竜は独りでは飛べなかった
貧しい夫婦がひそかに育てる、翼の育たない幼竜。妻は自分の髪を売って竜のための薬餌を求め、夫は祖父の懐中時計を手放して竜の翼を目覚めさせる首飾りを買う。気づかれぬまま重なった二つの犠牲は、竜を通してひとつの奇跡になる。O・ヘンリー『賢者の贈り物』の翻案。
一 くすんだ鱗
冬の潮風が指先を凍えさせるグレイポートの裏通りに、トマスとエラの住む安宿は、隣家と肩を寄せ合うようにして建っていた。窓枠は歪み、隙間から吹き込む風にランプの灯りが絶えず揺れている。結婚してまだ二度目の冬を迎えたばかりの、真新しい所帯だった。
トマスは波止場近くの荷役会社で帳簿係として働き、エラは近所の仕立て屋から預かった繕い物で幾らかの銭を稼いでいた。朝は互いの体温だけを頼りに薄い毛布から抜け出し、夜は蝋燭を惜しんで早々に寝床へ入る。倹しいだけの毎日だったが、それでも二人には、他の誰にも明かせない秘密の同居人がいた。
屋根裏部屋の奥、古い行李を退けた先の狭い納戸に、生まれてまだ一年に満たない小さな竜がいた。名はコハク。艶を失いかけた琥珀色の鱗と、まだ羽ばたきひとつ覚束ない縮こまった翼を持つこの竜は、去年の嵐の晩、波止場の倉庫の陰にうずくまっていたところをエラが見つけ、密かに拾って育ててきた生き物だった。
あの晩のことを、エラは今でもよく覚えている。荒れる海鳴りの合間に、猫の鳴き声とも違う小さな悲鳴を聞きつけ、傘も差さずに駆け寄ってみれば、濡れそぼった小さな竜が震えながら蹲っていた。誰の子でもない、迷子の生き物。連れて帰るべきか迷ったのは一瞬で、気づけばエラは自分の外套に包んでそれを抱きかかえていた。帰宅したトマスは驚いたが、震える竜の目を覗き込んだ途端、彼もまた何も言えなくなった。
竜を飼うことは、この町では褒められた行いではなかった。港湾局に届け出れば取り上げられて見世物小屋に売られるか、下手をすれば厄介者として処分されるという噂もある。だから二人は誰にも言わず、屋根裏の暗がりでコハクを育て続けてきた。夜な夜な交代で餌を運び、鳴き声が漏れぬよう厚手の布で窓を覆い、まるで自分たちの初めての子どものように、この小さな竜との暮らしを重ねてきたのだった。
トマスとエラが夫婦になったのも、似たような成り行きからだった。互いに身寄りが少なく、持参金もなく、周囲からは「苦労するだけだ」と言われながら所帯を持った二人にとって、行き場のない小さな命を放っておけない気持ちは、どちらにも覚えのあるものだった。だからこそ、コハクを見つけたあの晩、二人は言葉を交わすまでもなく、同じ結論にたどり着いていたのだろう。
「今日もあまり食べなかったわ」
夕餉の片付けを終えたエラが、納戸から戻ってきて呟いた。トマスは帳簿から顔を上げ、眉をひそめる。
「餌が合わないのかな。それとも、寒さのせいか」
この一月ほど、コハクの様子がおかしかった。食も細り、翼はいつまで経っても伸びる気配がなく、鱗の色はどんどん光沢を失っていく。最初のうちは、単なる冬毛替わりのようなものだろうと二人は楽観していた。だが日を追うごとに、コハクは横になったまま動かない時間が増え、時折り苦しげに喉を鳴らすようになっていた。
エラは近所の乾物屋で安く手に入る干し魚や骨粉を工夫して与え、トマスは古毛布を集めて納戸を暖めてやったが、これといった効果は見られなかった。二人して夜通し様子を見守ることも幾度かあったが、朝になっても状態は好転しなかった。
「一度、街の薬種屋にでも相談してみようかしら」
エラがそう言うと、トマスは苦い顔で懐を探った。財布の中身は、二人ともとうに諳んじている。この一月、コハクの世話に食費を削ってきたせいで、貯えは底を突きかけていた。棚の奥にしまった鉄の缶を振っても、乾いた音しかしない。
「薬種屋か……。だが、そういう店は大抵、法外な値をふっかけてくる。金のことは何とかする。だが今は、もう休もう。もうすぐクリスマスだ、コハクにも、俺たちにも、良い知らせが来るといいがな」
