竜は怒りの名を名乗らなかった
水竜王国アクアリウスの入江の町「花嫁岬」には、王妃の慢心が海竜の怒りを買い、旅の剣士に退けられたという伝承と、娘を一晩岩に繋ぐ「岩繋ぎの宵」が今も残る。孤岩に棲む竜ヴァロスは、怒れる海竜が自分自身だったのか定かでないと語るが、記録者レイブンは真偽を断定せず花嫁岬を去る。
一 花嫁岬、岩に繋がれる宵
水竜王国アクアリウスの海岸線には、切り立った崖がどこまでも続く区間がある。旅の記録者レイブンがその入江に辿り着いたのは、夕暮れが海を燃えるような橙色に染め上げ始めた頃だった。崖の切れ目に小さく開けたその町は、入江の奥にひっそりと蹲るように建っていて、遠くからはまるで崖の一部のように見えた。
町の名を「花嫁岬」という。最初にその名を聞いたとき、レイブンはどこか不穏な響きを感じ取った。婚礼を思わせる華やかな名でありながら、この町にその名が付いた経緯を誰も明るい声で語らなかったからだ。
崖を下る道の途中で、レイブンは何度も足を止めて周囲を見渡した。断崖はどこまでも白く、長い年月をかけて波に削られた肌理を見せている。崖の中腹には海鳥の巣が無数に点在し、人の気配に驚いたのか、ひと群れが一斉に飛び立って、橙色の空に黒い筋を描いた。坂の下に見える入江は、両側から崖が迫るせいでひどく狭く、まるで海そのものが陸地の裂け目に閉じ込められているかのようだった。その狭さが、かえって波の音を幾重にも反響させ、町全体を絶えざるざわめきで包んでいた。
入江に下りる坂道の途中、レイブンは一軒の宿の前で足を止めた。宿の軒先に吊られた古い網の繕いを、日に焼けた老人が黙々と続けている。
「旅の記録者か」老人は手を止めず、ちらとレイブンを見ただけで言った。「この時季に花嫁岬へ来る者は、たいてい『岩繋ぎの宵』を見に来る。もうすぐだからな」
「岩繋ぎの宵、というのは」
老人はようやく顔を上げた。名をゴドリックというその老人は、若い頃は漁師をしていたが、今は網の修理だけで日々を過ごしているのだという。
「毎年この時季、娘を一人、沖の孤岩に鎖で繋ぐ。一晩だけだ。朝が来れば解いて連れ帰る。志願という形を取っているが、誰も無理強いはしない――というのが、表向きの話だ」
ゴドリックは繕いの手を止め、入江の向こうを指し示した。崖に挟まれた狭い湾の先、波間にひとつだけ、黒々とした岩が突き出ているのが見える。周囲の岩礁から離れ、まるで海そのものに置き去りにされたように、その岩だけが孤立していた。
「あれが、岩繋ぎの岩だ」
レイブンは記録帳を取り出し、その岩の輪郭を丁寧に書き写した。波が打ち寄せるたびに、岩の根元が白い泡に包まれ、また現れる。遠目には何の変哲もない、ただの黒い岩にしか見えなかった。
「なぜ、そのような儀式が」
「由来を知りたければ、神殿のミラベルを訪ねるといい」ゴドリックは再び網へ目を落とした。「わしの口から語れるのは、せいぜい『昔からそうしている』ということくらいだ。だが、ひとつだけ言えることがある」
「何でしょう」
「あの岩に繋がれた娘は、これまで一人として、傷ついたことがない」ゴドリックは言った。「朝になれば、必ず無事に戻ってくる。それだけは、わしが若い頃から変わらず続いていることだ」
その言葉の裏に、何か言い切れない含みがあるように、レイブンには感じられた。ゴドリックはそれ以上語ろうとせず、繕いかけの網へ視線を戻してしまった。
坂を下りきった先の広場には、古びた石造りの神殿が建っていた。潮風に晒され、壁のあちこちが白く塩を浮かせている。扉の前に佇む人影に、レイブンは声をかけた。
「神殿の方でしょうか。ゴドリックさんから、岩繋ぎの宵の由来を伺うよう勧められました」
