竜は挑む者を嗤わなかった
柵の中の穏やかな暮らしに飽いた仔山羊ブランケットは、灰色岩山の頂を目指して駆け上がる。迎えるのは、迷い込んだ者を掟のままに喰らう古竜。一夜の死闘の果てに竜が示したのは、嘲りでも憐れみでもない、対等な挑戦者への静かな敬意だった。
一 灰色岩山の掟
オーバンヌ村は、灰色岩山と呼ばれる切り立った山塊の裾野にひらけた、羊と山羊を飼う者たちの村だった。山の稜線は年がら年中霧に霞み、頂に近づくほど木々はまばらになり、やがて剥き出しの岩肌だけが空へと突き上げていく。晴れた日にはその頂が金色に光ることさえあったが、村の子どもたちは物心つく前から、あの山には決して近づいてはならないと教えられて育つ。
理由を問えば、老いた者たちは決まって同じ話をした。灰色岩山には太古から一頭の竜が棲みついており、迷い込んだ生き物を余さず喰らうのだと。名も知れぬその竜は、山を統べる「主」として、麓の暮らしにはいっさい手出しをしない代わりに、山そのものへの侵入だけは決して許さない――それが、誰も文書に記したわけでもないのに、村の誰もが信じて疑わない掟だった。井戸端に集まる女たちは、夜更けに稜線を横切る大きな影を見たと囁き合い、猟師たちは、山の中腹より上には決して罠を仕掛けなかった。
農夫セガンの家では、代々その掟を身をもって思い知らされてきた。飼っていた山羊が繋いだ綱を食いちぎり、あるいは柵を跳び越えて山へ駆け上がるたび、二度と戻ってはこなかったからだ。一頭目、二頭目と数えるうち、村ではいつしか「セガンの山羊は山に呼ばれる」と陰口を叩かれるようになった。
なかでも六頭目の山羊ルナードのことは、セガンにとって忘れがたい傷だった。ルナードは誰よりも用心深く、誰よりも柵の中に留まることを好む山羊だった。それでもある晩、雷鳴に驚いた拍子に綱を引きちぎり、闇の中へ駆け出してしまった。翌朝、霧の晴れた岩肌の際で、セガンが見つけたのは、食いちぎられた綱の切れ端だけだった。血の跡すら、雨に洗われて残っていなかった。あれほど臆病な山羊さえ喰われるのなら、この山に敵う術など誰にもない――セガンはそう思い知り、それ以来、新しく山羊を迎えるたびに、誰よりも頑丈な柵を編み、誰よりも念入りに紐を結ぶようになった。
その年の春に生まれたばかりの仔山羊は、真っ白な毛並みから、村の娘たちにブランケットと名付けられた。角はまだ短く、脚も心もとなく細かったが、目だけは他のどの山羊よりも大きく、そしてどこか大人びた光を宿していた。セガンの柵の中で、ブランケットは誰よりも早く育ち、誰よりも早く、その柵の狭さに気づいた。
「お前はここにいれば、腹を空かせることもなく、竜にも喰われずに済む」
セガンは毎朝、乳を絞りながらそう言い聞かせた。柵は、これまでのどの山羊のためよりも高く、頑丈な木で編まれていた。だがブランケットの目は、乳搾りのあいだも、柵の向こう、灰色岩山の稜線に注がれていた。朝には金色に、夕には赤に染まるその頂を見るたび、ブランケットの胸の奥では、名づけようのない疼きが膨らんでいった。狭い柵の中を三歩と歩けば端に突き当たる暮らしに、日ごとに息が詰まっていくのを感じていた。
「ルナードという山羊がいたそうだね」
ある晩、乳搾りの少年ジョゼフにブランケットがそう問いかけたことがある。もっとも、山羊の言葉を解する者などいるはずもなく、ジョゼフはただ、めぇと鳴くその声に応えて、干し草を余分に分けてくれただけだった。それでもブランケットは、ジョゼフがセガンに語る話を、柵越しに幾度も聞いていた。ルナードがどれほど山を恐れていたか。それでも山に呼ばれ、二度と戻らなかったこと。「柵の中にいれば、竜も狼も怖くはない」というセガンの口癖を、ジョゼフは半信半疑の顔で頷きながら聞いていた。
