物語り
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·読了目安 14分脇役

竜は不老の代価を語らなかった

アクアリウス沿岸の港町に伝わる、不老不死を求めて海を渡り二度と故郷へ戻らなかった異国の賢者と、深淵の老竜の契約の伝承。観察者レイブンは真相を求めて里を訪ねるが、逃避か選択か、答えは竜の沈黙の奥に留め置かれたままだった。

一 潮見の里、異国の賢者を祀る社

潮見の里に着いたのは、海洋祭の宵の口だった。

坂道に沿って軒を連ねる網元の家々からは、干した魚と海藻の匂いが立ちのぼり、その合間を縫うようにして、揚げ物の油の匂いと、遠くで鳴らされる太鼓の音が流れてくる。レイブンは肩掛けの記録帳を片手に、坂を登りながらその匂いと音の層を、まず頭の中で仕分けた。どの土地を訪れても、最初にすべきことは変わらない。目に映るものより先に、鼻と耳が拾い上げてくるものを、ひとつずつ拾い直すことだ。

潮見の里は、アクアリウス沿岸に点在する漁村のひとつにすぎない。地図の上では、大きな都市を結ぶ航路から少し外れた入り江の奥に、申し訳程度の点として記されているだけの土地だった。だが、その入り江の奥にひっそりと隠れているからこそ、時に古い伝承が、摩耗しないまま残っていることがある。レイブンがこの里の名を書きつけたのは、半年ほど前、隣町の宿で聞いた噂話がきっかけだった。「潮見には、異国から来た賢者を祀る変わった社があるらしい」というだけの、断片的な噂だ。

坂を登り切ったところに広がる広場では、大漁旗を模した幟が幾本も立てられ、その下で若い漁師たちが太鼓を打ち鳴らしていた。屋台には、串に刺した貝や、飴細工にした小魚の玩具が並び、子供たちが人混みの合間を駆け抜けていく。老人たちは縁台に腰掛けて、去年より少し年老いた顔で笑い合っている。空にはまだ薄明かりが残っていて、海の方角だけが、すでに濃い藍色に沈み始めていた。

桟橋近くでは、竹ひごと紙で組まれた、細長い竜の形の灯籠がいくつも掲げられ、海風に吹かれてゆらゆらと身をくねらせていた。この地方では、豊漁を運ぶのも、時化を運ぶのも、すべて竜の機嫌次第だと信じられているのだと、道すがら擦れ違った漁師の老婆が教えてくれた。だが、灯籠の竜たちはどれも似たり寄ったりの、ありふれた意匠のもので、レイブンが探しているような、異国の賢者と結びついた特別な竜の姿は、どこにも見当たらなかった。レイブンはその賑わいの縁を、なるべく目立たぬように歩いた。祭りの熱気そのものよりも、その熱気の隙間に、この土地の記憶がどんな形で息づいているのかを見て取りたかった。

広場の隅、幟の列からわずかに外れた場所に、その社はあった。

高さはレイブンの腰ほどしかない、小ぶりな祠だった。この地方でよく見る、白木の素朴な造りの社とは明らかに趣が違う。屋根の反りが深く、軒先には見慣れない意匠の文様が彫り込まれていて、朱に近い色の顔料の痕跡が、長い年月の風雨にもかかわらず、うっすらと残っている。柱の一本には、判読しがたいほど摩耗した異国の文字らしきものが、縦に彫り込まれていた。祭壇には、萎れかけた花と、小さな器に盛られた米粒、そして、透き通った青緑色の小さな石――竜玉と呼ばれる、竜の鱗や骨から生まれるとされる石の欠片が供えられていた。

社の前にしゃがみこんで、三人の子供たちが手遊び歌のようなものを口ずさんでいた。

「海を渡って、帰らなんだ。竜と契りて、帰らなんだ。賢者様よ、賢者様よ、なぜにお国へ、帰らなんだ」

耳慣れない節回しの、しかし妙に頭に残る旋律だった。レイブンは足を止め、記録帳を開いて、聞き取った歌詞をそのまま書き留めた。子供たちはレイブンの視線に気づくと、少し照れたように顔を見合わせ、笑いながら祭りの喧騒のほうへと駆けていってしまった。残された社の前で、線香の細い煙だけが、風もないのに揺らめきながら立ち上っていた。

