竜は星になることを拒まなかった
銀嶺の郷に生まれながら、輝く鱗を持たぬただ一匹の竜・月竜。同族から名を奪われ森へ追われた彼は、いっそ天に受け入れられたいと太陽と星々に舞い上がるが、いずこにも拒まれる。それでも羽ばたきをやめぬ彼を待つ、静かな結末。
一、灰色に生まれて
銀嶺(ぎんれい)の郷に暮らす竜たちは、誰もが陽を弾く鱗を持っていた。青銀、緋金、翠玉――光の当たり方ひとつで色を変えるその鱗こそが、竜という種の証であり誇りだった。満月の宵にはその鱗が里を覆う雲海にまで映り込み、まるで空そのものが竜の一族を祝福しているように見えると、古老たちは代々語り継いできた。子らはその話を聞くたび、いつか自分の鱗もあのように輝く日を夢見て眠りについた。
月竜(つきりゅう)にだけは、その祝福が届かなかった。
生まれ落ちたときから、彼の肌は灰色にひび割れていた。陽を弾くどころか、光を吸い込んで沈めてしまうような、鈍く乾いた灰色だった。ひびの一本一本が、乾いた川床のように体じゅうを走り、雨の日には冷たい水がその溝を伝って流れ落ちた。喉も他の竜のようには鳴らず、声を上げれば、風にひしゃげた笛のような、耳障りな音になった。母は彼を産んで間もなく病を得て世を去り、なぜ自分だけがこんな色と声を負って生まれたのか、教えてくれる者はいなかった。
「月竜」という名も、正式には彼のものではなかった。銀嶺の郷では、鱗の輝きを長老たちに認められた者だけが、一族の姓である「竜」の字を名に負うことを許される。生まれたばかりの仔がまず鱗の色を検められ、それにふさわしい名を授かるのが、この郷の慣いだった。月竜という呼び名は、亡き母が息を引き取る間際に、誰にも聞かれぬよう小さく囁いて与えたもので、郷の帳簿には、彼の欄はいまだに空白のままだった。
命名の儀の日のことを、月竜はいまでもはっきりと覚えている。生まれて間もない仔竜たちが岩座の前に並べられ、長老たちが一匹ずつその鱗を検め、名を授けていく。母に抱かれてその列に並んだとき、玄王は月竜の体をひと目見るなり、眉をひそめてかたわらの長老に何事か囁いた。結局、彼の番だけは名が読み上げられることなく、次の仔へと儀が進んでいった。幼すぎてその意味を解さなかった月竜だが、母が自分を抱く腕に、それまでより強い力がこもったことだけは、なぜか覚えていた。母はその夜、崖の窪みで眠る月竜の耳元に、そっと「月竜」という名を囁いた。それが、彼が生涯でただひとつ持つことを許された名だった。
物心ついてからというもの、月竜は郷の隅、切り立った崖の窪みに独りで棲んでいた。朝には谷を渡る霧を眺め、昼には遠くの空を渡る渡り鳥の群れを目で追い、夕には麓の森が茜に染まるのを眺めて過ごした。同じ年頃の竜たちが群れをなして高く低く飛び交い、風を切る歓声を上げる空を、彼は崖の縁からただ遠く見上げることしかできなかった。
「今日はどこまで飛べるか競おう」
そんな声が谷を渡ってくるたび、月竜は窪みの奥へと身を縮めた。競わずとも、自分がその輪に加われないことは、幼い頃からの経験で骨身に染みていた。一度だけ、まだ幼かった頃、月竜は勇気を出してその輪に近づいたことがある。だが、彼が声をかけるより早く、周りの竜たちは示し合わせたように翼を返し、彼を置いて飛び去ってしまった。それ以来、月竜は自分から誰かに近づくことをやめていた。
彼らのうちでもっとも輝かしい鱗を持つのは、鷹竜(たかりゅう)という若い竜だった。緋金の鱗は陽光の下で炎そのもののように燃え、鋭い声で鳴けば谷じゅうにその音が響き渡った。飛翔の速さも、爪の鋭さも、群れの誰より優れているとされ、若い竜たちは皆、鷹竜の言葉に耳を傾けた。鷹竜は月竜とすれ違うたびに、翼で風を切るようにして顔を背けた。
「あれの声を聞くと、耳が腐る」
鷹竜がそう言うのを、月竜は幾度となく耳にした。悪意を隠す気もない声だった。それでも月竜は何も言い返さなかった。言い返す言葉を持たなかったのではない。言い返せば、自分がここにいることそのものが咎められるのだと、幼い頃からの経験で知っていたからだった。