「でも旦那様、柵の中で歳を取るだけの一生も、山羊にとっては同じくらい辛いんじゃないでしょうか」
セガンはその言葉に、少しの間だけ黙り込んだ。それから、疲れたように笑って答えた。
「辛くとも、生きていればこそだ。山に呼ばれて消えた山羊たちは、もう二度と、辛いも嬉しいも感じることはない」
ジョゼフは頷いたが、その顔には、まだ何か言い足りなさそうな影が残っていた。柵の隅で藁を食んでいたブランケットは、その一言一言を、耳を伏せながらも聞き逃さなかった。生きてさえいればよいという理屈と、どう生きるかを自分で選びたいという疼きは、ブランケットの中で、決して同じ場所には収まらなかった。
その夜、ブランケットは柵の中を幾度も往復した。三歩で端に突き当たる、慣れきったはずのその狭さが、その晩に限って、これまでにないほど息苦しく感じられた。柵の板の隙間から覗く星空は、いつもと変わらぬはずなのに、やけに遠く、やけに眩しく見えた。柵の中で天寿を全うすることと、山の頂で一日だけ本当の風に吹かれることと、どちらが自分の生にふさわしいか――答えは、その夜のうちに、ブランケットの中でとうに出ていた。
二 柵を越えて
夜明け前、まだ星の光が空に残るころ、ブランケットは助走をつけて柵の最も低い一角へと跳んだ。硬い蹄が板の上端を掠め、体が宙に浮いた一瞬、脳裏をよぎったのはセガンの悲しげな顔と、ジョゼフの困ったような笑みだった。だがそれも、着地の衝撃とともに霧散した。
駆けた。朝露に濡れた斜面を、脇目もふらず駆け上がった。息が切れても止まらなかった。振り返れば、遠ざかる村の屋根々が、朝靄の中に小さく霞んでいた。背後で、セガンの家の犬が一声だけ吠えたが、追ってくる足音は聞こえなかった。
山腹に踏み入ってからのブランケットは、これまでの十月あまりの生涯で味わったことのない歓びに包まれていた。柵の中では見たこともない色とりどりの花――竜胆に似た青い花、羊歯の緑、名も知らぬ黄色い小花――が、岩の隙間という隙間に咲き乱れていた。風はどこまでも澄んでいて、遠くの谷から立ち上る木々の匂いまでもが、はっきりと嗅ぎ分けられた。跳べば跳ぶだけ体は高く舞い上がり、駆ければ駆けるだけ蹄は軽くなった。生まれて初めて、自分の体が本来持っている力の大きさを、ブランケットは知った気がした。
昼下がり、切り立った崖の上でブランケットは数頭の野生の岩羊たちと行き会った。彼らはブランケットの臆病さのかけらもない足取りに驚いた様子だったが、すぐに気にする素振りも見せず、思い思いに岩肌を跳び回っていった。ブランケットもまた、生まれて初めて、誰の許しも得ずに駆ける速さと高さを心ゆくまで味わった。谷を見下ろせば、セガンの家の煙突から立ち上る煙さえ、指先で摘めるほど小さく見えた。頭上を大きな鷹が悠々と旋回し、その影が岩肌をゆっくりと横切っていくのを、ブランケットは飽きることなく見送った。
冷たい湧き水を見つけては喉を潤し、日の当たる岩の上に体を横たえて、初めて味わう昼寝の心地よさに酔いしれた。柵の中で嗅いだことのない、乾いた石と草の匂いが、体の隅々にまで染み込んでいくようだった。これが自由というものなら、たとえ一日限りでも構わない――ブランケットは、まどろみの中でそう思った。