窓の外では、粉雪が音もなく降り始めていた。灯りを落とした部屋の中、二人はしばらく黙って、屋根裏から漏れてくる小さな寝息に耳を澄ませていた。その寝息は、以前よりも心なしか浅く、頼りないものに聞こえた。エラは自分の膝の上で握った手に、静かに力を込めた。何か手を打たねばならない。誰に相談するでもなく、彼女の胸の内には、すでにひとつの覚悟が兆し始めていた。
二 妻の秘密
翌朝、トマスが仕事に出た後、エラは繕い物を後回しにして、外套を羽織り表通りへ出た。行き先は、薬種屋モルグ婆さんの店だった。町の女たちの間では、モルグ婆さんは薬草だけでなく、少々胡乱な言い伝えの品も扱っていると噂されている。占いまがいの怪しさを嫌う者も多かったが、エラには他に頼れる当てがなかった。
薄暗い店の奥で、エラは事情を話した。竜であることは伏せ、「弱っている生き物がいる。翼を持つ生き物なの」とだけ告げると、老婆はしばらく黙り込んだ後、棚の奥から小さな陶器の壺を取り出した。
「これは風花草の根と金粉を練り込んだ滋養の薬餌だよ。翼を持つ生き物の、萎えかけた力を呼び覚ますと言われている。ただし……安くはないがね」
告げられた値に、エラは息を呑んだ。二人の一月分の食費を軽く超える金額だった。それでも、コハクの翼が二度と伸びなかったらと思うと、エラの胸は締め付けられた。あの嵐の晩、震えながらエラの手のひらに鼻先を擦り寄せてきた小さな竜の温もりを、彼女は忘れられずにいなかった。
「本当に、効くのですか」
「効くとも保証はできないさ。だがね、何もしないよりはずっといい」
モルグ婆さんは壺を布に包みながら、探るような目でエラを見た。
「値の高さに驚いた顔をしているね。無理をするつもりなら、やめておくのも手だよ」
「いいえ。用意します」
エラはきっぱりと答えた。老婆はそれ以上何も言わず、ただ小さく肩をすくめただけだった。エラは束の間目を伏せた後、静かに礼を言い、店を出た。凍える路地を歩きながら、彼女は自分の髪に触れた。腰まで届く豊かな栗色の髪は、彼女がこの町で唯一、誇れるものだった。トマスも、結婚したばかりの頃、月明かりの下でこの髪を梳きながら「一番の宝物だ」と囁いてくれたことがある。彼の実家が裕福でないことを知っていたエラは、婚礼の日にも贅沢な装飾品ひとつ望まず、ただ自分の髪だけを丁寧に結い上げて式に臨んだ。それほどまでに、彼女にとってこの髪は大切なものだった。
だが今、エラに迷いはなかった。
その足で、彼女は町外れのかつら職人の店を訪ねた。職人は鋏を手に、エラの髪をひと房ずつ確かめながら、感心したように唸った。
「これほど見事な髪は久しぶりだ。良い値をつけよう」
冷たい鋏の感触が首筋を撫で、ざく、ざくと小気味よい音を立てて、豊かな髪が床に落ちていく。鏡の中の自分の姿に、エラは一瞬だけ目を伏せた。見慣れた自分の輪郭が、まるで別人のもののように頼りなく映る。だがすぐに顔を上げ、受け取った紙幣を握りしめて店を出た。襟巻きを目深に巻きつけ、短くなった髪を隠しながら、彼女はモルグ婆さんの店へと引き返した。
「思い切ったね」
壺を差し出しながら、モルグ婆さんはエラの帽子の下からのぞく襟足に目をやって、そう言った。エラは何も答えず、ただ微笑んだ。
壺を抱えて家路をたどりながら、エラは胸の内で呟いた。
――トマスには、まだ言わないでおこう。これは、私からコハクへの、ささやかな贈り物なのだから。
夕暮れの町並みに、クリスマスを祝う店先の灯りが、ぽつぽつと灯り始めていた。パン屋の店先には七面鳥を模した砂糖菓子が並び、道行く子どもたちが指を差してはしゃいでいる。その賑わいを横目に、エラは短くなった髪の裾を風にさらしながら、自分の選んだ道に、後悔はないと胸の中で繰り返した。ただ、家に帰ってトマスにどう説明すればよいか、そのことだけが、彼女の心にわずかな重石として残っていた。
三 夫の秘密
同じ頃、トマスもまた一つの噂を耳にしていた。
