竜は渇きを拒まなかった
かつて竜騎衆を率い国を守った颯牙は、幾百年の孤独の果てに人の生気を糧とする捕食者へ堕ちた。地所の若い代書人が山中の館でその正体を知り、颯牙は新たな狩場を求めて都へ移り棲むが、老学者と若者たちの手で追い詰められる。
一 迎えの文
錦都(きんと)の南、蔵通りの一角に、代書と地所の証文を扱う文緑屋(ぶんろくや)という店があった。店構えこそ地味だが、扱う証文は都でも指折りの大店から旧家の相続まで多岐にわたり、番頭の目利きの確かさで知られている。蒔田悠一(まきたゆういち)はそこに勤めて五年になる若い代書人で、几帳面な筆致と、依頼人の言葉を最後まで遮らずに聞き届ける辛抱強さで、番頭からの信も厚かった。
悠一の日々は、地味だが満ち足りたものだった。朝は蔵通りの井戸端で顔を洗い、店に出て証文の下書きに没頭し、夕刻には許嫁の雛乃(ひなの)の実家である小間物屋に立ち寄って、他愛のない話をするのが常だった。雛乃とは来年の春に祝言を挙げる約束を交わしており、二人の間には、これから先の暮らしを思い描く穏やかな時間が流れていた。雛乃には汐音(しおね)という幼馴染がおり、三人で近くの茶屋に集うことも度々あった。汐音は明るく物怖じしない気性で、悠一のことも実の兄のように慕っていた。
ある夕刻、番頭に呼ばれた悠一は、一通の古い依頼状を渡された。差出人は、都から幾日も山道を越えた先、斎狩山地(さいかりさんち)の奥にある玄岳(げんだけ)に館を構える梟堂晄十郎(きょうどうこうじゅうろう)という人物だった。都に古くからある空き屋敷「灰月邸(はいづきてい)」を買い取りたいので、証文の取り交わしと現地での立会いのため、代書人を一人よこしてほしいという。文字は達筆で、言葉遣いも古式ゆかしく、依頼としては申し分なかった。
「変わった依頼だ。わざわざ山奥の主が、都の、それもあの陰気な屋敷を欲しがるとはな」
番頭はそう呟きながらも、添えられた報酬の額に目を細めた。灰月邸は数十年も買い手のつかなかった屋敷で、これが片付けば店の顔も立つ。悠一に否やはなかった。旅は骨が折れるが、これも身を立てるための仕事だと自分に言い聞かせた。
その晩、雛乃に暇乞いを告げると、彼女はいつになく眉を曇らせた。
「斎狩山地というと、昔、竜騎衆(りゅうきしゅう)がいたところでしょう。祖母がよく、あの山には今も何かがいる、迂闊に近づくものではないと言っていたわ」
竜騎衆――悠一も幼い頃、手習いの合間に聞いた覚えがある。幾百年か前、飢えた魔物「飢魔(きま)」が国中を荒らした時代、竜の姿を持つ武人たちが旗を掲げて立ち上がり、これを鎮めたのだという。今ではただの昔話、子供を寝かしつけるための言い伝えに過ぎない。悠一は笑って取り合わなかった。
「大丈夫だ。証文を交わして、すぐに戻る。それだけの仕事だよ」
そう言って笑う悠一の傍らで、汐音だけはなぜか黙り込んでいた。別れ際、汐音は珍しく真顔で、旅の無事を祈る御守りを悠一に持たせた。
旅の当日、山裾の宿場で馬を替えようとした悠一に、老いた馬子は妙な顔をした。
「玄岳のお館様の所へ? ……お客人、あすこの村の者は、日が沈む前に必ず戸を閉てる。玄岳のお方は、竜騎衆の頭領だったお方だという噂だが、今じゃもう、誰もその名を口にしやしない」
