物語雳
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·読了目安 13分脇役

竜は一度も退屈しなかった

静養のため川を遡る舟旅に出た三人の病み上がり気取りの友人たちは、犬の代わりに川辺で拾った皮肉屋の老竜「灰」を連れていく。缶詰との死闘、迷路での迷走、嵐の夜――灰は最後まで手を貸さず論評に徹するが、旅の終わりに漏らした本音が、この道連れの正体を静かに明かす。

一 三人の病人と、川辺の灰色

自分がどれほど重い病を抱えているか、私ほど詳しい人間はこの町にいないだろうと、当時の私は本気で信じていた。医学書を読めば読むほど、そこに載っているあらゆる症状が、多かれ少なかれ自分の身体のどこかに巣くっているように思えてくるのだから、始末が悪い。指の先がわずかに痺れれば神経の病を疑い、階段を上って息が切れれば心の臓の異変を疑った。友人のハリスも、もう一人の友人のジョージも、似たようなものだった。三人で顔を合わせるたびに、話題はきまって互いの不調自慢に終始し、誰の症状がより深刻かを競うだけの、実に不毛な午後を幾度も過ごしたものである。

その日も、私たちは三人でハリスの部屋に集まり、めいめいの病状を並べ立てた挙句、ついに「これはもう、都会の空気そのものが我々の敵なのだ」という結論に達した。ならば、しばらく都会を離れ、川を遡る舟旅にでも出て、静養に専念しようではないか――そういう話になるまでに、大した時間はかからなかった。三人とも、実際のところ働き過ぎというよりは、怠け癖の言い訳を探していただけだったのかもしれないが、そのことに気づく者は、少なくともあの部屋には一人もいなかった。

ハリスは何かにつけて自分の判断力に自信を持ちすぎるきらいがあり、地図も読まずに道を決めては、決まって遠回りをする男だった。ジョージは銀行勤めの生真面目さを絵に描いたような性格でありながら、いざ計画を立てる段になると、なぜか誰よりも大雑把になった。そして私はといえば、二人のそうした欠点を誰より的確に見抜きながら、自分自身の似たような欠点にはついぞ気づかぬ質だった。三人が三人とも、互いの粗を数え上げることには熱心で、それが結局のところ、私たちの間の変わらぬ結びつきでもあった。

出発を決めたその晩、私は下宿への帰り道、妙に胸騒ぎのようなものを覚えて足を止めた。理由らしい理由もなく、ただ何か、これまでの平坦な日々の続きとは違う何かが、この舟旅を境に始まろうとしている――そんな根拠のない予感が、夜風とともに首筋を撫でて通り過ぎていった。もっとも、そのときの私は、それを単なる寝不足のせいだと片付けて、さっさと床に就いてしまったのだが。

出発の朝、私たちは河岸の船宿に集まり、借りた舟に山のような荷物を積み込む作業に取り掛かった。テントに毛布、火にかける鍋、着替え、そして三人分の万一に備えた薬瓶の数々――荷はどれも「念のため」という言葉のもとに際限なく膨れ上がり、船宿の主人がいくらか呆れた顔でそれを眺めていたのを、私はよく覚えている。

早朝の川は、まだ人通りもまばらで、水面には薄い朝靄が漂っていた。対岸に並ぶ柳の梢が朝日を透かして淡い金色に縁取られ、時折、跳ねる魚の水音だけが静けさを破っていく。こうして眺めれば、なるほど確かに療養にふさわしい、のどかな眺めだった。

積み荷の合間に一息ついて顔を上げると、船着場の古びた石段に、見慣れない生き物が寝そべっているのに気がついた。灰色がかった鱗を持つ、痩せぎすの老いた竜だった。翼は片方の先がわずかに欠け、長い首には歳月の皺が幾重にも刻まれていて、日向ぼっこでもするように、退屈しきった目でこちらの荷造りを眺めている。

「ずいぶん熱心なことだな」

竜が最初に発した言葉は、そんな一言だった。誰に向けたわけでもない、独り言のような、それでいて確かにこちらを標的にした皮肉だった。ハリスが気色ばんで振り返ると、竜は面倒くさそうに片目だけを開けて続けた。

「その鍋は要らんぞ。おまえたちの誰一人、まともに火を熾せる顔をしていない。案の定、途中で放り出すことになる」

腹立たしいことに、竜の言うことは大抵当たっていた。実際、その鍋は旅の三日目には見向きもされなくなる運命にあったのだが、それはまだ先の話である。当時の私たちは、ただその物言いの無礼さにむっとしただけだった。

