物語り
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·読了目安 15分脇役

竜は氾濫を望まなかった

水竜王国アクアリウス源流の集落「蛇喰谷」には、生贄を求めた八頭の水竜を剣士が酒で酔わせて討ったという英雄譚が伝わる。源流の洞窟に潜む片頭の老竜は、氾濫が周期的な増水にすぎず、剣士は治水のため堤を築いたのではと仄めかすが、観察者レイブンは真偽を判じぬまま両論を記録に残す。

一 蛇喰谷、川霧の中で

水竜王国アクアリウスの地図に、その谷はごく小さな点としてしか記されていなかった。大河の名を辿って上流へ上流へと進み、幾つもの支流が身を寄せ合うように集まる山あいに分け入ってようやく、レイブンは「蛇喰谷(じゃばみだに)」と呼ばれる集落へたどり着いた。

谷底には絶えず川霧が立ち込めていた。朝も昼も夕も、水面から立ち昇る白い靄が谷全体を包み、対岸の木々の輪郭さえ滲ませている。石を積んだ低い家々は霧に濡れて黒々と光り、軒先には水を呼ぶとも防ぐとも判じかねる、渦を巻いた意匠の護符が下げられていた。川音は思いのほか穏やかで、荒々しい奔流というより、深く静かな水量を湛えた大河の気配だった。

集落の中ほどに小さな社があり、その前に古びた酒樽が八つ、几帳面に並べられているのを、レイブンは見つけた。樽はどれも新しいものと古いものが入り交じり、常にこの数が保たれているらしいことが窺えた。

「毎年、欠かさずこれだけの酒を供えるのですか」

通りかかった中年の女に尋ねると、女は手にした桶を置き、樽をちらりと見やってから答えた。

「蛇喰谷の決まり事です。八つ、一つも欠かしてはならないと、昔から言い伝えられておりますので」

「八つという数に、何か謂れが」

「詳しいことは、村の長老にお聞きになるといいでしょう。私どもは、ただ供えるべきものを供えているだけですから」

女はそう言うと、それ以上語ることを避けるように、桶を持ち上げて足早に立ち去った。その後ろ姿を記録帳に書き留めながら、レイブンはかすかな違和感を覚えた。習わしを守る者たちの物腰には、敬意というより、どこか義務に似た硬さが滲んでいたからだ。

その夜、谷でただ一軒の宿に草鞋を脱ぐと、宿の主人は温かく迎え入れてくれた。囲炉裏端に並んだ川魚の塩焼きを前に、レイブンが社の酒樽について問うと、主人は箸を止め、少し困ったような笑みを浮かべた。

「あれは、大昔にこの谷を治めていたという水竜さまへの供え物です。うちの谷は、水源に近いだけに、水にまつわる言い伝えが多くてね」

「水竜さま、というのは」

「明日、長老の家を訪ねてごらんなさい。あの人なら、由緒を詳しく語ってくれます。私が中途半端に話すと、かえって話を歪めてしまいそうで」

主人はそう言って、酒を注ぎながらわずかに視線を落とした。その仕草には、これ以上踏み込むことへの躊躇いが滲んでいた。夕餉の膳を下げる背中を見送りながら、レイブンは窓の外にたなびく川霧を眺めた。霧はいつまでも晴れる気配を見せず、まるで谷そのものが、何かを覆い隠そうとしているかのようだった。

食事を終えたレイブンは、川辺の様子を見ておこうと宿を出た。夕闇の迫る川岸では、数人の子供たちが石を投げて遊んでいたが、川がゆるやかに淀む一角にだけは、誰一人として近づこうとしなかった。石を投げる手が、その淀みの縁に達する寸前で、まるで見えない線に阻まれたかのように止まる。不思議に思って近くにいた年嵩の子に理由を尋ねると、少年は淀みをちらりと見やってから、声を落として答えた。