ただ一匹、銀花(ぎんか)という若い竜だけが、月竜に声をかけてくれた。銀花の鱗は柔らかな乳白色で、群れの中でも控えめな輝きを放っていたが、その心根はまっすぐだった。幼い頃、他の仔竜たちが月竜を囃し立てて石を投げた折、間に割って入り「やめて」と一喝したのが銀花だった。それ以来、二匹はどちらからともなく、人目を避けて言葉を交わすようになっていた。
「月竜、今日はいい風が吹いているよ。少しだけ、一緒に飛ばない?」
そう誘われるたび、月竜の胸にはかすかな温もりが灯った。だが二匹で飛べるのは、いつも他の竜たちの目が届かぬ谷の裏側だけだった。銀花もまた、郷の掟を完全には無視できない身の上だということを、月竜は知っていた。谷の裏側で並んで飛ぶとき、月竜はいつも、この時間が終わらなければいいと願いながら、同時に、この温もりに慣れてしまえば、また独りに戻ったときの寂しさが増すだけだとも思っていた。
その年の初め、郷にひとつの噂が広まっていた。近年、麓の村で家畜が何頭も食い荒らされる事件が続き、村人たちが銀嶺の竜たちを疑い始めているという。長老たちはこれを重く見て、「血の穢れを持つ者、鱗の乱れた者は、郷の名誉を損なう恐れあり」として、里の規律をこれまで以上に厳しく正す方針を固めつつあった。噂が広まるにつれ、郷を歩く竜たちの視線には、これまで以上の刺々しさが混じるようになった。
月竜はその噂を、崖の窪みでひとり聞いた。自分がその「血の穢れ」に数えられるであろうことは、考えるまでもなく明らかだった。夜、彼は谷の下、森の際まで降りていった。生きるためには、兎や山羊を狩らねばならない。牙を立てるたび、小さな命が己の腹に消えていく重みを、月竜は誰よりも強く感じていた。輝く鱗を持つ竜たちは、その罪をまるで感じていないかのように、涼しい顔で獲物を屠り、宴の席では誇らしげに獲物の大きさを競い合った。だが月竜には、自分が生きているという事実そのものが、他の命を奪うことでしか成り立たない、償いようのない罪のように思えてならなかった。
その夜も、月竜は森の際で一羽の山鳥を仕留めた。温かな血の匂いが鼻先に満ち、命の重みが手のひらに残る。彼は目を閉じ、しばらくその場を動けなかった。
「すまない」いつものように、彼は小さく呟いた。「僕が生きるために、お前の命が要る。それがどうしようもなく、苦しい」
崖の窪みに戻り、彼は月を見上げた。冷たく静かなその光が、輝く鱗の竜にも、灰色の竜にも、分け隔てなく等しく降り注いでいることだけが、かろうじての慰めだった。この光の下でだけは、自分もまた同じ空の下に生きる一匹の生き物なのだと、月竜は思うことができた。
二、掟の宣告
満月の宵、郷の広場に一族すべての竜が集められた。長老たちが並ぶ岩座の下、若い竜も老いた竜も、鱗を輝かせながら整列する。月竜もまた、末席のさらに外れに身を縮めて座した。集まった竜たちの視線は、ちらちらと月竜のほうへ向けられ、その都度、小さなざわめきが波のように広がった。
長老のひとり、玄王(げんおう)が重々しく口を開いた。その声は年老いてなお太く、広場の隅々にまで響き渡った。
「近頃、麓の村々より竜への疑いの声が絶えぬ。家畜が食い荒らされ、村人らは我らを恐れ、恨むようになりつつある。銀嶺の名誉を守るため、われらは里の掟をあらためて正す。鱗の輝きを持たぬ者、一族の名を汚す恐れある者は、この郷を離れ、麓の森にて獣として生きよ」
言葉が終わるより早く、鷹竜が翼を打ち鳴らして進み出た。その緋金の鱗が、松明の灯りを受けて赤々と燃えるように見えた。
「玄王様、それがしから申し上げたきことがございます」
鷹竜は月竜を見据えた。その視線には、隠しきれぬ嫌悪と、勝ち誇るような色が混じっていた。
