竜は女王の行方を語らなかった
隊商路の交わる岩山都市「白炎都」には、帝国の混乱に乗じて独立を築き、炎竜と盟約を結んだ女王が黄金の鎖に繋がれ姿を消したという伝説が残る。痩せ細った老竜は女王の最期を語らず、観察者レイブンは食い違う三つの言い伝えを記録に残したまま、隊商の鈴が鳴る都市を後にする。
一 白炎都、砕けた浮き彫りの下で
火竜帝国バーンクレストの版図は、東へ行くほど色を失っていく。都から離れるにつれて緑は乾いた黄土に変わり、やがて隊商路だけが白い岩肌の上を縫うように延びていく。その果て、幾つもの交易路が交わる岩山の頂に、白炎都はあった。
レイブンがその都市に辿り着いたのは、正午をわずかに過ぎた頃だった。切り立った白亜の断崖を這うように刻まれた道を登りきると、不意に視界が開け、風化した石造りの家々が段状に連なる街並みが目に飛び込んでくる。陽光を跳ね返す白い岩肌のせいで、街全体がまるで炎に炙られているかのように見えた。都市の名は、この照り返しに由来するのだという。
隊商の鈴の音が、絶え間なく風に運ばれてくる。荷を積んだ駱駝に似た獣たちが列をなし、商人たちの掛け声が石畳に反響していた。市場の露店には、遠い国から運ばれてきたのだろう染料や織物、乾いた香草の束が並び、行き交う人々の言葉も一様ではなかった。幾つもの訛りが入り混じる喧騒の中を歩きながら、レイブンはこの都が今もなお、幾つもの隊商路が交わる要衝であり続けていることを肌で感じた。
崖の縁に立つと、幾筋もの道が四方八方の砂漠へと延びているのが見渡せた。あの道の先から、かつては様々な言葉を話す商人や学者が、この都を目指してやって来たのだろう。今はただ、荷を運ぶだけの道として、その名残をとどめているに過ぎない。レイブンは記録帳を提げた肩を軽く回し、旅の記録者として各地の伝承を集めて回るうち、この地に「帝国に抗い、独立を築いた女王」の伝説が残っていると聞いていたことを思い出していた。多くの英雄譚は、勝者か敗者かのどちらかに物語を収斂させる。だがこの都市の伝説は、その終わり方において複数の声が食い違っているという。その一点だけで、レイブンの記録者としての勘は、確かめずにはいられぬほど疼いた。
街の中心には、崩れかけた宮殿の跡があった。かつては壮麗であったろう円柱の列は、今では半ばまで砂に埋もれ、風雨に晒された表面はなめらかに丸みを帯びている。宮殿跡の入口に近い壁面には、一枚の浮き彫りが残されていた。長い衣をまとった女の姿が、両腕に絡みついた鎖を引きちぎろうとしている図柄だ。彫りは深く、風化してなお、鎖の輪の一つ一つがはっきりと数えられた。
「珍しいわね、この時季にこの都まで来る旅人は」
声をかけてきたのは、荷車の陰から現れた若い娘だった。日に焼けた肌に、隊商の民らしい鮮やかな布を巻いている。娘はナディアと名乗り、レイブンの視線を追うように浮き彫りへ目をやった。
「旅の記録者です。この浮き彫りにまつわる話を、詳しく知りたいのですが」
「それなら、宮殿跡の書庫番のジブリールがいいわ。あの人ほど、女王様の話に詳しい人はこの都にいないもの」
ナディアはそう答えながら、ふと声を落とした。
「ただ、女王様の話をする時、年寄りたちはいつも歯切れが悪くなるの。子供の頃から不思議に思っていたのだけれど、誰も最後まではっきりと語ってくれない。まるで、話の続きだけを、皆でこっそり隠し持っているみたいに」
その一言に、レイブンは記録帳のページを繰る手を止めた。長年の旅で培った勘が、この都市に何か見過ごせないものが潜んでいることを、静かに告げていた。
「書庫番のジブリールは、どちらに」
「宮殿跡の奥、まだ崩れずに残っている一角よ。今日はきっと、書物の虫干しをしているはずだから」
