物語り
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·読了目安 14分脇役

竜は穢れの真偽を語らなかった

大地竜連邦テラフォートの農村「聖泉の村」。竜を帯で引いた剣士像が守る共同井戸の水位が、祭りを前に不可解に下がり始める。レイブンは英雄譚と、岩陰に潜む老いた地竜自身の定かならぬ記憶とを併記し、真偽を断じぬまま村を去る。

一 聖泉の村、帯を引く剣士像

大地竜連邦テラフォートの街道を外れ、なだらかな丘をいくつか越えた先に、その村はあった。麦畑の緑が風にそよぎ、羊の鈴の音がのどかに響く、どこにでもありそうな農村。だが村の中心、共同井戸のかたわらに据えられた石像だけは、この村がただの農村ではないことを物語っていた。

旅装をまとった剣士が、片手に折れかけた槍を携え、もう片方の手には帯の端を握っている。その帯の先には、長い胴をくねらせた竜が、まるで従順な犬のように首を垂れていた。石はところどころ苔むし、輪郭も風雨に丸められていたが、剣士の眼差しの厳しさと、竜のうなだれた首の角度だけは、はっきりと見て取れた。

レイブンは記録帳を取り出し、まずその像を写し取った。

「珍しいでしょう、その像」

声をかけてきたのは、水桶を提げた中年の女だった。名をよく尋ねると、女はためらいがちに「グレタ」と名乗った。

「旅の記録者だとお見受けします。だったら、ちょうどいい時に来られた。三日後は泉迎えの祭りでね。あの像の由来を語り継ぐための、大事な祭りなんですよ」

「あの像は、いつからここに」

「さあ、何百年も前からだと聞いています。うちの村の子供なら、誰でも寝物語に聞かされる話です。詳しく知りたいなら、長老のオズウィン様を訪ねるといい。あの人が、いちばん詳しいから」

グレタはそう言いかけて、ふと言葉を切った。井戸のほうへ視線をやり、声を落とす。

「……ただ、正直に言うと、今年の祭りは、少し様子が違うんです」

「様子が違う、というのは」

「井戸の水位が、この半月ほどで目に見えて下がっているんです。こんなことは、私が物心ついてから一度もなかった。村議会でも、何か手を打つべきだという声が出ていましてね。……まあ、旅の記録者殿には関わりのない話でしょうけれど」

そう言って、グレタは足早に立ち去った。レイブンは記録帳に「帯を引く剣士像」「泉迎えの祭り」「不可解な水位低下」と書き加えた。祭りを控えた村の華やぎの底に、もう一つの緊張が横たわっているらしいことが、うっすらと感じ取れた。

石像の台座には、風雨に削られながらも、かろうじて読み取れる短い銘文が刻まれていた。「傷つけず、迎え入れよ」――それだけの、簡潔な一文だった。誰の言葉なのか、いつ刻まれたものなのか、銘文自体には何も記されていない。レイブンはその文字をなぞるように指でたどりながら、この村がいかに長い歳月、この一言を大切に守り続けてきたかを想った。

村を歩けば歩くほど、その違和感は色濃くなっていった。軒先には祭りの飾りが吊るされ、子供たちは木の枝を槍に見立てて竜退治の真似事に興じている。だがその賑わいの端で、井戸の周りにだけは、妙に人が寄りつかない。井戸を覆う古い石の蓋には注連縄に似た縄が巻かれ、その傍らには「立ち入り禁止」と記された真新しい木札が打ち込まれていた。

「あの井戸には、あまり近づかないほうがいいよ」

通りすがりの少年が、レイブンの視線に気づいて声をかけてきた。

「なぜですか」

「わかんない。でも、最近は大人たちがみんな怖い顔してあそこに集まってる。水が減ってるのは、竜様が怒っているからだって言う人もいる」

少年はそう言うと、友達の輪に駆け戻っていった。レイブンは記録帳に「竜の怒り、という噂」という一文を書き加えた。断片はまだ意味を結ばない。だが旅を重ねて培った勘が、この村には表向きの誇らしい伝承と、もう一つ別の不安げな囁きとが、同時に息づいているのだと告げていた。

