物語雳
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·読了目安 14分脇役

竜は片翼のまま、何も乞わなかった

良家に嫁いだお関は、夫の冷淡さに耐えかね実家へ戻るが、父の涙に説き伏せられて婿家へ戻る夜、拾った俥の車夫は幼馴染みの録之助だった。誓いを果たせぬまま片翼のみを宿す竜として生きる彼は、恨み言ひとつ口にせず、ただ静かに彼女を送り届ける――満ちることのない十三夜の無常譚。

一 曇り硝子の家

原田家の奥座敷には、朝からずっと薄い光しか差し込まなかった。

新調したばかりの硝子障子は、外の庭木の緑を映すはずが、いつも心なしか曇って見える。お関はその曇りが硝子のせいなのか、それとも自分の目のせいなのか、もう三年も判じかねたまま暮らしていた。良家の嫁として迎えられたと聞けば、誰もが羨む縁組だった。夫の勇は役所勤めの傍ら家業の貸金も手広く営み、下働きの女中を二人も置くほどの構えである。だがその屋敷の広さは、そのままお関の孤独の広さでもあった。

嫁いだ当初、この硝子障子は勇からの祝いの品だと聞かされていた。舶来の品で、当時としては珍しく贅を凝らした造りだという。お関はそれを、夫なりの心尽くしだと信じ、朝ごとに拭き清めて磨いていた。だがどれほど丁寧に拭いても、光の加減によっては白く曇って見える瞬間がある。硝子の質そのものに、そういう癖があるのだと女中に教えられたのは、嫁いで一年ばかり経った頃だった。以来お関には、この障子が贅沢な祝いの品というより、決して晴れることのない自分の行く末を映す鏡のように思えてならなかった。

「今日は寄合がある。夜半まで戻らぬ」

勇はそれだけを言い置くと、朝餉の膳にもろくに箸をつけぬまま座を立った。振り返りもしない背に、お関は「行っていらっしゃいませ」と声をかけたが、返る言葉はなかった。この家に嫁いでからというもの、勇の声は次第に低く、短くなっていった。叱られるならまだしも、無視されることの方が、心の芯を凍らせるのだと、お関はこの頃になってようやく知った。

姑のお常は、勇にも増して口数の少ない人だった。ただその沈黙には、常に値踏みするような色があった。今朝も台所で顔を合わせるなり、お常はお関の帯の柄を一瞥して、こう言った。

「派手な柄だこと。旦那様の御機嫌を損ねぬよう、気を配るのも嫁の務めですよ」

悪気があっての言葉かどうかは、もう分からなかった。三年のうちに、お関はこの家のあらゆる物言いを、ひとつひとつ我が身に刺さらぬよう受け流す術を覚えてしまっていた。それは処世というより、心をすり減らして薄くしていく作業に近かった。

一人息子の一太郎は、乳母のお島に抱かれて庭先で遊んでいた。まだ二つになったばかりのその子は、お関の顔を見ると笑うには笑うが、すぐにまたお島の袖にしがみついてしまう。乳を含ませたのはお関自身だというのに、寝かしつけるのも、泣き止ませるのも、いつしかお島の役目になっていた。乳母に懐くのが道理と分かってはいても、我が子にまで遠ざけられているような心地は、お関の胸をいっそう塞いだ。

女中たちの噂話が、廊下の向こうから漏れ聞こえてくることがある。旦那様には柳橋に贔屓の女があるらしい、いや御役所の帰りに寄る先はもう一軒あるらしい――そうした声を、お関は聞かぬふりで聞き流す術だけを身につけていた。恨み言のひとつも言えば、婚家において嫁の分をわきまえぬ女だと謗られる。ただ黙って、曇り硝子の向こうの庭を眺めて日を送る。それが、この三年でお関が覚えた唯一の生き方だった。

昨夜のことだった。珍しく早く帰った勇に、お関は思い切って、近頃の一太郎の様子を語って聞かせようとした。歯が生え揃ったこと、覚えたばかりの言葉のこと。勇は盃を傾けたまま、最後まで顔をこちらへ向けようとしなかった。

