物語雳
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竜は誰も呑み込まなかった

神経療養で沼地の館を訪れた青年は、姪の語る「三年前、竜に呑まれた三人」の悲話を真に受ける。夕闇に現れた人影と竜影に絶叫し逃げ出す彼を待つのは、拍子抜けするほど平和な真相だった。

一 沼地の館へ

辻馬車が最後の丘を越えたとき、ジュリアン・メルシエは膝の上で組んだ手に、無意識に力を込めていた。眼下に広がるのは、一面の枯れ葦と、その向こうに寝そべる灰色の沼地――コロンビエの村を囲む、湿った低地だった。医者からは「神経の休養には、静かな田舎の空気が何よりの薬です。人付き合いは最小限に、心を波立たせるような話題からは、努めて遠ざかりなさい」と念を押されていたが、この陰気な景色を見る限り、休養と呼べるものがどれほど得られるのか、ジュリアンには甚だ心許なかった。

思えば、この一年というもの、何をするにも心の臓が早鐘を打ち、些細な物音にすら跳び上がるようになっていた。都会の喧騒から逃れ、緑の中で静かに過ごせば、いくらかは元に戻るだろう――そう説く医者の言葉を、ジュリアンは半信半疑のまま信じるほかなかった。

御者は村はずれで手綱を引きながら、ぼそりと呟いた。

「レーヴネル館は、あの沼のすぐ際でさあ。旦那様がたは今日もお出かけでしょうな、いつもの通りに」

「いつもの通り、とは」

ジュリアンが尋ねると、御者は肩をすくめただけで、それ以上は答えなかった。手綱を打つ音とともに馬車は速度を上げ、それきり口を開こうとはしなかった。馬車を降りるころには、日はすでに西へ傾き、葦原を渡る風が肌寒く感じられた。

ジュリアンがこの見知らぬ土地を訪れたのは、姉クレマンスの計らいによるものだった。数年前、まだ独身だったクレマンスは療養のためにこの村に長逗留し、レーヴネル館の女主人イゾルド・ファヴローと親しく交わったのだという。「あの方なら、きっと弟さんの気鬱にも良い気晴らしを用意してくださるわ」と、姉は紹介状をジュリアンに持たせた。もっとも、姉自身はこの数年、ファヴロー家とは文のやり取りひとつしていないらしかった。相手がどんな暮らしをしているのか、どんな出来事があったのか、姉もほとんど知らないままだったのだ。

村に入ってから、ジュリアンはいくつか妙な光景を目にした。井戸端で立ち話をしていた女たちが、馬車を目にするなり口をつぐみ、通り過ぎるまでじっとこちらを窺っていた。教会の脇に佇む老爺は、沼地の方角へ向かって、まるで悪いものを祓うような仕草で、指を組んで小さく祈りを捧げていた。田舎特有の人見知りだろうと、ジュリアンは自らに言い聞かせたが、胸の奥にはうっすらとした不安が沈殿していった。

宿場で馬を替える間、居合わせた雑貨屋の主人が、ジュリアンの行き先を聞くなり、片眉を上げてこう言った。

「レーヴネル館ですか。あそこのご一家は、悪い人たちではありませんがね。ただ、日暮れ時に沼のあたりを歩き回るのだけは、よした方がいい。よそ者が迷い込んで、二度と戻らなかった話も、ないではないんでね」

その口ぶりには、からかい半分とも、本気の忠告ともつかない、奇妙な重みがあった。ジュリアンは礼を言って馬車に戻ったが、主人の視線が、いつまでも背中に張りついているような気がしてならなかった。

館は、噂に違わず沼地のすぐ際に建っていた。蔦の絡んだ灰色の壁と、南向きに大きく開かれたフランス窓――夕方の光を吸い込むように、居間の奥までひとすじの明るさを届けている。出迎えた女中に案内され、ジュリアンは居間で腰を下ろした。イゾルド夫人はまだ身支度中とのことで、代わりに現れたのは、十五、六ばかりの少女だった。

