物語り
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·読了目安 14分脇役

竜は泉の記憶を手放さなかった

大地竜連邦テラフォートの古都遺跡「泉の都」。建国の英雄が竜を討ち、その歯から戦士たちを生んだという伝承の奥で、レイブンは泉に棲む地竜の末裔と出会う。英雄譚と番人の異説、どちらを信じるかは語られぬまま都は祭りの夜を迎える。

一 泉の都、紋章に刻まれた戦士たち

石畳の坂道を登り詰めたところで、レイブンは足を止めた。

大地竜連邦テラフォートの奥地、幾重にも重なる丘陵の谷間に、その都市は横たわっていた。石灰岩を積み上げた城壁はすでに半ば崩れ、蔦に覆われた見張り塔だけが、かつての威容をわずかに留めている。それでも城門をくぐれば、そこには確かに人の暮らしが息づいていた。露店の呼び声、井戸端の笑い声、軒先に吊るされた紐飾りが風に鳴る音。泉の都、と地元の人々はこの場所をそう呼んでいた。

門の上部には、大きな紋章が掲げられている。うねる竜の姿と、その足元から槍を掲げて立ち上がる、鎧姿の人影が幾つも刻まれた意匠だった。長い年月ですっかり丸みを帯びた彫りだったが、竜と戦士たちの構図だけは、はっきりと見て取れる。レイブンは記録帳を取り出し、まずはその紋章を写し取った。

「旅の記録者かい」

声をかけてきたのは、天秤棒に野菜籠を提げた老いた女だった。レイブンが素性を告げると、女は気安く頷いた。

「だったら、あんたにはちょうどいい時期だよ。今度の満月は建国祭でね。この街ができてから、もう何百年になるか、誰も正確には数えちゃいないけれど」

「あの紋章の由来を、ご存じですか」

「そりゃもちろん。この街の子供なら誰でも、寝物語に聞かされる話さ」女は籠を持ち直しながら、街の中心にある広場のほうへ顎をしゃくった。「詳しく知りたいなら、資料保管人のオルドを訪ねるといい。あの人が、いちばんこの街の言い伝えに詳しいから」

「ところで、街の様子が少し落ち着かないように見えるのですが」

女は一瞬、口をつぐんだ。

「……水のことかい。今年は雨が少なくてね。旧市街の井戸は、軒並み水位が下がっている。議会でも、何やら大掛かりな手を打つらしいという噂が回っているよ。まあ、記録者殿には関わりのない話さ」

そう言って、女は坂を下っていった。レイブンは記録帳に「水不足」「議会の対策」という言葉を書き加えた。祭りを控えた華やぎの底に、もう一つ別の緊張が横たわっているらしいことが、うっすらと見えてきた。

女と別れたあと、レイブンは広場へ向かう道すがら、街のあちこちに滲む建国祭の気配を目にした。子供たちが木の棒を槍に見立てて追いかけっこをしている。露店には、竜の意匠を象った素焼きの土産物が積まれ、軒先の紐飾りには、五つの異なる紋様――おそらく五大家門それぞれの意匠――が丁寧に刺繍されていた。だが、その賑わいの端々に、レイブンはかすかな違和感も覚えた。広場の奥にある古い井戸――泉の跡地とおぼしき場所――の周りだけ、妙に人通りが少ないのだ。井戸を覆う古びた石の蓋には、注連縄に似た縄がぐるりと巻きつけられ、その傍らには、水路の拡張工事を告げるとおぼしき、真新しい杭が幾本か打ち込まれていた。

「あの井戸には、近づかないほうがいいよ」

通りすがりの少年が、レイブンの視線に気づいたように声をかけてきた。

「なぜですか」

「知らない。でも、大人たちがみんなそう言うから。……それに、最近は役人さんたちが、あの杭を打ちに来て、井戸の周りをうろうろしてる。おっかない顔をしてね」

少年はそう言うと、友達の輪の中へ駆け戻っていった。レイブンは記録帳に、「紋章」「建国祭」「近づいてはいけない古井戸」「打ち込まれた杭」という言葉を書き留めた。断片はまだ、意味を結ばない。だが旅を重ねる中で培った勘が、この街には二つの顔があるのだと、静かに告げていた。宿を求めて坂を下る途中、レイブンは何度も井戸のほうを振り返った。夕闇に沈みゆくその輪郭は、静けさというよりも、何かに息を潜めているかのように見えた。