「お待ちしておりました」答えたのは、灰色がかった髪を後ろで束ねた女性だった。名をミラベルという。「この町で記録者を迎えるのは、久しぶりのことです。どうぞ、中へ」
神殿の内部は、外観以上に古びていた。壁には色褪せた壁画が残り、波間に浮かぶ岩と、そこに繋がれた人影らしきものが描かれているのが、薄暗がりの中でもかろうじて見て取れた。レイブンはその壁画の前に立ち、しばらく無言で見つめた。
「あの壁画に描かれているのが、伝承の始まりでしょうか」
「ええ」ミラベルは静かに頷いた。「お聞かせしましょう。少し長い話になりますが」
二 王妃の誇りと退けられた竜
ミラベルは燭台に火を灯し、古い巻物を書棚の奥から取り出した。羊皮紙はすでに黄ばみ、端のいくつかはひび割れていたが、文字は今もはっきりと読み取れた。
「かつてこの入江を治めていた領主の妃に、イザベラという方がおられました」ミラベルは巻物を卓に広げながら語り始めた。「イザベラ様は、自らの美しさと、娘フィオナ様の美しさを、ことあるごとに誇っておられたそうです。ある宴の席で、酒の勢いもあったのでしょう、『自分たち母娘の美しさは、この海に棲む精霊たちよりも優れている』と口にされた」
「海の精霊、というのは」
「この海域には、古くから水の精霊――海の女神の娘たちが棲むと信じられてきました」ミラベルは言った。「その言葉が、精霊たちの耳に入ったのか、あるいは精霊たちに仕える名もなき海竜の耳に入ったのか、それは記録には残っておりません。ただ、その夜から沿岸の様子が変わり始めたとだけ、伝えられています」
レイブンは筆を走らせながら、次の問いを重ねた。「様子が変わった、とは」
「漁船が次々と沈められ、入江に大波が繰り返し打ち寄せるようになりました」ミラベルは静かに続けた。「人々はこれを、海竜の怒りだと考えました。名を持たぬその竜は、ただ『怒れる海竜』とだけ呼ばれ、恐れられていたそうです」
「名が、なかったのですか」
「伝承の中では、そうなっています」ミラベルは少し間を置いた。「怒りの主が誰なのか、人々には判然としなかった、ということかもしれません。あるいは、その竜自身が、名乗ることを望まなかったのか――そこは、記録にも書かれておりません」
ミラベルは巻物の次の段を指でなぞった。
「荒れる海を鎮めるため、領主は神託を求めました。神託は『フィオナ様を岩に繋ぎ、海竜へ捧げよ』と告げたとされています。領主とイザベラ様は苦渋の末にこれに従い、フィオナ様はあの孤岩に鎖で繋がれることになりました」
レイブンは記録帳の頁を見つめたまま、しばらく黙っていた。壁画に描かれた岩と人影の意味が、ようやく像を結び始める。
「それで、フィオナ様はどうなったのでしょう」
「そこへ、旅の剣士ロレンスが通りがかったのです」ミラベルの声に、わずかに語りの熱が戻った。「ロレンスは怪物討伐の武勇で知られた剣士でした。繋がれたフィオナ様を見つけ、押し寄せる海竜と対峙し、ついにこれを退けたと伝えられています。海竜を討ち果たしたとも、海の奥深くへ追い払ったとも、言い伝えによって少し違いがありますが、いずれにせよ、沿岸は再び静かになり、ロレンスはフィオナ様を妻に迎えました」
「美しい結末ですね」
「ええ、祝祭の席で語られるときは、いつもそのように締められます」ミラベルは静かに言った。「ですが、巻物を読み比べますと、細部は少しずつ違っております。古い版では、海竜が深い海の底へ引き返していったとだけ記されており、死んだとは書かれていません。もう一つ別の版では、ロレンス自身の口からではなく、彼に同行した従者の記録として、海竜の最期が書き加えられています。つまり、剣士本人がどう語ったのかは、実のところ誰も確かめられないのです」
