物語り
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·読了目安 15分脇役

竜は半分の血を思い出せなかった

水竜王国アクアリウス南方、山と海に挟まれた「百卵の入り江」。年に一度、海の民と山の民が「兄弟」と呼び合う祭事の奥で、レイブンは老いた海竜ローアに出会う。血脈の真偽を確かめようとした旅の果てに残ったのは、判じえぬ半分の記憶だけだった。

一 百卵の入り江、寄せる二つの船

崖の切れ目を抜けたとき、レイブンは思わず足を止めた。

水竜王国アクアリウスの南方、切り立った山地がそのまま海へ落ち込む場所に、細く深い入り江が刻まれていた。片側の斜面には段々の段畑が続き、山羊の鳴き声が風に混じって届く。もう片側は白い砂浜と漁師小屋が並び、干された網が潮の匂いを吸って重たく垂れていた。山と海が、境目もなくひとつの入り江に寄り添っている――そんな地形を、レイブンはこれまでの旅でも見たことがなかった。

入り江の名を土地の者は「百卵の入り江」と呼ぶ。旅の記録者としてこの名を耳にしたとき、レイブンはすぐに記録帳を取り出し、そのまま歩みを進めた。潮風に混じって、山羊の乳を煮る甘い匂いと、炙った干物の香りが漂ってくる。坂道の途中に立てられた古い木の柱には、波の紋様と山の稜線を組み合わせた奇妙な意匠が彫り込まれ、長い年月に彩色が剥げ落ちて、木目だけが浮き上がっていた。

浜に降りる石段を踏むたび、レイブンの胸には、これまで旅してきたどの港町とも違う、ある種の緊張と親しみが同時に湧いてきた。海沿いの家々の軒先には、貝殻を連ねた飾りと、山菜を編んだ飾りとが、ひとつの紐に等しく結びつけられている。まるで、二つの異なる暮らしが、最初から分け隔てなく織り込まれているかのような光景だった。

浜に近づくと、普段の漁村らしい静けさとは違う、浮き立った気配が満ちていた。浜辺には長い卓が並べられ、干し魚や酢漬けの根菜、山羊の乳を固めた菓子が所狭しと盛られている。子供たちは浜と段畑を結ぶ小道を、何度も行き来しながら歓声を上げていた。

「今日は、村の祭りの日ですか」

レイブンが声をかけた老女は、盛り付けの手を止めずに答えた。名をオルナといい、この浜で生まれ育ったという。

「祭りというより、迎えの日だね。年に一度、山から人が下りてくる。海の船も、少し遠くの漁場から戻ってくる。両方が、この入り江で合流するのさ」

「迎える相手というのは」

「山の民さ。海の民と山の民は、遠い昔、同じ根から分かれた兄弟なのだと、この土地では言い伝えられている」オルナは浜の奥、山側から下ってくる細い道を指し示した。「あちらから、代表の一行が下ってくる。海側からも、漁を早めに切り上げた船が戻ってくる。浜で顔を合わせ、互いを『兄弟』と呼び合う。それがこの祭りの、いちばん大事な決まりだよ」

レイブンは記録帳に「百卵の入り江」「山の民と海の民」「年に一度の合流」と書き留めながら、浜の奥の山道に目を凝らした。しばらくすると、埃をかぶった旅装の一団がゆっくりと坂を下ってくるのが見えた。先頭に立つのは、若い娘だった。腰にさらしを巻き、山羊の皮を張った太鼓を背負っている。

「今年は、山側の顔ぶれが少し違うようだね」

オルナが、盛り付けの手を止めて呟いた。その声に、レイブンはかすかな戸惑いの色を聞き取った。

「いつもと違う、というのは」

「先頭に立つ娘――名はテッサというが、あの子が代表になるのは、これで二度目だ。以前は、テッサの祖父が長く代表を務めていた。ガロンという名の、山の暮らしに深く通じた老人でね。……今年もその姿がないというのは、少し気にかかる」