「珍しいものに目を止めなさるな」

背後から、しゃがれた、しかし芯のしっかりした声がかけられた。振り返ると、日に焼けた顔に深い皺を刻んだ老人が、杖を突きながら立っていた。歳の頃は七十をいくつか超えているだろうか。祭りの喧騒からは一歩引いた場所に立つその佇まいに、レイブンはこの老人がこの里の記憶を最もよく知る者のひとりだろうと直感した。

「旅の記録者です。突然の無礼をお許しください。この社について、少しお話をうかがえないでしょうか」

老人は、値踏みするような目でしばらくレイブンを見つめてから、ふん、と小さく鼻を鳴らした。それは拒絶の仕草ではなく、むしろ、久しく誰にも聞かれたことのない話を、ようやく語る機会が来たことへの、いくらか照れくさそうな仕草に見えた。

「わしはハルバという。この里で網元の元締めを長くやっておった。その社の話が聞きたいなら、わしの家に来るがいい。祭りの喧騒の中では、長い話はできんでな」

二 古老の記憶、シュイ家の秘技

ハルバの家は、坂の中腹にある古い木造の一軒家だった。祭りの太鼓の音は、板張りの壁を隔ててもなお、腹の底に響くように届いてくる。囲炉裏端に腰を下ろすと、ハルバは茶を淹れながら、ゆっくりと語り始めた。

「あの社に祀られているのは、遠い昔、東方の大陸からこの里に流れ着いた賢者様だ。名を、シュイ様という。今からおよそ五百年も昔のことだと、代々そう伝えられておる」

東方の大陸には、当時、老いてなお権勢を手放そうとしない皇帝が君臨していたのだという。皇帝は、己の死を何よりも恐れていた。ある日、賢者シュイは、東の海の彼方に不老不死の霊薬を持つ仙人が棲む神山があるという言い伝えを皇帝に奏上した。皇帝はその言葉に飛びつき、大船団と、若い技術者や職人、そしてまだあどけない童子たちを数千人も従わせて、シュイに探索を命じたという。

「連れて行かれたのは、船大工や、鍛冶師や、機織り師といった、腕の立つ職人ばかりだったそうだ。皇帝は、たとえ神山に着けなかったとしても、彼らの手でどこかに新しい都を築かせるつもりだったのやもしれん。今のこの里の井戸や、古い石垣の一部には、東方の大陸の工法が使われていると、年寄りたちの間では、まことしやかに囁かれておる」

「一度目の航海で、シュイ様は手ぶらで帰ってきなさった。海の大鮫に阻まれて霊薬にたどり着けなかった、とな。皇帝は怒りながらも、もう一度だけ機会を与えた。腹の底では、いよいよ死が近づいているのを、皇帝自身が誰よりも感じておったのだろうな」

ハルバは茶碗を両手で包み込むようにしながら、目を細めた。二度目の船出には、前回よりもさらに多くの童子や職人、そして弓の名手たちが乗り込んだという。彼らはひと月以上を海の上で過ごし、幾度も嵐に見舞われながら、ようやくひとつの入り江にたどり着いた。それが、まさにこの潮見の里だったと、里の伝承は語る。船団を率いてきたシュイは、この地の深い海に棲む竜、シェン・ロンと出会い、ある契約を交わした。その契約の詳しい中身は、里の誰も正確には知らない。ただ、シュイが二度と故郷の海を渡ることはなかった、という結末だけが、はっきりと伝えられている。

「シュイ様が連れてきた童子や職人たちの子孫が、今もこの里に住んでおる。とりわけ、竜玉を扱う秘技を継いでおるのが、シュイ家じゃ。他の家の者は、もう誰も、故郷の言葉すら覚えておらんがな」

