物語雳
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·読了目安 14分脇役

竜は誰も脅かさなかった

神経を病んだ客をからかうため、姪は開けっ放しの窓にまつわる作り話を語る――沼で消息を絶った伯父たちを、若い竜だけが夕暮れに待ち続けている、と。だが本当に窓辺に現れたのは、ただ帰りを喜ぶ無邪気な竜だった。サキ『開いた窓』を翻案した勘違いコメディ。

一 沼霧村への紹介状

ノートン・ブレアは、汽車を三度乗り継いで、ようやく沼霧村の駅に降り立った。窓の外を流れていく景色を眺めているだけで動悸がして、三度とも途中の駅で降りて長椅子に座り込み、呼吸を整えねばならなかった。医者からは「とにかく神経を休めること、人と会う機会は最小限に」と言い渡されていたはずなのに、姉のイーディスは涙目で紹介状の束を押しつけてきた。

「せっかく転地するのだから、知り合いの一人や二人には挨拶しておかないと。葦戸館のセイラさんとは、昔よく手紙のやり取りをした仲なの。きっと親切にしてくださるわ」

姉が「昔」と口にするたび、ノートンの胃はきりきりと痛んだ。イーディスが葦戸館の人々と親しくしていたのはもう十年近くも前のことで、当のセイラ夫人が今どんな人物になっているのか、姉自身すらろくに覚えていないはずだった。それでも紹介状は紹介状であり、療養先で気詰まりな訪問を一件くらいこなしておかなければ、姉の気が済まないのはわかりきっていた。

村は、低く連なる丘に囲まれた沼沢地の縁にあり、駅を出るとすぐに湿った土と葦の匂いが鼻先をかすめた。宿の主人に道を尋ねると、老爺は少し眉を寄せて言った。

「葦戸館なら、この道をまっすぐ行って、沼に一番近い屋敷だよ。……お客さん、あそこに泊まるのかね」

「いえ、少しご挨拶に伺うだけです。何か、あの屋敷に気をつけることでも?」

老爺は肩をすくめただけで、それ以上は語らなかった。かわりに、宿の軒先で薪を割っていた若い衆が、通りすがりにぽつりと呟くのが聞こえた。

「あの屋敷の窓は、日暮れになっても閉めねえのさ。誰も気味悪がって触れねえ話だがね」

ノートンはその言葉を聞き流そうとしたが、もともと神経の細い質だった。些細な物音にも飛び上がり、夜中に軋む階段の音だけで一晩眠れなくなる――そんな自分の弱さを、ノートンは誰よりもよく知っていた。医者が転地療養を命じたのも、都会の喧騒と、原因もはっきりしない心労のせいだった。田舎の静かな空気を吸えば良くなる、という医師の言葉を、ノートンは半信半疑のまま信じるしかなかった。

宿の部屋に一度荷を下ろし、身なりを整えてから、ノートンは改めて葦戸館へと向かった。道すがら、沼の方角から低く長い鳥の声のようなものが響いた気がしたが、振り返っても葦の穂が揺れているだけで、鳥の姿はどこにも見当たらなかった。気のせいだ、とノートンは自分に言い聞かせた。神経を病んだ人間は、とかく何でもないものに怯える癖がつく――医者からも、そう繰り返し諭されていたはずだった。

村を歩く間、ノートンは何度も踵を返しそうになった。医師の言葉を信じるなら、今の自分に必要なのは物音一つしない静かな部屋と、誰にも気を遣わずに済む長い午睡であって、見も知らぬ屋敷の女主人と当たり障りのない世間話を交わすことでは断じてなかった。それでも紹介状を握りしめたまま引き返さなかったのは、姉に「せっかくの厚意を無駄にした」と手紙で咎められる方が、見知らぬ屋敷を訪ねる気詰まりよりも、よほど胃に堪えると知っていたからだった。

葦戸館は、沼を見晴らす小高い場所に建つ、古いが手入れの行き届いた屋敷だった。近づくにつれ、屋敷の周りだけ妙に静かなことにノートンは気づいた。村では当たり前に聞こえていた鳥の声も、この屋敷の垣根をくぐった途端、ふつりと途絶えている。庭に面した居間には、床から天井近くまで届く大きな掃き出し窓があり、噂に違わず、夕刻が近いというのにぴたりと開け放たれている。案内に出た女中が「奥様はすぐに参りますので」と言い残して下がると、ノートンは一人、居間に取り残された。