「そのような話は、お島から聞けば済むことだ。お前がわざわざ言うほどのことでもあるまい」

その一言が、三年分の堪えを、静かに、しかし決定的に断ち切った。お関は自分の存在が、この家にとってどれほど軽いものかを、その夜初めて骨身に染みて悟った気がした。

その日の午後、お関は久方ぶりに実家へ帰る許しを得た。里帰りといえば聞こえはよいが、心のうちではもう定まっていた。今日という日を境に、この家を出る。夫にも、姑にも、もう二度と頭を下げて詫びる真似はしない。そう決めて、お関は薄物の羽織に袖を通した。

秋も深まり、日暮れは日ごとに早くなっている。西日の差す玄関先で振り返ると、曇り硝子越しに映る自分の家の輪郭が、他人の家のようによそよそしく見えた。お関はその景色に背を向け、実家のある裏長屋の方角へと足を急がせた。

二 父の涙

関口の家は、原田の屋敷とは比べものにならぬ古い借家だった。傾いた木戸をくぐると、父の宗三郎が行灯の下で帳面をつけている姿が見えた。もとは小さな役所の下役だった父は、お関の縁組が決まったとき、涙を流さんばかりに喜んでいたものだった。

「お関か。どうした、この刻限に」

宗三郎は娘の顔を見るなり、いつもと違う気配を察したらしい。帳面を閉じ、行灯の芯をひとつ切って明るくしながら、座敷の奥へと娘を招き入れた。お関は座敷に上がるなり、堪えきれずに畳へ手をついた。

「お父様。わたくし、原田の家へはもう戻りませぬ。離縁をお許しください」

一息に言ってしまうと、堰を切ったように、この三年のことがこぼれ出た。夫の冷たさ、姑の値踏みするような眼差し、女中たちの陰口、我が子にすら遠ざけられる心細さ、そして昨夜の一言――声を震わせながら語るお関の前で、宗三郎はしばらく黙って腕を組んでいた。行灯の灯りが、二人の間に落ちる影を、じりじりと揺らしていた。

「……勇殿が、お前を打擲でもしたか」

「いいえ。手を上げられたことは、一度もございません」

「ならば、まだ辛抱のできる仕打ちだ」

低く、しかし決して冷たくはない声で、父は言った。

「わしがお前をあの家へ嫁がせたのは、わし自身の見栄のためではない。あの縁組があったからこそ、この家は借金の形に潰れずに済んだ。それだけではない、お前の子は、原田の跡取りとして育つ身の上ぞ。今お前がここへ戻れば、一太郎の行く末はどうなる」

お関は返す言葉がなかった。冷たい仕打ちの一つ一つを並べ立てても、それが命に関わる暴力でない限り、辛抱すべきものとして片付けられてしまう。それが、この時代に生まれた女の定めなのだと、お関自身、頭では分かっていた。分かっていながら、心の底から納得することは、どうしてもできなかった。

「お父様は、わたくしの気持ちより、家の都合のほうが大事なのですね」

「そうは言うておらぬ」

宗三郎の声が、初めて揺れた。行灯の灯りが、父の目にたまった光をかすかに照らし出した。

「わしとて、我が子が独り凍える思いで日を送っておると聞いて、平気でいられるものか。……だがな、お関。今このわしが、家のためにお前を返せと言うたところで、それはお前を見捨てる言葉ではない。お前が今の辛抱を凌ぎ切った先に、一太郎という宝が育っていく。それだけを、頼みに思うてくれ」

父の頬を、ひとすじの涙が伝った。宗三郎は慌てて袖でそれを拭ったが、隠しきれるものではなかった。もう若くはない父の、皺の刻まれた指先が畳をわずかに掻いた。娘に辛抱を強いる自分自身を、誰よりも許せずにいるのだろうと、お関には分かった。

奥の間から、物音一つ立てずに様子を窺っていた母が、お関の背後にそっと膝をつき、着替えの羽織を差し出した。母は何も言わなかった。ただその手が、いつもよりも長く、お関の肩に触れていた。母のその沈黙は、父の涙よりも、なお雄弁だった。言葉にすれば崩れてしまう何かを、母は黙って堪えているのだと、お関には伝わってきた。

お関は、こみ上げるものを飲み下し、静かに頭を下げた。

「……分かりました。今宵のうちに、原田へ戻ります」

その言葉に、宗三郎はほっと肩の力を抜いたが、その顔に浮かんだのは安堵と呵責の入り混じった、複雑な色だった。木戸を出るお関を、父と母は提灯も持たずに見送った。振り返ったお関の目に映ったのは、いつまでも戸口に立ち尽くす二つの小さな影だった。夜風が路地の土埃を巻き上げ、その影を一瞬、霞ませた。