二 資料保管人オルドの語る建国譚

広場の隅、石造りの小さな書庫を営むオルドは、レイブンを温かく迎え入れてくれた。羊皮紙の束に囲まれた狭い部屋の中、老いた保管人は、埃を払うようにゆっくりと語り始めた。

「この街の始まりを知りたいのだね。ならば、あの井戸の話から始めねばなるまい」

オルドは、乾いた声で建国の物語を紡いでいった。

「その昔、遠い異邦から一人の若い王子がこの地にたどり着いた。名をテオドロスといい、故郷を追われた身の上だったという。神託を受けた王子は、旅の果てに一頭の牛が疲れて伏したこの谷を、新たな都の礎とすることに決めた」

「牛が、伏した場所を」

「そうだ。だがこの谷には水がなかった。王子は供の者たちに、丘の向こうの泉へ水を汲みに行かせた。ところが、その泉には巨大な竜が棲みついていてな。水を汲みに来た者たちを、一人残らず食い殺してしまったのだ」

オルドは一度言葉を切り、羊皮紙の一枚を取り出した。そこには、大きく口を開けた竜の絵が描かれている。

「供の者たちが戻らぬのを訝しんだ王子は、自ら泉へと向かった。そして竜と、丸一日にも及ぶ死闘を繰り広げたと伝えられている。ついに王子が竜を討ち果たすと、どこからともなく声が響き、竜の歯を地に蒔けと告げた。半信半疑で従うと、蒔かれた歯の一本一本から、鎧をまとった戦士たちが次々と地面から生え出てきたのだ」

「地から、戦士が」

「ああ。だが生まれたばかりの戦士たちは、互いを敵と見誤り、殺し合いを始めてしまった。王子が石を一つ、彼らの群れの中に投げ込んだところ――どうやら、それが疑心をさらに煽ってしまったらしい――戦いはやまず、気づけば五人だけが生き残っていた。この五人こそが、後にこの街を興した五大家門の始祖であると、伝えられている」

レイブンは記録帳に、王子テオドロス、竜との死闘、蒔かれた歯、生まれた戦士たち、そして生き残った五人、という骨格を書き留めた。

「五大家門というのは、今も」

「もちろん。ヴァレン家、コルタス家、オレイン家、デュラン家、ミラード家。今もこの街の主だった役職は、この五つの家系の者たちが担っておる。建国祭では、五家の代表がそれぞれ模擬の槍を手に、あの井戸の周りを巡る儀式が行われるのだ」

「五家の中で、井戸そのものに関わる家は」

「ミラード家がそうだ。他の四家が政、軍、商、祭祀といった街の表向きの務めを担うのに対し、ミラード家だけは、代々あの井戸の世話をする役目を負っておる。……理由を問うても、当主たちは決して詳しくは語らぬがな」

オルドは、羊皮紙をそっと巻き戻しながら、独り言のように付け加えた。

「近頃は、その井戸を巡って、少々きな臭い話も聞こえてくる。街の水が足りぬというので、議会が浚渫を検討しているとかいないとか。ミラード家の当主が、難しい顔で議会に通っているのを、わしも幾度か見かけたよ」

「討たれた竜については、どう伝えられているのですか」

オルドは、わずかに声を落とした。

「侵入者を許さぬ、恐ろしい怪物だったと、多くはそう語る。……だが、正直に言えばな、記録者殿。わし自身、幼い頃に祖父から聞いた話には、少し違う響きがあった気がするのだ」

