物語雳
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·読了目安 14分脇役

竜は偽りの求婚に応えなかった

五色の珠を持ち帰れば、かぐや姫に会える――大納言に仕える若い舵取りは、主の野心に巻き込まれ竜の棲む海へ漕ぎ出す。竜が試すのは求婚者の勇気か、それとも誰にも見えぬ心の底か。竹取物語・大納言大伴御行の段を翻案した海上の物語。

一 汐の匂う邸

汐路(しおじ)が物心つく前から知っている歌がある。

「沖つ主(おきつぬし)は、まことの心にしか珠を許さぬ」

漁師だった母が、舟の修理をしながらよく口ずさんでいた文句だった。海の底、竜宮に等しい深みに、五色に光る珠を首に飾った竜が眠っている。その珠欲しさに幾人もの舟乗りが海へ出たが、まことの心を持たぬ者は、決まって嵐に呑まれて帰ってこない――そういう言い伝えだった。汐路の母もまた、夫を海に取られた一人だった。それでも母は竜を恨む言葉を口にしたことがなく、「あれは意地悪をする神ではない。ただ、誤魔化しがきかぬだけだ」と、幼い汐路に言い聞かせていた。

母が流行り病で世を去ったあと、汐路は身寄りもなく都に出て、大納言・大伴御行(おおとものみゆき)の邸に下働きとして拾われた。舟の扱いに長けているという評判が伝わり、御行が近隣の川普請のために舟を出す折には、決まって汐路が舵を任された。無口だが仕事は確かで、御行の家人たちの間でも「あれはよく働く」と一目置かれる存在になっていた。

もっとも、都の暮らしに馴染めたわけではなかった。邸の者たちは皆、生まれの家柄や、誰にどれだけ気に入られているかで日々の気を配り、汐路のような漁師の子には、初めから見えない一線が引かれていた。それでも汐路は不満を口にしたことがなかった。舟の上でだけは、家柄も身分も水の流れの前では等しく無力だということを、幼い頃から骨身で知っていたからだ。舵を握り、風を読み、波の呼吸に合わせて漕ぎ手に声をかける。その一瞬一瞬に嘘の入り込む余地はなく、それこそが汐路にとって唯一、心安らぐ場所だった。

その邸のもうひとつの噂は、主人が今、都で評判のかぐや姫という姫君に懸想しているというものだった。求婚する貴公子は五人にのぼり、姫はそのおのおのに、この世に二つとない宝を持ってくるようにと難題を課したという。御行に課されたのは「竜の頸に光る五色の珠」だった。

「たかが言い伝えの珠ひとつで、姫の心が得られるならば安いものよ」

御行が広間でそう笑うのを、汐路は廊下の隅から聞いていた。主の声には昂ぶりはあっても、恐れの色は微塵もなかった。汐路はふと母の歌を思い出し、胸の奥がひやりと冷えるのを感じた。あの歌に出てくる「まことの心を持たぬ者」とは、まさに今、笑っている主のことではないか――そんな不敬な考えが浮かび、汐路は慌てて首を振った。

数日のうちに、御行は家人の中から屈強な者を選りすぐり、船出の支度を命じた。舵取りとして名指されたのは、当然のように汐路だった。

「お前の母は舟乗りだったと聞く。竜の海の呼吸を知っておるか」

御行に問われ、汐路は正直に「存じません。ただ、母の歌なら幾つか覚えております」とだけ答えた。御行はつまらなそうに鼻を鳴らし、「歌などより、確かな腕を頼みにしておるのだ」と言い捨てた。汐路はそれ以上何も言わず、ただ深く頭を下げた。

出航の前夜、汐路は邸の井戸端で水を汲んでいた撫子(なでしこ)という女房に呼び止められた。撫子はかぐや姫に仕える侍女の一人で、使いの用向きでこの邸をたびたび訪れていた。歳の近い二人は、いつからか言葉を交わす仲になっていた。

「本当に、竜の珠を取りに行かれるのですか」

撫子の声には隠しきれない不安があった。汐路は水桶を置き、「主のお供です。断れる立場ではありません」とだけ答えた。撫子はしばらく黙っていたが、やがて小さな声で言った。

「姫さまは、あの珠が本当に手に入るとは思っていらっしゃらないご様子です。ただ、それぞれの求婚者の……人となりを、試しておいでのように見えます」

「人となり、ですか」

「はい。宝そのものより、それをどう手に入れようとするか。姫さまはそちらを、よくご覧になっています」

汐路はその言葉を、胸の奥深くにそっとしまい込んだ。星が瞬く夜空を見上げながら、汐路は母の歌をもう一度、心の中で繰り返した。まことの心にしか珠を許さぬ――それは、これから漕ぎ出す海そのものが持つ掟のように、汐路には思われてならなかった。