宿を求めて坂を下る道すがら、レイブンは何度も井戸のほうを振り返った。夕闇に沈みゆくその輪郭は、静けさというより、何かに息を潜めているように見えた。

二 長老オズウィンの語る伝承

村はずれの、蔦の絡む小さな家で、長老のオズウィンはレイブンを温かく迎え入れた。節くれだった手で杯に麦酒を注ぎながら、老人はゆっくりと語り始めた。

「聖泉の村の始まりを知りたいのだね。ならば、あの井戸の話から始めねばなるまい」

オズウィンは、乾いた声で伝承を紡いでいった。

「大昔、この村の泉には一頭の地竜が棲みついていた。その息が水を穢すため、村人は羊を、やがて羊が尽きるとくじで選んだ娘を、泉のほとりに供えねば水を汲めなくなったという。ある年、時の族長バルドー様の娘、イレイン様がくじに当たってしまわれた」

「族長様の娘御が」

「ああ。イレイン様は覚悟を決め、泉のほとりに独り置かれた。そこへ、旅の剣士ヴァンス殿が通りかかった。彼は竜と一日一夜にわたる死闘を繰り広げ、深手を負わせた。そして――ここが肝要なところだ――竜を殺しはせず、イレイン様の帯を竜の首に結んで手なずけ、村まで引いて来たのだ」

オズウィンは杯を置き、窓の外に立つ像の方角へ、ちらりと目をやった。

「ヴァンス殿は、村人が竜を二度と傷つけず、家族として迎え入れることを条件に、竜の命を助けたと伝わっている。それがあの像の姿だ。討ち取った怪物を戦利品として引くのではなく、帯で結ばれた誓いを携えて歩く剣士の姿だよ」

「その後、竜はどうなったのですか」

オズウィンは、しばし黙り込んだ。

「そこが、我が村に伝わる、二つに割れた言い伝えなのだ。ある者は、竜はその後も村を守る神として生き続け、今も泉の奥でひっそりと見守っておられると語る。だが別の者は、結局は村人の恐れが勝り、いずれ竜は殺されて泉に沈められたのだと語る。……どちらの言い伝えも、代々の当主が同じように語り継いできたもので、わし自身、どちらが正しいのか判じかねている」

「二つの言い伝えが、同じ重みで残っているのですね」

「そうだ。祭りの表向きの口上では、前者――竜は守り神として生き続けている、という話をする。だが、夜の寄り合いなどでは、後者の話をする老人も少なくない。……特に、近ごろのようにな」

「近ごろ、というと」

オズウィンは、ふう、と息を吐いた。

「井戸の水が減っておるだろう。何十年に一度あるかないかの、日照りの巡り合わせに過ぎぬと、わしは思っておる。だが、こういう時に限って、『竜が殺されて沈められたというなら、その怨みが水を涸らしておるのではないか』などと言い出す者が現れる。逆に、『竜はまだ生きておられるのに、我々が誓いを疎かにしたから機嫌を損ねたのだ』と言う者もおる。……真逆の話のはずなのに、どちらも同じように村人の口の端に上る。困ったものだ」

「イレイン様の血筋は、今も」

「ああ、続いておる。代々の当主家系――今はハーヴィス家というが、イレイン様の帯を守り、泉迎えの祭りで竜との誓いを新たにする役目を負っておる。今代の当主の娘、アデール殿が、それを継ぐことになっている」