オルナはそう言うと、それ以上は語らず、卓の支度に戻っていった。レイブンは坂を下ってくる一行の人数を、記録帳にそっと数え上げた。去年よりも、明らかに少ない。浜に降り立ったテッサは、迎える海側の人々に丁寧に頭を下げ、太鼓を鳴らして到着を告げた。歓声が上がり、抱き合う者、涙ぐむ者、笑いながら肩を叩き合う者――浜は一気に賑わいに包まれた。

年老いた漁師たちは、山から下りてきた者たちの顔を一人ずつ確かめるように見つめ、「これはどこの家の子だったか」「あの目元は、確かにあの一族の血筋だ」と、口々に囁き合っていた。子供たちは初対面のはずの山側の子供たちと、すぐに砂の上で追いかけっこを始め、言葉を交わさずとも自然に混じり合っていく。その光景だけを見れば、二つの民が同じ根を持つ兄弟であることを、疑う余地はどこにもないように思われた。

だがその賑わいの底で、レイブンはふと、小さな空白を感じ取っていた。誰も口には出さない、しかし確かにそこにある、何かが足りないという気配だった。浜の一角、毎年ガロン翁が座っていたはずの古い岩の椅子には、今年も誰も腰を下ろさず、干し草の敷物だけが寂しく広げられていた。

二 祖竜と嫗姫、百卵の言い伝え

夜になり、浜の焚き火を囲んで人々が寄り合う頃、レイブンはオルナに、祭りの由来を尋ねた。オルナは焚き火の炎を見つめながら、ゆっくりと語り始めた。

「遠い昔、海の底に、海祖ヴォディンという竜がいた。荒れる波を統べ、深い潮の流れを支配する、この地一帯の海の王だったという。ある年、山を治める仙女、山母アイアが、海辺の岩場に降り立ったところをヴォディンが見つけ、二人は結ばれた」

「竜と、仙女が」

「そうだ。そして山母アイアは、百の卵を産んだ。卵は同じ時にひとつ残らず殻を破り、百人の男児が生まれ出た。この百人こそが、山と海、両方の民の祖先なのだと伝えられている」

オルナは焚き火に小さな枝を投げ入れ、続けた。

「だが、ヴォディンは海を、アイアは山を、それぞれ深く恋しく思っていた。ともに暮らす年月が長くなるほど、二人の想いは擦れ違っていった。ついに二人は、百人の子を分けることにした。五十人は父とともに海へ下り、五十人は母とともに山へ登った」

「五十人ずつ、それぞれの道へ」

「そうだ。山へ登った子のうち、長兄が後にこの地の最初の王朝を興したと伝わっている。だから山の民も海の民も、根はひとつ、同じ卵から生まれた兄弟だという言い伝えが、今も残っているのさ。この祭りは、その兄弟が年に一度、忘れずに顔を合わせるための決まりごとでね」

「二人が別れることになった、その理由については」

オルナは焚き火の炎に目を落としたまま、少し声を落とした。

「言い伝えでは、ヴォディンは日毎に海を恋しがり、荒波の下でしか安らげぬ体になっていった。アイアもまた、乾いた山の風と、稜線を渡る雲がなければ、次第に病んでいったという。互いを想わぬわけではなかったが、どちらも自分の生きる場を離れては、長くは生きられぬ性だったのだと、古い語りは伝えている。……それが本当に体の性だったのか、それとも心の隔たりだったのか、そこまでは私にも判じきれないがね」

「別れたあと、二人が再び会うことは」

「なかった、と伝わっている。だが、子らを分けるにあたって、二人は一つだけ約束を結んだそうだ。互いの子らが、忘れずに年に一度、この入り江で顔を合わせること。それだけは、決して絶やしてはならぬと」