「あそこは『竜の目』って呼ばれてるんだ。石を投げ込むと、水面が揺れて、じっと見返してくるって、婆ちゃんが言ってた。本当かどうかは知らないけど、なんとなく気味が悪くて」

少年はそれだけ言うと、仲間たちのもとへ駆け戻っていった。淀みの水面は、夕焼けの残照を映して静かに揺れているだけで、他の川面と何ら変わるところはないように、レイブンの目には映った。それでも、大人たちが誰一人としてその場所の名を口にしなかったことと、子供たちが本能的にそこを避けている事実だけは、確かにそこにあった。

宿へ戻る道すがら、社の脇を通りかかると、腰の曲がった老女が一人、八つの酒樽の前で深々と頭を垂れているのが見えた。その口元が小さく動いているのを、レイブンは見逃さなかった。近づいて耳を澄ませると、それは詫びに似た響きの言葉だった。「今年もこれだけしか、用意できませんで。どうか、お怒りになりませんように」。誰に向けた言葉なのか、老女自身にも判然としていないのかもしれない。ただ、その所作には、単なる形式では片付けられない重みがあった。

記録帳の新しい頁に、レイブンは短く書きつけた。「蛇喰谷。社に八つの酒樽、常に欠かさぬ習わし。水竜さまへの供物と伝わるが、村人は多くを語らず。川辺の淀み『竜の目』、子供たちが本能的に避ける場所。老女、樽の前で詫びに似た言葉を唱える。谷を覆う川霧、絶えることなし」

二 古老が語る、八つの頭と旅の剣士

翌朝、教えられた通りに谷の最奥へ向かうと、苔むした石垣に囲まれた一軒家に、白髪の老人が独り住んでいた。名を狩野という、谷では知らぬ者のない語り部だった。訪いを入れると、老人は皺深い顔をわずかにほころばせ、囲炉裏端へ招き入れてくれた。

「記録屋が、この谷の奥まで来るとはな。よかろう、聞かせてやろう。蛇喰谷の名の由来を」

老人は火箸で炭を整えながら、ゆっくりと語り始めた。

「大昔――何代前になるか、もはや数えきれぬほど昔のことだ。この谷の大河には、八つの頭を持つ巨大な水竜が棲みついておった。谷を統べる主として、な。だが、その支配は穏やかなものではなかった。毎年、雪解けの季節が巡ってくるたびに川は氾濫し、竜がそれを操っているのだと村人は信じておった。娘を一人差し出さねば、谷そのものを水に沈めると脅されておったのだ」

「その脅しに、村は従うほかなかったのですね」

「幾世代もの間、な。娘を持つ家は、順繰りに籤を引いて差し出す娘を決めておったという。むごい話じゃが、それが谷の生きる術じゃった。だがある年、旅の剣士がこの谷に迷い込んできた。次に生贄に選ばれるはずだった末娘の家族が、その剣士に泣きついたのだ。剣士は娘を妻に迎える約束と引き換えに、竜を討つと請け合った」

老人の声には、代々語り継がれてきた者だけが持つ、揺るぎない誇りの響きがあった。

「剣士の策はこうだ。川岸に八つの大甕を据え、それぞれに強い酒を満たさせた。竜が現れ、八つの頭をそれぞれの甕に突っ込んで酔い潰れたところを、剣士は隠し持っていた剣で、一つずつ首を刻んでいった。最後に尾を断ち割ったとき、中から現れたのが、水を鎮めるという名剣よ。今、社に祀られているのが、まさにその剣じゃ」

「竜は、なぜそこまで無防備に酒を飲んだのでしょうか」

「言い伝えでは、竜は酒に目がない怪物だったとされておる。毎年供えられる酒を楽しみにしていた、とな。だからこそ、剣士の策にまんまと乗せられたのだ、と儂らは教わってきた」老人はそこで一度言葉を切り、火箸で灰をかき混ぜた。「もっとも、なぜ氾濫がぴたりと言い当てられる周期で起きていたのか、と問われれば――正直、儂にもその先はよく分からぬ。ただ、竜の機嫌次第で川は荒れる、とだけ聞かされてきたのでな」