開いた窓の向こうには、手入れされた芝生が続き、その先に葦の茂る沼が薄靄の中に霞んでいる。風もないのに、時折り葦の穂がざわりと揺れる。壁際の飾り棚には、ずいぶん使い込まれた様子の猟具が二人分、行儀よく並べられていた。誰かがまだ現役で使っているものらしく、埃ひとつかぶっていない。ノートンは懐中時計を取り出し、意味もなくその蓋を開け閉めしながら、この訪問がなるべく短く済むことだけを願っていた。壁の振り子時計が時を刻む音だけが、やけに大きく居間に響いていた。

二 エルサの作り話

やがて居間に姿を見せたのは、女主人ではなく、まだ十五になったばかりというあどけなさを残した娘だった。娘は臆する様子もなく、まっすぐノートンの前の椅子に腰を下ろした。

「叔母はもうすぐ参ります。それまで、わたくしがお相手いたしますわ。エルサと申します」

「ノートン・ブレアです。……あの、失礼ですが、開いたままの窓は、何か理由でも?」

言うつもりのなかった問いが、ノートンの口からこぼれ出た。神経を病んだ人間には、こういう小さな違和感がどうにも我慢ならないのだ。エルサは、その問いを待っていたかのように、わずかに目を細めた。この屋敷を訪れる客が、遅かれ早かれ同じ問いを口にすることを、エルサはよく知っていた。そしてそのたびに、相手の性分を見極めて、ふさわしい答えを用意するのが常だった。今日の客は、見るからに神経質で、ちょっとした物音にも肩を震わせる質らしい――そう見て取ったエルサの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。

「ご存じないのですね。無理もありません、遠方からのお客様ですもの」

エルサは窓の外、沼の方角へちらりと視線を投げてから、静かに語り始めた。

「三年前、あの窓から、叔母の夫であるアーチー叔父と、その弟のクレイグ叔父が、沼へ出かけていきました。二人は、その少し前に沼のほとりで見つけた卵から孵した、若い竜を連れ戻そうとしていたのです。竜は卵からかえったばかりの頃、放っておくとすぐに沼の奥へ迷い込んでしまう質で、あの日も一頭だけ沼の深みへふらふらと入り込んでしまって。叔父たちは、それを追って沼に踏み入ったきり、二度と戻りませんでした」

「沼に、沈んだと……?」

「亡骸すら見つかっておりません。沼というのは、見た目より深く、底なしの泥地が隠れておりますから」

エルサの声には、演技とも本心ともつかない静かな翳りがあった。ノートンは思わず居住まいを正した。

「それは……お気の毒に」

「叔母は、今でも二人が帰ってくると信じております。だから、あの窓は、いつも開けたままなのです。夕暮れになると必ず、あの竜――今ではもうずいぶん大きくなりましたけれど――が、あの窓辺に来て、じっと沼の方を見つめているのですわ。まるで、置き去りにした恩人たちが、いつか戻ってくるのを待ちわびるように」

そこまで語ってから、エルサはふと表情を和らげ、窓の外に目をやった。実のところ、この話にはエルサ自身の記憶に基づく、確かな下地があった。三年前、沼のほとりで見つけた卵を温め、殻を割って出てきた小さな竜――今はコハクと名付けられているその生き物を、最初に腕に抱いたのはエルサだった。

あの日のことを、エルサは今でもよく覚えている。まだ手のひらに乗るほど小さかったコハクは、殻から出て半日ばかりというのに、震えながらもエルサの指先の匂いを一心に嗅ぎ、やがて安心したように喉の奥で小さく鳴いた。卵の殻についた泥を洗い落としてやったのも、ふらつく足で歩けるようになるまで根気強く見守ったのも、エルサだった。夜泣きをするたびに寝室まで抱いていって寝かしつけたのも、初めて庭に出た日、水たまりに顔から突っ込んで泣きべそをかいたコハクを抱き起こしてやったのも、エルサだった。

「エルサ、これじゃ躾のなっとらん犬と同じだぞ」

アーチー叔父は苦笑いしながらそう言ったものだが、それでもコハクが誰よりも先にすり寄っていくのはいつもエルサの膝元だった。コハクは日に日に大きくなり、今では庭の芝生を軽く覆うほどの翼を持つまでに育ったが、性根はあの頃と少しも変わらず、家中の誰の足音も匂いも聞き分ける、甘えん坊のままだった。エルサが縫い物をしている午後などは、決まって足元にどさりと体を横たえ、長い首をエルサの膝に乗せて、うとうとと眠るのが常だった。