小川のほとりでは、山苺の茂みを見つけた。柵の中で与えられる干し草とは比べものにならない、甘く弾ける実の味に、ブランケットは思わず声を漏らした。実を口いっぱいに頬張りながら、ふと振り仰いだ空には、雲ひとつなく、目が眩むほどの青が広がっていた。誰かに決められた餌の時間も、誰かに区切られた囲いの広さもない。ただ自分の脚と、自分の意志だけで、この一日を歩いている。その事実だけで、胸が震えるほどの充足があった。
けれど、頂に近づくにつれ、その歓びには微かな翳りが差し始めた。焦げた匂いの残る窪地、爪で抉られたような岩の亀裂、白く晒された古い骨――誰の目にも、それらが何を意味するかは明らかだった。ブランケットは足を止め、初めてその胸に、抑えようのない緊張が広がるのを感じた。それでも、来た道を戻ろうとは思わなかった。ここまで来て引き返せば、自分はまた、あの柵の中の暮らしに甘んじるしかない。それだけは、どうしても選べなかった。
夕刻、風に乗って遠く、セガンの吹く角笛の音が届いた。柵に繋がれていた山羊を呼び戻すための、聞き慣れた合図だった。角笛は、日が傾くたびに一度、二度、三度と繰り返され、次第に切実な響きを帯びていった。その音の合間には、ジョゼフの呼び声も混じっているような気がした。ブランケットの脚は、一瞬だけ谷を振り返ろうとした。柵の中の温かな寝床、セガンの手の温もり、干し草の匂い――そうしたものすべてが、脳裏を過ぎった。だがすぐに、その脚は岩を踏みしめる方へと向き直った。今戻れば、残りの生涯を、あの柵の中だけで終えることになる。それだけは、どうしても選べなかった。
角笛の音が途絶えた頃、稜線の向こうに広がっていた茜色の空が、急速に群青へと変わっていった。冷えた風が吹き抜け、木々のざわめきさえも止み、あたりは水を打ったように静まり返った。ブランケットは初めて、自分がひどく小さな生き物であることを思い出した。
三 山の主、名も持たぬ竜
夜の帳が完全に下りたとき、頭上の岩棚から、ゆっくりと巨大な影が滑り降りてきた。羽ばたきの音はほとんど聞こえなかった。ただ、月明かりを遮る翼の広がりだけが、周囲の温度をひとつ下げたように感じられた。
着地した竜の全身は、灰色岩山そのものと見紛うほどの、鈍い灰色の鱗に覆われていた。長い年月を物語る傷だらけの角、幾重にも重なった瞼の下で、金色の瞳が静かにブランケットを見下ろしていた。逃げ出そうにも、脚はすでに根を張ったように動かなかった。喉の奥から、意思とは関係なく短い震えが漏れた。
「また一頭、迷い込んだか」
竜の声は、地の底から響くようでありながら、不思議と穏やかだった。愉悦も憎悪も滲んでいない、ただ淡々とした声音。長年繰り返してきた、儀式のような響きでもあった。
「お前のような小さきものが、この山に何頭迷い込み、何頭が朝日を拝めなかったか、我はもう数えてすらいない。だが答えはいつも同じだ。この山へ踏み入った者は、我が糧となる。それが、この山と我が交わした唯一の掟だ」
ブランケットは震える脚を叱咤して、あとずさりせずにその場に踏みとどまった。心の臓が耳の奥で鳴っているのが分かるほど、恐怖は本物だった。それでも、その場を動かなかった。
「わたしは……戻らない。柵の中で飼われるくらいなら、ここで喰われた方がまし」
竜は微かに首を傾げた。その仕草には、これまでに聞いてきた無数の命乞いとはまるで違う応えに対する、隠しきれない興味の色があった。
「命乞いをしないのか」
「命乞いをすれば、見逃してくれるの」
「いいや」竜は静かに、しかしはっきりと答えた。「掟に例外はない。だが、命乞いをする者は多くとも、みずから留まると言い切った者は、久しく見ていない」