礼を言って歩き出したレイブンの背後で、浮き彫りに刻まれた女王の鎖が、傾き始めた陽射しの中でゆっくりと影を伸ばしていった。振り返ると、宮殿跡の裏手にそびえる岩山の中腹に、黒く口を開けた洞穴がひとつ、じっとこちらを見返しているかのように佇んでいるのが見えた。
二 隊商路の女王、独立の興り
書庫番のジブリールは、崩れた回廊の奥に設けられた小さな書庫で、色褪せた羊皮紙を丁寧に広げて陽に当てていた。白い髭を蓄えた老人は、レイブンの問いに応じて茶を勧めながら、ゆっくりと語り始めた。
「この都の始まりを知りたければ、まずあの浮き彫りの女王の話から始めねばなるまいな」
はるか昔、この一帯はバーンクレストの遠い属領に過ぎなかったのだという。だが帝国本国で内乱が続き、統治の手が緩んだ隙に、当時この地を治めていた領主の妻であった女性が、実権を握るようになった。彼女は、夫の死後も版図を保つべく、周辺の隊商路を守っていた一頭の炎竜と盟約を結んだのだと伝わっている。
「竜の名はファニクスといった。もとより隊商を襲う盗賊や、砂漠に潜む魔物から交易路を守っていた竜だったそうだ。女王は、この竜と誓いを交わし、その力を借りて周辺の砦を次々に手中に収めていった。わずか数年のうちに、この地は独立した勢力へと育っていったのだよ」
ジブリールは、羊皮紙の一枚を指先で示した。そこには、幾つもの言語で書かれた記録の写しが並んでいる。
「女王は、古き王家の血を引くと自ら称し、学問を愛し、幾つもの言語に通じた聡明な人であったという。宮廷には各地から学者が集められ、この乾いた岩山の都に、束の間だが、比類ない知の花が咲いた時代があったのだ」
老人は懐かしむように目を細め、書庫の壁に掛けられた古い織物を指し示した。色褪せてなお、幾何学模様の縁取りの中央に、翼を広げた竜と、その傍らに立つ女性の姿が織り込まれている。
「あの頃、この都には夜ごと詩の朗誦が響き、幾つもの言語で書かれた書物が競うように書き写された。女王自らが論争の場に加わり、遠方から訪れた学者たちと夜更けまで議論を交わすこともあったという。隊商たちは、この都を通るたびに、口々にその繁栄を語り継いだ。まるで、砂漠のただ中に、忽然と楽園が現れたかのようにな」
「ファニクスもまた、その繁栄を共に喜んでいたのでしょうか」
「そう伝わっている。竜は、隊商路を見晴らす崖の上にとぐろを巻き、女王が学者たちと語らう声に、じっと耳を澄ませていたそうだ。竜が人の言葉を解するなど、当時の民には信じ難いことだったろうが、女王だけは違ったらしい。竜に語りかける時、女王はまるで対等の友に語るように、飾らぬ言葉を選んだという」
「その繁栄が、いつまでも続かなかった、ということですね」
レイブンの問いに、ジブリールは静かに頷いた。
「帝国本国の混乱が収まると、皇帝は当然、この地の独立を許しはしなかった。竜狩りの部隊を含む大軍が、幾度も遠征を重ねてきたのだ。女王とファニクスは、初めのうちこそ幾つもの戦いを退けていたが……」
老人はそこで言葉を切り、羊皮紙をそっと巻き戻した。
「続きは、明日また語ろう。今日はもう、日が傾きすぎた」
その晩、レイブンは隊商の宿で、ナディアと共に食事を取った。娘の祖母だという老婆が、隣の卓で香辛料を挽きながら、誰にともなく呟くのが聞こえた。
「女王様も、あの竜も、哀れなものさ。あれほどの繁栄を築いておきながら」
「おばあさま、その話をまたなさるの」
ナディアがたしなめるように言うと、老婆は皺だらけの手を止めずに、独り言のように続けた。
「わしの祖母がまだ小娘だった頃、この都には様々な言い伝えがあったそうだよ。女王様がどうなったか、誰も本当のところは知らない。ただ、皆で語り継ぐ話だけが、まるで本当のことのように残っているだけさ」