「違う、響き」

「祖父は言っていた。あの竜は、ただ水を守っていたわけではなく、何かもっと別のものを、この地の底で守っていたのかもしれん、とな。……もっとも、祖父自身、それ以上は語らずじまいで逝ってしまったが」

オルドは肩をすくめ、それ以上は分からぬとばかりに、話を切り上げた。

「もう一つだけ、教えてください。生き残った五人の戦士は、殺し合いのあとも、互いを恨み続けたのでしょうか」

「いや、そうは伝わっておらん。むしろ逆でな。生き残った五人は、互いの死闘を悼み合い、二度と同じ過ちを繰り返さぬために、この街を興したのだという。だからこそ、五大家門は今も、表向きは睦まじく肩を並べておる。……もっとも、それが本当に過去の過ちを悼んだ末のことなのか、それとも他に理由があってのことなのか、そこまではわしにも分からぬがな」

レイブンは、その言葉を、丁寧に書き写した。伝承の輪郭がはっきりと像を結ぶ一方で、その中心には、まだ埋まらない空白が残っているように思えた。日が傾き、書庫の窓から差し込む光が橙色に変わる頃、レイブンはオルドに礼を告げて席を立った。

三 井戸の奥、フィオナと地竜セドラ

翌日、レイブンはあの古井戸を再び訪れた。注連縄を巻かれた石蓋の前で、若い娘が屈み込み、供物らしい麦の穂を並べているところだった。

「あなたが、噂の記録者ね」

娘は顔を上げると、値踏みするような視線を寄越した。名をフィオナといい、五大家門の一つ、ミラード家の末裔なのだという。

「この井戸に、何か供えておられるのですか」

「ミラード家は、代々この井戸の世話をする役目を負っているの。……表向きは、建国祭の儀式のためということになっているけれど」

フィオナは、井戸の縁に手を触れながら、言葉を選ぶように続けた。

「本当は、もっと別の理由がある。うちの家には、代々、口伝えでこう伝わっているの。――蒔かれた歯から生まれた戦士たちが殺し合ったのは、疑心のせいだけではない。井戸の底に、今も何かが眠っていて、それを鎮めるために、この井戸は決して涸らしてはならない、と」

「何か、というのは」

「わたしにも、正確なところは分からない。ただ、代々の当主だけが、満月の夜にひそかに井戸の底へ降りて、その様子を確かめる務めを引き継いできた」

フィオナは、迷うように視線を泳がせたあと、レイブンをまっすぐに見た。

「今夜、確かめに行くつもり。あなたも、来る?」

日が沈むまでのあいだ、レイブンはフィオナの家の周りで、彼女の日々の営みに付き添った。祭りの供物を整え、傷んだ屋根板を父親と一緒に修繕し、隣家の子供に読み書きを教える。その姿は、村の誰の目から見ても、ただの働き者の娘そのものだった。

「不思議なものね」修繕の合間、フィオナはふと手を止めて言った。「昼間は、こうして誰よりも街に馴染んで暮らしているのに、夜になると、街の誰も知らない務めを果たしに行く。二つの自分が、同じ体の中にいるみたいな気がすることがある」

「怖くはないのですか。長く続けてきたその務めが」

「怖くない、と言えば嘘になる。でも、井戸の底にいるものが誰かを害したという話は、うちの家の誰からも聞いたことがない。それを恐ろしいと決めつけて放っておくことのほうが、わたしには、よほど怖いことのように思えるの」

日が沈んでから、フィオナは石蓋の縄を丁寧に解き、隠された縄梯子を下ろした。井戸は見た目よりもずっと深く、底に降りるまでにはかなりの時間がかかった。ひんやりとした石壁の匂いと、遠く反響する水音だけが、二人を包んでいた。ようやく足が地面に着いたとき、レイブンの前に広がっていたのは、静かな水をたたえた地下の泉だった。天井の裂け目から差し込む月光が、水面に淡い筋を落としている。