「叔母はもうすぐまいります。それまで、わたくしがお相手いたしますわ」

少女は名をリーヴといい、物怖じしない、よく光る目をしていた。お茶の支度を手伝いながら、彼女はさりげなく尋ねた。

「この村に、お知り合いは多くていらっしゃいますの」

「いいえ、誰も。姉が昔、こちらのお宅と親しくしていたそうで、紹介状を一通いただいてきただけです」

「では、この家について、何もご存じないのですね」

リーヴの声に、わずかに含みのようなものが滲んだ。ジュリアンは居心地悪くお茶を口に運びながら、窓の外へ目をやった。庭の向こうには、夕闇に沈みかけた沼地の輪郭が、うっすらと見えている。葦の間を縫うように、白い霧が這い始めていた。

「あの沼には、若い竜が棲んでいると聞きましたが」

ジュリアンが話柄を継ぐと、リーヴはわずかに目を細めた。

「ご存じでしたの。ええ、村の者はみな知っております。もっとも、大人になった竜ではありませんの。まだ仔どもの、灰色がかった小さな竜だとか。羊飼いの話では、迷い込んだ牧羊犬とじゃれ合っているのを見たとも申しますし、子どもらを脅かしたという話は、一度も聞きませんわ。それでも村の者は、日暮れ時に沼へ近づくことだけは、決してございません」

「それなら、恐れるようなものではないのですね」

「ええ――」

リーヴはそこで言葉を切り、窓の外へ視線を移した。夕闇の帳が、少しずつ厚みを増していくところだった。

「――もっとも、この館では、その仔竜のことを、あまり気安く口にする者はおりませんの。旦那様がたに関わる、少し悲しい事情がございますから」

その一言に、ジュリアンの胸の奥で、何かがひやりと冷えた。姉の紹介状には、ただ「静養によい、心優しい方々」とだけ記されていたはずだった。悲しい事情とは、いったい何のことだろう。窓の外の霧は、いつの間にか庭木の根元まで這い寄っていた。

二 語られた三年前

「お尋ねになりたいのなら、お話しいたしますわ。叔母が参りますまでの、ほんの気晴らしに」

リーヴはそう前置きすると、膝の上で指を組み、静かな声で語り始めた。窓辺の薄闇が、彼女の横顔に、いっそう陰影を深く刻んでいた。

「三年前の、ちょうど今ごろの季節でした。叔母の夫であるレオン様と、その義弟にあたるオクターヴ様、バジル様のお三方が、あの沼に棲む若い竜を仕留めようと、猟銃を手に出かけられましたの。当時、羊が幾頭か沼のほとりで姿を消しており、村では竜の仕業だと噂されておりましたから。三人は日暮れ前に発って、あの窓から――」

リーヴは、居間の奥の、大きく開け放たれたフランス窓を指し示した。

「――あの窓から出ていかれて、そのまま、お戻りになりませんでした。夜が更けても灯りひとつ戻らず、翌朝、村の男たちが総出で沼を捜しましたの。見つかったのは、泥にまみれた猟銃と、引き裂かれた上着の切れ端だけ。地面には、大きな爪痕が幾筋も残されていたそうです。竜に呑まれたのだろうと、村の誰もがそう申しました」

ジュリアンは知らず知らず、椅子の肘掛けを強く握りしめていた。

「それは、なんと痛ましい……。それで、女主人は」

「叔母は、いまだにそれをお認めになりませんの。三人は生きていて、いつか竜を連れて、あの窓から戻ってくると、固く信じておいでですわ。お医者様も、村の司祭様も、幾度となく諭されましたけれど、叔母のお気持ちは変わりませんでした。ですから、日が暮れるこの時刻になると、決まってあの窓を開け放たせ、食卓には三人分の席を余分に整えさせるのです。今夜も、ご覧の通り」

言われて振り返ると、なるほど食堂の扉の向こうに、白布をかけた食卓が薄闇の中に見えた。皿は五人分――ジュリアンとリーヴと夫人、そのほかに、確かに三人分。壁際の帽子掛けには、色褪せた猟師用の外套が三着、まるで今にも持ち主が袖を通しに来るのを待つかのように、掛けられたままになっていた。暖炉の上の燭台には、埃をかぶった古い猟銃の飾りが一挺、記念品のように立てかけられている。

「ですから、旦那様がお噂を口にするのを、皆が避けるのです。竜を憎めば、まるで叔母の信じているものを、真っ向から否定することになりますから。羊飼いのマチューは、あの子竜が牧羊犬と戯れているのを見たと申しますけれど、それを叔母の前で口にする者は、この館には誰もおりません」