「なら、命乞いをする意味なんてない」
竜の金色の瞳が、わずかに見開かれた。沈黙が落ちた。遠く、風が岩肌を撫でる音だけが響いていた。
「なぜ山に来た。柵の中にいれば、少なくとも寿命までは生きられたものを」
ブランケットは、初めてまっすぐに竜を見上げた。
「柵の中の一生は、確かに長いかもしれない。でも、それはずっと同じ景色を見て、同じ広さの地面だけを知って終わる一生だった。わたしは、一日でいいから、自分の脚で選んだ場所を歩いてみたかった。今夜死んだとしても、それは変わらない」
竜はしばらくその言葉を反芻するように黙り込んでいた。かすかに喉の奥で音が鳴ったが、それが唸りなのか、感嘆なのか、ブランケット自身にも判じかねた。
「望むなら、夜が明けるまでの猶予をやろう」竜はやがて、そう続けた。「この山に迷い込んだ者には、みな一晩だけの猶予がある。逃げ果せる算段があるなら、それも良し。だが、お前の脚では、この山を降りきる前に我が追いつくだろうな」
「逃げない」
ブランケットは即座に答えた。竜の金色の瞳が、わずかに細められた。
「では、戦うか」
「戦う」
竜は喉の奥で、笑いとも唸りともつかない音を鳴らした。侮りではなかった。むしろそれは、幾百年ぶりかに味わう、思いがけない緊張への、静かな高揚に近い響きだった。竜はゆっくりと身を低くし、翼を大きく広げた。月明かりが、その鱗の輪郭を鈍く縁取った。
「よかろう。ならば我も、これまでのどの獲物にも払ったことのない、本気というものを見せてやろう」
四 一夜の死闘
月が中天に差し掛かる頃、竜の最初の一撃が振り下ろされた。ブランケットは横に飛び退き、硬い蹄で岩を蹴って体勢を立て直した。振り下ろされた鉤爪が岩肌を削り、火花にも似た石片が散った。地面を伝う衝撃だけで、ブランケットの膝は一瞬崩れかけた。
「ほう」
竜の声に、初めて明確な驚きが滲んだ。小さな山羊の体は、想像していたよりもずっと素早く、そして粘り強かった。ブランケットは低く構えた角で、竜の前脚を掠め、すぐさま岩陰に飛び込んだ。角先に伝わった手応えは、決して大きくはなかったが、確かに一撃を届かせたという事実が、萎えかけた脚に力を取り戻させた。
夜が更けるにつれ、攻防は幾度となく繰り返された。竜の吐く息が岩を焦がし、辺りには焦げた匂いが立ち込めた。ブランケットの蹄は幾度も岩に打ちつけられ、血に染まった。それでもブランケットは、倒れるたびに立ち上がった。膝が笑い、視界が霞んでも、角を構える姿勢だけは崩さなかった。息が続く限り、逃げるのではなく、常に竜の正面へと向き直った。
真夜中を過ぎるころには、ブランケットはすでに何度も地に転がされていた。それでも起き上がるたび、竜の金色の瞳を睨み返した。竜はその戦いぶりを見つめながら、記憶の底に沈んでいた古い光景を、幾度となく思い起こしていた。
かつて――この山に棲みつくよりも遥か昔――竜は、東の谷を統べる年老いた竜公の下で、飛ぶことも吠えることも許されぬまま、宝物庫の番をさせられていた日々があった。逆らえば翼を折られ、鎖で繋がれる。物を言うことすら許されず、ただ黄金の山を守るためだけに生かされていたあの歳月を、竜は長らく忘れたふりをして生きてきた。そんな暮らしに耐えかね、ある嵐の夜、竜公の目を盗んで鎖を引きちぎり、命がけで西へと飛び続けた末に辿り着いたのが、この灰色岩山だった。血の滲む翼で、幾晩も飛び続けた記憶が、目の前の小さな挑戦者の姿と重なって、竜の脳裏に鮮やかに蘇っていた。