「後から書き加えられた、ということでしょうか」
「そうとも、そうでないとも言えます」ミラベルは言葉を選びながら答えた。「口伝えの物語は、語り継がれるたびに少しずつ形を変えるものです。それを誰かの悪意や捏造だと決めつけるのも、また違う気がしております」
「はい」ミラベルは頷いたが、その表情には、どこか言い切れない含みが浮かんでいた。「ただ、その後も『岩繋ぎの宵』という習わしだけは、この町に残り続けました。本来、危機は去ったはずなのに」
「なぜ、続いているのでしょうか」
「それは、私にも分かりません」ミラベルは静かに言った。「海竜への供物として続いているのか、あるいは、もっと古くからあった豊漁祈願の習わしに、後から伝承が重なっただけなのか――正直なところ、どちらとも言い切れないのです」
レイブンはその答えを、一字一句丁寧に書き留めた。窓の外から、潮騒の音が低く響いていた。
扉の外に、人の気配がした。顔を覗かせたのは、十代半ばほどの若い娘だった。
「ミラベル様、網の支度が終わりました」娘はそう告げてから、レイブンに気づき、少し恥ずかしそうに頭を下げた。
「ネリー、ちょうどいいところに」ミラベルが呼びかけた。「こちらは記録者のレイブン様。今年の岩繋ぎを志願した娘です」
レイブンは思わず問いを向けた。「あなたが、今年の志願者なのですね。もしよろしければ、少しお話を伺えないでしょうか」
ネリーは少し躊躇ったが、やがて静かに頷いた。
「怖くはないのですか」レイブンは尋ねた。
「最初は、怖かったです」ネリーは答えた。「でも、祖母も、その前の代の方々も、皆無事に戻ってきたと聞いています。それに――」
「それに?」
「豊漁のための祈りでもあるのだと、祖母から教わりました」ネリーは言った。「海竜への供物という話は、正直、半分は昔話のように聞いています。それでも、あの岩に一晩繋がれることで、何かが海に伝わる気がするんです。何に伝わるのかは、私にもよく分かりませんが」
その言葉に、レイブンは静かに相槌を打った。伝承への信仰と、もっと曖昧な祈りの感覚とが、ネリーの中で分かたれずに同居しているのが感じられた。
三 孤岩のヴァロス
その日の夕刻、レイブンは入江の岩場を伝い、孤岩が見える崖の縁まで足を延ばした。ミラベルから聞いた伝承と、ネリーの語った今の気持ちとの間に横たわる隔たりを、どう記録に書き留めるべきか、まだ答えは出ていなかった。
崖を下る道はいつの間にか途絶え、あとは湿った岩肌を這うようにして進むしかなかった。足を滑らせるたびに、靴底に張り付いた海藻の匂いが強く立った。見上げれば、崖の上はすでに夕闇に沈み、空だけがわずかに赤みを残している。波はここまで来ると、岩と岩との間に閉じ込められて、逃げ場を探すように何度も同じ場所で砕けていた。
崖の下、波打つ岩礁の切れ目に、小さな洞があることにレイブンは気づいた。足元に注意しながら下りていくと、洞の奥から、低く響く息遣いが聞こえてきた。
水面が静かに盛り上がり、現れたのは、青灰色の鱗を持つ、ひどく年老いた竜だった。長い首には、幾重にも重なる古い傷跡が走っている。
「珍しいな、ここまで下りてくる人間は」竜は低く言った。「名はヴァロス。この岩礁に棲む者だ」
「レイブンと申します。花嫁岬で、岩繋ぎの宵の伝承を伺いました」
ヴァロスはしばらくレイブンを見つめ、やがてゆっくりと岩場に身を横たえた。「ミラベルの遣いか。それとも、あの娘――ネリーの」