ジュリアンの背筋を、冷たいものが這い上った。田舎の静養で、まさかこれほど陰惨な話を聞かされようとは、思いもよらなかった。医者の言いつけ通り、努めて心を波立たせぬようにと自分を戒めたが、想像はすでに勝手に膨らみ始めていた。三年間、沼のほとりで独り遺骨を待ち続ける夫人の姿を思うと、胸が締めつけられるようだった。

そこへ、明るい足音とともに、恰幅のよい婦人が居間に入ってきた。イゾルド・ファヴロー夫人だった。年の頃は四十がらみ、頬に朗らかな血色をたたえ、悲しみに沈んでいるようには到底見えない、快活な物腰の女性だった。

「まあ、遠いところをようこそ。クレマンスさんの弟さんね。姉さんとは、もう長らくご無沙汰しているけれど、お元気にしていらっしゃるかしら。こんな沼のほとりの、何もない村でございますけれど、少しでもお心が休まりますように」

夫人は快活にひとしきり世間話をしたのち、ジュリアンの視線が窓の方へ幾度も泳ぐのに気づいたらしく、こう言い添えた。

「窓が開けっぱなしで、失礼いたしましたわね。もうすぐ夫と弟たちが、沼から戻ってまいりますの。あの子たちったら、いつも沼の泥だらけで帰ってくるものですから、玄関を回らせるより、あの窓から直に入らせた方が、絨毯を汚さずに済みますのよ。ここ数年、毎日のことですから、すっかり癖になってしまって」

夫人はさも当たり前のことのように、屈託なく笑った。ジュリアンには、その言葉の何もかもが、恐ろしい符合に思えた。「もうすぐ戻る」――三年間、この夫人はそう言い続けてきたのだろうか。悲しみのあまり、正気を失っているのだとしたら、この朗らかな笑顔こそが、何より痛ましいのではないか。

「沼の若い竜は、皆様にとても懐いているそうですね」

ジュリアンが震える声で水を向けると、夫人は嬉しそうに頷いた。

「ええ、本当に人懐こい子でしてね。夫たちが可愛がっているものですから。狩りに出るたび、必ずあの子を連れていくのですよ。獲物の在り処を、鼻先で嗅ぎ分けてくれるのですって」

――可愛がっている。過去に葬られた者たちを、この夫人は今なお現在形で語る。ジュリアンの喉が、渇きにひりついた。リーヴはその隣で、涼しい顔をしてお茶のお代わりを注いでいる。夕闇は音もなく濃さを増し、窓の外の霧は、もう庭の木立の半ばまで這い上がっていた。遠くで、鳥が一声鋭く鳴いて、葦原の奥へ消えていった。

三 夕闇に立つ影

「あら、そろそろ戻る時分だわ」

夫人はそう言うと、開け放たれた窓の外へ、期待に満ちた眼差しを向けた。ジュリアンは何か当たり障りのない話題を探そうとしたが、頭の中は先刻聞かされた悲話でいっぱいで、まともな言葉が出てこなかった。

「猟の獲物といえば、旦那様は何をお持ち帰りになるのですか」

かろうじて絞り出した問いに、夫人は無邪気に答えた。

「さあ、今日は水鳥かしら。それとも何も獲れずに、竜と戯れて帰ってくるだけかもしれませんわ。あの子たちにとっては、獲物より竜の方が、よほど大事なようですもの」

その返答は、ジュリアンの耳には、正気の言葉としては響かなかった。獲物より大事な、呑み込んだはずの竜――夫人の中では、加害者であるはずの竜と、失われた家族とが、もはや区別のつかないものになっているのだ。ジュリアンは膝の上の手を強く握りしめ、せめて顔だけは平静を装おうとした。だが、視線はどうしても、窓の外の薄闇へと吸い寄せられてしまう。

薄闇の向こうで、葦の間から、ぼんやりとした人影が三つ、揺らめきながら立ち現れた。霧を纏い、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。逆光を受けたその輪郭は、確かに人の形をしていながら、どこか現世のものではないような、頼りない揺らめきを帯びていた。ジュリアンの心臓が、喉元まで迫り上がった。そして、その足元に沿うようにして、地を這うように小さく動く、四つ目の影があった。

「――あれだわ、ちょうど戻ってきましたのよ」

夫人が、まるで日課の答え合わせでもするように、こともなげに呟いた。ジュリアンの目には、それは何よりも恐ろしい光景に見えた。三年前に沼へ呑まれたはずの三人の亡霊が、彼らを呑んだ人喰い竜を引き連れて、夕闇の中からこの窓辺へ、まさに今、戻ってこようとしているのだ。血の気が一気に引き、耳の奥で心臓の音だけが激しく鳴り響いた。