荷揚げ場で働く老水夫のバロウズが、仕事終わりの酒場で語った話だった。バロウズは若い頃、遠い南の島国を渡り歩いた経験があるといい、その土地に伝わる「風切りの首飾り」なる品について、酔いに任せて滔々と語って聞かせた。
「翼の育たぬ幼竜の首にかけてやれば、眠っていた飛翔の力を呼び覚ますという代物だ。もっとも、本物は滅多に出回らん。俺の知る限り、この町でそいつを持ってるのは、埠頭裏の骨董屋の親父くらいのもんだろうよ」
「そんな都合のいい話があるものか」
トマスは笑い飛ばそうとした。だがバロウズは真顔のまま、盃を置いてこう続けた。
「笑いたきゃ笑え。だが俺は、あの首飾りをつけた幼竜が初めて飛んだところを、この目で見たことがある。伊達や酔狂で言ってるんじゃないぞ」
その言葉に、トマスの笑いは喉の奥で萎んでしまった。その晩、屋根裏で苦しげに喉を鳴らすコハクの姿が、脳裏にちらついて離れなかった。半信半疑ながらも、翌日の仕事帰り、トマスはその足で骨董屋を訪ねた。
埃をかぶった品々の奥、ガラスケースの中に、鈍色に輝く鱗細工の首飾りが確かにあった。値札を見て、トマスは思わず唸った。彼の給金の、優に三月分はあろうかという値だった。
「本当に、効きめがあるのか」
「さてな。俺はただの骨董屋だ、保証はできん。だが、この品にまつわる言い伝えは、俺の親父の代からずっと伝わっているものでね。眉唾と笑う客もいれば、藁にもすがる思いで買っていく客もいる」
家に帰る道すがら、トマスは自分の胸元を探った。そこには祖父から受け継いだ懐中時計がある。祖父が若い頃、船大工として一財産を築いた記念に誂えたという金無垢の逸品で、文字盤の裏には祖父の名の頭文字が彫り込まれていた。祖父はよく、この時計を握らせながら幼いトマスに、荒波を乗り越えて船を造り上げた日々の話をして聞かせたものだった。父から譲り受けたこの時計を、トマスは肌身離さず持ち歩いていた。エラと結婚する際、これだけは何があっても手放すまいと誓った、唯一の家宝だった。
しかし今、トマスの脳裏にあったのは、屋根裏で日に日に窶れていくコハクの姿だけだった。あの晩、震える羽で必死に立ち上がろうとしていた小さな竜を見捨てられず、エラと二人で毛布に包んで連れ帰った日のことを、彼は忘れていなかった。時計は確かに祖父の形見だが、祖父ならばきっと、命ある小さきものを見捨てる選択を許しはしないだろう。トマスはそう自分に言い聞かせた。
数日思い悩んだ末、トマスは再び骨董屋の暖簾をくぐった。
「これで、あの首飾りと交換してもらえないだろうか」
差し出された懐中時計を、骨董屋の親父はためつすがめつし、渋い顔をしながらも頷いた。
「惜しい品だ。本当にいいのか」
「ああ。頼む」
トマスは首飾りを受け取ると、それを古い布に包み、上着の内側に深く仕舞い込んだ。骨董屋を出ると、冷たい潮風が頬を刺した。トマスは自分の胸元がやけに軽く感じられることに気づいた。長年連れ添った時計の重みが、そこにない。だがそれ以上に、彼の胸には確かな温もりがあった。
――エラにはまだ内緒だ。これは、俺からコハクへの、ささやかな贈り物なのだから。
雪の舞う通りを歩きながら、トマスは口元をわずかに緩めた。今夜、コハクの首にこの首飾りをかけてやれば、いつかあの小さな翼も、大空を知ることができるかもしれない。そう思うと、懐中時計を失った寂しさなど、彼にはどうでもよいことに思えた。行き交う人々の合間を縫いながら、トマスは家路を急いだ。窓に灯る蝋燭の明かりが、通りの向こうに小さく見え始めていた。
四 すれ違う贈り物
クリスマス・イブの夕暮れ、トマスは首飾りを懐に、いつもより急いだ足取りで家路をたどった。階段を上がり、扉を開けたところで、彼は思わず立ち止まった。
暖炉の傍らに座るエラの髪が、見違えるほど短くなっていたのだ。
「エラ、その髪は……」
エラは慌てて手で髪を隠そうとしたが、遅かった。トマスの脳裏に、真っ先に浮かんだのは良からぬ想像だった。病を患って切ったのか、それとも何か思い詰めるようなことがあったのか。彼は上着を脱ぐのも忘れ、エラの傍らに膝をついた。
