竜は神渡りを渡ったと語らなかった
氷竜公国フロストクラウン奥地、対岸に上宮・下宮が向かい合う「双宮の湖畔町」。結氷した湖面に現れる亀裂を吉凶として占う神事の夜、レイブンは氷竜ヒムロと出会う。竜は女神の依り代が既に途絶えていることを明かすが、自らが氷を渡っているのかどうかは語らないまま、レイブンは湖畔町を去る。
一 双宮の湖畔町、明けぬ氷
氷竜公国フロストクラウンの奥地へ分け入るほど、道は白く、音は少なくなっていく。旅の記録者レイブンが双宮の湖畔町にたどり着いたのは、吐く息すら凍りつきそうな、厳冬の昼過ぎのことだった。
町の名はその地形そのものを表していた。一面に結氷した巨大な湖を挟み、対岸同士に向かい合うようにして、二つの社が建っている。手前の岸に立つのが上宮、遥か対岸に小さく望めるのが下宮。どちらの社殿も、長年の風雪に晒された木肌が灰色に鈍く光っていた。湖を囲む山々は、頂からふもとまで一様に白く沈み、風の音さえ雪に吸い込まれていくように静かだった。
宿の女将オトワは、レイブンの外套から雪を払ってやりながら、暖炉の火の番をする手を止めなかった。壁には古びた湖の絵図が掛けられ、対岸までの距離を示す目盛りが、墨の色褪せた字で書き込まれている。
「この時期にここまで来る旅人は珍しいね」オトワは言った。「見物なら、もう何日か待った方がいい。神渡りが現れるのは、例年ならもう少し後なんだけど」
「神渡り、というのは」
「湖の氷に、亀裂が走るんだよ」オトワは窓の外、白く沈む湖面を指差した。「ぴしり、びしりと音がして、一晩のうちに、岸から岸までまっすぐな道みたいな筋ができる。うちの爺さんの爺さんの時代から、毎年そうなってきた」
「それが、神事になっているのですね」
「上宮に祀られている男神様――まあ、氷竜様のことなんだけど――が、夜ごと氷を割って、対岸の下宮の女神様のところへ通われる。その足跡が、あの亀裂なんだと言われてる」オトワは少し声を落とした。「亀裂の現れた位置や向きで、その年の作物や世相の吉凶を占うのさ。今年の神事は、三日後に控えてるよ」
レイブンは記録帳を取り出し、湖の輪郭を手早く写し取った。「今年も、無事に現れるといいですね」
オトワの手が、暖炉の薪を軽く叩く音だけが、しばらく部屋に響いた。
「それがね」オトワはようやく言った。「今年は、少し様子が違う。例年なら、もう結氷してすぐの頃から、湖の底で低く唸るような音が聞こえ始めるものなんだけど。今年は、まだ一度もそれがない。神官様たちも、落ち着かない顔をしてる」
「亀裂が現れない年もあるのですか」
「ある。明けの海、と呼んでいる」オトワは答えた。「暖冬で湖が全面結氷しない年に、そう呼ばれる。でも今年は、十分に寒い。十分に凍っているのに、唸りだけが来ない。それが、余計に村の者たちを落ち着かなくさせているんだよ」
「唸りが来ないと、何か不吉な意味があるのでしょうか」
「意味があるのかどうか、それ自体が議論の種になるのさ」オトワは苦笑した。「唸りすら来ないのは、男神様が女神様への思いを失われた証だ、と言う年寄りもいる。いや、単に湖の底の岩の形がその年によって違うだけだ、と言う若い連中もいる。わたしはどちらでもいいと思ってるけど、神官様たちの前では、滅多にそんなことは口にしないさ」
レイブンは筆を止め、窓の外の静まり返った湖面を見やった。白い沈黙の底に、何かが潜んでいるのかもしれない。あるいは、ただの沈黙そのものかもしれない。そのどちらであるかを確かめるために、レイブンはこの町に数日、腰を据えることにした。
二 二つの社、語られる伝承
翌朝、レイブンは上宮を訪ねた。社殿の奥、炭火の焚かれた小部屋で、神主のカネタダが出迎えてくれた。皺深い顔に、長年同じ問いに答えてきた者の、静かな諦観のようなものが浮かんでいる。
「神渡りの由来を、伺いたいのです」
「何百年と語られてきた話だよ」カネタダは炭火に手をかざしながら言った。「上宮に祀られる男神は、氷竜そのものだと伝えられている。対岸の下宮には、女神――その依り代とされる竜が祀られていてね。男神は夜ごと、湖を渡って女神のもとへ通われる。氷が裂ける音は、その竜の唸り、氷を踏み渡る足音だと、わしらは聞かされて育った」