コハクが初めて小さな火を吐いた日のことも、エルサはよく覚えている。庭で追いかけっこをしている最中、はしゃぎすぎたコハクが「ひゃっ」と間の抜けた声を上げ、口の端からぽっと小さな炎を漏らしたかと思うと、驚いた自分自身の尻尾に足を取られて、盛大に転んでみせたのだ。焦げたのは、垣根の隅に干してあったクレイグ叔父の古い帽子一つだけだった。それ以来、コハクは自分の吐く火を少しばかり怖がる癖がつき、興奮するとまず尻尾から丸めて縮こまるようになった。獰猛さとはおよそ縁のない、そんな仕草の一つ一つを、エルサは誰よりもよく知っていた。

「あなたは、その竜が――怖くはないのですか」

ノートンが震える声で尋ねると、エルサは小さく笑った。

「怖い、と申し上げれば、話がもっと面白くなるのでしょうけれど」

その答えの真意を測りかねたまま、ノートンは窓の外の薄靄をちらちらと見やった。夕闇が少しずつ濃くなり、沼の輪郭がぼやけていく。

三 夕暮れの話し声

しばらくして、女主人セイラ夫人が居間に現れた。快活で、少しも陰りのない笑顔の女性だった。

「まあ、ブレアさん。遠いところをようこそ。エルサがご無礼を働いていなければよいのですけれど」

「いいえ、大変興味深いお話を伺っておりました」

ノートンは言葉を選びながら、ちらりと窓の方を見た。セイラ夫人はその視線を追い、あっさりと言った。

「ああ、窓のことですね。夫と義弟のクレイグが、猟犬を連れて沼の方へ鴫撃ちに出ておりますの。あの二人ときたら、いつも泥だらけになって、この窓から戻ってくるものですから。閉めておくと、いちいち玄関から回らせるのが面倒で、開けたままにしているだけなのですわ」

「猟、に……」

ノートンは、エルサの語った話と、目の前の夫人の屈託ない口ぶりとの間に横たわる隔たりに、めまいにも似た混乱を覚えた。行方知れずになったはずの夫が、まるで今日にも帰ってくるかのように語られている。エルサはその横で、素知らぬ顔で紅茶に口をつけていた。

「今日は少し遅いこと。もう暗くなり始めましたのに」

セイラ夫人が窓の外に目をやりながら呟いた。その言葉が、ノートンの背筋にひやりとしたものを走らせた。

「三年前も、ちょうどこんな薄暮れの頃合いだったと伺いました」

ノートンが震え声で言うと、セイラ夫人はきょとんとした顔で振り返った。

「三年前、ですか? ……何のお話でしょう」

「いえ、その……」

言いよどむノートンをよそに、セイラ夫人は「今日はコハクも朝から落ち着かなくて」と、まったく別の話題を口にし始めた。ノートンには、その言葉の意味を測る余裕はもうなかった。頭の中では、エルサの語った悲劇と、竜が待ち続けるという窓辺の光景と、たった今聞いた「もうすぐ帰る」という言葉が、渦を巻くように絡み合っていた。

「あの……失礼を承知で伺いますが、ご主人は、いつも猟からお戻りが遅いのでしょうか」

「ええ、鴫は日の暮れかけた頃合いが一番よく獲れますもの。夫もクレイグも、暗くなるぎりぎりまで粘る質で。おかげでいつも、この窓から泥だらけの足で入ってくるのですわ」

セイラ夫人は少しもおかしなことを言っているつもりはない様子で、朗らかに笑った。だがその笑顔さえも、ノートンの目には、悲劇を悲劇と気づかぬまま繰り返す痛ましさのように映ってしまう。ノートンは紅茶のカップを持つ手が小刻みに震えているのに気づき、慌てて膝の上に置いた。

「失礼ながら……お加減は、大丈夫でいらっしゃいますか。顔色が優れませんけれど」

セイラ夫人にそう尋ねられ、ノートンは無理に笑みを作った。

「いえ、少し、旅の疲れが出ただけです。お気になさらず」

本当のことなど、口が裂けても言えるはずがなかった。あなたのご主人は三年前に沼で亡くなったのではないのですか、と尋ねる勇気は、どこをどう探してもノートンの中には見当たらなかった。エルサはその一部始終を、紅茶のカップの縁越しにじっと見つめていた。その目には、悪意というよりも、いたずらが思いのほかうまく運んでいることへの、隠しきれない愉快さが浮かんでいた。

窓の外では、夕闇がいよいよ沼の面を覆い隠しつつあった。葦の茂みの向こうから、かすかに、何かの気配が近づいてくるような――そんな錯覚を、ノートンは拭い去ることができずにいた。