レイブンは記録帳のページを繰りながら、その名を書き留めた。竜玉を用いた延命の秘術――噂に聞いていた話の輪郭が、ようやく像を結び始めていた。

「そのシュイ家の方に、お話をうかがうことはできますか」

ハルバは少し困ったように眉根を寄せたが、やがて杖を突いて立ち上がった。

「今夜は、ちょうどシュイ家の祭事の晩だ。一年に一度、竜玉に灯りを入れる夜でな。わしから話をつけてやってもいい。だが、あれは他所者を容易く近づける類のものではないぞ。里の者でさえ、詳しくは知らされておらんのだから」

ハルバに連れられて向かった先は、里外れの、海に面した古い平屋だった。庭先で薪を割っていたのは、まだ十代の後半と見える娘だった。日に焼けた肌に、竜玉によく似た青緑色の紐を髪に結んでいる。娘はハルバの姿を認めると、斧を置いて頭を下げた。

「ミナ、旅の記録者だ。お前の家の話を聞きたいそうだが、どうする」

ミナと呼ばれた娘は、レイブンをしばらく見つめてから、静かにうなずいた。その眼差しには、単なる警戒だけではなく、値踏みするような、それでいてどこか試すような色があった。

「……いいわ。今夜、儀礼を見てもらう。ただし、見るだけ。手も口も出さないこと。それから、書き記す前に、必ずわたしに見せること」

その声には、警戒と、それでいて誰かに知ってほしいという、相反する響きが同居していた。レイブンは深く頭を下げ、その条件を受け入れた。

「ありがとうございます。約束します」

ミナは小さくうなずくと、日が沈むまでのあいだ、家の裏手にある小さな畑を手入れしながら過ごした。レイブンはその傍らで、里の暮らしの様子を静かに記録していった。畑の隅には、青緑色の小さな石を埋め込んだ杭が幾本も立てられていて、それが竜玉の欠片であることに、レイブンはしばらくして気がついた。

三 儀礼の夜、深淵より来たるもの

日が完全に沈み、里の祭りの灯りが遠くにかすかな明るみとして残るだけになった頃、ミナはレイブンを連れて、里外れの岩場へと向かった。波打ち際からさらに海側へ張り出した岩の上に、平たく削られた祭壇があり、その中央に、拳ほどの大きさの古い竜玉が据えられていた。石の表面には、社の柱に彫られていたのと同じ、摩耗した異国の文字が刻まれている。

「これは、シュイ様が竜と契りを結んだときに授かったと伝わる玉。うちの家では、これを『目覚めの玉』と呼んでいる」

ミナは灯りを持ち出し、竜玉の傍らに小さな炎を灯した。玉は炎を吸い込むように、内側からじんわりと青い光を帯び始める。海風が肌を刺すほど冷たいのに、その玉のまわりだけ、わずかに温かい気配が漂っているのを、レイブンは肌で感じ取った。

「一族の者は、この夜だけ、海に向かって祈りを捧げる。何百年もそうしてきた。父も、祖母も、その前の代の者たちも」

ミナは目を閉じ、聞き取れないほど小さな声で、古い言葉を唱え始めた。祈りの言葉は、レイブンの知るどの言語にも似ていなかった。おそらくシュイが遠い故郷から持ち込んだ、今ではミナの一族にしか伝わっていない古語なのだろう。抑揚の一つひとつに、何百年もかけて磨り減った石のような、静かな重みが宿っていた。レイブンはその音の響きだけを、なるべく正確に記録帳へ書き取ろうとした。

祈りが半刻ほど続いた頃、海面がわずかに盛り上がるようにうねった。

最初は、大きな波の兆しかと思った。だが、うねりは規則正しく、しかも確かな意志を持って岩場に近づいてくる。ミナは祈りを止めず、むしろその声を強めた。レイブンは息を詰めて、海面を見つめ続けた。竜玉の光が、うねりに合わせて呼吸するように強まったり弱まったりするのを、レイブンはそのとき初めて目にした。まるで玉自身が、海の底の何かに向かって、合図を送っているかのようだった。