馬子はそれ以上を語ろうとせず、逃げるように背を向けた。峠道の途中、悠一は朽ちかけた小さな社の前を通り過ぎた。鳥居の柱には、二つの輪を重ねたような紋――双輪の紋(そうりんのもん)――が刻まれていたが、無残に削り取られ、かろうじて形を留めるのみだった。社の前には枯れた供物が置かれ、誰かが今も密かに手を合わせているらしいことが窺えた。誰が、何のために、これほど執拗にその紋を消そうとしたのか。悠一はその時はまだ、深く考えることをしなかった。ただ、山の空気が村里のそれとは異なり、木々の奥から絶えず何かに見られているような、うすら寒い気配だけを覚えていた。
山道はやがて人家も絶え、道端の石地蔵は苔むし、供えられた花はいずれも枯れ切っていた。荷を積んだ馬の足取りも重く、日が傾くにつれて霧が谷底から這い上がってくる。宿場を発つ前、旅籠の女将は悠一の荷に忍ばせるようにして、干した野薔薇の束を握らせた。
「気休めに過ぎませんがね。玄岳の風には、これを焚くといいと、うちの婆さまが言っておりました」
その言葉の意味を、悠一はまだ知らなかった。ただ、道々すれ違う木こりや猟師たちが、山を見上げては足早に通り過ぎていくのを見るにつけ、この土地に根を張る恐れの深さだけは、肌身に沁みて感じ取っていた。峠の頂きに立った時、眼下に広がる玄岳の山容は、夕焼けを浴びてもなお、どこか陰惨な赤黒さを湛えているように見えた。
二 玄岳館の宵
玄岳館(げんだけやかた)は、山の中腹に忽然と現れる、古めかしくも壮麗な館だった。石造りの回廊が幾重にも折れ曲がり、庭には手入れの行き届いた薔薇が咲き乱れているというのに、人の気配だけが不思議なほど薄い。出迎えた梟堂晄十郎は、白髪交じりの美丈夫で、深い声と、どこか人間離れした静けさを持つ人物だった。
「よく来てくれた、蒔田殿。この山奥までの道は容易ではなかったろう」
晄十郎の物腰は丁重で、書付の扱いにも精通していた。証文の文言について、悠一が舌を巻くほど博識な受け答えをする一方で、灯りを灯した部屋には鏡が一枚もなく、食事の膳には手をつけようとせず、ただ悠一が箸を進めるのを、じっと眺めているばかりだった。
「都の暮らしとは、さぞ賑やかなものだろうな。人と人とがひしめき合い、灯りが夜を消し去るという」
晄十郎はそう言って、遠い目をした。夜が更けるにつれて、その眼だけが妙な光を帯び、声の抑揚もどこか獣めいてくるのを、悠一は気のせいだと思い込もうとした。
滞在の二日目、悠一は書庫で証文の写しを整えるうち、隅に積まれた古い旅日誌を見つけた。何冊もの筆跡が入り乱れ、いずれも「玄岳館に招かれた客人」による記録らしかった。行商人、地図方の役人、若い絵師――日誌はどれも道半ばで唐突に途切れ、最後の記述はきまって「主はまだ休まれぬのか」「今宵もまた、あの唸り声が」という不安げな一文で終わっていた。それより先のページは、一様に破り取られていた。悠一は背筋に冷たいものを感じながら、日誌をそっと元の場所へ戻した。
夕餉の席で、悠一は思い切ってその日誌のことを尋ねてみた。晄十郎は微笑んだまま、盃を傾ける仕草だけを繰り返した。
「昔は、この館にもよく客があった。だが山を下りたきり、便りをよこさぬ者も多くてな。……都の暮らしは、それだけ人を忙しくさせるということだろう」
その答えに嘘はないのかもしれない。だが、悠一の胸には拭いがたい違和感だけが積もっていった。