三 片羽の男

表通りに出ると、ちょうど空車の俥が一台、辻に停まっていた。母が近所の俥屋に声をかけていてくれたものらしい。お関は乗り込むと、行灯からこぼれる灯りの中で、車夫の顔をよく見ないまま「原田まで」とだけ告げた。

俥はゆっくりと走り出した。夜風が薄物の袖をさらい、お関はようやく詰めていた息を吐いた。空には、まだ満ちきらぬ月がかかっている。今宵は十三夜、十五夜に次いで月を愛でる夜だと、亡くなった祖母がよく言っていたのを思い出した。満月ほどには丸くならぬその月を、祖母は「後の月」と呼び、どこか慈しむように眺めていたものだった。町家の軒先には、栗や豆を供えた三方がぽつりぽつりと見える。今宵だけは、貧しい長屋の子らも、月を仰いで手を合わせるのだと聞いたことがあった。

梶棒を握る車夫は、終始無言だった。だがその足取り、俥の揺らし方、そして時折漏れる息づかいに、お関はどこか覚えのある気配を感じた。橋のたもとに差しかかったところで、車夫がふと足を緩めた。

「……お関さん、じゃあ、ありませんか」

低く掠れた声が、闇の奥から届いた。お関は思わず息を呑んだ。その呼び方をする者は、この世にただ一人しかいない。

「録之助さん――」

俥が止まった。振り返った男の顔は、行灯の淡い灯りの下で、記憶にある面影と重なり合いながらも、別人のようにやつれていた。頬はこけ、手の甲には荒れた皸が幾筋も走っている。かつて長屋の路地で共に駆け回った、あの潑剌とした少年の姿は、もうどこにも見当たらなかった。

「まさか、こんな形でお会いするとは」

録之助はそう言って、力なく笑った。お関の胸に、幼い日の記憶が、堰を切ったように溢れ出した。

同じ裏長屋で育った二人は、物心つく前から兄妹のように育った。井戸端で水を汲む真似事をしたり、狭い路地を駆け回って鬼ごっこに興じたり、二人の間にはいつも、他の誰にも入り込む隙のない親密さがあった。だが録之助の家には、余所の子とは違う秘密があった。彼の一族は、人に紛れて生きる小さな竜の血筋だったのだ。録之助の祖母は、行灯の灯る夜ごと、幼い彼を膝に抱きながら、こう語って聞かせたという。

「わたしたちの一族はね、生まれついたままでは、竜にも人にもなりきれない半端者なのですよ。ただ一つだけ、真の姿を得る道がある。互いに想い合う者と、片羽の誓いを交わすこと。二人が真に心を結び合わせたとき、初めて両の翼が満ち、鱗もまことの色に輝き出す」

録之助の背には、幼い頃からずっと、片方だけの小さな翼の芽が息づいていた。お関のことを想うたびにその翼はほのかに熱を持ち、少しずつ育っていったのだと、あるとき彼は打ち明けたことがあった。

「見せてあげます。誰にも言っちゃいけませんよ」

十歳の頃だったか、録之助は物干し場の陰で、そっと着物の背をはだけて見せてくれたことがある。小さな、まだ産毛のような鱗を纏った突起が、肩甲骨のあたりに息づいていた。お関はそれを恐ろしいとは少しも思わず、むしろ壊れ物に触れるように、そっと指先で撫でた。「いつか、ちゃんとした翼になるの」と尋ねると、録之助は照れくさそうに、「なるよ、きっと。お関ちゃんと約束したら」と答えたものだった。

十二の秋、二人はこの同じ十三夜の晩に、長屋の物干し場で欠けた月を見上げながら、幼い指切りを交わした。いつか大人になったら、片羽の誓いを果たそう、と。その約束を、お関は疑ったことなど一度もなかった。

だが年頃になったお関に、関口の家の困窮を救う縁組の話が持ち上がった。父母の苦渋を知る幼いお関には、否と言う術がなかった。誰にも本当の思いを打ち明けられぬまま、お関は原田の家へと嫁がされた。祝言の日、長屋の路地から離れていく駕籠の中で、お関は一度だけ振り返った。人垣の隅に、録之助の姿があったような気がしたが、確かめる間もなく駕籠は角を曲がってしまった。