水面が、ゆっくりと盛り上がった。

浮かび上がってきたのは、鱗が土色に近く鈍く光る、老いた地竜だった。体には古い傷跡らしき歪みが幾つも刻まれ、それでも双眸の光だけは深く澄んでいる。

「……ミラードの血の者よ。連れがおるとは、珍しいな」

低く響く声だった。フィオナが硬い声で答えた。

「旅の記録者よ。この街の伝承を集めているの。……セドラ、あなたのことを、正しく書き記したいのだと思う」

地竜――セドラと呼ばれたその竜は、レイブンにゆっくりと視線を向けた。

「街では、わたしの先代が、侵入者を許さぬ怪物として討たれたと伝えられていよう」

「はい。建国の王子が死闘の末に討ち、その歯から戦士たちが生まれたと」

セドラは、しばし黙り込んだあと、静かに続けた。

「その話が、まったくの偽りだとは言わぬ。だが、真実の全てでもない。……先代がこの泉を離れなかったのは、侵入者を拒むためだけではなかった。この地の底には、地脈の乱れが眠っている。それを鎮め、外へ漏れ出さぬよう見守ることこそが、先代の、そしてわたしの務めなのだ」

「地脈の、乱れ」

「詳しくは語らぬ。語ったところで、お前たちに為せることは何もない。……ただ、この泉を涸らさぬ限り、その乱れは静かに眠り続ける。それだけは、確かなことだ」

「建国の王子は、あなたの先代を、本当に討ち果たしたのですか」

セドラは、その問いに、しばらく答えなかった。水面に映る自らの姿を見つめるように、老いた双眸をわずかに伏せる。

「討たれたのだと、伝わっているのだろう。それを覆すつもりは、わたしにはない。ただ、先代がなぜ、命を賭してまでこの場に留まり続けたのか――その理由までもが、王子の武勇と共に語り継がれているとは、到底思えぬがな」

「五大家門の始祖たちについては、何か」

「戦士たちが疑心に駆られて殺し合った、というのも、まったくの偽りではなかろう。だが、それだけで五人しか生き残らなかったと考えるのは、いささか単純に過ぎる。地の底から生まれ出た者たちの多くは、この地に眠るものの気配に、ただ恐れをなして自ら去っていったのだと、わたしは聞いている」

レイブンがその言葉を書き留めようとした、まさにその刹那。頭上の井戸の縁から、幾つもの松明の灯りが差し込んだ。

四 浚渫計画、迫る工事人足

「フィオナ、やはりここにいたか」

縄梯子を伝って降りてきたのは、街の造営を仕切る役人と、その配下の人足たちだった。先頭に立つのは、五大家門の一つ、コルタス家の当主代理を務める壮年の男だった。

「工事責任者のギャレスさん……」フィオナの声が強張った。

ギャレスは、松明の灯りにセドラの姿を照らし出すと、驚愕に目を見開いた。それでもすぐに、努めて平静を装うように言った。

「噂は本当だったのだな。……建国祭までに、この井戸を浚渫し、水路を広げる計画がある。近年、街の水不足は深刻だ。旧市街への配水を賄うには、この泉を大きく掘り広げるしかない」

「駄目よ、ギャレスさん。この井戸には、代々――」

「知っている。ミラード家が代々何やら秘密の務めを負っていることは、噂程度には聞いていた。だが、街の暮らしを支える水路の話に、いつまでも言い伝えを盾にはできん。もう議会の決定は下りている。明日の朝には、工事の人足たちがここに入る」

ギャレスの声には、迷いと苛立ちが同居していた。彼自身、古い言い伝えを軽んじたいわけではないのだろう。だが目の前の生活の切実さが、それを上回っているのだった。

「わたしとて、好きでこの役目を負っているわけではない」ギャレスは、松明の灯りの下で、疲れたように続けた。「旧市街では、すでに幾つもの井戸が涸れかけている。子を持つ親たちが、毎日のように議会へ詰めかけているのだ。……コルタス家の当主代理として、わたしにはそれを見過ごすことはできん」