本来ならば、こういう旅には忠実な犬の一匹でも連れていくのが常道である。だが、あいにく我々の誰も犬を飼っておらず、代わりにこの老いた、口の悪い竜が、なぜか舟に乗り込むことを勝手に決めてしまった。「どうせ暇だ」というのが、竜の語ったほとんど唯一の動機だった。断る理由も特に見当たらず、私たちは半ば呆れながら、この不愛想な同行者を受け入れることになった。

舟が岸を離れる瞬間、竜は舳先に寝そべりながら、ぼそりと呟いた。

「せいぜい見物させてもらうとしよう。おまえたちのような手合いが、無事に一週間持つものかどうかをな」

その声に含まれていた微かな期待めいた響きに、私たちの誰一人、そのときは気づいていなかった。

二 缶詰との死闘、竜の寸評

舟旅の一日目は、拍子抜けするほど平穏に過ぎた。川面は穏やかで、両岸には柳が枝を垂らし、水鳥が時折羽音を立てて飛び立つほかは、これといった出来事もなく夕刻を迎えた。私たちは川辺の草地に幕営し、意気揚々と夕餉の支度に取り掛かった。

騒動が始まったのは、その夕餉の最中だった。持参した缶詰の桃を開けようとして、私たちは思わぬ苦戦を強いられることになったのである。肝心の缶切りが、荷造りの混乱のどこかで積み忘れられていたのだ。ハリスが小刀の先を突き立てて挑み、刃を折った。ジョージが石で叩いて開けようとし、缶はひしゃげただけでますます頑なになった。私が斧の背で殴りつけると、缶は地面を転がり、危うく焚き火の中に飛び込みかけた。

その一部始終を、竜は焚き火の向こうから、腹立たしいほど涼しい顔で眺めていた。

「見ものだな」竜は尻尾の先で拍子を取りながら言った。「文明を誇る人間が三人がかりで、缶詰一つに敗北する図というのは、そうそう拝めるものではない」

「手を貸す気はないのか」ハリスが息を切らしながら怒鳴った。

「あるわけがなかろう」竜はあくびまじりに答えた。「私はただの見物人だ。舟に乗ることは承知したが、給仕役を引き受けた覚えはない。それに――」

竜はそこで初めて、億劫そうに首をもたげ、缶を一瞥した。

「その持ち方では、いつまで経っても刃が滑るだけだ。そちらの角を下にして、体重を乗せるように叩けばいい。まあ、教えてやる義理もないがな」

言うだけ言って、竜はまた興味を失ったように目を閉じてしまった。腹立たしいことに、その通りにやり直すと、缶はあっけないほど呆気なく開いた。私たちは無言のまま、汗まみれの顔を見合わせた。手伝う気などかけらもないと嘯きながら、竜は結局のところ、いつも正確な観察だけは惜しみなく寄越してくるのだった。

その晩以降、私たちは竜のことを漠然と「灰(はい)」と呼ぶようになった。灰色の鱗にちなんだ、他愛のない渾名だったが、竜自身はそれを咎めるでもなく、面白がるでもなく、ただ黙って受け入れていた。

翌朝の失態は、朝餉の支度から始まった。ジョージが張り切って粥を炊こうとしたのだが、鍋を火にかけたまま話に夢中になり、気づいたときには鍋底が真っ黒に焦げついていた。慌てて水を差した拍子に湯気が盛大に噴き上がり、ハリスの顔にかかって、彼はしばらく涙目で咳き込む羽目になった。灰は少し離れた岩の上からその一部始終を眺め、実に満足そうに尾を揺らしていた。

「火加減も見ずに話に興じるとは、大した度胸だ」灰は言った。「もっとも、その黒焦げの粥を平然と口に運ぶ度胸には及ばんがな」

「では、灰はどうやって粥を炊くというのだ」ジョージがむきになって尋ねると、灰は片方の眉、というより鱗の隆起をわずかに動かしただけだった。

「炊いたことなど一度もない。何しろ、竜は生の羊を丸のみにする方が性に合っている」

その返答に三人揃って毒気を抜かれ、結局は焦げた粥を我慢して腹に収めることになった。焚き火の脇で交わされるこうした他愛のないやり取りが、いつしか舟旅の中で欠かせない一幕になりつつあることに、私はまだ半分も気づいていなかった。

舟旅が進むにつれ、私たちの失態は尽きることがなかった。テントの支柱を立て違えて夜中に潰されたときも、川霧の中で炊事の火を消し忘れて焦がした毛布を弁償する羽目になったときも、灰は決まって離れた場所から一部始終を見物し、辛辣な寸評を垂れるばかりで、指一本貸そうとはしなかった。