レイブンは筆を走らせながら、隣で祭りの片付けを手伝っていたダリオという若い漁師に目を向けた。ダリオは、この祭りの世話役を務めているという。

「毎年、山への迎えは、どなたが」

「私です」ダリオは少し誇らしげに答えた。「もう八年、私が山道を上って、山側の代表を案内してくるのが役目になっています。……とはいえ、正直に言えば、今年は少し戸惑いました」

「テッサさんの祖父、ガロンさんのことですね」

「ええ」ダリオは声を落とした。「ガロン翁は、私が子供の頃から、毎年欠かさずこの祭りに顔を出していた。山の暮らしのことも、古い言い伝えのことも、いちばん詳しかった。……ここ数年、足腰が弱ったとは聞いていましたが、今年はテッサさんから『祖父はもう長旅ができない』とだけ告げられました」

「山の集落の様子は」

「実のところ、私も山の奥深くまでは、いつも案内されるままに進むだけで、集落全体の様子をよく知らないのです」ダリオは苦笑いを浮かべた。「毎年決まった中継地で待っていると、山側の一行がそこへ下りてきて、そこから一緒にこの浜まで来る。それより奥に、どれほどの人が、どんな暮らしをしているのか――正直、私自身も確かなことは分かりません」

その答えに、レイブンの中で小さな引っかかりが生まれた。記録帳には「山側の実態、未確認」「テッサ、代表二度目」「ガロン翁、不在」という言葉が並んだ。

三 入り江の底、老いた海竜ローアとの対話

翌日、オルナに案内されて、レイブンは入り江の最も深い場所へ向かった。崖に隠れた小さな洞から、細い道が水際まで続いている。

「ここから先は、村の者でもめったに近づかない」オルナは足を止め、水面を指し示した。「入り江の底に、海祖ヴォディンの末裔と伝わる竜が棲んでいる。会うかどうかは、あんた次第だよ」

レイブンは礫の浜に腰を下ろし、静かに水面を見つめた。しばらくすると、水がゆっくりと盛り上がり、青緑の鱗を持つ老いた竜が姿を現した。長い年月を物語る、幾筋もの傷跡が体に刻まれている。

「珍しいな。この入り江まで下りてくる人間は」

低く、しかし穏やかな声だった。

「ローアと申す。海祖ヴォディンの血を継ぐ者だ」

「レイブンと申します。旅の記録者です。祭りの由来と、あなたのことを伺いに参りました」

ローアはしばらくレイブンを見つめ、ゆっくりと岩場のそばに身を横たえた。

「私の名を知る者は、この村にも、もうそう多くはない。……祭りのことを聞きたいのなら、話そう。私はヴォディンの直系ではないが、あの海竜の血を継ぐ者だと、代々語り継がれてきた」

「山へ登った五十人の子については、何か伝わっているのでしょうか」

その問いに、ローアは長い沈黙を挟んだ。

「……分からぬ、というのが正直な答えだ」

「分からない、というのは」

「私の一族の記憶にも、山へ登った半分の子らのことは、確かに残っている。だが、その顔も、声も、暮らしの様子も――どれほど思い出そうとしても、輪郭がぼやけて像を結ばない」ローアは静かに続けた。「まるで、遠い昔に見た夢の欠片を、無理に繋ぎ合わせようとしているかのようだ。血が繋がっているという確信は、私の中にある。だが、その確信を裏付ける記憶は、ひとつも残っていない」

レイブンは筆を止め、ローアの深い双眸を見つめた。

「あなた自身は、山の民と、今も血が繋がっていると感じておられるのですね」

「感じている、というのが正しいのかどうかも、私には分からぬ」ローアは目を伏せた。「そう語り継がれてきたから、そう信じているだけなのかもしれぬ。……お前は、記録者として、それを暴きに来たのか」