「末娘は、救われたのですね」

「もちろんじゃ。剣士と娘は夫婦となり、その血筋は今も谷のどこかに続いておるという。以来、村は毎年欠かさず酒を社に供え続けておる。討たれた竜への鎮めとして、な」

「剣士自身は、その後どうなったのですか」

老人は一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。

「谷を去ったとも、しばらく留まったとも言われておる。伝えは一様ではない。もっとも、儂が子供の頃に聞いた話では、剣士は討伐を終えた後、しばらくの間、川岸の普請にえらく熱心だったそうだ。何のための普請だったのかまでは、語り継がれておらぬがな」

その一節を口にしたとき、老人は初めてわずかに眉をひそめた。長年語り継いできた誇らしい英雄譚の中に、ふと紛れ込んだ異物のような一言に、レイブンは小さく引っかかりを覚えた。

「先ほど、川辺で『竜の目』と呼ばれる淀みのことを耳にしました。あの場所にも、何か謂れが」

老人はしばらく黙り込み、それから低く呟くように答えた。

「あそこは、討たれた竜の最後の一頭が身を潜めていたとされる場所でな。もっとも、それも大昔の話じゃ。今は、ただの言い伝えとして子供らを近づけぬための戒めに使われておるだけよ」

「討たれたはずの竜が、なぜ隠れる必要があったのでしょうか」

「さあ、な」老人は視線をわずかに逸らした。「儂も、そこまでは聞かされておらぬ。ただ、蛇喰谷という名そのものが、その淀みに由来するのだという者もおる。谷が竜を喰らったのか、竜が谷を喰らおうとしたのか――どちらの意味を込めた名なのかすら、今となっては定かではないのだがな」

老人はそこで湯呑みの茶をすすり、それ以上は語ろうとしなかった。だが、その沈黙には、これまでの誇らしげな語り口とはどこか異なる、慎重な色が滲んでいるように、レイブンには感じられた。

三 川底に眠る堤の痕跡

古老の家を辞したレイブンは、その足で大河の川岸を辿ってみることにした。「川岸の普請」という一言が、耳の奥に残り続けていたからだ。

半刻ほど歩くと、苔生した石積みの堤が、川に沿って延々と続いているのが見えてきた。近年に補修された箇所も混じっているが、根本の石組みは明らかに古く、長い年月の水流に磨かれ、角の丸くなった石が幾重にも積み上げられている。堤のかたわらには小さな祠が設けられ、水を鎮めるための供物らしい花が手向けられていた。

堤の見回りをしていたらしい、蓑を纏った老人に出くわしたのは、そのときだった。谷の川守を代々務める家の者だと名乗った老人は、レイブンの問いに、意外なほど率直に答えてくれた。

「この堤か。うちの先祖が代々守ってきたものだが、いつ誰が築いたのか、正確なところは伝わっておらぬ。ただ、竜退治のあった頃と時を同じくして、この堤が急に立派になった、という言い伝えだけはある」

「急に立派になった、とは」

「それ以前は、粗末な土手程度のものだったらしい。それが竜退治の後、石を組んだしっかりした堤に造り替えられた。誰の手によるものか、村の言い伝えでは触れられておらぬがな。剣士が携えていた郎党の一部が、しばらく谷に残って普請を手伝った、という話も片隅に残っておる」

「では、竜を討った後に、なぜわざわざ堤を?」

川守の老人は、蓑の紐を結び直しながら、少し考え込むような顔をした。

「さあな。討たれた竜への鎮めのため、とも聞くが……儂に言わせれば、竜がおらぬようになったのなら、堤などもう必要ないはずじゃ。それなのに、討伐の後にわざわざ立派な堤を築いたというのは、どうにも腑に落ちぬ話でな。もっとも、こんなことを口にすれば、村の年寄り連中には叱られるだろうがね」