「そのアデール殿は、二つの言い伝えのうち、どちらを信じておられるのでしょうか」

オズウィンは、初めて小さく笑った。

「それは、本人に聞いてみるといい。わしよりも、よほど深く思い悩んでおるようだからな」

「長老様ご自身は、二つの言い伝えのうち、どちらを信じておられるのですか」

オズウィンは、しばらく杯の中の麦酒を見つめていた。

「正直に言えば、どちらでもよいのだと思うようになった。竜が生きていようと、とうに骨になっていようと、あの像が示す一言――傷つけず、迎え入れよ――だけは、変わらず守るべきものだとわしは思う。真偽を確かめることより、その心構えを絶やさぬことのほうが、この村にとってはよほど大事なのではないか。……もっとも、こんな悠長なことを言っておられるのも、水が涸れ始めるまでのことだったがな」

レイブンは、その言葉を丁寧に書き留めた。伝承の輪郭がはっきりと像を結ぶ一方で、その中心には、まだ埋まらない空白が残っているように思えた。

三 泉迎えの祭りと二つの声

翌日、レイブンは井戸の近くで、若い娘が縄の結び目を確かめているところに出くわした。名を尋ねると、娘は静かに「アデールです」と答えた。ハーヴィス家の当主の娘、イレインの血を引く現在の担い手だった。

「祭りの支度を」

「ええ。今年は、私が帯を結ぶ番なので」

アデールは、傍らに置かれた古びた帯――代々受け継がれてきたという、イレインの帯を模した品――を持ち上げ、そっと指でなぞった。

「祭りの晩、井戸の縁に竜を象った木彫りの像を吊るし、この帯を結んで、井戸の底へゆっくりと下ろすのです。誓いを新たにする、という意味で。……子供の頃は、ただの綺麗な儀式だと思っていました。今は、少し違って見えます」

「違って、というのは」

アデールは声を落とした。

「村議会の一部が、今年の儀式を変えようとしているんです。水位の低下を竜の祟りだと考える人たちが、『帯で迎え入れる』のではなく、『帯で縛り、二度と泉から出さぬよう封じる』儀式に変えるべきだと言い出して」

「封じる、という形に」

「ええ。中心になっているのは、村議会のコンラート様です。あの方は、竜が生きているにせよ死んでいるにせよ、今の水不足の原因はあの井戸の底にあるのだと確信しておられる。だから、もう迎え入れる誓いなど無意味だ、いっそ結界の縄をきつく巻き直して、二度と関わらぬようにすべきだ、と」

「あなたは、それに賛成できないのですね」

「はい」アデールは、帯を握る手に力を込めた。「うちの家に伝わる言葉が、私の中にはあるんです。イレイン様は、ヴァンス様が竜に結んだ約束を、ずっと大切に思っておられたと。……怖くて縛るのではなく、家族として迎えるという誓いだったはずなのに、今さらそれを裏切るような真似をしていいのか、私にはわからない」

昼下がり、レイブンはアデールの日々の営みに付き添った。祭りの供物を整え、傷んだ井戸小屋の屋根板を父親と共に修繕し、隣家の子供に読み書きを教える。その姿は、村の誰の目から見ても、ただの働き者の娘そのものだった。

「不思議なものですね」修繕の合間、アデールはふと手を止めて言った。「昼間はこうして、誰よりも村に馴染んで暮らしているのに、あの井戸のことになると、村の誰も背負わない重みを、一人で背負わされている気がすることがあります」

「怖くはないのですか。その務めが」

「怖くない、と言えば嘘になります。でも、井戸の底にいるものが誰かを害したという話を、私は一度も聞いたことがない。それを恐ろしいと決めつけて縛りつけることのほうが、私にはよほど怖いことのように思えるんです」

夕刻、レイブンは村議会の場にも立ち会う機会を得た。恰幅のよい壮年の男、コンラートは、乾いた声で議場に訴えていた。

「情に流されている場合ではない。井戸が涸れれば、来年の収穫は望めん。ハーヴィス家の言い伝えを軽んじるつもりはないが、村の暮らしを預かる身としては、いつまでも古い誓いに縋ってはおれんのだ」