「――ひっ」

声にならない悲鳴を上げ、ジュリアンは弾かれたように椅子から立ち上がった。手にしていた紅茶の碗が絨毯の上に転がり落ちる音も、もはや耳に入らなかった。彼は玄関の扉へ突進し、驚く女中の脇をすり抜け、暗くなりかけた庭を、蹴つまずきながら駆け抜けた。生垣に肩をぶつけ、帽子を落としたことにも気づかず、村道を一目散に走り去っていく彼の背中を、ファヴロー家の面々は、呆気にとられて見送るばかりだった。

「まあ、どうなさったのかしら、あの方」

夫人が眉をひそめたところへ、当の三人が、フランス窓を潜って居間に入ってきた。先頭に立つ、日に焼けた恰幅のよい男が、レオン・ファヴローだった。長靴は沼の泥にまみれ、猟銃を肩に掛けている。その後ろから続くオクターヴとバジルもまた、同じように泥だらけの姿で、袋を担ぎ、笑い声を上げながら戸口をくぐってきた。

そして三人の足元を、ちょこちょこと駆けるように付き従っていたのは、体高がようやく大型犬ほどの、灰色がかった鱗を持つ、若い竜だった。翼はまだ小さく、飛ぶには頼りない大きさだが、瞳は人懐こい光をたたえ、レオンの手にした袋――今日の水鳥の獲物――の匂いを嗅ぎたがって、しきりに鼻先を押しつけている。

「ただいま戻ったよ、イゾルド。おや、お客人がいらしていたのではなかったか。玄関先で、誰かとすれ違ったが」

レオンが不思議そうに問うと、夫人は困惑した様子で、たった今の出来事を語って聞かせた。三年前の悲話――村中の誰もが知る、あの作り話のことなど、レオンはもちろん露ほども知らない。彼にとってそれは、ただの平凡な夕暮れの帰宅に過ぎなかった。三年前、沼のほとりで卵から孵ったばかりの、この竜を見つけて以来、レオンたちは毎日この時刻、竜を連れて散歩がてら沼を見回るのが日課になっていた。窓を開けておくのも、竜の爪で絨毯を傷めぬよう、まっすぐ庭から入らせるための、ただそれだけの理由だった。

竜はといえば、初対面の客人が悲鳴を上げて逃げていったことなど気にも留めぬ様子で、暖炉の前にどさりと寝そべると、尾を大儀そうに一度打ち振り、そのまま丸くなってしまった。バジルがその背をひとしきり撫でてやると、竜は喉の奥で低く心地よさそうな音を鳴らした。

「まさか、私たちが沼に呑まれた亡霊だとでも思われたのかしら」

オクターヴが泥だらけの外套を脱ぎながら苦笑した。誰もが顔を見合わせ、少し困ったように笑い出したが、その笑いの底には、拭い切れない戸惑いも滲んでいた。いったい客人は、この家について、何をどう聞かされていたのだろうか。

バジルが暖炉の前にしゃがみ込み、竜の喉元をくすぐってやりながら、思い出したように言った。

「そういえば、村の入口で、青ざめた顔の若い男とすれ違ったな。息を切らして、こちらを一度も振り返らずに走っていったが。あれが、お客人だったのか」

「ええ、そうに違いありませんわ。よほど何かに怯えていらしたのでしょう」

夫人がそう応じると、竜はまるで話の中身を察したかのように、大きな欠伸をひとつして、また暖炉の熱に身を寄せた。その呑気な姿は、誰かを怯えさせるにはあまりに不釣り合いだった。

四 新しい作り話

「まあ大変、あの方、具合でも悪くされたのかしら。追いかけて差し上げなくては」

夫人が本気で案じ始めたのを見て、リーヴが涼しい顔をして口を挟んだ。

「叔母様、大丈夫ですわ。あの方には、竜を前にすると気を失うほど怖がってしまう、という持病がおありなのです」

「まあ、そうだったの。それは初耳だわ」

「実は先ほど、少しお伺いしましたの。幼い頃、旅先の橋の上で、逃げ出した見世物の竜に追いかけられたことがおありだとか。それ以来、竜の影を見ただけで、我を忘れて走り出してしまうのだそうです。きっと、皆様が竜を連れてお戻りになるのをご覧になって、昔の恐怖がよみがえってしまったのでしょう」