「怖くはないのですか」

汐路が問うと、撫子は少し驚いたように瞬きをしてから、「怖いですよ、もちろん」と笑った。

「けれど、あなたが舵を取るのなら、少しだけ安心です。あなたは、誰かを踏みつけにしてまで先を急ぐ人ではないでしょう」

その言葉に、汐路は何と返してよいかわからず、ただ黙って水桶を担ぎ直した。撫子の言葉は、これから向かう海そのものよりも、ずっと重く汐路の胸にのしかかった。人にそう見てもらえることの心地よさと、そのように在り続けられるかどうかという不安が、同時に胸の内でせめぎ合っていた。

二 出航

船出の朝、御行は選りすぐったはずの家人たちを前に、こう言い放った。

「珠を持ち帰った者には、望むだけの褒美をとらせる。だが道中の指図はすべて我が意のままぞ」

それは激励であると同時に、家人たちを道具として扱う宣言でもあった。汐路は舵を握りながら、主の言葉の端々に滲む「己は決して危険な場に立たぬ」という腹づもりを感じ取っていた。事実、御行は船底に近い最も安全な場所に座を構え、風雨からは分厚い几帳で身を守っていた。

最初の数日は、海は驚くほど穏やかだった。凪いだ水面には雲の影がゆったりと流れ、家人たちの間にも「これなら容易く珠が手に入るのでは」という浮かれた空気が漂い始めていた。だが汐路だけは、その静けさのうちに、どこか値踏みをされているような気配を感じていた。舳先を切る水の音の合間に、ごく低い、地を這うような唸りが混じることがあったのだ。

「聞こえましたか、今の」

汐路が隣の水夫に尋ねても、相手は怪訝な顔で首を振るばかりだった。汐路にだけ聞こえるのか、あるいは気のせいなのか。判じかねたまま、汐路はただ舵を握る手に力を込めた。

夜になると、御行は毎晩のように甲板へ出てきては、家人たちに珠の言い伝えを語らせた。誰それの村では珠を見た者が三日三晩笑いが止まらなくなったとか、珠を持ち帰れば七代先まで富み栄えるとか、根も葉もない話が次々と披露され、御行はそのたびに満足げに頷いた。汐路はその席に呼ばれることはなかったが、遠く舵の傍らから漏れ聞こえる話の内容に、ますます違和を強くしていった。誰一人として、珠そのものの由来や、それを守る竜の心を語る者はいなかった。皆が語るのは、珠を手にした後に自分がどれだけ得をするかということばかりだった。

汐路は舳先に立ち、ふと母の顔を思い浮かべた。母は珠の話をするとき、決して「手に入れたらどうなるか」を語らなかった。語るのはいつも、竜がどのような心を持っているか、その一点だけだった。その違いが、今になって汐路の中で、はっきりとした形を取り始めていた。

五日目の夜、月のない海の上で、船縁からふと五色に淡く光る波紋が広がるのを汐路は見た。まるで水底の何かが、船の腹をゆっくりと撫でて確かめているかのようだった。汐路は思わず息を呑み、母から教わった古い言葉を、声にならぬ声でつぶやいた。

「――どうか、道中の無事を」

祈りとも呼べぬ、ただの呟きだった。それでもその夜、船を襲うはずだった小さな渦潮は、なぜか船のすぐ手前で静かに解けて消えた。誰もそれに気づいた者はいなかったが、汐路の背筋にだけは、確かな寒気が走った。

穏やかな航海は、六日目の朝を境に一変した。空が墨を流したように黒くなり、風が急に唸りを上げ始めたのだ。御行は几帳の内から顔を出し、「これしきの風で怯むな、珠はもう間近ぞ」と声を張ったが、その声には隠しきれない怯えが滲んでいた。

汐路は舵を握りしめながら、波の底のどこかに、確かに「何か」がこちらを見ているという感覚を拭えずにいた。それは敵意ではなく、むしろ静かな見定めのようなものだった。まるで、この船に乗る一人一人の胸の内を、順にたどっているかのように。

三 消えてゆく者たち

嵐は一晩のうちに凪ぎ、船は思いのほか無事に切り抜けた。だがその代償は、翌朝になって明らかになった。夜のうちに小舟を下ろし、褒美の前金だけを懐に、幾人かの家人が姿を消していたのである。