その声には、単なる迷信嫌いの合理主義以上の、切実な焦りが滲んでいた。アデールも、それを分かっているからこそ、すぐには言い返せずにいるようだった。

「三日後の祭りで、儀式の形を最終的に決める」コンラートは締めくくった。「ハーヴィス家の誓いか、村の暮らしか。どちらを取るか、皆でよく考えてほしい」

議場を出たあと、アデールはしばらく無言で、井戸のほうを見つめていた。

「私一人で、決められることではないのは分かっています。でも……本当に竜が今もそこにいるのか、いるとして、私たちの誓いをどう思っているのか。それが分からないまま、縛るか迎えるかを決めるのは、あまりに乱暴な気がして」

その横顔には、単なる迷い以上の、静かな覚悟のようなものが滲んでいた。

夕餉の後、レイブンは井戸小屋の軒先で、アデールの父――ハーヴィス家の当主――とも短く言葉を交わした。当主は寡黙な男で、多くを語らなかったが、去り際にぽつりとこう漏らした。

「わしの代でも、水位が下がったことは二度あった。二度とも、雨が降れば元に戻った。……だが、今度ばかりは、コンラートの言うことにも一理あるのかもしれんとも思う。娘に重い荷を背負わせるのは、親として忍びないことだが」

その一言には、伝承を守りたい気持ちと、村の暮らしを案じる気持ちとの間で揺れる、当主自身の迷いがにじんでいた。レイブンは、アデール一人が背負っているように見えたこの問いが、実は村の大人たち一人一人の胸の内にも、形を変えて宿っているのだと気づかされた。

四 岩陰の老竜、消えない記憶

その夜、レイブンはアデールに頼み込み、井戸の奥へと続く隠し通路を教えてもらった。祭りの前に、自分の目で確かめておきたいという申し出を、アデールも拒む理由を持たなかった。二人は松明を手に、井戸の脇から地下へと続く古い階段を降りていった。

ひんやりとした岩の匂いと、遠く反響する水音だけが二人を包んでいた。長い階段を降りきると、そこには静かな水をたたえた地下の泉が広がっていた。天井の裂け目から差し込む月光が、水面に淡い筋を落としている。

水面が、ゆっくりと盛り上がった。

浮かび上がってきたのは、土色に鈍く光る鱗に覆われた、老いた地竜だった。長い歳月を物語る古傷が幾筋も刻まれ、それでも双眸の光だけは深く澄んでいた。

「……久方ぶりに、人の子が二人揃って降りてくるとはな」

低く響く声だった。アデールが、震える声で答えた。

「ハーヴィスの血を引く者です。……あなたに、直接お尋ねしたいことがあって参りました」

竜は、ゆっくりとアデールへ視線を向けた。

「イレインの血の匂いがする。……お前が、今代の担い手か」

「あなたのことを、正しく知りたいのです」レイブンが静かに口を挟んだ。「村では、あなたが――あるいは、あなたの先代が――かつて泉を穢し、村人を苦しめていたと伝えられています。それは本当のことなのでしょうか」

竜は、しばし黙り込んだ。水面に映る自らの姿を、じっと見つめている。

「……正直に言えば、わし自身にも定かではないのだ」

「定かでない、とは」

「わしが、本当にこの泉を穢していたのか。それとも、この泉が元々穢れていて、わしはただそこに棲みついていたに過ぎぬのか。あまりに遠い昔のことで、わし自身の記憶さえ、いずれが正しいのか判じかねる。……先代から聞かされた話なのか、それとも自分自身の記憶なのかすら、もはや定かではない」

