竜は誓いを手放さなかった
滅びた一族の最後の生き残りから杯を託され、三百年にわたり主なき財宝を守り続けた竜。奴隷の窃盗をきっかけに、老王ベーオウルフとの一騎討ちの果て、番人としての生涯を静かに終える。
一 託された杯
塚の中は、いつも同じ温度をしていた。冷たくもなく、暖かくもない、竜自身の体温だけがそこに満ちている。石組みの奥、黄金の器がうずたかく積まれた広間で、竜は長い首をとぐろの中に収め、外の季節が移ろう気配だけを、微かな地響きとして聞き分けていた。
三百年前、この場所にはまだ人の声があった。滅びゆく一族の最後の一人――ここでは仮にオルドウィネと呼んでおく――が、痩せた手で黄金の杯をひとつ、竜の眼前に掲げた夜のことを、竜は今も鮮明に覚えている。
その一族は、かつて丘陵の向こうに小さな王国を築いていた。だが隣国との戦に敗れ、生き残った戦士たちも疫病に次々と斃れ、最後にはオルドウィネただ一人だけが残された。竜は、その戦の最後の日々を、遠く離れた岩山の上から見ていた。剣が打ち合う音、燃え落ちる砦、担架に運ばれていく男たちの列――それらは竜にとって、まだ意味を成さない、ただの光景の連なりに過ぎなかった。彼は同胞の遺した武具や装飾品のすべてをかき集め、先祖代々の墓所であったこの塚に運び入れると、来る日も来る日も、誰にともなく語りかけながら、それらを丁寧に並べていった。竜がその姿を見つけたのは、そんなある晩のことだった。
「わしの一族は、もう終わる」オルドウィネはそう言って、松明の炎を頼りに、塚の壁に刻まれた祖先の名を指でなぞった。「戦に敗れ、疫病に沈み、残ったのはわしひとりだ。だが、この杯だけは違う。これは、わしの父の父の、そのまた父が、初めて王として立ったとき、盟友から贈られたものだ。ただの黄金ではない」
竜はまだ若く、火を吐くことも、翼を広げて空を渡ることも、ようやく板についてきたばかりだった。人の言葉を解する術は、遠い昔にどこかで身につけていたが、それを誰かに向けて使う機会は、これまでほとんどなかった。それでも、この痩せた老人の声には、竜の耳を捉えて離さない何かがあった。
「わしが死ねば、この宝はすべて主を失う」オルドウィネは続けた。「奪われても構わぬ。剣も、鎧も、腕輪も、好きにすればいい。だが、この杯にだけは、誰にも触れさせるな。約束してくれるか、竜よ」
なぜ、あの老人が竜に向かってそんな言葉をかけたのか、竜自身にもわからなかった。ただ、蝋のように白く乾いたオルドウィネの手が、杯を置く仕草があまりに静かで、あまりに丁寧だったことだけは、はっきりと覚えている。まるで、その一つの器だけが、滅びた一族のすべての記憶を体現しているかのようだった。
竜は答える代わりに、太い首をゆっくりと折り、杯の傍らに顔を寄せた。それが、竜にできる精一杯の返答だった。オルドウィネは満足そうに小さく笑い、それから幾日も経たぬうちに、塚の奥で静かに息を引き取った。竜はその亡骸を、財宝の一番奥、誰の目にも触れぬ場所に横たえた。骨に変わっていく老人の姿を見届けながら、竜は初めて、誰かを見送るということの意味を知った。
それから竜は、誰に命じられたわけでもなく、その場に留まり続けた。最初の百年は、まだ塚の周りに人の営みの気配が残っていた。羊飼いの少年が丘の向こうから塚を眺め、老人たちが「あそこには近づくな」と子供たちに言い聞かせる声が、風に乗って届くこともあった。竜はそのたびに、身じろぎひとつせず、ただ闇の奥で杯を見つめていた。誰かに見つかることを恐れていたわけではない。ただ、姿を見せることで、この静かな務めが乱されることだけを、竜は何よりも避けたかった。
二 番人の年輪
年月というものは、竜にとってさえ、緩やかで、同時に途方もなく長いものだった。二百年が過ぎる頃には、オルドウィネの一族の名を覚えている人間は、もうこの地上のどこにもいなくなっていた。塚の周りに広がる荒野には、季節ごとに違う花が咲き、違う鳥が渡り、竜はそのひとつひとつを、数えるでもなく眺め続けた。春には塚の斜面に薄紫の野花が群れ咲き、夏には乾いた風が金色の草を波立たせ、秋には渡り鳥の影が塚の上を幾筋も過ぎていった。冬、雪に閉ざされた荒野で物音ひとつしなくなる季節だけは、竜にとって、最も心が凪ぐ時間だった。