「臆病者どもが。珠の栄誉より、目先の銭を選んだか」

御行は吐き捨てるように言ったが、残った家人たちの顔にも、拭いがたい動揺が浮かんでいた。汐路はその光景を、どこか醒めた目で見つめていた。逃げた者たちを責める気にはなれなかった。彼らは初めから、珠にも姫にも、御行の言うような「栄誉」にも、深い思い入れなど持っていなかったのだ。ただ、雇われて乗っただけの海だった。

「汐路、お前はまだいるのだな」

御行が振り返り、珍しく汐路の名を呼んだ。その声には、いつもの傲りとは違う、かすかな縋るような響きがあった。

「私は舵取りとして雇われた身です。舟を捨てて逃げれば、母の名に恥じます」

汐路は静かにそう答えた。噓ではなかったが、それだけでもなかった。汐路の胸の内には、撫子の言葉――「宝そのものより、それをどう手に入れようとするか」――が、いつまでも小さな灯のように残り続けていた。この航海の果てに何があるのかを、自分の目で確かめたいという思いも、確かにあった。

その日を境に、御行の態度は次第に苛烈さを増していった。残った数人の家人に休む間も与えず漕がせ、少しでも遅れる者があれば声を荒らげた。夜、汐路が舵の傍らで仮眠を取ろうとすると、御行はわざわざそこまで来て、こう耳打ちした。

「珠さえ手に入れば、お前にも褒美をやろう。母の墓に立派な社を建ててやってもよいぞ」

それは厚意のようでいて、実のところは汐路の忠義を金で縛りつけようとする言葉だった。汐路は「お心遣いだけで十分でございます」とだけ答え、それ以上は取り合わなかった。御行はつまらなそうに舌打ちして立ち去ったが、その背に、汐路はある種の哀れみに似た感情を覚えていた。この人は、誰かの心を動かすのに、褒美か脅しか、そのどちらかしか知らないのだ。

六日目の嵐が去った翌朝、汐路は誰にも気づかれぬよう、朝餉の干飯をひとつまみ、そっと海に落とした。母がいつも、荒れた海の後にしていた仕草だった。「無事に運んでくれた礼だ」と母は言っていたが、それが誰への礼なのか、幼い汐路は深く考えたことがなかった。今、この海の上で同じ仕草をしながら、汐路は初めて、その礼が誰に向けられていたのかを、はっきりと理解した気がした。

その夜、舵を握る汐路の足元に、小さな光る魚の群れが集まってきた。まるで見えない何かに導かれるように、群れは船の周りをひとしきり巡ると、また闇の中へと散っていった。残った家人の一人がそれを見て「吉兆だ」と喜んだが、汐路にはただ、自分たちが今、何か大きなものに見定められている最中なのだという実感だけが募っていった。

七日目の夜、月明かりの下で舟を漕いでいると、水面にまた五色の光が滲んだ。今度ははっきりと、大きな影が船の下を通り過ぎるのが見えた。長い胴、波を切る尾――それは紛れもなく、母の歌に歌われた竜そのものだった。汐路は思わず舵から手を離しかけたが、なぜか恐怖よりも、懐かしいような感覚のほうが勝った。まるで、幼い頃に聞いた子守歌が、そのまま形になって現れたかのようだった。

「今のを見たか!」

御行が興奮した声を上げ、几帳の内から身を乗り出した。その目には、恐れよりも欲の光がぎらついていた。

「あれこそが珠を持つ竜に違いない。汐路、あの影を追え。逃すな」

「殿、あれは……」

汐路は言いかけて、口をつぐんだ。何を言っても、今の御行には届かないと悟ったからだった。

「早くしろ、汐路。ここで珠を得られねば、御行の名は都中の笑い者になる」

御行の声には、恋情よりもむしろ、面目を保ちたいという焦りのほうが色濃く滲んでいた。姫への想いすら、今の御行にとっては、己の誇りを飾るための道具のひとつに過ぎないのかもしれない――汐路はふと、そんな冷えた考えを抱いた。それでも口には出さず、ただ静かに舵を切り、光の消えた方角へ、船をゆっくりと進めた。夜風の中、汐路の耳には、母の歌の続きの一節が、ふとよみがえっていた。

「まことの心にしか珠を許さぬ。求める者の裏に、何を隠しているか、沖つ主はすべてお見通しじゃ」

四 珠の光、波の底

八日目、船は誰も知らぬ黒々とした岩礁の海域に迷い込んだ。羅針も星も役に立たぬほどの深い霧が立ち込め、残った家人たちの間には、もはや隠しようのない恐慌が広がっていた。