レイブンは記録帳に、ジブリールの語った繁栄の物語を書き留めながら、老婆の言葉の端に滲む何かを、見逃さぬよう心に留めた。
三 竜狩りの大軍、黄金の鎖
翌日、ジブリールは書庫の奥から、さらに古い記録を取り出してきた。
「女王とファニクスは、最後まで幾つもの砦を守り抜こうとした。だが、遠征を重ねてきた帝国は、ついに竜狩りの精鋭部隊を核とした大軍を差し向けてきたのだ。決戦の地は、この都から幾日か離れた谷であったと伝わっている」
戦いは苛烈を極めたという。ファニクスは幾度も炎を吐いて敵陣を焼いたが、竜狩りの部隊が用いる特殊な網と槍の前に、次第に力を失っていった。網には竜の炎さえ通さぬ鉱石の粉が織り込まれていたと伝わり、幾重にも投げかけられるうちに、竜の翼は徐々に自由を奪われていったという。女王もまた、最後まで陣頭に立って兵を鼓舞したが、衆寡敵せず、ついに陣は崩れた。
「女王は捕らえられ、黄金の鎖に繋がれて、帝都まで引き立てられていったという。この浮き彫りは、その時の姿を刻んだものだと伝わっている」
ジブリールはそこで一度言葉を切り、窓の外に広がる白い岩山を見やった。
「凱旋の行列に加えられ、鎖に繋がれた姿を民衆の前に晒されたというのが、諸国に広く伝わる話だ。この都の民は、その屈辱を今も忘れてはいない。だからこそ、女王のその後をどう語るかが、この都では今なお、単なる昔語り以上の重みを持っているのだよ」
「女王のその後については、どう伝わっているのですか」
レイブンの問いに、ジブリールは初めて、言葉を選ぶように黙り込んだ。
「実を言えば……この都に伝わる言い伝えは、ここから先、三つに分かれているのだ」
老人が語るところによれば、ある年寄りたちは「女王は帝都で黄金の鎖に繋がれたまま、静かに余生を送った」と語り継いでいるという。帝国の皇帝も、これほどの器量を持つ女性を無下に処刑することは憚られ、郊外に邸を与えて監視のもとに置いたのだと。
だが別の一派は、これに真っ向から異を唱える。「女王は帝都に着く前、あるいは着いた直後に、密かに処刑されたのだ」と。凱旋の見世物として鎖につながれた姿を晒された後、政治的な火種になることを恐れた宮廷が、人知れずその命を絶ったのだという。
そしてさらに別の一派は、まったく異なる話を、むしろ誇らしげに語る。「最後の戦いの折、ファニクスが最後の力を振り絞り、鎖ごと女王を連れ去って姿を消したのだ」と。二人は今もどこか遠い地で、静かに暮らしているのだと、この説を語る者たちは目を輝かせる。
「どの話が、本当なのでしょうか」
「わしにも分からぬよ」ジブリールは羊皮紙を撫でながら、深く息を吐いた。「この都に生まれた者は、皆それぞれの家に伝わる話を、まるで自分の血筋の誇りのように信じている。だから、誰かが違う説を語れば、たちまち言い争いになる。わしは書庫番として、三つとも等しく書き写して残しているだけだ」
レイブンは、記録帳に三つの異説を並べて書き留めながら、ふと尋ねた。
「その、ファニクスという竜は……今も、生きているのでしょうか」
ジブリールは一瞬、答えを躊躇うように視線を泳がせた。
「宮殿跡の裏手、岩山の中腹にある洞穴に、痩せ細った老竜が棲んでいると聞いたことがある。だが、あれがファニクスその竜なのか、それとも別の何かなのか、確かめに行った者はほとんどおらぬ。誰もが、あの洞穴には近づきたがらぬのだ」
「なぜですか」
「怖いからだろうな。答えを聞いてしまうことが」
その言葉を最後に、ジブリールはそれ以上語ろうとしなかった。