館の奥には、誰も立ち入るなと固く言い渡された一角があった。悠一はある晩、寝つけぬままに廊下を歩き、うっかりその扉に手をかけてしまった。中は武具の間だった。埃を被った甲冑、朽ちた旗印――そこにもまた、双輪の紋があった。壁には古い絵が掛かっており、竜の姿をした武人たちが並び立つその中央に、ひときわ大きく描かれた一頭の竜がいた。銘には「竜騎将(りゅうきしょう)・颯牙(そうが)」とあり、傍らには、飢魔と呼ばれる異形の獣を打ち倒す勇壮な姿が描かれていた。悠一は背筋の凍る思いで、その絵と晄十郎の面差しの、あまりに似た輪郭を見比べた。壁際の棚には、色褪せた文が幾通も束ねてあり、宛名はいずれも遠い昔に没したはずの武将たちの名だった。誰にも届かぬ文を、晄十郎は幾百年も書き続けてきたものらしかった。
その夜、悠一は物音に目を覚ました。窓の外、月明かりの下を、巨大な翼を持つ影が過っていく。息を殺して覗き見たその先には、館の主であったはずの晄十郎の姿はどこにもなく、代わりに、絵の中の竜そのままの姿をした化生が、崖下で息絶えた鹿の骸に口を寄せていた。鹿の身はみるみる干からび、萎びていく。竜は一頻り貪ると、ゆっくりと首をもたげ、遠く都のある方角へ、飢えを湛えた眼差しを向けた。悠一は声も出せず、その場に凍りついた。
翌朝、何食わぬ顔で現れた晄十郎に、悠一は動揺を悟られぬよう努めたが、もはや長居は無用だと悟っていた。証文への署名はすでに済んでいる。暇乞いを申し出た悠一に、晄十郎は静かに微笑んだ。
「せっかくだ、もう数日、この山の景色を楽しんでいくといい。……都には、まだ行かねばならぬ理由がある。それが済むまで、お前にはここにいてもらわねば困る」
その言葉とは裏腹に、村へ下る唯一の道は、いつの間にか大岩で塞がれていた。使用人たちは誰も口を利かず、ただ悠一を遠巻きに見るばかりだった。夜な夜な、館のどこかから低い唸り声が響き、悠一は日に日に、逃げねば喰われるという確信を強めていった。
幾日か軟禁されたのち、嵐の晩、悠一は崩れかけた裏口の隙間に気づいた。雷鳴が館を揺らす中、彼は懐に汐音の御守りを握りしめ、雨に打たれながら急な斜面を転がるように駆け下りた。背後で咆哮が轟くたび、心の臓が縮み上がった。ようやく麓の宿場に辿り着いた時には、憔悴のあまり熱を出し、幾日も臥せることになった。
三 都に忍ぶ影
悠一が都へ戻った頃には、既に灰月邸には新たな主が越してきていた、という報せが届いていた。梟堂晄十郎――山奥の館の主が、都の社交の場に姿を現し始めたのだ。物腰柔らかで学識深く、諸国の珍しい話を語らせれば右に出る者がないというので、ことに若い娘たちの間で評判となった。雛乃の親友である汐音も、ある園遊会でその人物に紹介された一人だった。
園遊会の夜、灯籠の明かりの下で、晄十郎は汐音の手を取り、深々と頭を下げたという。
「まるで初めてお会いした気がしませぬ。どこか懐かしい、遠い場所の風を纏っておられる」
その一言に、汐音はすっかり心を奪われてしまった様子だった。
「不思議な方だったわ。お話ししていると、時を忘れてしまうくらい。悠一さんが山で会ったという方と同じ人だなんて、とても思えない」
汐音はそう言って頬を染めたが、悠一は青ざめた。まだ本調子ではない体を押して、彼は雛乃と汐音の家を訪ね、玄岳館で見たものを――化生の姿も、干からびた鹿の骸も、包み隠さず語った。にわかには信じ難い話に、二人は困惑するばかりだったが、悠一の必死な形相と、旅から戻って以来すっかり窶れた様子だけは、紛れもない本物だった。