「これ以上は、進めませぬ」

一人の年老いた水夫が震える声で訴えたが、御行は聞く耳を持たなかった。

「ここまで来て、引き返せるものか。珠はもう、目と鼻の先にある」

その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、霧の奥から、五色の光がひときわ強く輝いた。同時に海面が大きく盛り上がり、巨大な竜の頭が、波を割ってゆっくりと姿を現した。鱗は月光を弾いて七色に揺らめき、首に巻きついた珠は、まるで生き物の心臓のように、脈打つ光を放っていた。

家人たちは悲鳴を上げて船底に伏せたが、汐路だけは舵を握ったまま、竜の双眸をまっすぐに見つめていた。竜の目は、猛々しさよりもむしろ、静かな問いをたたえているように汐路には映った。近くで見るその瞳の奥には、幼い頃に幾度も夢に見た、あの子守歌の情景そのものが映り込んでいるようだった。母が歌っていたのは、決して作り話ではなかったのだ――そう悟った瞬間、汐路の胸から恐怖の代わりに、深い懐かしさに似た感情が込み上げてきた。

「その珠、我が求婚のためにいただき受ける」

御行が声を張り上げ、震える手で剣を抜いた。その姿は勇ましく見えて、実際には恐怖に突き動かされているだけだと、汐路には手に取るようにわかった。竜は御行の言葉にも剣にも、眉ひとつ動かさなかった。ただ、深く、地の底から響くような唸りを一つ上げた。次の瞬間、それまで凪いでいたはずの海が、狂ったように荒れ狂い始めた。

大波が船を翻弄し、御行はよろめいてその場に膝をついた。恐怖に駆られた御行は、剣を投げ捨てると、傍らにいた汐路の腕を乱暴に掴んだ。

「汐路、お前が海に入り、あの珠を直に外してこい。さもなくば、船の重みを減らすため、お前を先に落とすまでだ」

その言葉に、周りの家人たちが凍りついた。汐路自身、一瞬、耳を疑った。だがすぐに、御行の目に浮かぶ剝き出しの打算を見て取り、すべてを理解した。この人にとって、自分もまた、都合よく使い、都合が悪くなれば切り捨てる駒の一つに過ぎなかったのだと。

「殿。……それが、あなたの求婚の中身なのですね」

汐路は静かに、しかしはっきりと言った。怒りよりも、深い諦めに近い感情だった。御行は答える代わりに、力任せに汐路を舷側へ押しやろうとした。その刹那、船を包む波が、御行の体だけを狙ったかのように大きくうねり、彼を甲板に叩きつけた。汐路には手を出す暇もなかった。

竜が、初めて低く声を発した。それは人の言葉ではなかったが、なぜか汐路の胸には、意味がそのまま流れ込んでくるようだった。

――珠は、求める心の形に応える。恐れを人に押しつけ、己だけ助かろうとする者に、まことの珠は渡らぬ。

その声が終わるとともに、暴風が渦を巻いて御行の小舟だけを海のただ中へと弾き飛ばした。御行の絶叫が波音に混じって遠ざかっていく。汐路は思わず駆け寄ろうとしたが、竜の視線が、ゆっくりと汐路のほうへと向けられ、その動きを押しとどめた。

竜の目に射抜かれた瞬間、汐路は不思議と恐れを感じなかった。母の歌、撫子の言葉、そしてここまでの航海で自分が選んできた一つ一つの判断が、まるで走馬灯のように胸をよぎった。

――お前は珠を求めて、この海に来たのではないな。

竜の声が、再び胸の内に流れ込んできた。汐路は正直に頷いた。

「私は、主の舟を預かる者として、ここまで参りました。珠が欲しいと思ったことは、一度もございません」

――ならば、珠はお前のものにはならぬ。だが、まことを失わずにここまで漕ぎ着けた心根だけは、確かに見届けた。

その声を最後に、竜は静かに首を垂れ、荒れていた波を少しずつ鎮めていった。長い胴が波間に沈んでいくのを、汐路はいつまでも見送っていた。海面に残った五色の光の残滓が、やがて朝の白い光に溶けて消えるまで、汐路は舵から手を離すことができなかった。

五 笑われる者、遺る者

嵐が過ぎ去った海の上に、朝日が差し込んでいた。御行の小舟は、遠く離れた岩場に打ち上げられているのが見つかった。命だけは取り留めたものの、目は嵐の潮風と恐怖ですっかり腫れ上がり、しばらくは物もろくに見えぬ有様だったという。