「両方、というべきかもしれません」レイブンは静かに答えた。「伝承では、かつて怒れる海竜が、王妃の慢心を戒めるために沿岸を荒らし、旅の剣士に退けられたとされています。あなたは、その海竜なのでしょうか」
ヴァロスは長い沈黙のあと、海の方へ目を向けた。
「その問いには、正直に答えられない」竜は言った。「荒れ狂った海竜が、本当に私自身だったのか、それとも、王家の慢心を戒めるために遣わされた別の竜だったのか――私の記憶の中でも、その輪郭はひどく曖昧なのだ」
「曖昧、というのは」
「私は長く生きている」ヴァロスは言った。「あまりに長く生きていると、どの出来事が自分自身の記憶で、どの出来事が、他の誰かから聞かされた話を自分のものと思い込んでしまったものなのか、次第に判じがたくなっていく。船を沈めた記憶も、確かに私の中にある。だが、それが『怒り』だったのか、ただの縄張りの防衛だったのか、それすら今の私には定かではない」
レイブンは筆を止めずに、その言葉を書き留めた。「旅の剣士に退けられた、という記憶はありますか」
「ない」ヴァロスは即座に答えた。「少なくとも、剣を向けられて退いたという実感は、私の中には残っていない。もっとも、それが私の記憶から薄れてしまったのか、そもそも私自身の出来事ではなかったのか、それも断言はできない」
ヴァロスは重い溜息をつくように、長い息を吐いた。
「ひとつだけ、確かなことがある」竜は続けた。「私は、毎年この時季、岩に娘が繋がれる夜、必ずこの近くで海の底に潜んでいる」
レイブンは顔を上げた。「それは、なぜでしょうか」
「分からない」ヴァロスは言った。「詫びのつもりなのか、ただの習性なのか、それすら自分でも判然としない。ただ、繋がれた娘たちに何かあれば、私はいつでも動けるようにしている。それだけは、確かだ」
波が洞の入口を叩き、しばらく二人のあいだに沈黙が落ちた。レイブンは記録帳の頁を繰りながら、今しがた聞いた言葉をどう書き留めるべきか、しばし迷った。断定を避けたいという竜自身の態度を、そのまま書き写すことが、果たして正確な記録と言えるのか。それでも、曖昧さをそのまま記すことこそが、今のところレイブンにできる最も誠実な仕事だという気がした。
四 怒りの名、守りの影
「これまで、娘たちを守ってきたのですか」レイブンは問いを重ねた。
「守った、というのは、少し言い過ぎかもしれない」ヴァロスは静かに言った。「ただ、海が荒れた夜に、波を自分の体で受け止めたことはある。他の海の生き物が岩に近づきすぎたとき、脅して遠ざけたこともある。それを娘たちは知らない。知らないまま、朝には無事に戻っていく」
「なぜ、それを誰にも告げなかったのですか」
「告げれば、どうなる」ヴァロスは逆に問いを返した。「怒れる海竜が、今は娘たちを見守っているとでも? そんな話を、誰が素直に信じるだろうか。むしろ、何か企みがあるのではと、恐れられるだけだろう」
レイブンは、その言葉の重みを噛みしめるように、しばらく沈黙した。
「あなたは、自分が怒れる海竜だったと信じているのですか」
「信じているとも、信じていないとも言えない」ヴァロスは答えた。「ただ、もし本当に私がかつて沿岸を荒らしたのなら、この習わしを見守ることは、私にできる唯一の償いだろうと思っている。もし私ではなく、別の竜の仕業だったのなら――それでも、今この岩を見守っているのは、確かに私自身だ。そのことに、変わりはない」
「怒りの名を、あなたは名乗らないのですね」
ヴァロスは、初めてわずかに笑ったように見えた。竜の表情を読み取るのは難しかったが、少なくともレイブンにはそう感じられた。