けれど、奇妙なことに、その寸評はいつも的を射ていた。ジョージが古い橋脚の場所を勘違いして舟を座礁させかけたときも、灰は「その水路は三十年前から浅くなっている」と、まるで見てきたかのように言い当てた。ハリスが夜半に持病の癪を訴えて青ざめたときも、灰は「今夜は冷えすぎている、火のそばに寝床を移せ」とだけ言って、あとは知らぬ顔をしていた。手を貸しはしない。だが、見ていないようでいて、灰は誰よりも私たちのことをよく見ていた。そのことに、私はこの頃からうっすらと気づき始めていた。

三 生垣の迷路と、見えない道案内

三日目の昼、川沿いのとある古い屋敷の庭に、見事な生垣の迷路があるという評判を聞きつけ、私たちは舟を係留して見物に出かけることにした。ジョージなどは「迷路くらい、地図を見ずとも造作もない」と豪語し、他の見物客が入り口で躊躇っているのを尻目に、意気揚々と先頭を切って生垣の間に踏み込んでいった。

灰は入場を拒まれた。当然といえば当然で、丈の高い生垣の迷路に竜の巨躯が入り込めるはずもなく、灰は迷路の外の芝生に寝そべり、退屈そうに尾で地面を叩きながら私たちを見送った。

「昼までには戻ってこよう」ジョージは自信満々に宣言した。「なに、単純な作りに決まっている」

その予言は、見事に外れた。私たちは緑の壁に囲まれた同じ角を、少なくとも四度は通り過ぎる羽目になった。左に行けば行き止まり、右に行けばまた同じ分かれ道に戻ってくる。日は次第に高くなり、額の汗を拭う回数だけが増えていった。途中、同じように迷い込んだ他の見物客の一団とすれ違い、互いに「近道はご存知ですか」と尋ね合っては、揃って肩を落とすということも一度ならずあった。

迷路の中で三度目に同じ角へ戻ってきたとき、ジョージはとうとう地図を諦め、生垣に背をもたせかけて座り込んでしまった。「もう認めよう。この迷路は、私の手には負えないものらしい」と力なく呟く様は、出発前の自信満々な姿とはまるで別人だった。ハリスも喉の渇きを訴え始め、三人の間に、いよいよ本格的な焦りが広がりつつあった。

ふと生垣の隙間から外を覗くと、遠くの芝生に寝そべった灰の姿が見えた。竜は退屈しのぎに尾の先で小さな輪を描きながら、こちらの右往左往を眺めている。

「灰、道を知っているなら教えてくれ」

私が生垣越しに叫ぶと、灰はゆっくりと首をもたげ、面倒くさそうにこちらを一瞥した。

「知っているとも。この庭の生垣は、私がまだ若かった頃からある。だが、教えてやる義理はない。おまえたちが自分の足で迷う様というのは、なかなかに見応えがあるのでな」

「意地の悪いことを言うものだ」ハリスが呻いた。

「意地悪ではない」灰は平然と答えた。「ただの正直だ。もっとも――」

灰はそこで、思い出したように付け加えた。

「そちらの角で二度目に左を選んだのが、そもそもの間違いだった。三度目の分かれ道までは正しかったのだがな」

驚いたことに、灰は私たちが迷路の中でどちらへ折れ、どこで引き返したかを、一つ残らず正確に言い当てた。まるで生垣の外にいながら、迷路の中の私たちの足取りを、頭の中の地図でそのまま辿っているかのようだった。結局、灰は最後まで道順そのものは教えてくれなかったが、間違いを一つひとつ丁寧に指摘してくれたことで、私たちは日が傾く前になんとか出口へとたどり着くことができた。

芝生に転がり出た私たちを迎えたのは、労いの言葉ではなく、灰の乾いた笑い声だった。

「見物代としては、悪くない一日だった」

腹立たしさに変わりはなかったが、この頃になると、私はその皮肉の奥に、何か違う響きを聞き取るようになっていた。灰は私たちの失敗を笑いながらも、その一つひとつを、驚くほど克明に記憶していた。まるで、退屈しのぎ以上の何かを、この旅そのものに見出しているかのように。

四 嵐の夜、届かなかった手

旅も終わりに近づいた五日目、その日の夕方までは、日暮れの茜色が川面に美しく映え、渡り鳥の群れが対岸の梢に次々と舞い降りる、実に穏やかな眺めだったのを覚えている。灰でさえ、珍しく寛いだ様子で舟縁に寝そべり、遠くの入道雲を眺めながら「明日は上天気だろう」などと呟いていたほどだった。その言葉が、まさかこれほど手ひどく裏切られることになろうとは、誰も思っていなかった。