書庫を出ると、広場の片隅で、隊商の荷を検めていた壮年の男と、水甕を運ぶ老婦人とが、声を荒らげて言い合っているのが目に入った。近づいてみると、話の種はやはり女王の伝説らしかった。
「ファニクスが女王様を連れて逃げたなど、都合のいい作り話に決まっている」男は苛立たしげに荷を下ろした。「帝国の記録には、鎖に繋がれた女王が凱旋式で晒された、とはっきり書かれているそうじゃないか。竜が最後まで戦えなかったのは、ただの敗北だ。それを美談に仕立てるのは、負け惜しみというものだよ」
「だがね、タリク」老婦人は水甕を抱え直しながら、静かに言い返した。「わしの母は、その母からこう聞いたそうだよ。竜狩りの部隊が引き上げた後、決戦の谷には、竜の死骸も、女王の亡骸も、とうとう見つからなかったとね。もし本当にただ敗れて連れ去られただけなら、なぜ骸の一つも残らなかったのだろうね」
「記録が残っていないだけだろう。何百年も前のことだ」
「記録がないからこそ、人はそれぞれの望む話を、そこに描き足すものなのさ」
老婦人はそう言うと、レイブンの方へちらりと目をやった。
「旅の記録者さんも、どうせなら三つとも書き留めていくといい。どれか一つだけを選んで残せば、それは記録ではなく、ただの贔屓というものだからね」
タリクは不服そうに鼻を鳴らしたが、それ以上言い返さず、荷車を引いて立ち去っていった。レイブンは記録帳に、市井の民の間で交わされるこの言い争いそのものもまた、書き留めておくべき伝承の一部だと感じ、その場でページを開いた。
四 岩窟の老竜、判然としない記憶
翌朝、レイブンは宮殿跡の裏手から、岩山の中腹にある洞穴を目指して登り始めた。切り立った岩肌には、かつて誰かが刻んだと思しき細い足場が残っていたが、長年の風化ですでに崩れかけ、一歩ごとに小石が谷底へと転がり落ちていった。
洞穴の入口に近づくにつれ、乾いた空気の中に、かすかに焦げたような匂いが混じるのを感じた。中に足を踏み入れると、外の光は次第に細くなり、代わって奥から漏れ出す弱い橙色の光が、岩壁に揺らめく影を投げかけていた。奥へ進むほどに、その光は熱を失った燠火のように弱々しく明滅している。壁面には、幾つもの古い爪痕が刻まれており、かつてこの竜が幾度となく岩肌を掻きむしったことを物語っていた。足元には、乾いて砕けた鱗の欠片が積もり、歩を進めるたびに、かさかさと乾いた音を立てた。
広間のような空間に出ると、そこに、痩せ細った巨大な影が横たわっていた。かつては力強かったであろう体軀は、今では骨の輪郭がはっきりと浮かび上がるほどに削げ落ち、鱗は所々罅割れて灰色に乾いている。それでも、レイブンの足音に気づいたのか、その首がゆっくりと持ち上がった。
「珍しい客だ」
低く掠れた声が、洞穴に反響した。かつて隊商路を守り、砦を焼き払うほどの炎を吐いたはずのその喉からは、今はもう小さな火の粉ほどの熱しか漏れてこないようだった。
「旅の記録者です。この都に伝わる、女王様との盟約の伝承を調べています。あなたは、ファニクスなのですか」
竜はしばらく沈黙した。乾いた風が洞穴の奥から吹き抜け、灰のような鱗の欠片を舞い上げた。
「その名で呼ばれたことも、遠い昔にはあったな」
もう一度、深く息を吐き出すと、竜は続けた。
「あの女王は、聡明な人だった。この乾いた地に、学問と交易の花を咲かせた。我はただ、彼女の見る夢に付き従っただけのこと。それが誤りであったとは、今も思わぬ」
「都には、女王様のその後について、三つの言い伝えが残っています。静かに余生を送ったという説、密かに処刑されたという説、そしてあなたが女王様を連れて姿を消したという説です」
竜の灰色の瞳が、わずかに揺れた。
「三つとも、聞いたことがある」
「どれが、真実なのでしょうか」
竜は答えをはぐらかすように、首を横に振った。