「悠一さんの言うことを、頭から笑い飛ばす気にはなれないわ。ただ……」
雛乃は言葉を濁した。都の暮らしの中で、竜だ化生だという話は、あまりに現実離れしていた。汐音に至っては、むしろ悠一の心配性を宥めるように笑って見せるだけだった。
その頃から、汐音の様子が変わり始めた。夜な夜な寝室の窓辺に立ち尽くし、朝になると首筋にうっすらとした痣を残して、日に日にやつれていった。頬の赤みは失せ、笑い声にも力がなくなっていく。都で名高い医者が幾人も呼ばれたが、いずれも首をひねるばかりだった。
「脈は弱く、血の気も薄い。それでいて、これといった病の兆しは見当たらぬ。まるで、内側から何かに吸い取られているようだ」
そう言い残して匙を投げた医者もいた。汐音の母は日を追うごとに窶れ、雛乃は藁にもすがる思いで、竜の伝承に詳しいという老学者・蒐羅玄斎(しゅうらげんさい)を訪ねた。悠一もまた、玄岳館での出来事を証言するために同席した。
玄斎の書斎には、竜騎衆にまつわる古い記録が山と積まれていた。彼は代々、竜騎衆の記憶を守り継ぐ家の生まれだという。悠一の話を黙って聞き終えると、玄斎は深い溜息をついた。
「竜騎将・颯牙……。飢魔を鎮めたのち、共に戦った仲間の騎士たちは老い、次々と世を去った。ただ一頭、竜だけは老いることなく山に残った。守るべきものを失った孤独が、幾百年をかけて、あの者の裡を蝕んでいったのだろう。誇り高き守護者が、人の生気を糧とする捕食者へと堕ちるまでに、な」
玄斎は汐音を診て、その首筋の痣を検め、顔色を失った。
「これは颯牙の仕業だ。生気を吸われ続ければ、いずれ魂まで喰らい尽くされる。急がねばならぬ」
玄斎は双輪の紋を刻んだ古い護符を汐音の枕元に置き、時鐘草(じしょうそう)を焚いて部屋を清めた。颯牙にとって、双輪の紋はかつて自らが掲げ、そして裏切った誓いの証。その紋は、彼を退ける結界として今も力を残していると玄斎は説いた。護符を置いてからの数日は、汐音の顔色にわずかな赤みが戻り、家族一同は胸を撫で下ろした。
だが、それも束の間だった。汐音を案じるあまりの家人の不注意――高熱にうなされる娘のために、良かれと思って寝具ごと洗い替えてしまい、護符を片付けてしまったその夜――颯牙は寸分違わずその隙を突いた。翌朝、汐音は冷たくなって発見された。悲鳴が屋敷に響き渡り、雛乃はその場に泣き崩れた。悠一もまた、自分の警告が間に合わなかったことを、深く悔いずにはいられなかった。
四 蘇る渇きと双輪の紋
汐音の弔いから幾日も経たぬうちに、都の外れで幼い子供が何者かに生気を吸われる事件が相次いだ。夜道で行き倒れる者、朝になっても目を覚まさぬ乳飲み子――噂は瞬く間に都中に広がり、人々は日暮れとともに戸を固く閉ざすようになった。木戸番は夜回りを増やし、寺では厄除けの護摩を焚く煙が絶えなかったが、それでも被害は止まらなかった。玄斎は険しい顔で、悠一と雛乃を伴い、汐音が眠る納骨堂へと向かった。
「颯牙に魂を喰われた者は、その骸もまた渇きに囚われる。安らかに眠らせてやるためには、我らの手で終わらせねばならぬ」
玄斎の言葉に、雛乃は唇を噛んで頷いた。汐音を、あの姿のままにしてはおけない。それだけは、誰よりも彼女自身が望まぬことだと分かっていた。