老人はそう言って、乾いた笑い声を立てた。その笑いには、長年の疑問を誰にも打ち明けられずにいた者特有の、乾いた諦めが滲んでいた。

堤の下流には、網を繕う女たちの姿があった。彼女たちの一人が、堤の石組みを指差しながら、隣の女に何か囁いているのが目に入った。近づいて話を聞くと、女は少しばつが悪そうに言葉を継いだ。

「うちの祖母がよく言ってたんです。この堤の石は、余所から来た者たちが、随分と急いで積んだものだって。竜を討った後の祝いの間もろくに取らず、まるで何かに追われるように、昼も夜も普請を続けていたと」

「急いでいた、というのは」

「さあ、そこまでは。ただ、雪解けの季節が来る前に、どうしても間に合わせなければならない事情があったようだ、とだけ。祖母もまた、その祖母から聞いた話だと言っていましたから、どこまで正しいのやら」

女はそう言うと、照れくさそうに笑って網を繕う手を再び動かし始めた。誰もが皆、伝承の断片を少しずつ抱えていながら、それを繋ぎ合わせて一つの疑問にする者は、これまで誰もいなかったらしい。レイブンはその断片の一つ一つを、丁寧に記録帳へ書き写していった。

堤に沿って歩を進めるうち、レイブンは石組みの一角に、風化しかけた刻印を見つけた。よく見ると、それは八つの流れが一点に集まる図案のようにも見えた。図案の下には、判読しがたいほど古びた文字らしきものが刻まれていたが、川守の老人にも、その意味は分からないという。

「谷にはもう一つ、妙な言い伝えもある。氾濫のたびに水量の増える支流が、いつも八筋あった、というのだ。今ではもう幾つかの支流は涸れ、細くなってしもうたが、昔はこの谷に流れ込む水の道が、ちょうど八つあったという」

「八つの支流と、八つの頭――」

「儂は、ただの偶然だと思うておるがね」老人はそう言って、それ以上は語らなかった。だが、その視線が、記録帳に書き留めるレイブンの手元をしばらく追い続けていたのを、レイブンは見逃さなかった。

記録帳に、レイブンは新たな一節を書き足した。「堤、竜退治の後に急ごしらえで立派になったとの言い伝えあり。剣士の郎党が普請に関与したとの噂も。谷にはかつて八筋の支流があったとの言い伝え、八頭の竜との符合を村人自身が意識している気配」

四 源流の岩窟、片頭の竜

堤を辿るうちに、川はしだいに幾筋にも分かれ、谷はますます奥深く狭まっていった。日が傾く頃、レイブンは大河の源流にたどり着いた。切り立った岩壁の隙間から、幾筋もの細い流れが染み出し、一つの淀みに集まって、そこからようやく一本の川となって谷を下っていく。淀みのほとりの岩壁には、人ひとりがようやく通れるほどの裂け目が黒々と口を開けていた。

躊躇いがなかったわけではない。だが、記録屋としての性分が、目にした違和感を放置することを許さなかった。松明の灯を掲げ、裂け目の奥へと足を踏み入れると、思いのほか広い岩窟が広がっていた。奥の暗がりに、何か大きなものがうずくまっているのが見えた。近づくにつれ、それが竜の姿をしていることが分かった。ただし、伝承にあるような八つの頭を持つ威容ではない。ただ一つ残った首は、鱗の艶を失い、あちこちが欠け落ちた、痩せ細ったものだった。

「久しいな、人がこの奥まで来るのは」

竜が発した声は、しわがれてはいたが、はっきりとした言葉だった。岩窟の壁には、無数の水の跡――かつて幾度も増水がここまで達したことを示す、幾筋もの縞模様が刻まれている。

「あなたが、討たれたはずの水竜ですか」

「討たれたのは、私の兄弟たちだ。八つの頭のうち、七つがこの谷の川岸で酒に溺れて死んだ。私だけが、たまたま酔いが浅かったのか、それとも剣が届かなかったのか、生き延びてしまった」