「暴くつもりはありません」レイブンは静かに答えた。「ただ、分かっていることと、分からないことを、そのまま書き残したいだけです」

ローアはその言葉を、しばらく吟味するように黙っていた。それから、ふっと小さく息を漏らした。

「その物言い、悪くはないな。……もう一度、日を置いて訪ねてくるがいい。今日はまだ、話し足りぬこともある」

その日はそれ以上語ることなく、ローアは水底へ姿を消した。レイブンは浜へ戻る道すがら、老いた竜の言葉を幾度も記録帳に書き写した。「思い出せない」という言葉の重みが、これまで旅の中で出会ってきたどの竜の言葉よりも、深く胸に残っていた。

数日後、レイブンは再び入り江の底を訪れた。ローアはすでに水面近くで待っていたかのように、すぐに姿を見せた。

「また来たか」

「はい。前回、話し足りぬことがあると仰っていたので」

ローアは、少し寂しげに目を細めた。

「私は、山へ渡った兄弟たちのことを、誰かに語り継ぎたいと、長く願ってきた。だが語ろうとするたびに、記憶の輪郭がぼやけて、結局は同じ言葉を繰り返すだけになる。……お前と話していて、初めて気づいたのだ。私が本当に望んでいたのは、記憶を正確に語ることではなく、誰かがその不確かさを、そのまま聞き届けてくれることだったのかもしれぬ」

その言葉に、レイブンはしばらく答えられなかった。波の音だけが、二人の間を静かに満たしていった。

「一つ、伺ってもよいでしょうか」やがてレイブンは口を開いた。「あなたは、なぜこの入り江を離れなかったのですか。海祖ヴォディンの血を継ぐ者として、もっと広い海を統べる道もあったはずです」

ローアは、水面に映る自らの影を、しばらく見つめていた。

「広い海には、確かに惹かれたこともある」低い声で、ローアは答えた。「だが、ここを離れれば、山からの迎えを待つ場所そのものが失われてしまう。私が思い出せぬ記憶を抱えていても、この入り江に留まり続けている限り、いつか誰かが、その記憶の続きを携えて下りてくるかもしれぬ――そう思って、待ち続けているのだ」

「それは、長い年月ですね」

「長い」ローアは静かに頷いた。「だが、待つことそのものが、私にとっては、思い出せぬ記憶の代わりのようなものになっている。忘れてしまったことを悔やむよりも、待ち続けることのほうが、私にはよほど性に合っているらしい」

レイブンはその言葉を、丁寧に記録帳へ書き写した。ローアと過ごすひとときが増えるたび、竜の言葉の端々に滲む孤独と、それでも消えない律儀さのようなものが、レイブンの中で少しずつ像を結んでいくのを感じていた。

四 山への道、辿れなかった半分の兄弟

村に戻ったレイブンは、ダリオに頼み込み、翌年の中継地までではなく、山側の集落そのものまで案内してもらえないかと申し出た。ダリオは迷った末に頷いた。

「私も、いつかは奥まで見てみたいと思っていました。……ちょうど、テッサさんが今日、山へ帰る道中です。ご一緒すれば、案内は請えるかもしれません」

浜辺で見送りの支度をしていたテッサに事情を話すと、彼女は一瞬、表情を硬くした。

「奥まで、ですか。……正直に言えば、あまり歓迎できません。祖父も、私も、外の者を集落の奥へ入れたことは、これまでありません」

「差し支えなければ、理由を伺えますか」

テッサはしばらく黙り込んだあと、ぽつりと答えた。

「集落そのものが、あなた方が思うほど大きなものではないからです。……祭りに人数を揃えて下りるのも、正直、ここ数年は年々難しくなっています」

その言葉に、ダリオが驚いたように顔を上げた。

「そんな……毎年、テッサさんの一行は、確かに山から下りてきているではありませんか」

「下りてはいます」テッサは静かに、しかしはっきりと言った。「ただ、その全員が、必ずしも海祖ヴォディンと山母アイアの直系の子孫というわけではないのです。……祖父の代の頃には、すでに直系の血筋は数えるほどに減っていました。祭りを絶やさぬために、周辺の他の集落から縁のある者たちが加わり、一族の名を分け合ってきた――そう祖父から聞いたことがあります」