「最後の戦いの記憶は、我の中でも、ひどく曖昧になっている。鎖と網に絡め取られ、意識を失う寸前、女王の声を聞いた気がする。だがそれが、我に逃げよと命じる声だったのか、それとも共に最後まで戦えと鼓舞する声だったのか、今となっては判然としない」
竜はそこで言葉を切り、深い傷跡の残る首筋を、力なく地面に垂れた。
「我が女王を救えなかったのか。それとも、女王自身が、我を戦場に残して、鎖につながれることを選んだのか。目覚めた時にはすでに、我はこの洞穴に一人でいた。それ以来、幾星霜を数えたかも、もう覚えていない」
「あの都には、あなたのことを気にかけている人々がいます。あなたが生きていることを知れば、喜ぶ者もいるでしょう」
「喜ぶ、か」
竜は乾いた笑いのような息を漏らした。
「我が姿を見せれば、まず問われるのは、女王の行方だろう。答えられぬ問いを幾度も浴びせられるくらいなら、いっそこの岩窟で、誰にも見つからぬまま朽ちていく方がよい。そう思い定めて、もう幾星霜になるか」
「それでも、あなたはまだ、ここで息をしている」
「息をすることと、生きることとは、同じではないのかもしれぬな」
竜はそう呟くと、力なく目を伏せた。しばらくの沈黙の後、再び口を開いたその声は、先ほどよりも幾分か柔らかく、まるで独り言のようだった。
「決戦の前夜、女王は我の傍らに座り、隊商路の先にある見知らぬ国々の話を、いつまでも語っていた。まだ見ぬ土地の言葉や、まだ読んだことのない書物のことを。まるで、明日の戦いなど存在しないかのように、静かに笑っていた」
「その夜のことを、覚えているのですね」
「あれだけは、はっきりと覚えている。だが、その先の記憶になると、途端に霧がかかったようになる。網に絡め取られ、視界が塞がれた後の記憶は、ひどく断片的にしか残っていない。誰かに呼ばれた気がした。それが女王の声だったのか、それとも我自身の願望が生んだ幻聴だったのか、今となっては確かめようもない」
「なぜ、都に戻って、真実を語らなかったのですか」
レイブンの問いに、竜は初めて、わずかに首を持ち上げてこちらを見据えた。
「語ったところで、何になる。都の民は、それぞれの信じたい話を、大切に胸に抱いて生きている。我の曖昧な記憶ひとつで、その拠り所を壊す権利が、我にあるとは思えぬ」
「では、あなた自身は、どの話を信じているのですか」
竜はしばらく黙り込んだ後、ようやく口を開いた。
「信じているのではない。ただ、どの話も否定しきれずにいるだけだ。女王が静かに生き延びたと思う日もあれば、無残に消されたと思う夜もある。我が女王を連れて逃げたのだと、都合よく思い込みそうになる自分がいることさえある。……我にもまだ、答えが出せずにいる」
その声には、長い歳月を経てなお癒えぬ悔恨が滲んでいた。レイブンは記録帳を胸に抱いたまま、しばらく言葉を継げずにいた。
「あなたの言葉を、そのまま真実だと記す必要はない、ということですね」
「お前が見た、この痩せ細った姿だけを、正しく記せばよい」
竜はそう言い残すと、再び首を垂れ、目を閉じた。その呼吸は、ひどく弱々しく、洞穴の奥にひっそりと響いていた。レイブンはしばらくその場に佇み、燠火のような光がゆっくりと明滅するのを見つめてから、静かに洞穴を後にした。
五 三つの言い伝え、隊商の鈴
洞穴を出ると、白炎都には夕暮れの光が満ちていた。岩肌は再び炎に炙られたような橙色に染まり、隊商の鈴の音が、変わらず風に運ばれてくる。レイブンは宮殿跡の浮き彫りの前まで戻り、記録帳を開いた。
ページには、ジブリールの語った繁栄の物語と、その後に分かれる三つの異説――静かな余生、密かな処刑、竜との逃避行――が、丁寧な筆致で並べて記されていた。その隣に、レイブンは新たな一文を書き加えた。竜自身が語った、判然としない記憶と、拭えぬ悔恨のことを。どの言葉も、等しい重みをもって記録帳の上に並んでいた。