その声には、単なる役人としての義務感だけでなく、街の暮らしを預かる者としての、切実な焦りが滲んでいた。フィオナも、それを分かっているからこそ、すぐには言い返せずにいるようだった。

レイブンは、震える井戸の底の冷気の中で、静かに口を開いた。

「ギャレスさん。工事に踏み切る前に、一つだけお尋ねしたいことがあります」

「何だ、旅の記録者よ」

「建国の王子が竜を討ったという伝承と、蒔かれた歯から生まれた戦士たちが殺し合ったという伝承と――この二つの話は、この街ではどう受け止められてきたのですか」

ギャレスは、怪訝な顔をした。

「どうと言われても……先人の武勇と、犠牲の上に、今の街があるという話だろう」

「では、もしその犠牲の一部が、争いのためではなく、何かを鎮め続けるための、静かな務めだったのだとしたら。それを知らぬまま壊してしまうことと、知った上で選ぶこととは、同じ重みを持つでしょうか」

セドラが、水面から静かに声を発した。

「レイブンよ、それ以上は言うな。わたしは、誰かに憐れみを乞うつもりも、この身を庇えと頼むつもりもない」

セドラは、澄んだ双眸をギャレスに向けた。

「人の子よ。お前たちが水を求める切実さを、わたしは笑いはせぬ。ただ、これだけは伝えておこう。この泉を無闇に深く掘り広げれば、眠っていたものの均衡が崩れる。それが何を意味するかは、わたし自身にも、正確には分からぬ。……分からぬからこそ、慎重であれと言うほかない」

ギャレスは、老いた竜の言葉と、その静かな双眸を、長いこと見つめていた。松明を掲げる人足たちの間にも、動揺の色が広がっていく。

「……分かった」

やがて、ギャレスは絞り出すように言った。

「明日の工事は、いったん見合わせる。……だが、これで終わりではない。街の水不足は、待ってはくれん。ミラード家の当主として、フィオナ、お前にも議会で説明する義務が生じるぞ」

「分かっています」フィオナは、静かに、しかしはっきりと頷いた。「今度こそ、隠さずに話します」

ギャレスと人足たちが引き上げていくと、井戸の底には再び静けさが戻った。セドラは、長く息を吐き出すように鱗を震わせた。

「久方ぶりに、心の臓が波打った」

その声には、わずかな諧謔の響きがあった。フィオナは崩れるように泉のほとりに座り込み、レイブンもまた、ようやく詰めていた息を吐き出した。

「ありがとう、レイブン。あなたがいなければ、どうなっていたか」

「私は、ただ問いを投げかけただけです。動いたのは、あなたと、ギャレスさん自身の中にあったものでしょう」

セドラは、水面に映る歪んだ月を、しばらく見つめていた。

「わたしは、これからも詳しくは語らぬ。地の底に眠るものの正体も、なぜ先代がこの場を去らなかったのかも。……ただ一つだけ、記していってほしいことがある」

「何でしょうか」

「先代が竜として恐れられ、討たれたと語り継がれるのは、力が劣っていたからでも、侵入者を拒んだだけのためでもない。誰かがこの地に留まり、眠るものを見守り続けねばならなかった、それだけのことだ。それは、勝者の物語の中には、決して残らぬだろうがな」

五 建国祭の夜、記録帳に残された二つの伝承

翌朝、議会の場でフィオナは、ミラード家に伝わる務めの一部――泉を涸らしてはならないという戒めについてだけ、包み隠さず語った。地竜セドラの存在そのものは、彼女の判断で伏せられたままだったが、代わりに「泉の底には、街の均衡を保つ何かが眠っているという古い言い伝えがある」という一点は、議会に強く訴えられた。

議論の末、浚渫計画は縮小され、井戸そのものには手をつけず、丘の反対側にある水脈から新たに水路を掘る案が採択された。工期は延び、費用もかさむことになったが、ギャレスは自ら議会に立ち、その案を推した。