もっともらしい顔でリーヴが語るその話は、もちろん一言も真実ではなかった。だが、竜が絨毯の上で満足げに寝息を立てている今、その場に居合わせた誰ひとり、疑いを差し挟む者はいなかった。

「それはお気の毒に。今度お会いしたら、無理にお引き止めしないよう、気をつけましょう」

夫人はすっかり得心した様子で頷き、暖炉のそばで丸くなる竜の背を、愛おしげに撫でた。竜は目を細め、低く満足げな唸り声を漏らした。三年前、卵の殻を破ったばかりの頃と変わらぬ、無邪気な仕草だった。レオンは獲物の水鳥を厨房へ運びながら、まだ半信半疑の様子で首を傾げていたが、それ以上、客人の奇行を気に留めることはなかった。

その夜遅く、村外れの宿でようやく息を整えたジュリアンは、震える手で姉への手紙をしたためた。「レーヴネル館には、決して足を踏み入れてはいけません。あの家の窓辺には、恐ろしい因縁が巣くっております。三年前に竜に呑まれたはずの三人が、夕闇の中から戻ってくるのを、私はこの目でしかと見たのです」――そう書き記しながらも、彼自身、自分が実際に何を見たのか、次第に判然としなくなっていくのを感じていた。霧の中に見えたのは、本当に亡霊だったのか。それとも、ただの泥だらけの猟師と、一頭の人懐こい仔竜に過ぎなかったのか。窓の外で虫の音が高く鳴き続け、その答えを、いつまでも教えてはくれなかった。

一方、レーヴネル館の暖炉のそばでは、竜が寝返りを打つたびに、乾いた鱗が薪の爆ぜる音と混じって、小さく鳴った。夫人は編み物の手を止め、ふと窓の外の暗がりに目をやりながら、独り言のように呟いた。

「明日もきっと、この時刻に窓を開けておかなくてはね」

その言葉に、深い意味などなかった。ただ明日もまた、泥だらけの三人と一頭の竜を、同じ窓から迎え入れるための、ごくありふれた支度に過ぎなかった。だが、その何気ない一言が、いつかまた別の客人の耳に届いたなら、どんな悲話に育つとも知れない――そのことに、この館の誰ひとり、気づいてはいなかった。

リーヴだけが、暖炉の炎を見つめながら、誰にともなく小さく呟いた。

「即興のお話をこしらえるのは、我ながら得意なようですわ」

その言葉を聞き咎める者は、その部屋には誰もいなかった。

あとがき

サキ(H・H・マンロー)の短編『開いた窓』は、神経療養中の青年フラムトンが、田舎の屋敷を訪ねた際、姪のヴェラから「三年前、狩りに出た夫と義弟たちが沼に呑まれて行方知れずになったが、夫人はいまだにそれを認めず、窓を開けて帰りを待ち続けている」という作り話を聞かされ、実際に夕闇の中から三人が現れた瞬間、幽霊だと信じ込んで絶叫し逃げ出してしまう、語りの信頼できなさを主題とした一編である。ラストでヴェラが、フラムトンの奇行についてさらに別のもっともらしい嘘を即興で語ってみせる幕切れも、本作の大きな魅力となっている。

本作では、姪の作り話に「沼に棲む若い竜」を組み込み、「三人は竜を仕留めに出て呑まれた」という悲劇に仕立てた。実際には三人は三年前に見つけた仔竜を大切に育てて日々散歩させていただけであり、夕闇に現れた人影と竜影は、亡霊でも怪物でもなく、ただの平和な帰宅風景に過ぎなかったという結末に置き換えている。物語の大半で「人を呑んだ怪物」として語られるだけで実際には姿を見せない竜が、最後になって初めて登場し、家族に懐いた無害などんでん返し役として真相をひっくり返す構成は原作に倣いつつ、竜の正体と役割については独自に創作した。

登場人物名、館や村の名称、竜にまつわる詳細な設定はすべて独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は一切行っていない。


本作はサキ(Saki / H. H. Munro)著『The Open Window(開いた窓)』を参考にした翻案作品です。

本作はサキ(Saki / H. H. Munro)の『開いた窓(The Open Window)』を参考にした作品です。原典