「何を書いていらっしゃるの」
ナディアが、荷造りの合間に声をかけてきた。レイブンは記録帳を閉じ、小さく笑った。
「この都に伝わる、女王様と竜の伝承についてです。どれが正しいのか、私には決めることができませんでした」
「三つも話があるなんて、知らなかったわ。私はおばあさまの語る話しか知らない」
「いつか、あなた自身の耳で、他の話も聞く日が来るかもしれません」
ナディアは不思議そうな顔をしたが、それ以上は問わず、隊商の荷を積み直す仕事へと戻っていった。宮殿跡の浮き彫りには、まだ夕陽が当たっている。鎖を引きちぎろうとする女王の姿は、見る角度によって、苦しんでいるようにも、力強く抗っているようにも見えた。
翌朝、レイブンは荷をまとめ、白炎都を後にした。見送りに出たジブリールは、崩れた回廊の入口で足を止め、最後にもう一度だけ尋ねてきた。
「結局、あの竜は、何を語ったのだね」
「判然としない、とだけ」レイブンは正直にそう答えた。「ただ、その言葉の奥に、長い年月をかけてもなお癒えぬ悔いがあることだけは、確かなように思います」
ジブリールは少し考え込むような顔をしたが、やがて小さく頷いた。
「それもまた、この都に残すべき記録の一つなのかもしれぬな」
隊商の列に加わり、白い岩山の道を下りながら、レイブンは振り返った。断崖の中腹に口を開けた洞穴は、朝の光の中でひっそりと佇んでいる。あの奥で、痩せ細った竜が、今も答えの出ない記憶を抱えたまま、静かに息をしているのだろう。三つの言い伝えのうち、どれが真実であったとしても、竜が今もその答えを探し続けているということだけは、確かな事実だった。記録帳に記された幾つもの声は、答えを持たぬまま、レイブンの旅と共に、次の土地へと運ばれていった。
隊商の鈴の音が、白炎都の岩肌に反響しながら、次第に遠く小さくなっていった。
あとがき
本作は、3世紀後半のシリア砂漠の隊商都市パルミラを舞台とした「ゼノビア(パルミラ女王)伝承」を下敷きにした翻案である。ゼノビアは夫オダエナトゥスの死後に実権を握り、ローマ帝国の混乱(三世紀の危機)に乗じてエジプトからアナトリアに至る広大な領域を急速に征服し、事実上独立した勢力を築いた史的人物である。自らをクレオパトラの末裔と称し、学問を愛し複数の言語に通じた聡明な女王として知られるが、ローマ皇帝アウレリアヌスの遠征によって敗れ、捕らえられて「黄金の鎖」に繋がれ帝都へ連行されたと伝わる。その後の消息については、同時代のローマ側史料である『ヒストリア・アウグスタ』をはじめとする史料の間でも記述が分かれており、ローマ近郊で余生を送ったとする説が有力とされる一方、処刑された、あるいは自ら命を絶ったとする異説も古代から伝わり、確定していない。
本作では、この「史実でありながら結末が複数の説に分かれている」という珍しい構造をそのまま生かし、女王と盟約を結んだ架空の炎竜ファニクスを配することで、竜自身の記憶の曖昧さという形でその不確かさを描いた。都市の名、書庫番ジブリール、隊商の娘ナディアなど、登場人物・地名・竜の設定はすべて独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は一切行っていない。観察者レイブンは、都市に伝わる三つの異説と竜自身の曖昧な記憶を記録に併記するにとどめ、どれが真実かの判断は意図的に保留したまま物語を閉じている。
本作は歴史的伝承「ゼノビア(パルミラ女王)伝承」(『ヒストリア・アウグスタ』等に記録)を参考にした翻案作品です。