やがて、黒々とした水面を割って、巨大な影がゆっくりと浮かび上がった。

鱗は深い藍色を帯び、ところどころに、長い歳月の証のような白い斑が浮いている。角は片方が半ばで折れ、体のあちこちに、古い傷の名残とおぼしき歪みが刻まれていた。それでも、その双眸に宿る光は驚くほど澄んでいて、若い竜には決してまとえない、深い静けさをたたえていた。レイブンは、これが伝承に語られる深淵の老竜、シェン・ロンなのだと、直感的に理解した。

竜は岩場のすぐ近くまで首をもたげ、灯りに照らされた竜玉に、そっと鼻先を寄せた。ミナは祈りを終えると、深く頭を垂れた。

「今年も、来てくださって、ありがとうございます」

竜は言葉を発さなかった。ただ、太い喉の奥から、地の底から響くような低い唸りを、ひとつだけ漏らした。それは威嚇でも警戒でもなく、どこか穏やかな、挨拶に似た響きだった。レイブンは震える手で、竜の輪郭と、その周囲にわずかに漂う力場のようなものの気配を、丁寧に書き記していった。長く生きた竜が纏う気配には、若い竜には感じられない、独特の重みと静けさがある。それは、レイブンがこれまでの旅で幾度か出会ってきた老竜たちに共通する感触だった。

竜はしばらくその場に留まっていたが、やがてゆっくりと首を巡らせ、レイブンのほうへ、その金色に近い瞳を向けた。値踏みするような色はなく、ただ静かに見つめてくるだけだった。レイブンは思わず記録の手を止め、その視線を正面から受け止めた。ほんの数拍の間、竜とレイブンの目が合っていた。海鳴りの音までもが、その一瞬だけ遠のいたように感じられた。それから竜は、音もなく首を沈め、再び深い海の底へと帰っていった。

波紋がゆっくりと岩場に打ち寄せ、やがて何事もなかったかのように、いつもの波音へと戻っていった。ミナは長く息を吐き、灯りの傍らに座り込んだ。

「毎年、あんなふうなの。多くを語らない。でも、来てくれる」

四 竜の沈黙、二つの解釈

儀礼を終えたミナは、竜玉の炎を消し、しばらく黙って海を見つめていた。レイブンが記録帳を閉じるのを待ってから、ようやく口を開いた。

「あなた、さっき竜と目が合っていたでしょう。……珍しいことよ。あの竜は、うちの一族以外の人間には、あまり姿を見せないから」

ミナは岩に腰を下ろし、遠くの祭りの灯りに目をやりながら、静かに続けた。

「うちに代々伝わる話には、里の皆が知っているのとは、少し違う筋がある。話してもいい?」

レイブンはうなずいた。

「シュイ様は、本当に不老を得たの。竜との契約で。……でも、その代わりに、二度と故郷の土を踏めなくなった。それだけじゃない。契約というのは、たいてい、何かを与える代わりに何かを奪うものでしょう。シュイ様が竜から与えられた歳月の長さは、そのまま、彼が味わった孤独の長さでもあった。一族の言い伝えでは、シュイ様は最期まで、故郷の言葉で子守唄を口ずさんでいたそうよ。誰も、その言葉の意味を教えてもらえないまま」

ミナは膝を抱え、少し声を落とした。

「母がよく言っていた。長く生きるということは、見送る側にばかり回るということだ、って。シュイ様は、自分を慕ってついてきた童子たちが、ひとりまたひとりと歳を取り、老い、死んでいくのを、ずっと見送り続けたはず。それがどれほどのことか、わたしにはまだ、想像するしかできないけれど」

