物語雳
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·読了目安 14分脇役

竜は誓いを見限らなかった

鐘楼に眠る竜は、街の誓いが破られるたびに石と化していく。密告政治に蝕まれた都市国家で、友を人質に三日の猶予を得た牧人が濁流と裏切りの影に挑むとき、石化しかけた竜の身体にかすかな亀裂の音が走る。太宰治『走れメロス』の翻案。

一 鐘楼の街

都市国家エウノミアの広場には、石造りの古い鐘楼が立っている。鐘楼の頂には、誰の記憶にもないほど昔から、一頭の竜が身を丸めて眠っていた。灰褐色の鱗は苔と埃に覆われ、翼は幾重にも折り畳まれたまま長い年月を経て、もはや街の彫像の一つと見分けがつかなかった。子供たちは石畳に寝転び、その輪郭を指でなぞりながら「あれは本物の竜なのか、それとも石工が刻んだ像なのか」と飽きずに言い合った。

老人たちは言う。あの竜は、この街に生きる者すべての「信頼」を映す器なのだと。市井の者たちが交わす小さな誓い――借りた金を期日までに返す、明日また会うと言った約束を守る、預けられた秘密を漏らさない――そうした無数の誓いが果たされるたび、竜はわずかに息づき、鱗の色にほのかな艶が戻る。逆に誓いが破られるたび、竜はわずかに石へと近づいていく。かつては、鐘楼守が朝夕に竜の様子を書き留め、街の空気そのものを測る役目を担っていたのだという。だが今では、そんな言い伝えを本気で信じる者は、もはやほとんどいなかった。誰もが日々の暮らしと、頭上に垂れ込める恐怖とに追われ、竜を見上げる余裕さえ失っていたからだ。

牧人ラオンは、街の外れの丘で羊を追う暮らしをしていた。素朴で、怒りっぽく、そのかわり裏表のない男だった。父を早くに亡くし、妹リディアと二人、慎ましく身を寄せ合って生きてきた。羊の乳を搾り、毛を刈り、市で売って暮らしを立てる、代わり映えのない日々。それでも彼はその暮らしを、誰に恥じることもない誇りとして大切にしていた。

朝は羊たちを追って露に濡れた草を踏み、昼は木陰で笛を吹き、日が傾けば囲いに羊を戻して妹と粗末な夕餉を囲む。それがラオンの知るすべてだった。丘の上から見下ろすエウノミアの街並みは、夕暮れには橙色に染まり、鐘楼の鐘が涼やかな音を風に乗せて届けてくる。子供の頃、ラオンはあの鐘の音を数えながら眠りにつくのが好きだった。今でも、遠く街から鐘の音が聞こえると、ふと足を止めて耳を澄ます癖が抜けずにいた。

その日は、リディアの婚礼を明日に控え、街で布と酒と、祝いの膳のための品々を買い求める用事があった。前日から幾度も算段を練り、なけなしの蓄えを数え直しては、妹に晴れ着の一枚くらいは仕立ててやりたいと、柄にもなく心を弾ませていた。久しぶりに踏み入れたエウノミアの街は、記憶にあるものと、どこか違っていた。露店の並ぶ大通りは以前より人通りが少なく、すれ違う者たちは肩を寄せ合うようにして早足で歩き、隣人と目が合うことを避けるようにうつむいていた。子供の笑い声すら、心なしか控えめだった。

「近頃の街はどうしたんだ、こんなに静かで」

ラオンが顔なじみの布商人に尋ねると、老いた商人は左右をうかがってから、声を潜めて答えた。

「僭主クレオン様の耳目が、そこら中にいるのさ。誰が誰を見張っているのか、もう誰にも分からない。うっかり軽口を叩けば、その晩のうちに衛兵が来る。先だっても、鍛冶屋のとこの倅が、酒の席で税の重さに愚痴をこぼしただけで、朝には姿を消していたよ。密告した相手が、幼馴染だったという話だ」