四 窓辺に来たもの

薄闇の中、沼の縁を縫うように、いくつかの人影が近づいてくるのが見えた。犬の吠える声、泥を踏む重い足音、男たちの笑い交じりの話し声。猟銃を肩に担いだ二つの人影と、その足元をぐるぐると回る猟犬が一頭、薄靄の向こうから徐々に輪郭を濃くしていく。セイラ夫人が「あら、帰ってきましたわ」と、こともなげに立ち上がった。

その瞬間だった。

庭の隅、葦の茂みが大きくざわめき、そこから巨大な影が身を起こした。夕闇の中でもわかるほどの、艶やかな鱗を持つ竜だった。それまで芝生の陰にうずくまり、じっと沼の方を見つめていたコハクは、帰ってくる足音を聞きつけるなり、待ちきれぬとばかりに翼を大きく広げた。土埃が舞い、芝生の穂先が四方に吹き散らされる。喉の奥から地を震わすような咆哮を放ち、まっすぐ窓の方へと駆け出すその姿は、たそがれの薄闇にひときわ黒々とした輪郭を刻んでいた。

それは、コハクにとって、ただの毎日の喜びに過ぎなかった。夕暮れに聞こえるあの重い足音は、いつも自分を可愛がってくれる二人の足音だ。今日も無事に帰ってきた――その事実だけで、コハクの胸は喜びに震え、じっとしてなどいられなかった。

だがノートンの目には、まるで違う光景が映っていた。三年前に沼へ消えた男たちを待ち続けていたという竜が、ついにその夕暮れに、待ちわびた獲物を迎えるべく吼え猛り、窓へと殺到してくる――エルサの語った物語の続きが、今まさに目の前で繰り広げられているように見えたのだ。

「ひっ……!」

ノートンの喉から、悲鳴とも呻きともつかぬ声が漏れた。頭の中では、亡くなったはずの男たちと、その帰りを待ち焦がれていたという竜と、目の前で牙を剥くように駆けてくる巨影とが、もはや見分けもつかぬまま一つに溶け合っていた。次の瞬間には、椅子を蹴倒し、玄関の方向も確かめぬまま、居間を飛び出していた。廊下を駆け、開いていた勝手口から庭へ転げ出ると、そのまま脇目も振らず、村へと続く道を全速力で駆け去っていった。息が切れても、脚を止めることなど考えもしなかった。途中、自転車に乗った郵便配達夫とぶつかりかけ、悲鳴じみた声で何ごとか叫びながら、垣根を飛び越えて姿を消した。郵便配達夫はしばらくその場に呆然と立ち尽くし、やがて首をひねりながら自転車を起こした。

居間に残された者たちは、呆気にとられてその後ろ姿を見送るしかなかった。

「まあ……ブレアさん、どうなさったの」

セイラ夫人が呟いたその横で、庭から戻ってきたアーチーとクレイグが、コハクに纏わりつかれながら、怪訝そうに顔を見合わせていた。

「おい、今の悲鳴を上げて逃げていったのは、誰だ」

アーチーが泥だらけの猟銃を壁に立てかけながら尋ねると、クレイグも首をひねった。

「客人じゃないのか。それにしても、えらい逃げ足だったな」

コハクだけは、そんな騒ぎなど意に介さぬ様子で、帰ってきた二人の手のひらに鼻先を擦りつけ、満足げに喉を鳴らしていた。長い首を大きくしならせ、尻尾をゆっくりと左右に振るその姿は、忠実な犬がじゃれつくのと、何ら変わりない仕草だった。

五 新しい作り話

「一体、何があったのかしら」

セイラ夫人が困惑顔で窓辺に立ち尽くしていると、エルサが涼しい顔で紅茶のお代わりを注ぎながら言った。

「きっと、コハクのせいですわ」

「コハクの? どういうこと」

「ブレアさんは、以前、竜に追いかけられたことがおありなのですって。それも、群れをなした野生の竜たちに、荒野で夜通し追い立てられたとか。それ以来、竜の気配を感じただけで、居ても立ってもいられなくなるのだそうです。コハクがあんなふうに勢いよく飛び出してくるのを見て、きっと当時の恐怖がよみがえってしまったのでしょう」