竜は疲れきった様子で、しかし逃げも隠れもせず、レイブンをじっと見据えた。

「私たちは、本当に一体の怪物だったのか、それとも、この谷に流れ込む八つの支流を、それぞれ司っていた兄弟の竜たちだったのか――正直に言えば、私自身、確信が持てぬのだ。物心ついたときにはすでに、七つの兄弟と共に一つの体を分かち合っているような、それでいて別々の意思を持っているような、あいまいな在り方をしておった」

「村の言い伝えでは、あなたたちは娘を生贄に求め、氾濫で谷を脅した怪物だったと」

「その話は、半分は真実で、半分は違う」竜の声に、初めて低い響きが混じった。「氾濫は、私たちが望んで起こしたものではない。雪解けの季節が巡れば、水は増える。それはただの理であって、悪意ではない。だが、いつからか村の語り草では、周期的な増水そのものが、我らの機嫌次第で操られるものにすり替えられていた。誰がそう語り始めたのか、私にも分からぬ」

「では、旅の剣士が現れたとき、何が起きたのですか」

「あの者は、私たちを討つべき魔物として扱った。八つの甕に酒を仕込み、私たちが酔い潰れたところを、一つずつ首を刻んでいった。宴の夜のように、いつもと変わらぬ様子で酒を供えられたのだと、私たちは疑いもせず飲み干した。悲鳴を上げる間もなく、兄弟たちは次々と斃れていった」

竜の目には、怒りというよりも、深く沈んだ諦めが宿っていた。

「だが――これは、私の中に残る、あいまいな記憶に過ぎぬのだが」竜は言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。「剣が振るわれる前後、あの者たちは川岸で何やら忙しく石を積んでいたように思う。竜を討ったというのなら、なぜその後もしばらく谷に留まり、石組みに精を出す必要があったのか。今にして思えば、あの者たちの真の目的は、私たちを討つことではなく、氾濫そのものを鎮める堤を築くことだったのではないか、と疑うことがある」

「私たちは、討たれたのではなく、酒に眠らされている間に、ただの障害物として扱われただけだったのかもしれぬ。堤を築くのに邪魔だから、動けぬようにしておく必要があった――それだけのことだったのかもしれぬ」

「その記憶に、あなたはどれほど確信を持っていますか」

竜はしばらく沈黙し、それから力なく首を振った。

「分からぬ。長い年月、この岩窟で水音だけを聞いて生きてきた。記憶は水のように形を変え、都合よく澄んだり濁ったりする。もしかすると、討たれたという恥を糊塗するために、私自身が『本当は治水のためだった』という物語を、後から拵えたのかもしれぬ。敗れた者は、敗れたという事実そのものを、そのままには抱えきれぬものだ」

「けれど、堤は今も現に谷を守っています。そして、あなたはその堤が築かれる様子を、確かに見ていた」

竜はその言葉に、初めてわずかに顔を上げた。

「見ていた、とは思う。だが、見ていたはずのことと、見たかったことの境目が、もはや私自身にも分からぬのだ。村人たちは今も酒を供え続けているというが、それが討たれた怪物への鎮魂なのか、それとも――言葉にせぬまま続けられている、何か別の負い目への償いなのか、私には知る由もない」

「谷では今も、酒を欠かさず社に供え続けています。子供たちは川辺の淀みを本能的に避け、老女はその前で詫びに似た言葉を唱えていました。もしそれが単なる鎮魂の儀礼にすぎないのなら、なぜそこまで身体に染みついた恐れが、これほど長い年月を経てもなお残っているのでしょうか」

竜は、その問いにしばらく答えなかった。岩窟に響くのは、遠く微かな水音だけだった。

「恐れは、正しい理由がなくとも根を張るものだ」ようやく竜が口を開いた。「私自身、なぜ酒を疑いもせず飲んだのか、なぜ兄弟たちが次々と斃れていくのを、ただ見ていることしかできなかったのか――その理由を、未だに自分自身に説明できずにいる。村人たちの恐れもまた、同じように、理由の分からぬまま受け継がれてきたものなのかもしれぬ」