日が沈みきる頃、空模様が急に怪しくなった。穏やかだった川面に、生ぬるい風が渦を巻くように吹き始め、対岸の木々がざわざわと不穏な音を立てた。私たちは慌てて舟を岸に寄せ、ありあわせの綱で係留し直したが、その作業を終えるか終えないかのうちに、叩きつけるような雨と共に嵐が川筋全体を覆ってしまった。

稲光が走るたび、増水した川面が白く泡立つのが見えた。舟は綱の許す限りで暴れるように上下し、積んでいた荷の一部が波にさらわれていく。ハリスが悲鳴じみた声を上げたのは、大事な食糧袋を追って川縁まで駆け出し、足を滑らせて濁流の際どいところまで滑り落ちたときだった。

「灰、頼む、力を貸してくれ!」

私は暗闇に向かって叫んだ。土砂降りの向こうに、灰の双眸が炉の残り火のように鈍く光っているのが見えた。竜はしかし、岸辺の高いところに悠然と立ったまま、身じろぎ一つしなかった。

「そこの根を掴め」灰の声が、雨音を切り裂いて響いた。「右だ、もっと右。そのまま体を岸に引き寄せろ、流れに逆らうな、流れに沿って泳げ」

「助けてくれと言っているんだ!」

「聞こえている」灰は少しも動じずに言った。「だが、私が水に入ったところで、この暴れ川では大した役には立たん。おまえの手足の方が、よほど頼りになる」

ハリスは震える指先で木の根をつかみ、灰の指示通りに流れに逆らわず体を岸へと寄せ、辛うじて水際まで這い上がった。命に別状はなかったものの、ずぶ濡れで震えるハリスを介抱しながら、私の中には安堵よりも先に、灰への激しい怒りが込み上げてきた。

「なぜ動かなかった」嵐が過ぎ去った翌朝、私は野営の焚き火の前で灰に詰め寄った。「あの状況で、お前は指一本貸そうとしなかった。声をかけるだけなら、誰にでもできる」

灰はしばらく黙って、燃える火を見つめていた。

「なぜ、と聞かれても困る。私は初めから、そういう約束でこの舟に乗ったはずだが」灰の声は、いつもより低く、硬かった。「手を貸すつもりなら、初めからそう言っている」

「それでも――」ジョージが割って入った。「昨夜のような時くらい、力になってくれてもよかったはずだ」

「力になる、というのがどういうことか、おまえたちは分かっていない」灰は初めてわずかに声を荒げた。「私が川に飛び込んでいれば、おまえたちはますます自分の足で立つことを忘れただろう。私はただ、おまえたちが自分の力で岸まで戻る道を、口先だけで示してやったに過ぎん。それすら余計なお世話だったというなら、次からは黙っていよう」

そう言うと、灰はそれきり口をつぐみ、翼を広げて川上の岩場へと飛び去ってしまった。取り残された私たちは、気まずい沈黙の中で荷を片付け、その日は誰一人、灰の話題を口にすることができなかった。旅の終わりが近づいているというのに、これまでで一番重い空気が、三人と一頭の間に垂れ込めていた。

その夜、灰は焚き火の輪に戻ってこなかった。いつもそこにあったはずの灰色の影がないというだけで、野営地は妙に寒々しく感じられた。ハリスは何度か「言い過ぎたかもしれない」と呟いたが、誰もそれに相槌を打つ気力を持てないまま、私たちは早々に眠りについた。翌朝、川上の岩場の方角に、朝靄を透かして灰色の影が佇んでいるのが遠目に見えたが、誰からともなく声をかけることはせず、私たちは黙って舟を漕ぎ出した。

五 誰も、退屈させなかった

旅の最終日、私たちは川を下って出発の船宿へと戻ってきた。灰は嵐の翌日から、口数こそ元に戻ったものの、どこか一定の距離を保ったまま、舟の少し後ろを飛んでついてくるだけだった。私たちも、あの朝の険しいやり取りをどう収めればいいのか分からず、当たり障りのない話ばかりを交わして、気まずさをやり過ごしていた。

船宿の桟橋に舟を繋ぎ、最後の荷を降ろし終えた頃には、日はすっかり傾いていた。ハリスとジョージが荷車の手配に行っている間、私は一人、桟橋の端に腰を下ろした灰の隣に、なんとなく腰を下ろした。