「あれは灰色の肌に、耳障りな声。竜の名を負うにふさわしからぬ者にございます。しかも夜な夜な麓に降り、小さき獣を屠っておるとの噂もある。あれこそが、村々の疑いを招く元凶ではありませんか。あれがこの郷にいる限り、我ら一族すべての誇りが汚されると申しても過言ではございますまい」
広場にざわめきが広がった。誰もが月竜のほうを見た。その視線の重さに、月竜は身がすくむのを感じた。ここで何かを言わねばと思う一方で、喉の奥がひりつくばかりで、言葉のひとつも出てこなかった。
「月竜と申したか」玄王が低く言った。「お前には、正式な名がない。ならば、竜の字を負うことも許されぬ。今日この時をもって、お前を郷より追う。以後、竜と名乗ることまかりならぬ」
「では、何と名乗ればよいのでしょうか」
かろうじて絞り出した月竜の声は、いつもよりさらに掠れていた。鷹竜が鼻先で笑った。
「地を這うことしかできぬのなら、土竜(もぐら)とでも名乗るがいい。それがお前にはふさわしかろう」
その場に、押し殺した笑いが波のように広がった。若い竜たちの中には、あからさまに肩を揺らして笑う者もいた。月竜は何も言えなかった。灰色の肌が、これほどまでに重く自分にのしかかってくるのを感じたことはなかった。まるで自分の存在そのものが、この場にいる誰にとっても目障りな染みであるかのようだった。
その輪の中で、銀花だけが動かずにいた。彼女は唇を固く結び、拳を握りしめていたが、玄王の裁定に異を唱える言葉を、どうしても口にすることができなかった。長老の宣告に逆らうことは、郷そのものへの反逆を意味する。銀花にもまた、守るべき家族があった。
集会が解かれ、竜たちが三々五々に散っていく中、月竜は独り崖の窪みへと戻った。その夜遅く、そこを訪れたのは銀花だった。
「月竜、こんなことがあっていいはずない。私が長老様たちに掛け合ってみる」
「よしてくれ、銀花」月竜は静かに首を振った。「お前まで疎まれる」
「でも――」
「僕にはわかっているんだ」月竜は、月明かりに照らされた自分の灰色の腕を見つめた。「僕がこの郷にいる限り、僕は誰かの目障りであり続ける。それは僕の声のせいでも、鱗の色のせいでもない。ただ、僕がここにいるということ、それ自体が、皆にとっての瑕(きず)なんだ。今夜のことで、それがはっきりした」
銀花は何かを言おうとして、けれど言葉にならず、ただ月竜の隣にそっと寄り添った。二匹はしばらく、何も言わずに月を見上げていた。谷を渡る風だけが、二匹の間を静かに通り過ぎていった。
「ひとつだけ、聞いてほしいことがある」月竜は静かに言った。「僕は、生きるために小さな命を屠ってきた。兎や山鳥の温もりが、僕の牙から消えていくたび、僕はずっと考えていた。僕がこうして生きていること自体が、誰かを傷つけることでしか成り立たないのなら――いっそ、誰も傷つけずに済む場所へ行きたいと。今夜、鷹竜の言葉を聞きながら、僕はまた同じことを思っていた。僕はこの郷でも、麓の森でも、結局は誰かを傷つけながら生き延びるしかないのだと」
「そんな場所が、どこにあるというの」
「わからない」月竜は空を見上げた。「でも、あの遠い光の中になら、あるかもしれない」
銀花は月竜の翼の付け根、薄い膜にそっと触れた。「森へ行くなら、私も時々会いに行く。約束する。誰にも見つからないように、必ず」
その言葉は、月竜の胸に確かな温もりを残した。だが同時に、彼はその約束に素直に頷くことができなかった。銀花がこれから先も、彼のために自分の立場を危うくし続けることを思うと、胸が締めつけられるようだった。彼女にまで自分の影を負わせたくない――その思いが、月竜の中で日増しに強くなっていた。
「銀花」月竜はやがて口を開いた。「もし僕がいなくなったとしても、悲しまないでほしい。僕はただ、自分の居場所を探しに行くだけなんだ」
「いなくなるって、どういうこと」銀花の声に、はっきりとした不安がにじんだ。
月竜はそれに答えず、ただ穏やかに微笑んだ。彼自身、その言葉が何を意味するのか、まだ明確な形を持っていなかった。ただ、胸の奥に、これまでとは違う何かが芽生え始めていることだけは、確かに感じていた。