竜の一日は、いつも同じ手順で始まった。夜明け前、塚の入り口からわずかに差し込む灰色の光で目を覚まし、財宝の山をゆっくりと一周する。腕輪の位置、剣の柄の傾き、何百とある器の並び――そのすべてが、昨夜と寸分違わぬ配置にあることを確かめてから、竜はようやく杯の前に腰を落ち着けた。それは、儀式と呼ぶにはあまりに簡素で、しかし竜にとっては、生涯で最も大切な時間だった。
たまに、塚の外れまで近づいてくる者があった。腕試しの若者、宝探しの旅人、あるいは道に迷った旅の商人。竜はそのたびに、低く喉を鳴らして、姿を見せるまでもなく彼らを退けた。誰かを傷つけたことは、数えるほどしかない。ほとんどの場合、竜の気配――大地の底から響く、地鳴りにも似た唸り――だけで、人間たちは震え上がり、逃げ帰っていった。
ある年、竪琴を背負った吟遊詩人が、塚の周りを幾晩も彷徨っていたことがあった。彼は塚に眠る財宝の噂を歌にしようと、遠い国からやって来たのだという。竜は姿を見せなかったが、詩人が焚き火を囲んで即興の詩句を口ずさむのを、闇の奥から幾晩も聞いていた。詩人が歌う「強欲な竜」という言葉の響きに、竜は初めて、自分がどのように語られているのかを知った。それは事実とは違っていたが、竜には訂正する術も、その気もなかった。詩人はやがて何も見つけられぬまま、肩を落として立ち去っていった。
ある年には、名を上げることだけを望む若い騎士が、剣一本を頼りに単身乗り込んできたこともあった。彼は塚の入り口に立ち、闇の奥に向かって声高に名乗りを上げ、竜を挑発する言葉を並べ立てた。竜はしばらくその声を黙って聞いていたが、やがて低く一声だけ唸り、地面をひとつ叩いて見せた。それだけで、騎士の顔から血の気が引いた。彼は剣を取り落としそうになりながら、来た道を転がるように逃げ帰っていった。竜にとって、それは戦いと呼ぶにも値しない、ただの儀礼のようなものだった。
ある年の夏、旱魃に苦しむ村の男が、飢えた家族のために塚に忍び込んだことがあった。震える手で剣を一振り握りしめ、それでも足が竦んで動けずにいる男を、竜はしばらくの間、黙って見つめていた。男の目には、強欲ではなく、ただ生き延びるための必死さだけが浮かんでいた。竜は身を起こし、低く唸ることで男を追い立てたが、その夜、なぜか塚の外れに、余った獣の骨を幾つか転がしておいた。男がそれを見つけ、恐る恐る持ち帰ったかどうか、竜は知らない。だが、その一件以来、竜の中には小さな違和感が芽生えていた。守るべきものと、見逃してよいものとの境界を、自分自身の判断で引いているという感覚――それは、オルドウィネから託された誓いとは、また別の何かだった。
イェーツ族の若者ベーオウルフが、隣国デーンの宮廷で怪物グレンデルとその母を討ち取ったという噂が、風の便りに塚まで届いたのは、竜が眠りについてから、ちょうど二百五十年ほどが過ぎた頃だった。竜はその噂を、遠い国の出来事として聞き流した。人間たちの英雄譚は、竜にとって、塚の外を吹き過ぎる風のようなものでしかなかった。まさかその若者が、後に自らの国の王となり、さらに五十年の歳月を経て、この塚の前に立つことになろうとは、竜には想像もつかなかった。
三百年目に近づいたある夜、竜は珍しく落ち着かない気分で目を覚ました。理由は自分でもわからなかった。杯はいつもの場所に、いつもと変わらぬ姿で鎮座していたし、財宝の配置にも乱れはなかった。それでも竜は、その夜だけは杯の前を離れず、朝が来るまでじっと目を凝らし続けた。長い年月の底で研ぎ澄まされてきた竜の感覚が、何かの前触れを捉えていたのかもしれなかったが、竜自身、それを言葉にすることはできなかった。