商人はそれ以上を言わず、ただ震える手で布を丸めた。

その言葉が終わらぬうちに、通りの向こうで悲鳴が上がった。見れば、兵士たちが若い職人を家から引きずり出しているところだった。職人は「何もしていない、ただ隣人と言い争っただけだ」と叫んでいたが、兵士は取り合わず、彼を縄で縛って連れ去っていった。取り囲む人々は誰も助けようとせず、ただ息を殺してその光景をやり過ごした。密告した隣人らしき男は、群衆に紛れて素知らぬ顔をしていた。誰もそれを咎めなかった。咎めれば、次は自分が消される番だと、皆が知っていたからだ。

ラオンの胸に、抑えがたい怒りがこみ上げた。人が人を売り、裏切りが裏切りを呼ぶ。誓いという誓いが、この街ではとうに紙屑ほどの重みも持たなくなっていた。頭上を仰げば、鐘楼の竜が、いつにも増して重く沈んで見えた。

「こんな街に、明日はあるものか」

ラオンは低く呟いた。その夜、宿を取らず、酒の勢いも借りず、ただ胸に燃える正義の思いだけを頼りに、彼は僭主の宮殿へと足を向けた。まだ何も考えていなかった。ただ、この理不尽を作り出している男の顔を、一目見てやりたいと思っただけだった。

だが懐に忍ばせた短刀を、宮殿の門番に見咎められ、ラオンはあっけなく取り押さえられた。石畳に組み伏せられながら、彼は自分の浅はかさを悔いる暇もなく、ただ頭上の月を見た。月明かりに照らされた鐘楼の竜の輪郭が、ひどく遠く、そして小さく見えた。

槍の柄で背を打たれ、引きずられるようにして地下牢へ放り込まれる間も、ラオンの耳には、あの職人が連れ去られた時の悲鳴がこびりついて離れなかった。冷たい石壁にもたれ、彼は拳を握りしめた。妹の婚礼を目前にして、こんな愚かな真似をした自分を呪う気持ちと、それでも街の理不尽を見過ごせなかったのだという意地とが、胸の内でせめぎ合っていた。

二 三日の約束

引き立てられた広間で、ラオンは初めて僭主クレオンと対面した。年老いてなお鋭い眼光を持つ男は、玉座に深く腰掛け、縛られたラオンを興味深げに見下ろした。長い治世の疲れが刻まれた顔に、退屈を持て余すような、しかしどこか飢えたような色が滲んでいた。

「羊飼いが、余を刺しに来たか。理由を申してみよ」

「街は病んでいる。人は人を売り、友は友を疑う。あなたの密告政治が、この街から信頼という信頼を奪い尽くした。それが許せなかった」

クレオンは声を立てて笑った。玉座の間に、乾いた笑い声だけが響いた。

「信頼、だと。人はもとより、己が身可愛さに他人を売る生き物よ。余はただ、それを白日の下に晒しているに過ぎぬ。お前とて、縄が緩めば真っ先に逃げるだろう。逃げぬ人間など、この世に一人としておらぬ」

「逃げはしない。私には妹がいる。明日、婚礼を挙げる。それを見届けるまでの、三日の猶予をいただきたい。必ずこの街へ戻って、刑を受ける」

広間がざわめいた。誰もが、そんな戯言を信じる者などいないと思った。ある廷臣は失笑を漏らし、ある廷臣は憐れむような目でラオンを見た。だがクレオンは、しばらく黙考した後、意外にも静かに頷いた。その目には、ただの興味とは違う、何か切実な光が宿っていた。

「良かろう。ただし、人質が要る。お前が戻らねば、代わりに誰かの首を刎ねる」

その言葉に応じたのは、共に街へ来ていた石工の親方フィロンだった。物音を聞きつけ広間に駆けつけた彼は、ラオンの肩を抱くようにして進み出た。二人は幼い頃、同じ丘で石を積んで遊んだ仲であり、互いの家の屋根が傷めば、頼まれずとも修理に駆けつけるほどの間柄だった。