夜明け前、月竜は崖の窪みを離れた。誰にも告げず、郷を見下ろす稜線まで飛び、そこから一度だけ振り返った。銀嶺の郷は、朝靄の中に眠るように静まり返っていた。彼はもう一度、深く息を吸い込むと、翼を大きく広げ、麓の森とは反対の方角――天そのものへと、体を向けた。
三、天を乞う
太陽が稜線から顔を出した瞬間、月竜は渾身の力で翼を打った。灰色の翼は他の竜のように優美ではなかったが、その羽ばたきには、それまで彼が誰にも見せたことのない激しさが宿っていた。
高く、さらに高く。雲を突き抜け、大気が薄く冷たくなる高みまで、月竜はひたすらに昇り続けた。眼下に銀嶺の郷が、豆粒よりも小さく霞んでいく。谷も森も、麓の村々でさえも、やがて一枚の絵のように平らに見えるようになった。
「お日様」月竜は、光の中心に向かって叫んだ。「僕を、あなたの仲間にしてはくださいませんか。この身が焼け尽きようとも構いません。僕には、地上に居場所がないのです。輝く鱗を持たぬ僕でも、あなたのおそばでなら、誰かを傷つけずにいられる気がするのです」
太陽は答えなかった。ただ、容赦のない熱と光だけが、月竜の灰色の肌を容赦なく灼いた。翼の先が焦げ、鱗の隙間から煙が立ち上る。それでも太陽は何も語らず、月竜はやがて、自らの体がこれ以上その熱に耐えられぬことを悟り、力なく高度を落とした。
日が沈み、夜の帳が下りると、月竜は再び天を目指した。今度は、東の空に瞬く蒼銀(そうぎん)の星に向かって。
「蒼銀の星よ、僕をあなたのそばに置いてはくださいませんか。何もいりません。ただ、静かにそこにいさせてくださるだけでいいのです」
蒼銀の星は、冷たく凛とした声で答えた。
「お前のような熱い息をした者が、この静寂の中に紛れ込めば、幾千年と守られてきた秩序が乱れる。去れ」
月竜は力なく翼をたたみ、次の星へと向かった。双牙(そうが)の星座を成す二つの星は、彼が声をかけるより早く、互いの光を強めて彼を遠ざけた。
「我らは対にして完全なるもの。お前が割り込む隙間などない」
さらに南の空低く、淡い光を放つ孤影(こえい)の星に、月竜は最後の望みをかけた。その星は他の星々より小さく、独りぼつんと瞬いていたからだった。
「あなたも、独りなのですね」月竜は震える声で問うた。「僕を、あなたの隣に置いてはくれませんか」
孤影の星は、しばらく黙っていた。月竜は、もしやという淡い期待を抱いた。だがやがて、星は静かに、しかしはっきりと告げた。
「私は独りだからこそ、この位置で完結している。お前が隣に来れば、私はもう独りではなくなる。それは、お前が思うような優しさではない」
冴え冴えとした遠い光の群れは、そのどれもが、灰色の竜を迎え入れる隙間を持たなかった。
それでも月竜は諦めなかった。北の空にひときわ大きく横たわる、群青(ぐんじょう)の帯のような星の連なりに向かって、最後の力を振り絞った。
「あなたがたは、あれほど多くの光が集まっているのに、まだ一つ増えたところで何も変わらないのではありませんか。どうか、僕をその端にでも加えてはくれませんか」
群青の星々は、ざわめくように瞬いた末、ひとつの声となって答えた。
「我らの連なりは、幾万年をかけて織り上げられた模様だ。お前の熱は、その模様をひと目で歪めてしまう。お前がどれほど小さくとも、異物は異物だ」
夜を徹して天を彷徨った月竜は、ついに力尽き、麓のとある山の岩肌に体を落とした。傷ついた翼を折り畳み、荒い息を吐きながら、彼は自分の来し方を振り返った。郷では鱗の色を、天では体温と重さを、どこへ行っても拒まれた。彼はもう、自分がどこにも属せない存在なのだと、痛いほど理解していた。けれど不思議と、絶望だけが胸を占めているわけではなかった。むしろ、拒まれるたびに何かがひとつずつ剥がれ落ち、最後に残る芯のようなものが、確かに感じられるようになっていた。