「亀裂の向きで、吉凶を占うとも伺いました」
「代々の記録がある」カネタダは背後の棚を指した。年代の異なる巻物が、幾重にも積まれている。「亀裂が真っ直ぐ岸から岸へ走る年は、豊作と平穏の年。途中で折れたり、幾筋にも分かれたりする年は、何かの異変を示す、と読む」
カネタダは一巻を取り出し、卓の上に広げてみせた。「これは、わしの祖父の代の記録だ。ある年、亀裂が三つに分かれて現れた。その翌年、隣国との小さな争いが起き、村からも何人かが兵として取られた。それ以来、この記録は『三筋の年』として、語り継がれるようになった」
「亀裂と争いの間に、直接の繋がりがあったのでしょうか」
カネタダは少し笑った。「それを確かめる術は、わしにもない。ただ、人というものは、不幸が起きた後に、何かそれを予告していた兆しを探したがる性分なのだろうな。三筋の年の翌年に何も起きなかったとしても、誰もそれを覚えてはいなかっただろう」
「あなた自身は、どのようにお考えなのでしょう」
カネタダは炭火を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「正直に言えばな」老人はやがて口を開いた。「わしは、男神様の実在を疑ったことはない。だが、亀裂の向きが本当に何かを意味するのか、それとも単に湖の形と気温の下がり方が、毎年似たような筋を作るだけなのか――その違いは、わしにも判じかねる。神官として、それを大声で言うことはできないがね」
レイブンはその言葉を、一字一句記録帳に書き留めた。
午後、湖を回り込んで対岸の下宮を訪ねると、若い巫女のサヨが社殿の掃き掃除をしていた。歳はレイブンとさほど違わないように見えたが、その眼差しには、歳月に磨かれたような落ち着きがあった。社殿の奥には、古びた小さな厨子が置かれ、普段は固く閉じられているのだという。
「今年は、唸りが来ないと聞きました」
サヨは箒を止め、湖の方を一瞥した。「ええ。例年より十日近く遅れています。村の者たちは、明けの海になるのではないかと、気を揉んでいます」
「下宮では、女神様をどのようにお祀りされているのでしょうか」
「厨子の中に、依り代の鱗が一枚だけ納められていると伝えられています」サヨは静かに言った。「わたし自身も、生まれてから一度も開けたことはありません。母も、祖母も同じだったと聞いています。開けてはならないもの、というより、開ける機会そのものが、いつの間にか失われてしまったのだと思います」
「あなたご自身は」
「不安はあります」サヨは静かに言った。「ですが、不安よりも――もし本当に男神様が渡られなくなったのだとしたら、それは何を意味するのだろうと、考えてしまいます。女神様が、もう渡られる価値もない存在になってしまったという意味なのか。それとも、単に湖の機嫌が悪いだけなのか」
その問いに、レイブンは答えを持たなかった。ただ黒鉛の先を紙の上に滑らせ、サヨの言葉を書き留めるだけだった。
夜、宿へ戻る道すがら、レイブンは湖畔に立ち寄った。月のない夜で、結氷した湖面は闇に沈み、わずかに雪の反射だけが白く浮いている。耳を澄ませても、唸りらしきものは聞こえなかった。ただ、氷の下を這うように動く、何か大きな影がある気がした。
レイブンは足を止め、氷の縁にしゃがみ込んだ。
「そこにいるのは、どなたでしょうか」
返事はなかった。だが影は、確かに一度、動きを止めた。
三 氷の下の竜、交わされる言葉
次の夜も、レイブンは同じ場所を訪れた。氷の下の影は、前夜と同じあたりに留まっていた。
「昨夜も、ここにおられましたね」レイブンは静かに声をかけた。「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
長い沈黙の後、氷の表面がわずかに盛り上がり、裂けた隙間から、青白く光る一対の目が覗いた。
「ヒムロ」低く、軋むような声が答えた。「それ以上は、名乗る義理もない」
「レイブンと申します。旅の記録者です。上宮の神主様、下宮の巫女様から、神渡りの伝承を伺ってまいりました」
「聞いたのなら、それで十分だろう」ヒムロは言った。「人間の記録者が、何を今さら確かめに来る」