「この旅は、これで終わりだな」

灰は返事をしなかった。ただ、川面に映る夕焼けを、いつもと変わらぬ倦んだ目つきで眺めているだけだった。

「なあ、灰」私は思い切って口を開いた。「正直に聞くが――お前は、退屈だったんじゃないか。缶詰一つ開けるのに七転八倒する連中を眺めて、迷路の外で暇を持て余して、嵐の夜には呼ばれても動きもしない。手を貸す気もない旅に、そもそも付き合う理由などなかったはずだ」

遠くで船宿の呼び子が鳴り、荷車の車輪の音が近づいてくるのが聞こえた。答えを急かすつもりはなかったが、私はそのまま黙って、灰の横顔を見つめ続けた。灰は長い沈黙のあとで、ようやく低く口を開いた。

「たしかに、手を貸す気は初めからなかった」

「だろうな」

「だが」灰は珍しく、こちらを見ずに続けた。「退屈したことは、一度もなかった」

夕陽を映した川面の光が、灰の灰色の鱗にも、淡く橙色を落としていた。竜はそれきり、それ以上の言葉を継ぐ気はないようだった。ただ、その一言の中に、これまでの旅程――缶詰との死闘も、迷路の右往左往も、嵐の夜の怒鳴り合いも、すべてを見届けてきた者だけが持つ、静かな満足のようなものが確かに滲んでいるのを、私は感じ取った。手を貸さなかったことを詫びる気配は、微塵もなかった。だが、見物し続けることそのものを、灰は誰よりも心から楽しんでいたのだ。

やがてハリスとジョージが荷車を引いて戻ってくると、灰はいつもの皮肉げな調子を取り戻し、「その荷の積み方では、また途中でひっくり返すぞ」と憎まれ口を叩いた。ハリスが気色ばみ、ジョージが苦笑し、三人と一頭のやり取りは、何事もなかったかのように元の調子へと戻っていった。

「次に舟を出すときは」ハリスが荷車を押しながら、わざとらしい仏頂面で言った。「せめて缶切りくらいは、お前が咥えて持ってきてくれてもいいだろう」

「馬鹿を言うな」灰は鼻先で笑い飛ばした。「見物人が道具を運ぶという話は、どこの物語にも聞いたことがない」

そのやり取りに、ジョージまでもが声を上げて笑い出し、桟橋にはひとしきり、気の抜けたような笑い声が響いた。険悪だった空気は、いつの間にか跡形もなく消えていた。

町へ戻る道すがら、私は一度だけ振り返り、桟橋に佇む灰色の姿を見た。竜はもう、こちらを見てはいなかった。ただ暮れなずむ川面を眺めながら、次にどんな退屈しのぎが舞い込んでくるのかを、静かに待っているだけのようだった。私たちの、あの気まぐれで不毛な舟旅は、こうして幕を閉じた。だが手を貸すことも、労うことも一切ないまま最後まで見物に徹したこの老いた竜のことを、私はこの先も、折に触れて思い出すことになるのだろうと思った。

あとがき

ジェローム・K・ジェローム『ボートの三人男(Three Men in a Boat, To Say Nothing of the Dog)』は、心気症気味の三人の友人と犬モンモランシーが、テムズ川を舟で遡る珍道中を、飄々とした自嘲的なユーモアで綴った紀行風コメディの古典である。荷造りの大混乱、缶詰との悪戦苦闘、迷路での迷走といった原作の名場面を借りつつ、本作では同行者を犬から一頭の老いた竜に置き換え、「手を貸さず、ただ辛辣な論評だけを浴びせ続ける観察者」という役どころを新たに与えた。

原作の犬モンモランシーが、時に騒動の種となりながらも一行に寄り添う存在であったのに対し、本作の竜は最後まで一度も手を貸さず、危機の場面でさえ言葉による指摘に徹する。この不干渉の徹底を、単なる意地悪さで終わらせず、旅の終わりに「退屈したことは一度もなかった」という一言に集約させることで、原作の持つ飄々とした自嘲的ユーモアを、竜という異形の傍観者の口から改めて語らせることを試みた。手を貸さない毒舌の同行者が、実は誰よりもこの旅を面白がっていたという構図に、ひとつの一話完結コメディとしての余韻を込めたつもりである。


本作はジェローム・K・ジェローム『ボートの三人男(Three Men in a Boat, To Say Nothing of the Dog)』を参考にした翻案作品です。

本作はジェローム・K・ジェローム(Jerome K. Jerome)の『ボートの三人男(Three Men in a Boat, To Say Nothing of the Dog)』を参考にした作品です。原典