「私が人質に立とう。ラオンは、必ず戻る男だ。この街に生まれてこの方、彼が誓いを違えたことは一度もない」

一言の迷いもないその声に、クレオンはわずかに片眉を上げたが、それ以上は何も言わず、フィロンを牢へ送るよう命じた。

「石工風情が、命を懸ける相手か」

クレオンが独り言のように呟くと、フィロンは縄を打たれながらも、まっすぐに玉座を見上げて答えた。

「陛下は、人を信じたことがおありですか。私はラオンを幼い頃から知っております。あの男が誓いを違えるくらいなら、先に太陽が西から昇るでしょう」

その物言いに、廷臣たちはひやりとしたが、クレオンはなぜか怒りもせず、ただ興味深げに目を細めただけだった。

――クレオンには、誰にも明かしていない胸中があった。玉座から見上げる鐘楼の竜が、ここ数年でほとんど完全な石と化していることに、彼は誰よりも早く気づいていたのだ。密告政治を敷いたのは、他ならぬ自らの手であり、その報いとして竜が息絶えていくさまを、彼は毎夜、宮殿の高窓から目の当たりにしていた。もし竜が完全に石化しきれば、この街に何が起こるのか、伝説の続きを知る者はいない。祖父の代の記録には、竜が完全な石と化した都市国家は、ある日忽然と地図から消えたとの一文があるだけだった。クレオンはそれを恐れながらも、心のどこかで、最後にもう一度だけ、人というものを試してみたいという屈折した願いを抱いていた。羊飼いの申し出は、その願いにとって、願ってもない賭けの種だった。

ラオンは半日をかけて村へ戻り、事情を伏せたまま、慌ただしく妹の婚礼を執り行った。祝宴の席で杯を交わしながらも、彼の胸には刻限への焦りが絶えず渦巻いていた。花嫁姿のリディアは、兄の様子がいつもと違うことに気づいていたが、あえて何も問わず、ただ深く頭を下げた。

「兄さん、今日という日をありがとう。私は幸せです」

その言葉に、ラオンは込み上げるものを堪えて笑い返した。妹の幸せを見届けられたことだけで、この身は充分だと思った。

祝宴には、近隣の羊飼いや、母の代からの馴染みの老女たちも顔を揃え、慎ましいながらも温かな笑い声に満ちていた。誰かが素朴な竪琴を鳴らし、子供たちが輪になって踊った。花婿は寡黙だが実直な牧童で、リディアの手を取るその仕草には、ラオンも安堵を覚えるだけの誠実さが滲んでいた。杯を重ねるうち、村人の一人がふと漏らした。

「ラオン、お前さんの顔色が優れんぞ。何か心配事でもあるのか」

「なに、少し街で疲れる用事があっただけだ」

ラオンは笑って誤魔化したが、その目はどうしても、西に傾いていく日差しの角度を測ってしまうのだった。

夜更け、宴が果てた後、ラオンはようやくフィロンに宛てて残していた文を、彼の妻に託した。文には、事の次第と、詫びと、感謝とが記されていた。フィロンの妻は文を読み、涙を浮かべながらも、責めるような言葉は一つも口にしなかった。

「あの人は、あなたのために牢に入ったのではありません。あなたを信じたから、自ら望んで牢に入ったのです。どうか、そのことを忘れないで」

村を発つ前夜、ラオンは鐘楼のことを長く知る老婆モイラのもとを訪ねた。モイラは若い頃、鐘楼の下働きをしていたという。腰の曲がった小さな体に、鐘楼の鍵の形をした古い護符を、今も首から下げていた。

「あんたは知らぬだろうが」モイラは皺の刻まれた手で杖を握りしめながら言った。「鐘楼の竜はね、街の誓いが果たされるたび目を覚まし、破られるたびに石になっていく生き物なんだよ。わしが子供の頃はまだ、竜の胸元がわずかに上下しているのが見えたものさ。だが近頃はもう、ぴくりとも動かぬと聞く。あんたが交わした約束――それもまた、あの竜の命の一部になっているのかもしれないね」