夜半、納骨堂の奥で、悠一たちは変わり果てた汐音の姿と対峙した。生前の面影を残しながらも、その瞳には人としての光がなく、ただ渇きだけが宿っていた。汐音はゆっくりと三人に近づき、聞き覚えのある声で、悠一の名を呼んだ。その声のあまりの懐かしさに、悠一の腕は一瞬強張った。玄斎の手にした誓いの太刀(ちかいのたち)――竜騎衆のために鍛えられたという古い刀――が一閃し、汐音は静かな寝顔を取り戻して灰に還った。誰もが涙を堪えられなかったが、それは救いでもあった。雛乃は灰の中に手を差し入れ、幼馴染に別れを告げるように、長い間頭を垂れていた。
事はそれで終わらなかった。その現場に、颯牙自身が姿を現したのだ。人の形も保たず、鱗を纏った素顔のまま、彼は玄斎たちを見据えた。壁を這う影のように、その巨躯が松明の灯りを飲み込んでいく。
「双輪の紋を継ぐ者がまだいたとはな。……懐かしい。かつて、あの紋の下で幾つの命を守ったか、お前たちは覚えているか」
颯牙の声には、怒りだけでなく、深い疲弊と、遠い記憶への未練が滲んでいた。だがそれも束の間、颯牙の目は雛乃に留まった。その眼差しには、獲物を値踏みするような、冷たい光が宿った。
「その娘、汐音とよく似た気配を纏っている。……ちょうどいい、次の宿とさせてもらおう」
その一言で、悠一の中の恐怖は怒りに変わった。玄斎が結界の紋を掲げて颯牙を退けようとするが、颯牙は嗤い、爪の一閃で雛乃の首筋をかすめた。ほんのわずかに生気を奪われた雛乃はその場に崩れ落ちたが、命に別状はなかった。颯牙はそれ以上を望まず、明け方の気配を察して身を翻し、割れた天窓から夜空へ飛び去っていった。
「奴は玄岳へ帰るつもりだ。……あの山でしか、颯牙は本当の意味で安らげない。孤独に堕ちた場所に、渇きも連れて帰るのだろう」
玄斎はそう推し量った。雛乃の首筋には、汐音と同じ痣がうっすらと残っていた。放っておけば、いずれ同じ運命を辿る。悠一たちに、もう迷う時間はなかった。
五 竜騎の最期
三人は夜を日に継いで斎狩山地を目指した。行きに使った峠道は、帰りには恐怖よりも焦燥の方が勝った。雛乃は道中、時折うわごとのように颯牙の声を口にした――颯牙が奪った生気の欠片が、まだ雛乃の裡に残り、繋がりを保っているのだと玄斎は言った。悠一はその手を握り、決して離さなかった。峠を越える頃には、雛乃の額に浮かぶ汗も、悠一の胸を締め付けた。旅籠の女将にもらった野薔薇の束を焚くと、雛乃のうわごとがわずかに鎮まることに、悠一は気づいた。それだけが、道中に見出せたささやかな救いだった。
玄岳館に着いたのは、山の端に日が沈みかける頃だった。館は以前訪れた時よりも荒れ果て、庭の薔薇はすでに枯れ落ち、石畳の隙間からは名も知らぬ雑草が伸び放題になっていた。館の奥、武具の間で、颯牙は人の姿を保つ力さえ失いかけているのか、鱗を覗かせた異形の姿のまま、かつての己の絵姿の下に佇んでいた。壁に掛かった仲間たちの肖像だけが、朽ちかけた館の中で、なお色褪せずに残っていた。
「竜騎将・颯牙。あなたは今も、あの紋の下で誓いを立てた者のはずだ」
玄斎の言葉に、颯牙は一瞬、遠くを見るような目をした。絵の中の、かつての仲間たちの姿を見上げるように。
「誓いなどとうに擦り切れた。仲間は老い、朽ち、この山にはただ渇きだけが残った。それの、何が悪い」
颯牙は最後の力を振り絞り、悠一たちに襲いかかった。太い尾が石柱を打ち砕き、破片が雨のように降り注ぐ。玄斎は結界の紋を掲げながらも、老いた体では長くは支えきれず、片膝をついた。