翌朝、レイブンが港近くの一杯飲み屋で朝食をとっていると、居合わせた年配の漁師のひとりが、ハルバやミナとはまるで違う調子で、賢者シュイの話を語った。

「あれは、逃げたのさ。皇帝の御前に手ぶらで戻れば、二度目の失敗の罪でどんな目に遭わされるか分かったもんじゃない。だから、大鮫だの竜との契約だのと、もっともらしい話をでっち上げて、この辺鄙な入り江に居着いちまったんだろう。賢者様なんて呼び名は、ご立派すぎらぁ。連れてこられた童子たちのほうこそ、いい面の皮だ」

漁師は苦い顔で酒をあおり、それ以上多くを語ろうとはしなかった。里の中でさえ、この伝承の解釈は一枚岩ではないのだと、レイブンは改めて記録帳に書き加えた。同じ社を仰ぎながら、ある者はそこに献身の証を見て、ある者はそこに保身の跡を見ている。どちらの解釈も、五百年という歳月の中で、それぞれの暮らしの実感によって育てられてきたものなのだろう。

その足で、レイブンは再びハルバの家を訪ねた。漁師の話を伝えると、ハルバは苦笑しながら、囲炉裏の灰を杖の先でつついた。

「あの手の話も、昔からある。だが、わしは思うのだ。逃げたのだとしても、五百年もこの里に根を張って、子孫を残し、竜との約束を違えずに守り続けたのなら、それはもう、逃げるのとは別の何かに変わっておるのではないか、とな。人は、留まった年月の分だけ、その土地のものになっていく。それだけは、わしにも分かる」

ハルバの言葉には、シュイ家の語る筋とも、酒場の漁師の語る筋とも異なる、第三の響きがあった。善悪でも、勇気と臆病でもなく、ただ、この土地に長く生きた者だけが持ちうる、時間そのものへの実感だった。レイブンはその言葉もまた、記録帳の余白に丁寧に書き添えた。

その日の午後、レイブンはもう一度、ひとりで岩場を訪れた。海面は静かで、竜の姿はどこにも見えない。それでも、水面の下に、あの老いた竜の気配が確かに息づいていることを、肌のどこかで感じ取ることができた。レイブンは波打ち際にしゃがみ込み、誰に届くとも知れぬまま、小さく問いを投げかけてみた。

「あなたは、シュイに何を与えたのですか。使命からの逃避を、優しく包んでやっただけなのか。それとも、彼が本当に望んだ新しい生を、叶えてやったのか」

答えが返ってくるとは、はなから期待していなかった。それでも、しばらくして、海の底から低い唸りが一度だけ、確かに響いた気がした。それは言葉ではなかった。ただ、レイブンの耳の奥に、ひとつの感触だけが残った。――望みを叶えることと、望みを与えることは、同じではない。それは竜の言葉というより、レイブン自身の内側から浮かび上がってきた解釈にすぎなかったかもしれない。だが、その感触は、儀礼の夜に見た竜の瞳の静けさと、不思議なほどよく符合していた。

夕刻、ミナはシュイ家に伝わる、ごく小さな石片をレイブンに見せてくれた。文字とも模様ともつかない、摩耗した刻印が浅く残っている。

「これは、シュイ様が最期に遺した言葉の一部だと伝わっている。でも、誰にも正確には読めない。……望郷とも、安らぎとも、どちらにも読めるのだと、母は言っていた。うちでは、無理に一つの意味に決めないことにしているの」

レイブンはその石片を注意深く写し取りながら、これ以上の追及は、この土地の記憶に対する礼を欠く行為になるだろうと感じた。真相はおそらく、竜の沈黙の奥に、永遠に留め置かれたままなのだ。それでも、その沈黙そのものが、五百年という歳月を経てなお、里の暮らしの一部として生き続けている。その事実だけは、確かにここにある。