あの夜、竜は誓った。二度と誰の下にも屈しない、と。そのために自ら定めたのが、「迷い込んだ者は誰であろうと決して見逃さない」という、厳格な掟だった。誰かに与えられた法ではなく、みずから背負うと決めた誇り。それだけが、かつて鎖に繋がれていた自分と、今の自分とを分かつ、唯一の証だった。もし今、この山羊を憐れんで見逃せば、その誇りそのものが崩れてしまう――竜はそう理解していた。
目の前で、血まみれになりながらも角を構え続ける小さな山羊の姿に、竜はあの嵐の夜、鎖を引きちぎった自分自身の姿を、重ねずにはいられなかった。だからといって、爪を緩めることはしなかった。掟を違えれば、自分が誰にも屈しないと誓ったあの夜の意味が、消えてしまう。竜はただ、これまでのどの獲物に対してよりも、丁寧に、そして本気で、ブランケットへと爪を振るい続けた。それが、竜にできる、唯一の敬意の払い方だった。
丑三つ時を過ぎ、月が西の稜線に傾き始めても、戦いは終わらなかった。ブランケットの動きは目に見えて鈍り、幾度となく地に伏したが、そのたびに震える脚を叱咤して立ち上がった。竜の吐く息をぎりぎりでかわし、岩陰に転がり込んでは、束の間の呼吸を整える。もう、勝てるとは思っていなかった。それでも、まだ立てる限りは、逃げも、跪きもしないと決めていた。
それでも、崩れ落ちた体をブランケットは幾度となく起こした。もう脚は震えを通り越し、感覚さえ怪しくなっていたが、それでも角の先だけは、竜の方角からわずかにも逸らさなかった。竜はその様子に、これ以上攻めることをしばし躊躇うように動きを止めた。獲物が抵抗をやめれば、それで終わりにできる掟だった。だがブランケットは、抵抗をやめる素振りすら見せなかった。
「まだ、続けるつもりか」
竜が低く問うと、ブランケットは血の滲んだ息を吐きながら、それでも小さく頷いた。言葉を発する力さえ、もう残っていなかった。竜はその頷き一つに、長い夜の中で幾度も揺らいだ何かが、ふたたび静かに定まっていくのを感じていた。
東の空が微かに白み始める頃には、ブランケットの脚はもはや、自分の意志だけでは立ち上がれないほどに疲弊していた。それでも角を下げ、最後の力を振り絞って前へ踏み出そうとするその姿を、竜は動かずに見つめていた。夜通し続いた咆哮も、鉤爪の一撃も、いつしか止んでいた。
五 夜明けの敬意
やがて、稜線の向こうから、最初の朝日が差し込んだ。金色の光が、傷だらけのブランケットの白い毛並みを、淡く染め上げていく。
ブランケットはもう、後ろ脚で体を支えることすらできなかった。岩の上に崩れ落ちながらも、その目だけは、最後まで竜から逸らされることはなかった。
竜はゆっくりと歩み寄り、地に伏したブランケットの前で足を止めた。
「よく戦った」
竜の声からは、これまでの淡々とした響きが消えていた。
「この山に迷い込んだ者の中で、夜明けまで我と渡り合った者は、久しくいなかった。多くは、最初の一撃で竜だと知れずとも、恐怖のあまり動けなくなるか、無駄と知りつつ逃げ惑うだけで終わる。だがお前は、最後まで角を下げなかった」
「怖くなかったわけじゃない」ブランケットは掠れた声で答えた。「でも、柵の中に戻るくらいなら、ここで胸を張って終わりたかった」
竜はしばらく、その言葉を噛みしめるように黙り込んでいた。
「教えておこう。我には、名などとうに要らぬものだと思っていた。誰にも呼ばれず、誰にも従わず、ただこの山の主として在ればよいのだと」竜は喉の奥から、低く名を紡いだ。「だが……そう呼びたければ、ヴィエイユと呼べ。かつて鎖から逃れた夜、みずからに与えた名だ」