「名乗れば、何かが決まってしまう気がする」竜は言った。「私が怒れる海竜だったと認めれば、この習わしは今も恐れの上に成り立っていることになる。私がそうではなかったと言い切れば、娘たちがこれまで信じてきたものが、根拠のない作り話になってしまう。私には、どちらを選ぶ権利もない」
「では、今年の宵も、あなたはここで見守るのですね」
「そうするつもりだ」ヴァロスは言った。「毎年、そうしてきたように」
レイブンは記録帳を閉じ、崖の上を見上げた。日はすでに傾き、入江全体が薄い橙色に染まり始めていた。
「もう一つ、伺ってもよいでしょうか」レイブンは言った。「あなたは、この話を、これまで誰かに話したことがあるのでしょうか」
「ない」ヴァロスは静かに答えた。「お前が、初めてだ」
「なぜ、私に話してくださったのでしょう」
「お前が、答えを急がなかったからだ」ヴァロスは言った。「これまで、この岩礁に近づく者はいた。だが、皆、怒れる海竜の正体を暴こうとするか、あるいは最初から恐れて逃げ去るか、そのどちらかだった。お前は、ただ問いを重ね、答えを急かさなかった」
レイブンはその言葉を、静かに記録帳の最後の頁に書き留めた。
五 記録帳に残る、二つの岩繋ぎ
その夜、レイブンは崖の上から、遠く孤岩を見守っていた。月明かりの下、小さな船が岩に近づき、鎖を手にした神官たちがネリーをそっと岩へ導いていくのが見えた。鎖の音が、波の音に混じって微かに響いてくる。
船が去り、ネリーが一人、孤岩の上に残された。波間に、何か大きな影が静かに動くのを、レイブンは確かに目にした。影はしばらく岩の周囲を巡り、やがて海の底へ沈んでいった。ネリーがそれに気づいたかどうかは、崖の上からでは分からなかった。
夜が更けても、レイブンは崖を離れなかった。風が強まるたびに、ネリーの小さな影が心配になったが、波はやがて静まり、孤岩の周りの海面は、不思議なほど穏やかさを保っていた。星が一つずつ瞬き始め、崖の下から吹き上げる潮の香りが、記録帳を抱えるレイブンの指先を冷たく湿らせていった。遠くの入江では、町の灯りがいくつか小さく揺れているのが見える。誰も彼もが、今夜だけは眠らずに、孤岩の方角を気にかけているのかもしれないと、レイブンは思った。
朝が来て、小さな船がまた孤岩に向かうのを、レイブンは眠い目をこすりながら見守った。ネリーは震えながらも、自分の足で船に乗り込み、無事に岸へ戻ってきた。迎えに出た村人たちの間に、安堵の声が広がる。
レイブンはその光景を見届けてから、荷をまとめ、神殿へ最後の挨拶に向かった。ミラベルは扉の前で、静かに一礼した。
「今回の記録が、いずれ誰かの目に触れたとき、この町の伝承を見る目が、少しでも深いものになれば幸いです」
「あなたに、まだお伝えしていないことがあります」レイブンは言った。「孤岩の近くで、ヴァロスという竜に会いました」
ミラベルの表情が、わずかに動いた。「その竜が、何か語ったのでしょうか」
「ご自身が、かつての怒れる海竜だったのか、それとも別の竜の仕業だったのか、本人にも定かではないと語っていました」レイブンは言った。「ただ、毎年この時季、岩の近くで娘たちを見守ってきたと」
ミラベルは、しばらく無言だった。やがて、静かに目を伏せた。「それが本当なら――この町の人々が信じてきた伝承は、半分しか真実を捉えていなかったのかもしれません」
「私も、断定はできません」レイブンは言った。「竜の記憶自体が、曖昧なままだったからです。ですから、両方を記録に残そうと思います。怒れる海竜を剣士が退けたという伝承と、名を名乗らぬまま娘たちを見守り続けてきたという竜自身の証言。どちらが真実かを決めるのは、私の役目ではないと思うからです」