「もし、あなたが望むなら、私はこの話をありのままに記録し、いずれ谷の外にも伝えることができます」

竜はゆっくりと首を振った。

「それは望まぬ。私の言葉を正しいものとして押し通せば、今度は村の側が、先祖を騙り者に仕立てたことになる。剣士の血を引く者たちは、今も谷のどこかで生きているのだろう。彼らに、先祖が竜を謀って利用しただけだったのだと言って聞かせることに、何の意味がある。ただ――誰かが、この谷にはもう一つの言い分があったと、覚えていてくれるだけでよい」

その声には、恨みよりも諦めに近い響きがあった。レイブンには、その諦観こそが、竜の語る記憶の真偽よりも雄弁な何かを物語っているように思えた。

五 二つの記録を懐に

夜明け前、レイブンは蛇喰谷を発った。まだ薄暗い山道を下りながら、最後にもう一度、源流の方角を振り返る。岩壁の裂け目はすでに川霧に呑まれ、そこに何がいたのかを示す痕跡は、何一つ見当たらなかった。

宿を出る際、記録帳の頁を開き、レイブンは昨夜のうちに書き記した一節を読み返した。「蛇喰谷。八頭の水竜が氾濫で村を脅し、娘を生贄に求めたとする村の英雄譚。旅の剣士が酒で酔わせ討ち、末娘と結ばれ、名剣を得たと伝わる。一方、源流に生き延びた片頭の竜は、氾濫が周期的な増水にすぎず、自分たちが一体の怪物か八つの兄弟竜だったかも定かでないと語り、剣士の真の目的は堤を築く治水にあったのではと仄めかす。だが竜自身、それが確かな記憶か、敗北を糊塗するために拵えた物語かも判じかねている。谷には八つの支流があったとの言い伝え、竜退治の後に立派になったという堤――符合する事実はあるが、いずれも決定的な証拠には至らぬ」

どちらか一方を選び取ることは、レイブンの役目ではなかった。村の誇りに満ちた英雄譚を否定する確たる証拠もなければ、竜の仄めかす治水の真相を裏付ける証拠もない。ただ、両者の言葉をそのままに記録へ留め、判断は後の誰かに委ねる――それが、観察者としてレイブンが選び得る、唯一誠実なやり方だった。

谷を抜ける道すがら、昨日出会った川守の老人が、堤のかたわらに立って見送ってくれた。老人は多くを語らず、ただ軽く頭を下げただけだった。その眼差しには、長年抱えてきた小さな疑問の一端を、誰かと分かち合えたことへの、かすかな安堵の色が浮かんでいるように見えた。

街道に戻る頃には、川霧も次第に薄れていった。それでも、耳の奥にはまだ、あの片頭の竜のしわがれた声が残っている。氾濫は竜の意思だったのか、それとも季節の理にすぎなかったのか。討伐は真実だったのか、それとも堤を築くための方便だったのか。あるいは、その両方が少しずつ真実で、少しずつ誤りなのかもしれない。長い歳月の中で、勝者の物語と敗者の記憶は、互いに削り合いながら形を変えていく。蛇喰谷に残された二つの言い伝えも、いずれそうして、もう一段と輪郭を失っていくのだろう。

振り返ってももう谷は見えず、朝靄の向こうに、蛇喰谷はゆっくりと呑み込まれていった。レイブンは記録帳を懐にしまい、次の土地を目指して歩き出した。背後で、遠く水音がひときわ大きく響き、それきり静かになった。まるで、八つの声のいずれもが、まだ鳴り止んでいないかのような、そんな静けさだった。

本作は作者不詳(『古事記』太安万侶編・和銅五年成立、『日本書紀』舎人親王ら編・養老四年成立)の『ヤマタノオロチ退治伝説(古事記・日本書紀)』を参考にした作品です。原典