その晩以来、竜はふとした瞬間に、杯の縁に映る自分の目を見つめる癖がついた。三百年という歳月の中で、竜の姿形は少しずつ変わっていた。若い頃には艶やかだった鱗も、今では所々が鈍く曇り、動きにもかつてのような俊敏さは失われつつあった。それでも杯だけは、竜が初めて見た夜と寸分変わらぬ輝きを保ち続けていた。変わらぬものを守り続けるために、変わっていく自分がある――そのことに、竜はある種の静かな満足を覚えてもいた。
夜ごと、竜は杯の縁に落ちる自らの影を見つめながら、オルドウィネの最後の言葉を反芻した。「わしが死ねば、この宝はすべて主を失う」――その言葉の意味を、竜は三百年かけて、少しずつ、自分なりに咀嚼してきたように思う。主を失った財宝を守るということは、つまり、誰のためでもなく、ただ約束のためだけに在り続けるということだった。それは孤独と呼ぶにはあまりに静かで、使命と呼ぶにはあまりに個人的な、竜だけの時間だった。
三 破られた誓い
その夜、塚に忍び込んだのは、罪を犯して主から折檻を受けることを恐れた、一人の奴隷だった。彼は仕えていた領主の館から、些細な失態を理由に鞭打たれる寸前で逃げ出し、当てもなく荒野をさまよっていた。夜露に濡れ、飢えと恐怖で消耗しきった彼は、たまたま行き当たった塚の裂け目から、誰も知らぬその内部へと転がり込んだ。目にした黄金の山に、男は息を呑んだ。竜は眠りの浅い微睡みの中にあり、男の忍び足に気づくのが、いつもより一拍遅れた。
男は震える手で、手近にあった杯をひとつ掴み取った。それが、竜が三百年守り抜いてきた、あの器だった。男にしてみれば、山と積まれた財宝のうちの、ただの一つに過ぎなかった。主への貢ぎ物にして赦しを乞うつもりだったのか、あるいは己の罪を金で贖うつもりだったのか、竜にはついぞわからずじまいだった。男は音を立てぬよう、震える足取りで塚を抜け出し、闇の中へ姿を消した。
竜が目を覚まし、いつもの儀式のとおり杯の前に腰を落ち着けようとしたとき、そこにあるはずのものがなかった。竜は財宝の山を隅々まで――何百年もの間、一度たりとも乱したことのない配置を、片端から――探した。腕輪を払いのけ、剣を蹴り飛ばし、器という器を鼻先で確かめて回ったが、あの杯だけは、どこにもなかった。
三百年という歳月の重みが、その瞬間、竜の胸の中で音を立てて崩れ落ちた。それは怒りに似ていたが、怒りだけではなかった。悲しみに似ていたが、悲しみだけでもなかった。ただひとつ確かだったのは、自分がこの世でたった一つ守り抜いてきたものが、ある夜、名も知らぬ誰かの手によって、あまりにもあっけなく持ち去られてしまったという、途方もない喪失感だった。竜は塚の奥で、長い間、身動きひとつせずにいた。声を上げることさえ、しばらくはできなかった。
やがて竜は、塚の外へと這い出た。夜の荒野に立ち、竜は月に向かって、これまで一度も上げたことのない咆哮を放った。その声は幾つもの丘を越え、遠く王の館の窓ガラスをも震わせたという。その夜のうちに、竜は幾つもの村を焼いた。麦畑を、家畜小屋を、王の館の外壁を、竜は炎で舐め尽くした。夜空は赤く染まり、煙は星々を覆い隠した。人間たちはそれを、竜という怪物が、ついに本性を現し、強欲のままに国土を蹂躙し始めたのだと語り継ぐことになる。だが竜自身にとって、それは支配欲でも殺意でもなく、託された約束が破られたことへの、あまりに個人的な喪失の発露に過ぎなかった。誰かに伝わることを、竜はもとより望んでいなかった。焼け落ちる家々の悲鳴も、逃げ惑う人々の足音も、竜の耳にはほとんど届いていなかった。ただ、胸の奥に空いた穴だけが、火よりも熱く竜を灼き続けていた。夜が明けても炎はくすぶり続け、灰の匂いが幾日も荒野に漂った。
炎に包まれる自国の様子を、老王ベーオウルフは館の窓から見つめていた。五十年にわたり民を治めてきた王の顔には、若き日にグレンデルを討った勇者の面影よりも、幾多の統治の疲労と、老いの影の方が色濃く刻まれていた。宮廷の重臣たちは口々に、大軍を集めて竜を包囲すべきだと進言したが、王はそれをただ黙って聞き流していた。
「竜が、目覚めたそうだな」ベーオウルフは、傍らに控える従者ウィーラフに向けて、静かに言った。「誰かが、竜の宝に触れたか」
「盗人が捕らえられました。彼は杯をひとつ、盗んだだけだと申しております」