「悠一殿、今しかない! 竜玉は喉の奥、鱗が薄く光る一点にある――」
叫ぶ玄斎の傍らで、雛乃は震える手で野薔薇の束を颯牙の面前へ投げつけた。かすかに怯んだ颯牙の隙を、悠一は見逃さなかった。玄斎の掲げる双輪の紋が颯牙の動きを鈍らせ、その隙に、悠一は誓いの太刀を颯牙の喉元、鱗の薄い一点――かつて竜騎衆の記録に「竜玉(りゅうぎょく)」と記された、生気を溜め込む核のありかへと突き立てた。
颯牙の咆哮が山々にこだました。崩れ落ちるその一瞬、颯牙の相貌に、かつて多くの命を守った竜騎将の面影がよぎった気がした。それは同情を誘うためのものではなく、ただ、長すぎた孤独と渇きの果てに、誇りを失った一頭の竜の、最後の姿だった。颯牙の体は鱗の欠片となって崩れ、明け初めた朝日の中に溶けるように消えていった。館全体を包んでいた重い空気も、それと共に嘘のように晴れていった。
雛乃の首筋の痣は、颯牙が滅びると同時に跡形もなく消え、彼女は静かな眠りから覚めるように意識を取り戻した。悠一はその肩を抱き寄せ、ようやく、長い旅が終わったことを実感した。崩れた武具の間には、朝日が差し込み、色褪せた竜騎衆の肖像だけが、静かに埃をかぶって残っていた。玄斎はその一枚一枚に、深く頭を垂れた。
「ようやく、眠れような。……お前もまた、あの飢魔と戦った勇者の一人だったのだ」
その言葉が誰に向けられたものか、悠一には分からなかった。ただ、山を渡る風が、心なしか穏やかになったような気がした。
あとがき
館を出た三人は、幾日もかけて都へ戻った。玄岳館は主を失ったまま朽ちるに任され、村人たちはようやく、崩れかけた社の鳥居に双輪の紋を彫り直した。竜騎衆の名は、もう恐れではなく、いつか国を守った者たちの記憶として語り継がれることになった。
悠一と雛乃は、翌春、約束通りに祝言を挙げた。祝いの席には、汐音の家族も招かれ、彼女の分まで幸せになると、雛乃は静かに誓った。玄斎は都に戻ることなく、竜騎衆の記録を後の世に残すため、山里に隠棲したという。斎狩山地では今も、風の強い夜には、遠くから低い咆哮のような音が聞こえると噂されるが、それを確かめに山へ入る者は、もういない。
ブラム・ストーカー「ドラキュラ」は、若き弁護士ジョナサン・ハーカーが、不動産契約のためトランシルヴァニアの城に住む吸血鬼ドラキュラ伯爵を訪ね、その正体を知って命からがら脱出したのち、伯爵が英国へ移り住んで娘たちを次々と眷属に変えていくのを、ヴァン・ヘルシングを中心とする一団が追い詰め、滅ぼす物語である。史実のドラキュラの名が、ヴラド公の父が叙勲された「竜騎士団」に由来するという史実背景を踏まえ、本作ではドラキュラ伯爵を、かつて竜騎士団を率いて国を守ったが、幾百年の孤独と渇きの果てに人の生気を貪る捕食者へと堕ちた古竜「颯牙」に置き換えた。土地取引で山中の館を訪れた代書人が正体を知って逃げ帰る展開、都へ移り住んだ竜が娘たちを狙う展開、老学者を中心とした一団が竜の弱点を突き止めて追い詰める展開まで、原作の骨格を竜の物語として移植しつつ、地名・人物名・道具立て・弱点の設定はすべて独自に創作した。原作の展開やプロットは参考にしたが、文章表現や逐語的な引用は行っていない。
本作はブラム・ストーカー(Bram Stoker)著『Dracula(ドラキュラ)』を参考にした翻案作品です。