都に戻った御行の噂は、瞬く間に広まった。「大納言、竜と戦って目を腫らす」「珠ひとつに、命からがら逃げ帰る」――心無い戯れ歌までが作られ、御行はその後しばらく、人前に出ることさえできなかったと伝えられる。汐路は、その噂話を邸の片隅で聞くたびに、複雑な思いを抱かずにはいられなかった。嗤う人々の誰も、あの海の底で本当は何が起きていたのかを知らない。御行が失ったのは珠ではなく、人としてのまことを試され、それに敗れたのだという事実を。

汐路自身は、残った家人たちとともに、無事に都へ帰り着いた。竜が最後にどうなったのか、珠が今も海の底で輝いているのか、汐路には知る術がなかった。ただ、あの夜、竜の声が胸に流れ込んできた感覚だけは、今も鮮やかに残っていた。

「珠は、求める心の形に応える」

その言葉を、汐路は誰にも語らなかった。語ったところで、信じてもらえるとは思えなかったからだ。ただ、井戸端で水を汲む折に撫子と顔を合わせるたび、汐路はその言葉をひとり胸の中で反芻するようになった。

「ご無事で、何よりです」

撫子は、汐路の顔をまじまじと見つめてそう言った。汐路が以前とどこか違って見えるのだと、撫子は言葉にはせずとも、その目で伝えていた。汐路は小さく笑い、「海の底で、少しばかり試されたようです」とだけ答えた。撫子はそれ以上を問わず、ただ静かに頷いた。

御行はその後、体面を保つために表向きは「珠の探索は道半ばで諦めた」と繕ったが、彼の求婚がかぐや姫に受け入れられることは、二度となかった。姫は最後まで、御行に会おうとさえしなかったという。

邸を去る前夜、汐路は最後にもう一度、撫子と言葉を交わした。

「珠は、結局手に入らなかったのですね」撫子が静かに尋ねた。

「はい。ですが、代わりに知ったことがあります。あの海の底には、確かにまことを見る目があるのだと」

撫子はしばらく汐路の顔を見つめていたが、やがてやわらかく笑った。

「あなたがそう言うのなら、きっと本当のことなのでしょう。……姫さまにも、そのお話、いつかこっそりお伝えしてもよいですか。姫さまは、そういう話をお好みになる方ですから」

汐路は少し照れくさくなって、「お好きなように」とだけ答えた。それが、都で過ごした日々の中で、最も心安らかな夜だった。

汐路は邸を辞し、母の生まれ故郷である漁村へと戻ることを選んだ。都の栄達には、もう心惹かれなかった。舟を修理しながら、いつか自分もまた海に出ることがあれば、その折には、あの夜竜が発した声を胸に刻んで漕ぎ出そうと思っていた。

村に着いたある夕暮れ、汐路は渚に立ち、沖合を眺めた。波間に、ふと五色に似た淡い光が滲んだ気がしたが、それはすぐに夕日の照り返しに紛れて消えてしまった。見間違いだったのかもしれない。それでも汐路は、深く一礼してから、静かにその場を後にした。

母の歌は、今も汐路の口から、折に触れて漏れる。まことの心にしか珠を許さぬ竜の話は、いつしか村の子供たちにもせがまれる語り草となり、汐路自身の声によって、また新しく紡がれ続けていくのだった。

あとがき

竹取物語「龍の頸の珠」の段は、求婚者・大伴御行が家来を見捨てて逃げられ、自らも海に出て嵐に敗れ、物笑いの種となる、諧謔味の強い挿話である。原文では竜は姿を持たぬ脅威そのものとして扱われ、御行の失敗を引き立てる装置に近い。本作ではその竜に「まことの心にしか珠を許さぬ」という意志と掟を与え、単なる嵐の擬人化ではなく、求婚者の内面を静かに見定める裁定者として立たせることを試みた。

原作の主人公である御行の視点をあえて外し、彼に仕える架空の舵取り・汐路の目線から物語を語り直したのは、「試されるのは誰か」という問いを、身分の高い求婚者だけでなく、その陰で使い捨てにされる者の側からも描きたかったためである。御行が原作通り目を腫らして敗れ、物笑いの種になるという結末は変えぬまま、その裏側に「弱い立場の者を切り捨てようとした瞬間、竜の裁定が下る」という筋を通すことで、原作の風刺性を保ちながら、竜の存在に独自の倫理を持たせることを目指した。


本作は竹取物語(龍の頸の珠/大納言大伴御行の段)を参考にした翻案作品です。

本作は作者不詳の『竹取物語(龍の頸の珠/大納言大伴御行の段)』を参考にした作品です。原典