レイブンは記録帳を握る手に、思わず力を込めた。

「では、山へ登った五十人の直系の血は」

「正確なところは、私にも分かりません」テッサは目を伏せた。「ただ祖父は、血の真偽よりも、兄弟と呼び合う関わりそのものを絶やさぬことのほうが、大切なのだと言っていました。……それが本当に正しい考えなのか、私自身、確信は持てていません」

それでもレイブンは、山道を自分の目で確かめたいと願い、ダリオとともにテッサの一行に付き従うことにした。山道は思いのほか険しく、段畑を抜けた先からは、荷を担いだ足元さえ危うい岩場が続いた。テッサは慣れた様子で先頭を歩き、時折り振り返っては、根の張った岩の位置や、踏むと崩れやすい土の色を教えてくれた。

「祖父は、この道を八十を過ぎてもなお、自分の足で下っていました」歩きながら、テッサはぽつりと言った。「杖を突きながらでも、決して人に背負われることを望まなかった。……最後の数年は、それが祖父にとって、唯一許された我を張れる場所だったのかもしれません」

「今のあなたにとって、この道は」

「正直に言えば、まだ怖いと思うことがあります」テッサは前を向いたまま答えた。「代表としての務めよりも、この道そのものの険しさのほうが、私には重く感じられる日もある。それでも、祖父が繋いできたものを、途中で放り出すつもりはありません」

その言葉を聞きながら、レイブンは記録帳をしまい、両手で岩場を掴みながら足を進めた。陽が傾き始める頃、一行は狭い崖沿いの道に差しかかった。片側は切り立った谷、もう片側は湿った岩肌が続き、前夜からの雨を含んだ土の匂いが濃く立っていた。

「ここは、いつも少し緊張する場所です」テッサが声を落として言った、その直後だった。頭上でくぐもった音が響き、見上げる間もなく、緩んでいた斜面が大きな音を立てて崩れ落ちた。土砂と岩が道を塞ぎ、一行は退路を断たれるところだった。テッサの機転で全員が難を逃れたものの、崩れた道の先へ進む道筋は、完全に閉ざされてしまった。

「この先の道は、しばらく使えません」土埃を払いながら、テッサは静かに言った。「集落までは、迂回するにも数日を要します。……申し訳ありませんが、ここで引き返していただくほかありません」

レイブンは崩れた斜面の向こう、霧に隠れた山の稜線を、長いこと見つめていた。そこに何があるのか、確かめる術は、今は失われてしまった。

五 記録帳に残された、判じえぬ半分

浜へ戻ったレイブンは、その足でもう一度、入り江の底へ向かった。ローアは、すでに事の次第を聞き知っていたかのように、静かに水面で待っていた。

「辿り着けなかったようだな」

「はい。山道が崩れ、集落までは行き着けませんでした。……ですが、テッサさんから、気になる話を伺いました」

レイブンは、直系の血筋がすでに数少なくなっていること、祭りを絶やさぬために他の集落の者たちが名を分け合ってきたことを、ひとつずつ語った。ローアは黙って聞き終えると、長い息を吐いた。

「……そうか。血の真偽よりも、関わりそのものを絶やさぬことを選んだか」

「あなたにとって、それは残念な話でしょうか」

ローアはしばらく答えなかった。水面に映る自らの姿を、静かに見つめていた。

「残念だとは、思わぬ」やがて、そう答えた。「私自身、山の兄弟たちの記憶を、正確には思い出せぬ身だ。血が繋がっているという確信さえ、どこまでが真実で、どこからが語り継がれた末の思い込みなのか、私にも判じきれぬ。……人の子らが、同じ不確かさを抱えながら、それでも兄弟と呼び合う関わりを絶やさぬ道を選んだのなら、それは私の在り方と、案外遠くないのかもしれぬ」

