女がその選択を、一度きりではなく、何度も何度も重ねてきたことを物語っているように思えてならない。
風唄の谷を抜けると、絶え間ない風の音が、再びレイブンの耳を満たした。振り返った先に、風見の砦はもう小さく霞んでいた。それでも、あの谷だけに訪れる束の間の静寂を、レイブンは長く忘れないだろうと思った。
あとがき
本作は、14世紀末にジャン・ダラスが文献化した「メリュジーヌ伝説」――妖精、あるいは竜の血を引く女性メリュジーヌが、若き貴族と結婚する条件として「毎週土曜日だけは姿を見ないこと」を課すが、夫が禁を破って浴室で下半身が竜である彼女の姿を見てしまい、後の口論で「蛇女」と罵られたことで竜の姿となって城の窓から飛び去る、という筋書きを下敷きにした翻案である。中世フランス・ポワトゥー地方のリュジニャン家の始祖伝説として伝わり、一族に大事が迫る前には彼女の嘆きの声が響くと語り継がれている。
本作では舞台を風竜共和国の山あいの谷に移し、「毎週土曜日」という条件を「七日に一度、風が凪ぐ日」という土地固有の自然現象に重ね合わせた。また、竜自身は劇中で一度も直接姿を現さず、開かずの塔に残された鱗まじりの衣、窓枠の爪痕、そして最後に響く嘆きとも風ともつかない音を通してのみ、その気配が示唆される構成とした。原典では語られない「覗かれた竜のその後」を、「追われて去った」のか「自ら選んで還り続けた」のかという異説の併記に落とし込み、旅する観察者レイブンが判断を保留したまま谷を去るという結末を選んでいる。物流拠点化を巡る評議会の採決という筋立ては、伝承と実利がせめぎ合う場を作るための創作であり、登場する谷の名や人物名(ガレス、リーサ、オーレンス、エリシア、ロデリック、ドノヴァン、フェンウィックほか)はすべて本作のための創作である。原典や特定の翻訳文からの逐語的な引用は行っていない。
本作はジャン・ダラス『メリュジーヌ物語』(14世紀末成立、原文: https://www.gutenberg.org/ebooks/65457)に伝わる中世フランスの民話・貴族家伝承を参考にした翻案作品です。