ベーオウルフはしばらく黙り込み、それから小さく頷いた。「たかが杯ひとつで、ここまでの怒りか」王の声には、恐れよりも、むしろ奇妙な得心のようなものが滲んでいた。「その杯には、我々の知らぬ意味があったのやもしれぬ」
「兵をお集めください」重臣の一人が膝をついて訴えた。「王自らが赴かれる必要はございません」
ベーオウルフは首を振った。「グレンデルのときも、その母のときも、私は自らの手で決着をつけた。今度もまた、そうするべきだろう。ただ――」王は言葉を切り、窓の外に広がる炎の帯を見つめた。「今度ばかりは、若い頃のようにはいくまいな」
竜には知る由もなかったが、老王のその一言は、三百年の間、誰にも理解されることのなかった竜の誓いに、初めて触れた人間の言葉だった。もっとも、その言葉が竜に届くことは、ついになかった。
四 老王と若人
ベーオウルフは、国中の兵を率いて竜に立ち向かうことをしなかった。若き日にグレンデルを討ったときと同じく、彼はこの決着を、自らの手で、自らの命を懸けてつけるべきものだと信じていた。ただひとり、若き従者ウィーラフだけを伴い、老王は塚へと向かった。旅の道すがら、ウィーラフは何度も王に問いかけた。なぜ、それほどまでに独りで背負おうとするのかと。老王はそのたびに、遠くを見るような目をして、「これは私と竜、二人だけの決着だ」とだけ答えた。
塚の前に立った老王の姿を見て、竜は炎を吐くのをやめた。目の前にいるのは、若く勇み立つ挑戦者ではなく、深い皺と白髪に覆われた、ひとりの老いた統治者だった。竜はその佇まいに、どこかオルドウィネの最期の姿と重なるものを見た気がした。滅びを目前にした者だけが纏う、ある種の静けさだった。
「竜よ」ベーオウルフは剣を抜きながら、闇の奥に向かって言った。「お前が何を望んでいるのか、私には分からぬ。だが、我が民が炎に焼かれるのを、これ以上見過ごすわけにはいかぬ」
竜は答えなかった。答える言葉を、竜はそもそも持ち合わせていなかった。ただ、長い首をもたげ、塚の入り口から姿を現した。鱗は年月の重みで鈍く曇り、かつての輝きは既になかったが、その巨躯が纏う気配だけは、いささかも衰えていなかった。土煙を上げて地を這う竜の姿に、ウィーラフは思わず一歩後ずさったが、老王は微動だにせず、その場に立ち続けた。
戦いは、言葉を交わさぬまま始まった。ベーオウルフの剣が竜の鱗を弾き、竜の吐く炎が老王の盾を焦がした。焼け焦げた木片が舞い散り、大地が二人の巨躯と老王の踏み込みによって幾度も震えた。ウィーラフは剣を構えたまま、傍らでその死闘を見守っていた。若い従者の目に映るのは、老いてなお衰えぬ王の勇猛さと、それに一歩も退かぬ竜の執念だった。
一撃ごとに、老王の息は上がっていった。かつて素手でグレンデルの腕を引き千切った若き日の力は、もう彼の腕には残っていなかった。それでもベーオウルフは、盾を掲げ、剣を振るい続けた。竜もまた、幾度となく剣に切り裂かれながら、退くことをしなかった。両者の間には、もはや勝敗を超えた何かが横たわっているようだった。刃が鱗を弾くたびに火花が散り、炎が盾を焦がすたびに焦げた革の匂いが立ちのぼった。竜の脳裏には、幾度となくオルドウィネの痩せた手が浮かんだ。あの手が杯を置いたときの静けさと、目の前で剣を振るう老王の荒い息とが、なぜか同じひとつの重みとして竜の中で響き合っていた。
戦いの半ば、竜の牙がベーオウルフの首筋を捉えた。毒を帯びたその一撃は、老王の命を静かに、しかし確実に蝕み始めた。それでもベーオウルフは膝をつくことなく、最後の力を振り絞って剣を振るい続けた。ウィーラフが加勢に踏み込み、二人がかりの刃が、竜の急所を貫いた。
竜は、自らの命が尽きようとしていることを、静かに悟った。痛みよりも先に竜の胸を満たしたのは、不思議な安堵だった。三百年守り抜いてきた誓いは、ついに人間の手によって破られてしまったが、少なくとも竜は、その誓いを自ら手放したことは一度もなかった。守るべきものを守り、託された約束を全うしようとした果てに、こうして命を終えるのならば、それは竜にとって、恥ずべきことではなかった。