「最後まで納得しきれない部分もある」議会のあと、ギャレスはレイブンに向かって、そう漏らした。「だが、あの夜わたしが見たものを、なかったことにはできん。街の暮らしを守ることと、あの井戸に手を出さぬこと。どちらも大切にする道が、ほかにあるのなら、探す価値はあるだろう」

その言葉には、譲歩というより、ある種の納得が滲んでいるように、レイブンには聞こえた。

満月の夜、建国祭が始まった。広場には松明が並び、五大家門の代表たちが、模擬の槍を手に古井戸の周りを巡る儀式が執り行われる。ヴァレン家、コルタス家、オレイン家、デュラン家、そしてミラード家の当主フィオナ。彼女の表情には、これまでとは違う、静かな落ち着きが浮かんでいた。

儀式が終わると、フィオナはレイブンのもとへやってきた。

「セドラのこと、どう書くつもり?」

「二つとも、書き記すつもりです。建国の王子が竜を討ち、その歯から戦士たちが生まれたという伝承と、討たれたはずの竜が、実は地脈の乱れを鎮める番人だったのかもしれないという異説と。どちらが正しいかを、私が決めることはできません」

フィオナは、少し驚いたような顔をしたあと、静かに微笑んだ。

「それでいいと思う。うちの家も、何代もかけて、それを決めることができなかったんだから」

祭りの熱気が広場を包む中、レイブンは静かにその輪から離れ、井戸を振り返った。石蓋の下、深い闇の奥に、今もセドラが静かに眠っていることを、レイブンは確かに知っている。

記録帳の最後のページに、レイブンは短くこう書き記した。

――竜は、なぜ泉を離れなかったのかを、最後まで語らなかった。それは、建国の英雄譚が覆い隠してきた沈黙なのか、あるいは、竜自身が選び取った沈黙なのか。わたしにはまだ、判じることができない。ただ、地の底に眠る記憶には、勝者の物語だけでは測りきれない重みがあるのだということだけは、確かにこの手に残った。

夜風が広場を吹き抜け、松明の炎を揺らした。レイブンは記録帳を閉じ、翌朝には泉の都を発つ支度を整えるべく、宿への道を歩き出した。

あとがき

本作は、古代ギリシアの都市国家テーバイの建国神話「カドモスの竜退治伝承」を下敷きにした翻案である。フェニキアの王子カドモスが、妹エウロペを探す旅の末に神託に従って都市を築こうとし、水を求めて泉へ向かわせた供の者たちを、軍神アレスに仕える竜に殺された末、自ら竜を討ち果たす。女神アテナの助言でその歯を地に蒔くと、武装した戦士たち(スパルトイ、「蒔かれた者たち」)が生まれ、殺し合いの末に生き残った五人がテーバイ建国の礎となったという筋書きは、オウィディウス『変身物語』第三巻や、アポロドーロス『ビブリオテーケー』に記録されている。

本作では、この建国譚を大地竜連邦テラフォートの古都遺跡「泉の都」に置き換え、討たれたとされる竜の末裔「セドラ」を、地下の泉に今も生き続ける存在として描いた。原典が語らない「なぜ竜は泉を離れなかったのか」という空白に、「地脈の乱れを鎮める番人だったのかもしれない」という異説を与え、旅する観察者レイブンが、建国の英雄譚と竜自身が仄めかす異説のどちらにも判断を下さないまま、それを記録するに留めるという結末を選んだ。舞台となる泉の都、資料保管人オルド、ミラード家の娘フィオナ、工事責任者ギャレスといった人物・地名は、いずれも本作のための創作であり、原典や特定の翻訳文からの逐語的な引用は行っていない。


本作はオウィディウス『変身物語』(Metamorphoses、Gutenberg #21765)およびアポロドーロス『ビブリオテーケー』に伝わるカドモスの竜退治伝承を参考にした翻案作品です。

本作はOvid(古代ローマ、紀元8年頃成立) / 伝アポロドーロス『ビブリオテーケー』の『Metamorphoses(変身物語、第三巻:カドモスと竜)』を参考にした作品です。原典