「あの日から、僕の翼は、育つのをやめてしまいました」

録之助は、静かにそう言った。

「片方だけ、大きくなりきれぬまま、今も背に貼りついている。人の目には触れさせられぬ、半端な姿のままです。祖母が亡くなってからは、一族の誰にも顔を合わせる気になれず、夜だけ俥を引いて糊口をしのいでいます。……酒に溺れた時期もありました。賭場に出入りして、身代を潰しかけたこともある。誓いを果たせぬ竜など、生きていても仕方がないと、そんな風にも思いました」

自嘲するような口ぶりに、お関は言葉を失った。自分が選んだのではない縁が、目の前の男から、竜としての生をも奪ってしまったのだ。詫びの言葉すら、あまりに軽すぎて口にできなかった。

「録之助さん。わたくしのせいで――」

「よしてください」

録之助は静かに、しかしはっきりと遮った。

「あなたのせいじゃあ、ありません。誰のせいでもない。ただ、そういう巡り合わせだったというだけのことです」

その声には、恨みの色も、責める色も、少しもなかった。それがかえって、お関の胸を締めつけた。

四 十三夜の月

俥は再び動き出したが、二人ともしばらく口をきかなかった。橋を渡り切ったところで、録之助は俥を道端に寄せ、静かに梶棒を下ろした。

「少しだけ、月を見ていきませんか。原田様のお屋敷まで、あと少しです」

断る理由を、お関は見つけられなかった。二人は川端の石段に並んで腰を下ろした。水面には、欠けたままの月が、揺れる光の帯となって映っていた。堤の柳が夜風に揺れ、遠くで犬の遠吠えが一つ、細く尾を引いて消えていった。

「十三夜の月は、満ちきらないのに、美しいと言われます」

録之助はぽつりと言った。

「僕らの一族では、この月の夜に、片羽の誓いを交わす者が多いのだそうです。満月でなくとも、いや、満月でないからこそ、互いに満たし合おうとする心が生まれるのだと、祖母は言っていました」

そう言うと、録之助は羽織の背をわずかに緩め、闇に紛れるようにして、背にひそむ小さな翼の輪郭を、お関にだけ見えるように覗かせた。片方だけの、鈍い色をした、育ちきらぬ翼だった。月明かりに晒されたその翼は、かすかに震え、まるで長い年月の疼きを訴えているようだった。

「お関さん。今からでも、遅くはないのかもしれません」

録之助の声は、ひどく静かだった。

「あなたが望むなら――僕はあなたを、あの屋敷へは戻さずに、どこか遠くへお連れすることもできる。今この場で誓いを結び直せば、僕の翼は、きっと満ちる。あなたも、僕も、誰の掟にも縛られない身になれるかもしれない」

差し出されたその言葉は、お関の胸の奥に凍りついていた何かを、一瞬で溶かしてしまいそうなほどの熱を持っていた。今この手を取れば、曇り硝子の家からも、勇の冷たい背中からも、値踏みするような姑の眼差しからも、永遠に逃れられる。お関の指先は、知らぬ間に録之助の袖口へと伸びかけていた。

だがその指先が触れる寸前、脳裏に浮かんだのは、乳母の袖にしがみつく一太郎の、あどけない笑顔だった。そして、行灯の下で涙を拭った父の背中。着替えの羽織を差し出した母の、震える指先。あの二つの小さな影が、木戸の前にいつまでも立ち尽くしていた光景。

――お前が今の辛抱を凌ぎ切った先に、一太郎という宝が育っていく。

お関の手は、袖に届く前に、力なく膝の上へと戻った。

「……ごめんなさい、録之助さん」

「いいんです」

録之助は、それだけを言った。お関が言葉を続けるより先に、彼はそっと羽織の襟を直し、片翼の姿を再び闇の中へと隠してしまった。その仕草には、失望も、落胆の色も、ほとんど見えなかった。まるで、この答えを初めから知っていたかのように。