ミラベルはしばらくレイブンを見つめ、やがて小さく頷いた。「それがいい、と私も思います。どちらか一方だけを選ぶより、きっと」
港へ続く坂道で、レイブンはゴドリックとも再び行き交った。
「孤岩まで下りたのだろう」ゴドリックは手にした網を担ぎ直しながら言った。「ヴァロスの奴め、また姿を見せたか」
「ご存知だったのですか」
「長くこの町で網を繕っていれば、薄々気づくものさ」ゴドリックは肩をすくめた。「だが、それを声高に語る者は少ない。この町の者たちが欲しているのは、娘が無事に戻るという安心と、昔語りの続く賑わいの方だからな」
坂を登りきったところで、レイブンは最後に一度、入江を振り返った。孤岩は朝の光の中で、昨夜と変わらず静かにそこに在った。海竜の姿はどこにも見えなかったが、その水面の下に、確かに何かが潜んでいるのだろうと、レイブンには思われた。
記録帳の最後の頁を開き、レイブンは筆を走らせた。
――花嫁岬には、王妃の慢心が海竜の怒りを招き、旅の剣士がこれを退けて王女を娶ったという伝承と、「岩繋ぎの宵」という習わしが今も残る。孤岩に棲む竜ヴァロスの証言によれば、かつて荒れ狂ったのが自分自身だったのか、王家を戒めるために遣わされた別の竜だったのか、その記憶はもはや定かでないという。剣士に退けられたという記憶も、本人の中には残っていない。ただ、毎年この時季、娘たちが岩に繋がれる夜、ヴァロスは必ず海の底からそれを見守り続けてきたと語った。それが詫びなのか、単なる習性なのか、竜自身にも判然としないままだという。
伝承が語る勇壮な退治の物語と、竜自身の覚えのない、しかし確かに続けられてきた見守りの行為。そのどちらが、この町の「岩繋ぎの宵」を今も支えているのか、私には断定できない。ただ、両方が、確かな手触りを持って、この入江に残り続けていることだけは、記録しておきたいと思う。
荷を背負い直し、レイブンは街道を歩き始めた。崖の向こうで、海鳥が一羽、ゆっくりと輪を描きながら飛んでいくのが見えた。花嫁岬の潮騒は、どこまで歩いても、しばらく背中から追いかけてくるようだった。
あとがき
本作は、ギリシア神話に伝わるペルセウスとアンドロメダの伝承――オウィディウス『変身物語』やアポロドーロス『ビブリオテーケー』等に集成された、王妃カシオペアの慢心が海神の怒りを招き、王女アンドロメダが生贄として岩に繋がれたところを英雄ペルセウスが海の怪物を退けて彼女を救い娶った、という物語を下敷きにした翻案である。
本作では舞台を水竜王国アクアリウス沿岸の入江の町「花嫁岬」に移し、王妃の慢心と海竜の怒り、娘を岩に繋ぐ神託、旅の剣士による解決という伝承の骨格を保ちながら、その後も続く「岩繋ぎの宵」という儀式に新たな軸を据えた。原典では英雄による退治をもって物語が完結するのに対し、本作では事件から時を経た「現在」に記録者レイブンを置き、伝承の中の海竜と、今も孤岩に棲み続ける老竜ヴァロスとの間に横たわる記憶の曖昧さを描いている。竜自身が、かつて荒れ狂ったのが自分なのか別の竜なのか判然とせず、剣士に退けられた記憶も持たないまま、それでも毎年娘たちを静かに見守り続けてきたという構図は、本作独自の創作である。
登場人物・竜の名(レイブン、ゴドリック、ミラベル、ネリー、イザベラ、フィオナ、ロレンス、ヴァロスほか)、地名(花嫁岬、岩繋ぎの宵等)はすべて本作のための創作であり、原典の固有名詞をそのまま用いた部分はない。原典や特定の翻訳文からの逐語的な引用・翻訳は行っていない。
本作はギリシア神話のペルセウスとアンドロメダ伝承(オウィディウス『変身物語』、アポロドーロス『ビブリオテーケー』等に集成)を参考にした翻案作品です。