ベーオウルフもまた、己の傷が命取りであることを悟っていた。倒れゆく竜を見つめる老王の目に浮かんでいたのは、勝利の高揚ではなく、むしろどこか静かな敬意だった。言葉を交わすことは、ついになかった。互いの生涯を懸けた誇りだけが、その一騎討ちの中で、確かにぶつかり合っていた。
竜が最後に見たのは、崩れ落ちる自らの鱗の隙間から差し込む、夜明け前の淡い光だった。杯のことも、オルドウィネのことも、三百年の孤独のことも、竜はもはや思い出す必要さえなかった。ただ、誓いを最後まで手放さなかったという事実だけが、竜の中に静かに残っていた。
五 塚の沈黙
老王ベーオウルフは、竜を討ち果たしたその場で息を引き取った。息絶える間際、彼はウィーラフの手を握り、自らの国と民の行く末を託した。ウィーラフは、王の亡骸を抱えながら、竜の巨躯が力尽きて横たわる様を、長い間見つめていた。彼にはまだ、この竜が何を思い、何のために炎を吐いたのか、知る術がなかった。ただ、両者の亡骸が並ぶ光景には、単なる怪物退治とは呼びがたい、奇妙な静けさが漂っていた。
国に戻ったウィーラフは、この顛末を語り継ぐ役目を負うことになった。「老いてなお勇猛なる王が、国を脅かす竜を、若き従者とともに討ち果たした」――物語はそのように語られ、代々受け継がれていくことになる。民たちは海を望む岬に高い塚を築き、ベーオウルフの亡骸を、財宝とともに葬った。船乗りたちは沖合からその塚を望むたび、偉大な王の名を口にしたが、竜については誰も多くを語らなかった。
杯を盗んだ奴隷は、その後どうなったか、誰も詳しくは語らない。財宝の山に紛れて残されていた、他の無数の器の一つとして、盗まれたはずの杯もまた、結局は塚に戻され、埋葬の列に加えられたのだという。誰かがそれを持ち去ったという事実も、それが竜にとってどれほどの意味を持っていたかも、歴史の中では語られることなく、忘れ去られていった。
塚の前に立てられた石碑には、老王の武勲と、忌まわしき怪物の最期が短く刻まれた。そこに、三百年にわたり誓いを守り続けた竜の内面が記されることは、ついになかった。人々は代々、この物語を「勇者が怪物を退治した英雄譚」として語り継ぎ、竜については、ただ強欲な破壊者として記憶していった。ウィーラフだけは、晩年に至るまで、あの日戦場に漂っていた奇妙な静けさのことを、時折思い出しては口を噤んだ。
だが、塚の奥深く、誰の目にも触れぬ暗闇の中に、竜とベーオウルフの亡骸は、財宝とともに静かに眠り続けている。杯は再びその山の中に紛れ、誰に守られるでもなく、誰に奪われるでもなく、ただそこに在り続けている。
風だけが、今も塚の上を吹き渡っていく。誰も知らない、誰にも理解されなかった、ひとつの忠義の終わり方があったことを、風だけが、あるいは覚えているのかもしれなかった。
あとがき
『ベーオウルフ』の終盤、老王として国を治めていたベーオウルフは、奴隷が財宝の山から杯をひとつ盗んだことで竜の怒りを買い、国土を焼かれる。老王は従者ウィーラフのみを伴って竜の棲む塚に赴き、一騎討ちの末に相討ちで果てる――というのが原作の展開である。本作では、この竜の内面を再構築し、単なる強欲な守銭奴としてではなく、三百年前に滅びた一族の最後の生き残りから「この杯にだけは誰にも触れさせるな」と託された、孤独な番人として描いた。竜が国土を焼くのは支配欲ゆえではなく、託された誓いが破られたことへの喪失感の発露であり、老王との一騎討ちもまた、互いの生涯を懸けた誇りのぶつかり合いとして描いている。人間側がこの顛末を「英雄が怪物を討った物語」として語り継ぐ一方で、竜の本当の動機は誰にも知られぬまま財宝ごと塚に葬られていく、という結末は原作のとおりである。オルドウィネという人物名、竜が旱魃の男や吟遊詩人と遭遇する挿話、番人としての日々の描写はすべて本作独自の創作であり、原文の翻訳や逐語的な引用は行っていない。
本作はAnonymous(作者不詳・古英語叙事詩)著『Beowulf』(フランシス・バートン・ガメア訳)を参考にした翻案作品です。