「まさか、何かあったのか。具合が悪いのか、それとも――」
「違うの。落ち着いて、トマス」
エラは静かに答え、包みの中から陶器の壺を取り出して見せた。
「切ったの。売ったのよ、かつら職人に。これはコハクのための薬餌なの。翼を伸ばす力があるって、モルグ婆さんが教えてくれて」
トマスは言葉を失った。あれほど大切にしていた髪を、エラは自分に一言の相談もなく手放していたのだ。安堵と同時に、そこはかとない胸の痛みが押し寄せる。そこまで言って、エラもまたトマスの様子がおかしいことに気づいた。彼の胸元、いつも下がっているはずの鎖が見当たらない。
「トマス、あなたの時計は?」
トマスは観念したように、懐から布包みを取り出した。
「売った、いや、交換したんだ。骨董屋の親父と。これは……風切りの首飾りだ。バロウズの話じゃ、竜の翼を目覚めさせる力があるって噂の代物で」
二人はしばらく、互いの手にある贈り物を見つめたまま、言葉を失っていた。暖炉の火が爆ぜる音だけが、静かな部屋に響く。エラの胸に、じわりと不安が広がった。
「でも……薬餌だけじゃ、萎えた翼までは伸ばせないかもしれない。私、そこまでは聞いていなかった」
トマスもまた、顔を曇らせた。
「首飾りだって、弱りきった体に着けたところで、力に耐えられずかえって命を縮めるかもしれない、とバロウズは言っていた。栄養を蓄えた、健やかな体があってこそだと、確かそんなことを」
二人が別々に手にした贈り物は、それぞれ単独では、コハクを救うには足りないものだったのだ。エラの髪も、トマスの時計も、互いに知らぬまま費やされた代償だった。もしどちらか一方だけを選んでいたなら、それはただの無駄な散財に終わっていたかもしれない。
「私、髪を売ったりしなければよかった……あなたに何も告げずに」
エラの声が震えた。トマスは首を振り、彼女の肩にそっと手を置いた。
「いや。俺こそ、お前に何も相談せず、勝手に時計を手放した。祖父の形見だというのに、迷いもせずに。だが、後悔している暇はない」
二人はしばらく、互いの選択を悔いるように黙り込んでいた。壺と布包みだけが、二人の間に置かれたまま、暖炉の火影に照らされていた。エラはふと、自分が短くなった髪を気に病むよりも、この贈り物がコハクに届くかどうかを気にかけている自分に気づいた。トマスもまた、失った時計を惜しむより先に、布包みの中の首飾りに目を落としていた。だがやがて、トマスが顔を上げた。
「今夜がクリスマス・イブだ。もし本当に両方が要るというなら――」
エラも顔を上げ、トマスを見つめ返した。互いの目の中に、同じ答えが浮かんでいた。二人だけでは、それぞれの贈り物は片手落ちだった。だが、二人が揃えば、話は違う。
「行きましょう、コハクのところへ」
エラはそう言うと、壺を胸に抱え、立ち上がった。トマスも布包みを握りしめ、彼女の後に続いた。
五 竜が空を選んだ夜
二人は連れ立って屋根裏の納戸へと向かった。ランプの灯りの中、コハクは力なく丸くなり、浅い呼吸を繰り返していた。艶を失った鱗が、いつにも増して暗く沈んで見える。荒い息遣いの合間に、時折り苦しげな唸り声が漏れていた。
「コハク、辛抱してくれ」
トマスがそっと囁きながら、震える手で首飾りをコハクの首にかけた。冷たい鱗細工が触れた瞬間、コハクはびくりと身をこわばらせ、苦しげに喉を鳴らした。首飾りの表面が、燐光のような淡い光をぼんやりと帯び始める。
「駄目、待って!」
エラは慌てて壺の蓋を開け、匙で掬った薬餌をコハクの口元へ運んだ。最初は嫌がるように顔を背けたコハクだったが、エラが根気強く、額を撫でながら差し出し続けるうち、やがてそれを舐め取り、ゆっくりと飲み下していった。