「確かめているわけではありません」レイブンは答えた。「ただ、見聞きしたことを、できる限り正確に書き留めたいだけです。あなたが、本当に毎夜氷を渡っておられるのかどうかも、含めて」
ヒムロの目が、わずかに細くなった。「お前は、答えがどちらでも構わないのか」
「構いません」レイブンは即座に答えた。「どちらであっても、それはそれとして記録されるべきことですから」
その答えに、ヒムロは何かを測るように、長く沈黙した。それからゆっくりと、氷を割らずに、ただ身を寄せるようにして湖面の近くまで浮き上がってきた。全身を覆う鱗は、月のない夜にもほのかに白く光を帯びているように見えた。
「今夜は、冷えるな」ヒムロはそれだけ言った。
レイブンは懐から、宿の女将に持たされた温めた酒の瓶を取り出し、氷の縁に置いた。「人間には、こういう夜の過ごし方がありますが、竜にはお役に立たないかもしれません」
ヒムロは瓶をちらりと見て、かすかに喉を鳴らすような音を立てた。それが笑いに似たものだと、レイブンが気づくまでに、しばらく時間がかかった。
以後、レイブンは毎晩のようにその場所を訪れた。最初の数日、ヒムロは短い言葉しか返さなかったが、夜を重ねるごとに、応じる言葉は少しずつ長くなっていった。
「神官たちは、わしが氷を割って渡るたびに、吉凶の兆しを読もうとする」ある夜、ヒムロはそう切り出した。「馬鹿げた話だ、と思っていた時期もある。わしが渡る夜に、たまたま嵐が来れば、凶兆だと言われる。穏やかな夜であれば、吉兆だと言われる。わしの歩みそのものに、意味などあるはずもない」
「今は、違うお考えなのでしょうか」
ヒムロは長い首を巡らせ、対岸の下宮の灯りをしばらく見つめた。
「分からなくなった、というのが正しい」竜はやがて言った。「毎年、同じ時期に、湖は唸り始める。わしがそうさせているのか、それとも湖そのものが、わしという存在を借りて、ただそうなるようにできているだけなのか。長く生きるほど、その境目が、かえって曖昧になっていく」
「どれくらい、この湖に住んでおられるのでしょうか」
「数えるのをやめてから、長い」ヒムロは答えた。「わしが幼い頃、まだ対岸の社には、確かに依り代の気配があった。夜ごと氷を割って渡れば、向こう岸から、確かに応えが返ってきたものだ。それがいつから途絶えたのか、正確には覚えていない。ただ、ある年から、応えがなくなった」
「それでも、通い続けておられたのですか」
ヒムロは答えなかった。氷の軋む音だけが、二人の間を長く埋めた。
「対岸の、女神様のことも伺ってもよろしいでしょうか」
その問いに、ヒムロは初めて明確な沈黙を見せた。
「その話は、まだ早い」竜は低く言った。「神事の夜まで、待て」
レイブンはそれ以上問わず、黒鉛を紙の上で止めた。沈黙にもまた、記録しておくべき重さがあるように思えたからだった。
その夜が明ける頃、レイブンが腰を上げようとすると、ヒムロがふいに言った。
「お前は、酒を置いていくくせに、何も問い詰めようとしない。それが、どうも落ち着かん」
「問い詰めて得られる答えは、たいてい、本当のことではありませんから」レイブンは答えた。「待てば語っていただけるなら、それで十分です」
ヒムロは再び、あの喉を鳴らすような音を立てた。今度は、はっきりと笑いに似ていた。
四 神事の夜、裂ける氷
三日目の夜、神渡りの神事が執り行われることになった。昼過ぎから、村人たちは湖畔に篝火の薪を積み、祝詞のための注連縄を張り直し、普段は使われない太鼓を蔵から運び出していた。レイブンもその慌ただしさの中を歩き、誰もがどこかに不安を隠しながら、それでも手を止めずに働いている様子を見て回った。
夕刻、唸りが久しぶりに湖の底から響き始めた。低く、長く、まるで何かが寝返りを打つような音だった。村人たちの間に、安堵とも緊張ともつかないざわめきが広がった。
篝火が焚かれ、カネタダが祝詞を上げ、サヨが対岸で同じ所作を繰り返す。炎の光が、凍りついた湖面に不安定な陰影を投げかけていた。待つ時間は長く、一度、遠くで氷が鳴る音がして村人たちがざわついたが、それきり静かになり、落胆したような溜息がいくつも漏れた。レイブンは記録帳を抱え、その一つひとつの反応を書き留め続けた。