そのとき、岩陰から小さな鳴き声が聞こえた。傷ついた子兎が一羽、月竜の落下の衝撃で巣を潰され、うずくまっていた。月竜はその小さな体を見つめた。かつてなら、それは彼の糧になるはずの命だった。だが今の月竜には、もう牙を立てる気力も、その資格もないように思われた。
「すまない」月竜は、ひび割れた声でそっと囁いた。「僕は、お前のような小さな命を、これまでどれだけ奪ってきたかわからない。せめて、これからは――」
言いかけて、月竜は自分の考えの向かう先にはたと気づいた。もし自分が、これから先も生き続けるならば、また同じように、誰かの命を奪い続けねばならない。郷にも天にも居場所を持たぬまま、それでも生きるということは、罪を重ね続けるということに他ならなかった。彼は震える前脚で、子兎をそっと巣の名残の窪みへと戻し、柔らかな下草をその上に被せてやった。
月竜は、最後にもう一度だけ天を仰いだ。雲間から覗く星々は、相変わらず冷ややかに、しかし美しく瞬いていた。
「拒まれても構わない」月竜は呟いた。「ただ、もう一度だけ、僕はあの光に近づいてみたい。誰かを傷つけることのない場所があるとすれば、それはきっと、あの向こうだ。銀花――お前にはすまないことをする。でも、これが僕の見つけた、たったひとつの道なんだ」
傷ついた翼に鞭打ち、月竜は最後の力で舞い上がった。今度は、どの星に向かうでもなく、ただひたすらに、天の最も高いところへ。体のあちこちが焼け、鱗が音を立てて剥がれ落ちていくのを、月竜は不思議なほど静かな心で感じていた。上昇するほどに息は苦しくなり、視界は白くかすんでいったが、彼の胸のうちには、これまで感じたことのない静けさが広がっていった。
四、灯となりて
その夜、銀嶺の郷では、幾人かの竜たちが夜空に異変を感じ取っていた。それまでどの図にも記されていなかった場所に、小さな、青白い光がひとつ、灯っていたのである。
銀花は崖の窪みに月竜の姿がないことに気づき、いても立ってもいられずに空へ舞い上がった。谷という谷、森という森を、声も嗄れるほど呼びながら探し回ったが、どこにも月竜の姿はなかった。疲れ果て、涙も涸れ果てた頃、彼女はふと夜空を仰いだ。そうして、その新しい光を見つけたとき、彼女はなぜか、それが月竜であることを疑わなかった。
光は、他の星々のような荘厳な輝きを持たなかった。むしろ控えめで、瞬くたびにわずかに揺らぐ、頼りなさの残る光だった。けれどその光は、誰に遠慮することもなく、誰からも脅かされることもなく、ただそこに在り続けていた。灰色だった肌も、ひび割れた喉も、もうそこにはない。ただ静かな、青白い光だけが、夜空の片隅にひっそりと灯っていた。
銀花は郷に戻り、その夜見たものを誰にともなく語った。最初は誰も取り合わなかったが、幾晩か経つうちに、崖の上から、あるいは谷の縁から、その小さな光に気づく竜が少しずつ増えていった。鷹竜でさえ、ある夜ふと空を見上げ、その光の位置でしばらく足を止めたという。彼が何を思ったのかは、誰にも語られなかった。ただ、それ以来、鷹竜が郷の若い竜たちの前で誰かを声高に嘲ることは、めっきり少なくなったと、後になって古老たちが語り草にした。
長老たちの帳簿に、月竜という名が記されることは、ついになかった。けれど銀花は、その後も晴れた夜には必ず崖の窪みに上り、かの青白い光に向かって静かに翼を広げた。声をかけることはなかった。ただ、光がそこにあることを確かめるだけで、それで十分だというように。時には、若い仔竜たちが銀花のそばに寄ってきて、あの光は何かと尋ねることもあった。そんなとき、銀花はただ静かに答えた。
「あれはね、誰も傷つけずに生きたいと願った、優しい竜の光よ」
仔竜たちはその光を見上げ、いつしか誰からともなく、その星を「灰の灯(はいのともしび)」と呼ぶようになった。郷にも、天の高みにも、月竜の居場所はなかった。だが誰も奪うことのできない、彼だけの小さな灯が、確かにそこにあった。今も銀嶺の空の片隅で、その光は誰を傷つけることもなく、誰にも脅かされることもなく、ただ静かに瞬き続けている。