もっともらしい口調で語られたその説明に、セイラ夫人はすっかり納得した様子で頷いた。

「まあ、それは大変な思いをなさったのね……可哀想に。今度お会いしたら、コハクを部屋に入れないよう気をつけなくては」

エルサは澄ました顔で紅茶に口をつけたが、その実、ブレアがそのような目に遭ったという話を、たった今この場で思いついたばかりだった。もっとも、エルサにとって、目の前で起きた出来事にふさわしい説明を即興でこしらえることくらい、造作もないことだった。物心ついた頃から、退屈な午後を面白くするための作り話には事欠かなかったし、今日のような「本当らしい怪談」を、来客の反応に合わせて仕立て上げるのは、ちょっとした得意技のようなものでもあった。

窓の外では、すっかり日が落ち、沼の面に星影が映り始めていた。アーチーが暖炉に薪をくべながら、ふとエルサに尋ねた。

「そういえば、さっきまでお前、あの客人に何を話していたんだ。妙に青い顔をしていたようだが」

「別に、大したことは。窓が開けっ放しになっている理由を、少しばかり面白おかしくお話ししただけですわ」

エルサはそう言って、コハクの方に目をやった。コハクは暖炉のそばに寝そべり、アーチーの脚に頭をもたせかけて、すでに眠たげに目を細めている。三年前の沼で命を落とした者など、この屋敷には誰一人としていない。ただ一頭の、無邪気で人懐こい竜が、大好きな家族の帰りを、今日も変わらず喜んでいるだけだった。

村では、葦戸館のエルサ嬢ほど見事な作り話をこしらえる娘はいない、と半ば呆れ、半ば感心して噂されていた。退屈な午後を持て余した来客に、幽霊屋敷の由来を語って聞かせたこともあれば、迷い込んだ行商人に、屋敷の井戸に主が棲むという話をまことしやかに聞かせたこともある。今日の一件も、いずれ村の語り草に加わるのだろうと、セイラ夫人はどこか諦めたような、それでいて誇らしいような笑みを浮かべていた。

その夜、ノートンがどこをどう歩いて宿までたどり着いたのか、本人にもはっきりとした記憶はなかった。気がつけば宿の寝台に横たわり、天井の木目を見つめながら、荒い息を整えていた。頭の中では、薄闇から飛び出してきた黒い巨影が、何度も何度も繰り返し再生され続けていた。医師の言いつけ通り静かに療養するはずだったこの村で、まさかこれほどの目に遭うとは、姉のイーディスも夢にも思っていないだろう。ノートンは、竜という生き物の恐ろしさについて、これから先も長く、誰かに語って聞かせることになるだろうということだけは、疑いようもなく確信していた。そしてその話に耳を傾ける誰もが、まさかその竜が、家族の足音を聞き分けては尻尾を振るだけの、人懐こい生き物だったとは、想像だにしないに違いなかった。

葦戸館の窓は、その夜もまた、静かに開け放たれたままだった。沼の上に月が昇り、コハクは暖炉の残り火の匂いに包まれて、家族の誰もが寝静まった居間の隅で、丸くなって眠っていた。長い尾の先が、時折ぴくりと動く。きっと、明日もまた誰かが帰ってくる夢でも見ているのだろう。

あとがき

サキ(H・H・マンロー)の『開いた窓』は、神経を病んで転地療養に訪れた客が、自称の姪の即興の作り話に翻弄され、実際には何の変哲もない光景を怪異と誤認して逃げ出してしまう、機知に富んだ短編である。本作では、原作における「沼で行方知れずになった男たちの帰りを待ち続ける」という語り部の作り話の骨格をそのまま活かしつつ、その虚構の中心に「若い竜」を据えた。姪が語る作り話の中では竜は亡者を迎える怪物として位置づけられるが、実際に窓辺に現れるのは、家族の足音を聞き分けて喜ぶだけの、無邪気で人懐こい竜であるという二重構造を作ることで、原作の機知と皮肉を竜の物語として再構成することを試みた。

原作の骨格――神経質な客の来訪、姪による即興の作り話、窓が開けたままである理由、夕暮れに実際に人影が現れることで生じる誤認、客の逃亡、そして姪がその場で新たな作り話をこしらえて事態を収拾するという結び――は保ちながら、人物名・地名・竜の由来と造形、竜と姪の関係の掘り下げはすべて独自に創作したものである。竜自身には一切の悪意も超常的な性質もなく、ただの家族の一員として描くことで、恐怖に怯える客との対比を際立たせることを狙った。

なお本作は、原典の翻訳や逐語的な引用は行わず、あらすじと構図のみを参照し、文章・情景・展開は独自に創作したものである。


本作はサキ(H・H・マンロー)著『開いた窓』を参考にした翻案作品です。

本作はサキ(H.H.マンロー)の『開いた窓(The Open Window)』を参考にした作品です。原典