「では、私が戻らねば、竜は死ぬのですか」

「さあ、それは誰にも分からぬ。ただ、誓いというものは、それを立てた本人だけのものではないのかもしれぬよ。誰かが見ていなくとも、街そのものが、その成否を覚えているのやもしれぬ」

モイラはそこで一度言葉を切り、遠い記憶をたどるように目を細めた。

「わしが娘だった頃、一度だけ、竜が今にも動かなくなりかけたことがあった。旱魃の年でな、水を巡って村同士が誓いを破り合い、争いが絶えなかった。それが、隣村の若者たちが手を取り合って井戸を分かち合うと誓い直したその晩、鐘楼から低い唸り声が響いたそうな。わしはその声を聞いてはおらぬが、母がよく話して聞かせてくれたものさ。誓いというのは、存外、儚いようでいて、しぶといものなのかもしれぬね」

ラオンは半信半疑のまま礼を言い、夜明け前、街へ向けて走り出した。羊たちの寝息だけが響く丘を越え、朝靄の立ち込める街道へと、その足を踏み入れた。

三 濁流と、罅の音

街道は、前夜からの雨で一変していた。普段は穏やかな川が、堤を越えんばかりの濁流と化し、橋は根こそぎ流されていた。渡し守の小屋も浸水し、人影はどこにもない。ラオンは一瞬たじろいだが、迷う暇はなかった。衣服のまま川に飛び込み、渦を巻く水と戦いながら、力の限り対岸を目指した。腕は痺れ、幾度も水を飲み、流木に肩を打たれて息が詰まった。それでもフィロンの、そして妹の顔を思い浮かべ、歯を食いしばって泳ぎ切った。ようやく対岸の泥に這い上がったとき、ラオンの全身は震え、指先には血の気がなかった。

ずぶ濡れのまま街道を急ぐラオンの前に、今度は山賊の一団が現れた。金目のものを寄越せと迫る彼らに、ラオンは「持っているのは命だけだ、それも今は他人に預けている」と叫び、素手で応戦した。殴られ、蹴られながらも、彼らの隙をついて包囲を抜け、再び街道を駆けた。頬から流れる血が、乾いた土埃と混じって顔に張りついた。

峠道に差し掛かった頃、一台の荷馬車が轍にはまって立ち往生しているのが目に入った。老いた行商人が一人、途方に暮れて車輪を押していた。刻限を思えば、目もくれずに走り過ぎるべきだった。だがラオンの足は、気づけば荷馬車の傍らに向いていた。渾身の力で車輪を持ち上げ、泥濘から引き上げると、行商人は驚いた顔で礼を言った。

「見ず知らずの者に、なぜそこまで」

「困っている者を放っておけぬ性分でしてね。それだけです」

行商人はしばらく黙ってラオンを見つめていたが、やがて荷台から一頭の痩せた驢馬を引き出し、手綱を差し出した。

「これに乗っていきなされ。急ぎの用があるのだろう。恩は、その足で返してくれればいい」

見も知らぬ他人からの、思いがけない厚意だった。ラオンは深く頭を下げ、驢馬の背に飛び乗ると、再び街道を急いだ。だがその驢馬も、半刻と保たず、力尽きて倒れてしまった。ラオンは詫びの言葉を残す間もなく、自らの足で再び走り出さねばならなかった。

その頃、鐘楼の竜の身体には、幾筋もの亀裂が走り始めていた。ラオンが濁流に呑まれかけたその瞬間、竜の胸のあたりから、ぴしり、と乾いた音が響いた。誰も気づかぬ小さな亀裂だったが、宮殿の高窓からそれを見つめていたクレオンだけは、その音を聞き逃さなかった。彼は思わず身を乗り出し、息を詰めて鐘楼を見上げた。