しばらくの間、何も起こらなかった。二人は息を詰め、狭い納戸の中でコハクの様子をただ見守り続けた。壁の隙間から吹き込む夜気に、蝋燭の炎が心もとなく揺れる。もし何も起こらなければ、エラの髪もトマスの時計も、本当にただ失われただけで終わってしまう。二人の胸に、そんな不安がよぎった、その時だった。
コハクの喉の奥から低い唸りが漏れ始めた。苦しみの声ではない。何かが体の奥で目覚めていくような、深い響きだった。
くすんでいた鱗の一枚一枚に、内側から淡い光が滲み始める。琥珀色の鱗は見る間に艶を取り戻し、蝋燭の炎を映したように輝き出した。縮こまっていた翼の骨が、ぱき、ぱきと小さな音を立てて伸びていく。コハクは苦しげに身をよじりながらも、その目にはこれまで見たことのない力強い光が宿っていた。
「痛いのか、コハク。もう少しの辛抱だ」
トマスがそう声をかけた時、コハクはふらつきながらも自らの足で立ち上がった。狭い納戸の中、伸びきった翼が壁にぶつかりそうになる。エラは慌てて窓を開け放った。粉雪の舞い込む冷たい夜気の中に、コハクは吸い込まれるように身を乗り出した。
一瞬の静寂の後、コハクは翼を大きく広げ、狭い窓枠を蹴って夜空へと躍り出た。
トマスとエラは、転がるように屋根の上へ駆け上がり、夜空を見上げた。粉雪の舞う中、艶やかな琥珀色の鱗を月明かりに輝かせながら、コハクは町の上空を大きく旋回していた。生まれて初めて知る飛翔の喜びを噛み締めるように、幾度も、幾度も宙返りを繰り返す。遠くの教会の尖塔をかすめ、煙突の煙をくぐり抜け、コハクはまるで長い間夢見てきた場所へようやくたどり着いたかのように、自在に空を舞い続けた。
「飛んだ……本当に、飛んだわ」
エラの目に涙が滲んだ。トマスは彼女の肩をそっと抱き寄せた。
「お前の薬餌だけでも、俺の首飾りだけでも、こうはならなかった」
「ええ。二人でようやく、コハクに贈り物ができたのね」
コハクはひとしきり夜空を舞った後、二人のいる屋根の上へと舞い戻ってきた。伸びやかになった翼を優しく畳み、二人の間にすとんと降り立つと、短くなったエラの髪と、時計のなくなったトマスの胸元に、代わる代わる鼻先を擦り寄せた。まるで、それぞれの犠牲の意味を確かめるような仕草だった。
エラの短い髪は、いずれまた伸びるだろう。トマスの時計は、もう戻ってはこない。それでも二人は、互いの贈り物が交わることなく、それぞれ独りよがりの無駄になっていたかもしれない可能性を思うと、今こうしてコハクが夜空を舞う姿を目にできた奇跡に、深く安堵していた。
クリスマスの鐘が、遠く町の教会から響いてくる。三人は屋根の上で、しばらくその音色に耳を澄ませていた。人には人の、竜には竜の言葉があるのだろう。それでも、この夜だけは、贈り物を通して交わした思いが、確かに一つに重なっていた。
「来年の冬には、お前はもうこの屋根裏には収まりきらないほど、大きく育っているかもしれないな」
トマスがそう言うと、コハクは答える代わりに、二人の頬をそれぞれ一度ずつ舐めた。エラは声を上げて笑った。短くなった髪が、夜風にさらさらと揺れる。
雪はいつまでも静かに降り続き、屋根の上の三つの影を、優しく包み込んでいった。この先も貧しい暮らしは変わらないかもしれない。エラの髪が元の長さに戻るまでには何年もかかるだろうし、トマスの手元に懐中時計が戻ってくることも、もう二度とないだろう。それでも、それぞれが気づかぬまま重ねた小さな犠牲が、たった一つの奇跡へと結実したこの夜のことを、二人はきっと、これから先の人生でも幾度となく思い出すのだろう。
翌朝、目を覚ましたエラは、隣で眠るトマスの寝顔をしばらく見つめた後、そっと起き上がり、屋根裏の納戸を覗いた。艶やかな鱗を身にまとったコハクは、狭い納戸には収まりきらぬとばかりに、少し伸びをするような仕草を見せてから、大きなあくびをひとつした。窓から差し込む朝の光が、その鱗を淡く照らしている。エラは静かに笑い、階下でまだ眠るトマスを起こしに戻った。この小さな屋根裏の下で、これからも三人の、いや二人と一匹の日々が続いていくのだと、彼女は確かな温もりとともに思うのだった。