「一太郎さんという方が、待っておいでなのでしょう。それに、あなたのご両親も」

「録之助さんは……悔しくは、ないのですか」

「悔しくないと言えば、嘘になります」

彼は月を見上げたまま、静かに続けた。

「でも、あなたにまで、僕と同じ半端な生を強いるわけにはいかない。あなたには、あなたの守るべきものがある。それを壊してまで手に入れる誓いなど、きっと本当の誓いとは呼べないのでしょう。……それに、片羽のままでも、こうして今宵、あなたと月を見られた。それだけで、僕には十分すぎるほどです」

川面に映る月が、風もないのに小さく揺れた。二人はしばらくの間、どちらからともなく、その欠けた光を見つめ続けていた。

石段の冷たさが、薄物越しにお関の身体へ伝わってくる。夜が更けるにつれ、川風はいっそう冷たさを増していたが、隣に座る録之助の気配だけが、なぜか懐かしい温もりを保っていた。幼い頃、同じ長屋の屋根の下で肩を寄せ合っていた記憶が、その温もりの奥に重なって見える。お関は、この時が永遠に続けばよいという願いと、一刻も早くこの場を立ち去らねばという焦りとの間で、心が二つに引き裂かれていくのを感じていた。

五 帰らぬ翼

やがて録之助は静かに立ち上がり、再び梶棒を取った。お関も、迷いを断ち切るように立ち上がり、俥に乗り込んだ。

原田の屋敷の門前まで、俥はもう一言も交わされぬまま進んだ。塀の向こうには、まだ明かりの灯る部屋がひとつ見える。お関の胸に、これから続いていく変わらぬ暮らしの重さが、改めてのしかかった。それでも、来た道を引き返すという道はもう、お関自身の手で閉ざしていた。

門の手前で俥が止まると、録之助は静かに梶棒を下ろし、お関に手を貸して降ろした。

「お関さん。どうか、息災で」

それだけを言うと、録之助は深く一礼した。恨み言も、未練の言葉も、彼の口からついに一度も漏れることはなかった。お関は何か言おうとしたが、喉の奥で言葉が固まり、結局「録之助さんも、どうかご無事で」と返すのが精一杯だった。

録之助は梶棒を引き、静かに踵を返した。片方だけの翼を背に隠したまま、彼の後ろ姿は、十三夜の淡い月明かりの中へと溶けるように遠ざかっていった。お関はその姿が路地の角に消えるまで、門の前に立ち尽くしていた。

門をくぐると、女中の一人が眠そうな顔で出迎えた。「お帰りなさいませ」という素っ気ない声に、お関は「ただいま」とだけ答え、曇り硝子の障子の向こうへと戻っていった。翌朝も、勇は変わらず言葉少なに家を出、姑は変わらず値踏みするような目で嫁を見た。何かが劇的に変わったわけではない。ただお関の胸のうちにだけ、あの夜の月の欠けた光が、ひっそりと沈んでいた。

その夜以来、お関が録之助の俥を再び拾うことは、二度となかった。風の便りに、深川のあたりで俥を引く片翼の男を見たという噂を耳にすることが、幾度かあっただけである。真偽を確かめる術も、その気力も、お関にはもう残されていなかった。一太郎が成長し、いつか原田の家を継ぐ日が来るまで、お関はこの曇り硝子の家で辛抱を重ねていくのだろう。それが幸福と呼べる日々かどうか、お関自身にも分からなかった。

満ちることのない片羽のまま、それでも誰も恨まず、誰にも縋らず、ただ静かに夜を渡っていく竜がいる。そのことだけを、お関は胸の奥にそっとしまい、それから先の長い歳月を生きていった。

年月が経つにつれ一太郎は言葉を覚え、母の膝を求めて駆け寄ってくるようになった。お関はその小さな手を握るたび、あの晩に選ばなかった道のことを、ふと思い出しては胸の奥にそっと蓋をした。選んだ道が正しかったのかどうか、答えは誰も教えてくれない。ただ、選んだ道の先に息づく温もりだけが、お関にとって唯一確かなものだった。

十三夜の月は、その年もまた、そして翌年も、満ちきらぬままに欠けていった。曇り硝子の向こうにその月を仰ぐたび、お関は遠い夜道を今も梶棒を引いているであろう男の後ろ姿を思い浮かべた。誰に語られることもなく、ただ夜ごとの空にだけ、片羽の誓いの行方が、静かに刻まれ続けていた。

本作は樋口一葉の『十三夜(1895年、雑誌『文藝倶楽部』閨秀小説号初出)』を参考にした作品です。原典