「陛下は近頃、あの鐘楼ばかり気にかけておられますね」

老臣の一人が訝しんで尋ねると、クレオンは苦い笑みを浮かべた。

「余は、あの竜に賭けているのだ。人という生き物が、最後まで誓いを見限らずにいられるものかどうかを。愚かしいと思うか」

「陛下ご自身が、その答えを最も知りたがっておいでのように見受けられます」

老臣の言葉に、クレオンは何も答えなかった。ただ、その沈黙が、何よりも雄弁だった。

日が傾き始めた頃、疲労と空腹と、度重なる打撃とで、ラオンの足はついに止まった。荒れ地の真ん中で、彼は膝から崩れ落ちた。もう歩けない。ここまでやったのだから、誰も自分を責めはしないだろう。フィロンとて、分かってくれるはずだ――そんな弱気な考えが、頭の中を渦巻いた。喉は焼けるように渇き、瞼が重く落ちてきた。

濁流に呑まれ、山賊に囲まれ、驢馬まで失った己の運の悪さを呪いたくもなった。誰も見ていない荒れ地でなら、ここで力尽きたとて、それは不運のせいにできる。誓いを違えたのではなく、ただ間に合わなかっただけだと、自分に言い聞かせることもできる。そんな卑怯な理屈が、疲れ果てた頭の中で、妙に心地よく響いた。

「もう、いい。私は、やれるだけのことはやった」

ラオンは地面に横たわり、目を閉じかけた。その時、脳裏に浮かんだのは、フィロンの妻の言葉だった。「あなたを信じたから、自ら望んで牢に入ったのです」――その一言が、鈍く痛む胸の奥に、小さな火種を残していた。

同時に、遠く鐘楼の方角から、地鳴りのようなかすかな軋みが、風に乗って届いた気がした。ラオンには聞こえるはずのない距離だったが、なぜか彼の耳の奥に、確かにその響きが残った。まるで、何かが今にも砕け散る寸前で、かろうじて堪えているかのような音だった。

「――ばかな。私が諦めれば、あれも共に終わる。そんな気がしてならない」

ラオンは自分でも説明のつかない衝動に突き動かされ、震える脚に力を込めて立ち上がった。道端の泉に頭から突っ込み、渇いた喉を潤すと、再び走り出した。もはや刑を免れるためでも、誉れのためでもなかった。ただ、フィロンと交わした約束を、自分自身の手で裏切りたくない。その一心だけが、ラオンの脚を動かしていた。

夕日が街道の彼方に沈みかけていた。城壁の影が、ラオンの前に長く伸びていた。あと少し、あと少しで街に着く。呼吸は乱れ、視界は霞み、足はもつれかけたが、彼は止まらなかった。

四 日没の声

刑場に着いたのは、太陽が地平線に沈みかけた、まさにその刹那だった。既に絞首台に上げられ、縄を掛けられようとしていたフィロンの姿が、群衆の向こうに見えた。詰めかけた人々は皆、諦めきった顔で成り行きを見守っていた。

「待て――! 私はここにいる、フィロン!」

声を限りに叫びながら、ラオンは群衆をかき分け、刑場へと転がり込んだ。フィロンは驚いたように顔を上げ、それから安堵と喜びに顔を歪めた。

「戻ったか、ラオン。私は――お前を、少しも疑わなかった」

「すまない。濁流に呑まれかけたとき、山賊に囲まれたとき、私は一度だけ、心の隅で、諦めかけた自分がいた。それが恥ずかしくてならない」

ラオンが肩で息をしながら詫びると、フィロンは静かに首を振った。

「私もだ。長い牢の中で、日が傾くたびに、一瞬だけ、お前が戻らぬのではと思った。だが、その一瞬を恥じている点で、私たちはお互い様だ。恥じ入りながらも、お前を信じることをやめなかった。それでいいのだろう」