「あなたは、これからも、ここに留まるのですね」

「留まる」ローアは静かに頷いた。「思い出せぬ記憶のためではなく、思い出せぬままでも、誰かがそれを気にかけ続けているという、その事実のためにな」

レイブンはその言葉を、丁寧に記録帳へ書き写した。翌朝、浜では祭りの締めの儀式が行われていた。海の民と山の民が手を取り合い、太鼓の音に合わせて円を描きながら歩く。テッサも、その輪の中で静かに笑みを浮かべていた。

「山への道のこと、村の人たちには、どう伝えるつもりですか」

儀式のあと、レイブンが尋ねると、テッサは少し考えてから答えた。

「ありのままを伝えます。血筋のことも、道が崩れたことも。……それでも、この祭りをやめるつもりはありません。祖父がそうしてきたように」

ダリオも、隣で静かに頷いた。

「私も、来年からは、もう少し違う心構えで山へ迎えに向かうと思います。……何もかもが分からないままでも、迎えに行くことに、意味はあるはずですから」

レイブンは浜を発つ前、最後にもう一度、入り江の底を振り返った。深い水の下、ローアが今も静かに眠っていることを、レイブンは確かに知っている。

記録帳の最後のページに、レイブンは短くこう書き記した。

――百卵の入り江には、海祖ヴォディンと山母アイアが百の卵から百人の子を生み、五十人が海へ、五十人が山へ分かれて暮らすようになったという建国の言い伝えが残る。海に棲む竜ローアは、自らを海祖の末裔と信じながらも、山へ渡った半分の兄弟の記憶を、確かな形では思い出せない。山の集落もまた、直系の血筋がすでに数少なく、祭りを支えているのは血よりも、絶やさぬと決めた人々の意志であるらしい。血の真偽を、私は最後まで判じることができなかった。ただ、思い出せぬままでも関わりを絶やさぬと決めた者たちの姿だけは、確かにこの手に残った。

崖の間から吹き上げる潮風が、記録帳の頁を揺らした。レイブンは筆を置き、次の旅路へと歩き出した。

あとがき

本作は、ベトナムの建国神話「貉龍君(ラック・ロン・クアン)と嫗姫(オウ・コー)」の伝承――海の竜王と山の仙女が結ばれて百個の卵から百人の子が生まれ、後に二人が別れて子らを五十人ずつ分け、海へ下った子らと山へ登った子らが、ベトナム民族の共通の祖先になったという口承神話(『嶺南摭怪』等の説話集に記録される)を下敷きにした翻案である。

本作では舞台を水竜王国アクアリウス南方の「百卵の入り江」に置き換え、竜王を海祖ヴォディン、仙女を山母アイアという名に改めた。原典が語る「海と山、どちらの子らが正統な血を継ぐか」という問いには立ち入らず、代わりに「山へ渡った半分の記憶を、当の竜自身が確かな形で思い出せない」という空白と、「祭りを支える山側の血筋が、実際には数少なくなっている」という人間側の事情を新たに設け、旅する観察者レイブンが、血の真偽を断定せずに関わりの意志だけを記録するに留めるという結末を選んだ。登場する人物・竜の名(レイブン、オルナ、ダリオ、テッサ、ガロン、ローア、海祖ヴォディン、山母アイアほか)、地名(百卵の入り江等)は、いずれも本作のための創作であり、原典や特定の翻訳文からの逐語的な引用・翻訳は行っていない。


本作はベトナム建国神話「貉龍君と嫗姫」(『嶺南摭怪』等の説話集に記録される口承伝説)を参考にした翻案作品です。参考: https://en.wikipedia.org/wiki/L%E1%BA%A1c_Long_Qu%C3%A2n

本作は作者不詳(ベトナム古代口承伝説・『嶺南摭怪』等に集成)の『ベトナム建国神話「貉龍君と嫗姫」(『嶺南摭怪』等の説話集に記録される口承伝説)』を参考にした作品です。原典