「来る」しばらくして、村人の誰かが低く言った。
湖の中央から、甲高い音を伴って、氷に細い亀裂が走り始めた。最初は糸のように細く、やがて幾筋もの枝を伴って広がっていく。村人たちの間に、安堵と緊張の入り混じったざわめきが起こった。
その時、サヨが祝詞を中断し、亀裂の向きを確かめようとして、対岸の氷の上へ数歩踏み出した。
「お待ちください」レイブンが声を上げたが、既にサヨは湖の中ほどへ進んでいた。亀裂のすぐ傍を踏んだ瞬間、薄くなった氷が音もなく割れ、サヨの体が湖に引き込まれるように沈んだ。
篝火の照らす範囲の外、暗い湖面で小さな水音が上がった。村人たちが悲鳴混じりに駆け寄ろうとするが、割れた氷に近づける者はいない。
その瞬間、湖の中央から一筋の巨大な水柱が立ち、ヒムロの姿が氷を突き破って現れた。竜は長い首を沈めると、一瞬でサヨの体を咥え上げ、割れていない厚い氷の上へ、丁寧に彼女を押し上げた。村人たちが駆け寄り、ずぶ濡れのサヨを岸へ引き上げる。彼女は激しく咳き込みながらも、意識はしっかりしていた。
轟音とともに、湖面に一筋の亀裂が、岸から岸までまっすぐに走り抜けた。村人たちの間から、安堵と歓喜の声が上がった。
「渡られた! 男神様が、今年も渡られた!」
篝火の向こうで、カネタダが深く頭を下げている。だがレイブンの目は、水面にわずかに顔だけを出したヒムロの姿に留まっていた。竜の目には、村人たちの歓喜とは別の、静かな疲労の色が浮かんでいるように見えた。
村人たちがサヨの介抱に気を取られている間、レイブンは氷の縁まで歩み寄った。
「助けていただき、ありがとうございます」
ヒムロは答えなかった。ただ、長い息を吐くように、鼻先から白い霧を吹き上げた。
「もうひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」レイブンは静かに尋ねた。「対岸の女神様――その依り代とされる竜は、今も下宮に」
長い沈黙があった。篝火の爆ぜる音と、遠くで交わされる村人たちの歓声だけが、二人の間を流れていった。
「いない」ヒムロはやがて、低く答えた。「もう何代も前に、絶えている。わしが覚えている限りでも、三代以上前のことだ。下宮が守っているのは、今はもう、空の社だ」
「それでも、亀裂は」
「現れる」ヒムロは言った。「毎年、この時期になると、湖は唸り始める。わしがそうさせているのか、それとも湖自身が、昔からの性分で勝手にそうなるのか――それは、お前に話した夜と同じで、わしにも分からぬままだ」
「では、あなたが渡っているのは」
ヒムロは長い間、答えなかった。やがて、ほとんど聞き取れないほどの低さで、言葉を継いだ。
「もう誰もいないと知りながら、同じ道を歩くことに、意味があるのかどうかは分からぬ」竜は言った。「だが、唸りが来るたびに、わしは氷の下を進んでしまう。女神を訪ねるためなのか、ただ昔からの道筋をなぞっているだけなのか、その区別すら、もはやわしにはつけられない」
「今夜、サヨ様を助けられたのも、その道筋の途中だったのでしょうか」
「分からぬ」ヒムロは答えた。「助けようと思って動いたのか、たまたま近くにいただけなのか――それすら、今のわしには、はっきりと言い切れぬ」
「その言葉を、記録に残してもよろしいでしょうか」
「好きにするがいい」ヒムロは静かに言った。「ただ、村の者たちには、言わんでくれ。彼らが喜んでいるものを、わしが崩す権利はない」
レイブンはその言葉に、深く頷いた。
五 記録帳に残す、二つの真実
翌朝、湖面には昨夜のままの亀裂が、白い光を受けて一筋にまっすぐ延びていた。村では、吉兆の年を祝う小さな祭りの準備が進められている。サヨは一晩の休息で体調を取り戻し、感謝の言葉を述べにレイブンの宿を訪れた。
「あなたが声をかけてくださったおかげで、わたしは落ち着いて岸へ戻れました」サヨは言った。「それに、男神様が助けてくださったことも」
「本当に、男神様だとお考えですか」
サヨは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに穏やかな表情に戻った。「分かりません。でも、助けていただいたのは事実です。それが男神様の意志だったのか、たまたま近くにいた竜の咄嗟の行動だったのか――どちらであっても、わたしは同じだけ感謝しています」