二人は縄を解かれるのも待たず、互いの肩を強く抱き合った。刑場を囲む群衆から、すすり泣きの声が漏れ始めた。

その時、街のどこからともなく、低く長い咆哮が轟いた。地の底から突き上げるようなその声に、群衆は一斉に空を仰いだ。鐘楼の頂で、幾筋もの亀裂に覆われていた竜の身体が、内側からの光を放ちながら、ゆっくりと殻を破るように身じろぎしていた。灰色だった鱗に、夕日を弾く艶やかな色が戻っていく。竜は一度だけ、大きく喉を反らして声を上げると、それきり再び深い眠りへと沈んでいった。だが、その一声は、街中の誰の耳にも、確かに届いていた。

物陰から一部始終を見ていたクレオンは、その声を聞いた瞬間、こらえきれず涙を流した。何十年ぶりかに流す涙だった。彼は群衆の前に進み出ると、その場でフィロンの縄を解かせ、震える声で告げた。

「余は、長きにわたり、この街の信頼という信頼を踏みにじってきた。密告により人を裁く政は、今日をもって廃する。愚かな賭けに、これほどの答えをくれた者たちに、余は詫びねばならぬ」

群衆は静まり返り、それから誰からともなく、すすり泣きとも歓声ともつかぬどよめきが広がっていった。ラオンとフィロンは、互いに傷だらけの顔を見合わせ、力なく笑った。

それから幾月かが過ぎた。密告の制度は正式に廃され、街の通りには、以前のような笑い声が少しずつ戻っていった。露店には活気が戻り、隣人同士が挨拶を交わしながら世間話に興じる姿も、日常のものになっていった。クレオンは自ら望んで多くの権限を長老会に譲り渡し、以後は表舞台に立つことも少なくなったが、月に一度、鐘楼の下に立って空を見上げる姿を見た者が、幾人もいたという。

ラオンは羊の群れを連れて、時折街を訪れては、フィロンの仕事場に顔を出した。二人はかつてと変わらず、些細なことで言い争っては、すぐに笑い合う仲に戻っていた。あの峠で助けた行商人とも、それから幾度か市で顔を合わせるようになり、驢馬の代わりにと、いつも余分な果物を分けてくれるのだった。

鐘楼の竜は、あの日以来、完全な石に戻ることはなかった。相変わらず頂で丸くなり、日がな一日眠っているように見えたが、風の強い夜には、その胸元がかすかに上下するのを見た者が、幾人もいた。子供たちは以前のように石畳に寝転び、竜を指差しては、今度は「あれは生きているのだ」と口々に言い合うようになった。老婆モイラは、その様子を鐘楼の下から眺めながら、ただ静かに目を細めるだけだった。

あとがき

太宰治の『走れメロス』は、暴君ディオニスの圧政に憤ったメロスが、妹の婚礼のための三日の猶予を乞い、親友セリヌンティウスを人質に差し出して旅立つ物語である。濁流や山賊、疲労による絶望に阻まれながらも誓いを果たすため走り続けるメロスと、それを信じて待ち続ける友の姿を目にした暴君もまた、暴虐を悔い改めるという結末を、本作でも大きな軸とした。

本作では、街の「信頼」そのものを体現する存在として、鐘楼に眠る竜を新たに配した。人々の誓いが果たされるたびに息づき、破られるたびに石と化していくこの竜は、物語に直接介入することなく、街の信頼の消長と共鳴して石化と覚醒を繰り返す象徴として描いた。暴君が猶予を持ちかけた動機を、竜が完全に石化し切る前の最後の賭けという屈折した願望に置き換えることで、原作の「人を試す暴君」という構図に、もう一つの理由を重ねることを試みた。竜自身は言葉を発することも人前に姿を現すこともなく、最後まで街の信頼を映す器であり続ける。

登場人物の名や都市国家の名、鐘楼の伝説はすべて独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は一切行っていない。


本作は太宰治著『走れメロス』(青空文庫収録)を参考にした翻案作品です。

本作は太宰治の『走れメロス』を参考にした作品です。原典