それが、慈悲でも赦しでもないことを、ブランケットは理解していた。掟に例外はない。夜が明けた今、竜が牙を振るうことに、迷いはないはずだった。それでも竜が最後にその名を明かしたことの意味を、ブランケットはどこかで、正しく受け取っていた。
「……ヴィエイユ」
ブランケットは、震える声でその名を呼んだ。竜はそれに応えるように、静かに、しかし深く頭を垂れた。嘲りでも、憐れみでもない、対等な者だけに向けられる、静かな一礼だった。
「案ずるな。お前の名は、我が忘れることはない。この山が朽ちるまで、幾百年経とうとも」
そのあとに何が起きたかを、山を降りた者は誰も語らない。ただ、その日の朝、セガンが霧の晴れた岩肌の際で見つけたのは、ルナードのときと同じ、ちぎれた綱と、白い毛が一房、風に飛ばされずに岩の隙間に留まっていた光景だけだった。
セガンはその毛を拾い上げ、しばらくのあいだ、声もなく立ち尽くしていた。それから、誰に言うともなく呟いた。
「お前は、幸せだったのか。それとも……」
答える者はいなかった。傍らに立つジョゼフも、うつむいたまま、何も言えずにいた。ただ、灰色岩山の稜線には、いつもと変わらぬ朝の光が差し込んでいた。
それから幾年もの月日が流れた。オーバンヌ村では、灰色岩山の竜の話は、以前とは少し違う響きを帯びて語られるようになった。迷い込んだ者を容赦なく喰らう恐ろしい主、という話は変わらない。だが子どもたちの間では、いつからか、こんな言葉が付け加えられるようになっていた――あの山の竜は、逃げ惑う者は容赦なく喰らうが、最後まで立ち向かった者の名だけは、決して忘れない、と。
真偽を確かめる術は、誰にもなかった。それでも、灰色岩山を見上げる村の子どもたちの目には、以前にはなかった、憧れにも似た光が、時折宿るようになっていた。年老いたジョゼフは、そんな子どもたちの様子を見るたびに、遠い稜線に向かって、小さく一頭の白い山羊の名を呟くのだった。
あとがき
アルフォンス・ドーデの短編「セガン氏の山羊」は、狼に食べられ続ける不運な山羊たちを飼う農夫セガンと、柵の暮らしに飽き足らず山へ駆け上がり、一晩じゅう狼と死力を尽くして戦った末に力尽きる、白い牝山羊ブランケットの物語である。夜明けとともに山羊が喰われるという結末を変えず、自由を求めて誇り高く戦い抜いたその一夜を、抒情的な筆致で描いた寓話として知られる。
本作ではこの構図を土台に、山羊を喰らう狼を、太古からその山を統べ、迷い込んだ者を余さず喰らうという掟をみずからに課した古竜「ヴィエイユ」に置き換えた。柵の暮らしに飽いたブランケットが自由を求めて山を駆け上がるという展開はそのままに、迎え撃つ竜には、かつて自らも鎖に繋がれ、逆らうことを許されなかった過去を与えている。一晩じゅう挑み続けるブランケットの姿に、竜はその過去を重ねずにはいられないが、それでも掟を違えることはない。夜明けとともにブランケットを喰らうその瞬間にだけ、嘲りでも憐れみでもない、対等な挑戦者への敬意を滲ませる竜として描いた。
農夫セガンと山羊ブランケット、そして先代の山羊ルナードの名は原作に伝わる名を借りたが、台詞や具体的な出来事、竜ヴィエイユの造形、オーバンヌ村や灰色岩山、少年ジョゼフといった要素はすべて本作独自に創作したものであり、原文の翻訳や逐語的な引用は行っていない。
本作はアルフォンス・ドーデ(Alphonse Daudet)著『La Chèvre de Monsieur Seguin』(『風車小屋だより』所収)を参考にした翻案作品です。