その答えに、レイブンは小さく頷いた。
カネタダにも別れの挨拶に立ち寄ると、老神主は今年の亀裂の記録を丁寧に巻物へ書き加えているところだった。
「今年も、まっすぐな筋だった」カネタダは満足げに言った。「豊作と平穏の年だ。神官として、これほど嬉しいことはない」
「唸りが遅れたことは、記録に残されるのでしょうか」
「残すだろうな」カネタダは少し苦い笑みを浮かべた。「遅れてでも渡られた、という形で。来年、また別の形で亀裂が現れれば、今年の遅れもまた、何かの前兆として語り直されるのかもしれん。記録というのは、存外、そうやって姿を変えていくものだ」
レイブンはその言葉にも、静かに頷いただけだった。亀裂の向きが本当に何かを意味するのか、それとも村人たちの願いがそこに意味を見出しているだけなのか、自分には判断のつけようがなかった。
午後、宿を発つ前に、レイブンは最後にもう一度、湖畔へ足を運んだ。昼の光の下、氷の亀裂は昨夜よりも穏やかに、ただの自然の筋として湖面に横たわっていた。氷の下に、ヒムロの姿はすでになかった。
記録帳の最後のページを開き、レイブンは筆を走らせた。
――双宮の湖畔町には、上宮の男神が夜ごと氷を割り、対岸の下宮の女神のもとへ通うという神渡りの伝承が伝わる。今年、唸りの訪れが例年より遅れ、村に不安が広がった後、神事の夜に亀裂は現れ、村人たちはこれを吉兆として祝った。氷竜ヒムロの証言によれば、下宮が祀る女神の依り代は既に何代も前に絶えており、今、氷の下を通う者がいるとしても、それが誰かを訪ねるためなのか、ただ昔からの道筋をなぞり続けているだけなのか、竜自身にも判然としないという。
村人たちの喜びと、竜自身の曖昧な告白――そのどちらを信じるべきか、わたしには決める資格がない。ただ、両方を、確かな手触りとして書き残しておきたいと思う。湖が唸り、氷が裂けるという現象そのものだけは、誰の目にも疑いなく起こったことだった。その奥に何があるのかを決めるのは、記録者の役目ではないのだろう。
湖畔を離れる道の途中、遠くでもう一度、氷の軋むような低い音が響いた気がした。それが本当に音だったのか、それとも風の音を聞き違えたのか、レイブンには確かめる術がなかった。ただ、確かめる必要もないように思われた。
荷を背負い直し、レイブンは双宮の湖畔町を後にした。記録帳の中の、食い違う二つの証言だけが、確かな重みを持って、旅の荷に加わっていた。
あとがき
本作は、信濃国諏訪湖(現・長野県諏訪湖)に伝わる「御神渡り」伝承――諏訪大社上社に祀られる男神・建御名方神(しばしば竜神・蛇神と同一視される)が、厳冬期に全面結氷した諏訪湖を渡り、下社に祀られる女神・八坂刀売神のもとへ夜ごと通うとされ、その足跡が氷の亀裂として現れるという伝承、および氷の裂ける方向や時期によってその年の農作・世相の吉凶を占う神事を下敷きにした翻案である。暖冬で湖が全面結氷せず神渡りが現れない年を「明けの海」と呼ぶ伝承も、本作に取り入れている。
本作では舞台を氷竜公国フロストクラウン奥地の「双宮の湖畔町」に移し、男神を氷竜ヒムロに、女神の依り代を下宮が祀る(既に途絶えた)竜に置き換えた。原典では自然現象と神事的解釈の対比が主眼として語られがちなこの伝承に対し、本作では竜自身の視点を新たに設け、女神の依り代が既に絶えていることを知りながらも氷を渡り続けるヒムロの曖昧な心情、神事の夜に起きる人命の危機とその救出、村人たちの歓喜と竜自身の告白との食い違いを、独自の展開として描いている。登場人物・竜の名(レイブン、カネタダ、サヨ、オトワ、ヒムロ)、地名(双宮の湖畔町、真澄湖、フロストクラウン)はすべて本作のための創作であり、原典の固有名詞をそのまま用いた部分はない。原典や特定の記録からの逐語的な引用・翻訳は行っていない。
本作は信濃国諏訪湖に伝わる諏訪大社「御神渡り」伝承(建御名方神・八坂刀売神の伝説、氷の亀裂による吉凶占いの神事)を参考にした翻案作品です。参考: https://ja.wikipedia.org/wiki/御神渡り