五 港を発つ朝、書きとめられた余白

祭りの後片付けが進む早朝、レイブンは小さな渡し船に乗り込むため、桟橋へと向かった。幟はすでに取り払われ、広場には祭りの熱気の名残だけが、まだ薄く漂っていた。

桟橋の手前で、ミナが待っていた。手には小さな布包みを持っている。

「これ、餞別。竜玉の欠片。……といっても、うちで使うようなものじゃなくて、もっと小さな、ただの記念みたいなもの」

レイブンは包みを受け取り、丁寧に礼を述べた。青緑色の小さな石は、朝の光を受けて、かすかに透き通って見えた。

「シュイ様の話、どう書き記すつもり?」

ミナの問いに、レイブンはしばらく考えてから、正直に答えた。

「二つの話を、両方とも書き記すつもりです。使命からの逃避だったという話と、新しい天地での選択だったという話と。どちらが正しいかを、わたしが決めることはできません。それを決められるのは、おそらく、シュイ様ご本人と、あの竜だけでしょうから」

ミナは少し驚いたような顔をしたあと、小さく微笑んだ。

「それでいいと思う。うちの一族も、五百年かけて、どちらとも決められなかったんだから。……でも、ひとつだけ言えることがある」

「なんでしょう」

「シュイ様は、逃げたのだとしても、選んだのだとしても、この里で生きることを、最後まで拒みはしなかった。それだけは、確かなの」

その言葉を、レイブンは記録帳の余白に、そのまま書き写した。

船が桟橋を離れると、レイブンは振り返り、遠ざかっていく潮見の里を見つめた。坂の上に連なる家々の向こうに、あの小さな社の屋根が、朝靄の中にわずかに見え隠れしている。海面はどこまでも静かで、深淵に潜むはずの老竜の姿は、もうどこにも見えなかった。

これまでいくつもの土地を巡り、いくつもの伝承を書き取ってきた。そのほとんどは、語り手の数だけ枝分かれし、最後には誰にも束ねられないまま、記録帳の中で並列されるだけに終わる。潮見の里の伝承も、きっとその例に漏れない。だが、レイブンはそのことを、以前のように虚しいとは思わなくなっていた。断定できないまま残された物語のほうが、時として、断定された物語よりも長く、人の心に留まり続けるのかもしれない。ミナが最後に口にした「拒みはしなかった」という一言だけが、今はやけに確かな手触りを持って、胸の奥に残っていた。

それでもレイブンは知っている。あの静かな海の底に、五百年の歳月を生き延びた竜が、今もひっそりと横たわっていることを。そして、その竜だけが知っている賢者の真実が、今この瞬間も、誰にも語られぬまま、深い水の底に沈み続けているということを。

記録帳の最後のページに、レイブンは短くこう書き記した。

――竜は、不老の代価について、ついに何も語らなかった。それが慈悲だったのか、あるいは単なる沈黙にすぎなかったのか、わたしにはまだ分からない。ただ、その沈黙の重みだけは、確かにこの手に残っている。

船は静かに、次の港へと舳先を向けた。

あとがき

本作は、秦の始皇帝の命を受けた方士・徐福が、東方の海に浮かぶ神山に不老不死の霊薬を求めて船出し、二度と故国へ戻らなかったという故事(『史記』巻六「秦始皇本紀」等に記録)を下敷きにした翻案である。史実・伝承としての徐福の逸話――二度の航海、大鮫の言い訳、数千人の童男童女と職人を伴った出航、二度目の航海からの不帰――という骨格を保ちながら、舞台をアクアリウス沿岸の架空の港町「潮見の里」に置き換え、旅する観察者レイブンを狂言回しとして配置した。

原典では明かされないままの「なぜ徐福が二度と戻らなかったのか」という謎を、本作では「使命からの逃避」と「新天地での選択」という二つの解釈の対立として再構成し、深淵の老竜シェン・ロンをその真相を知る唯一の存在としながらも、最後まで明確な答えを語らせないという構成を取った。社、竜玉の儀礼、シュイ家やミナ、ハルバといった人物・道具立てはすべて本作のための創作であり、原典や特定の翻訳文からの逐語的な引用は行っていない。


本作は『史記』巻六「秦始皇本紀」等に記録された徐福伝承(https://zh.wikisource.org/wiki/史記/卷006)を参考にした翻案作品です。

本作は司馬遷の『史記 巻六 秦始皇本紀』を参考にした作品です。原典