「イレイン様の帯で手なずけられたことは」

「それは、確かに覚えておる。娘の帯が、わしの首に結ばれた温もりだけは、今も鮮明に残っている。人の子の恐れの中に、あの時だけは、恐れとは違う何かが混じっていた」

「剣士ヴァンス殿との約束――村人が二度と竜を傷つけず、家族として迎え入れるという誓いは。その後、実際に守られたのでしょうか」

竜の双眸に、複雑な色がよぎった。

「それも、判然とせぬ。しばらくの間は、確かに穏やかな日々があったように思う。だが、それがどれほど続いたのか、途中で何かが変わったのか、あるいは最後まで変わらなかったのか……わしの記憶は、そこで曖昧に途切れている」

「では、あなたは、あなたの先代が殺されて泉に沈められたという話については」

「それが真実なら、わしはその先代の記憶を、そのまま受け継いでいることになる。だが、もしそうでないなら、わしは代々の言い伝えを、まるで自分自身の記憶であるかのように思い込んでいるだけかもしれぬ。……竜の記憶というのは、人の子が思うよりずっと、伝え聞いたものと、自ら見たものとの境目が曖昧になるものなのだ」

アデールが、震える声で問いを重ねた。

「村の一部は、あなたが今の水不足の原因ではないかと恐れています。もしそうなら、私は帯で、あなたを封じねばならないのかもしれません」

竜は、静かにアデールを見つめた。

「わしが、この泉の水を涸らしているという証を、お前は見たか」

「……いいえ」

「わしにも、覚えはない。ただ、長い歳月を生きるうちに、地の底の水脈もまた、少しずつ姿を変えていくものだと、それだけは知っている。それが、村の暮らしの都合と重なった時、人の子は決まって、傍らにいる何かのせいにしたがるものだ。……それが真実である場合もあれば、そうでない場合もある」

「あなたは、私にどうしてほしいのですか」

竜は、しばし目を閉じた。

「わしは、裁いてほしいとも、庇ってほしいとも思わぬ。ただ、イレインの帯が結ばれたあの温もりだけは、偽りではなかったと、それだけは覚えていてほしい。……それ以上のことを、わしに問うても詮無いことだ。わし自身、答えを持たぬのだから」

「もう一つだけ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」レイブンは静かに続けた。「あなたは、ご自分がヴァンス殿に手なずけられた、その当の竜なのですか。それとも、その血を引くだけの、別の生き物なのですか」

竜は、わずかに双眸を細めた。

「その問いにも、確かなことは言えぬ。わしという生き物が、あの時の記憶をそのまま持ち越して生き続けているのか、それとも先代の記憶を受け継いだ末裔に過ぎぬのか――地竜の血は、時にひどく長く、時にひどく短く続く。わし自身、鏡を持たぬ身では、己の年輪を数える術を持たぬのだ」

「それでも、あなたはここに留まり続けている」

「留まる、というより、離れる理由を持たぬだけかもしれぬ。この泉は、わしにとって唯一知る場所だ。それが誓いゆえなのか、ただの習わしなのか、その区別さえ、もはやわしにはつかぬ」

その言葉を最後に、竜はゆっくりと水面の下へ沈んでいった。アデールは、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて静かに涙を拭った。

「……縛ることも、迎えることも、本当のところ、あの方自身にもわからないことだったんですね」

「そのようです」レイブンは記録帳を閉じた。「ですが、あなたが今、何をすべきかは、また別の問いかもしれません」

五 祭りの夜、結ばれた帯

三日後、泉迎えの祭りの夜が訪れた。広場には松明が並び、村人たちが固唾を呑んで井戸を囲んでいた。コンラートは最後まで、儀式を「封じる」形に変えるべきだと主張していたが、アデールは村議会の場で、静かに、しかしはっきりと自分の考えを述べていた。

「竜が水を涸らしている証は、どこにもありません。あるのは、私たちの恐れだけです。……私は、イレイン様の帯が結ばれた誓いの通りに、迎える儀式を行います。もしそれで水が戻らなくても、それは私たちが別の道――丘の反対側の水脈を探すなり、井戸を掘り直すなり――を探せばいいことです。誓いを破ってまで、確かでもない祟りに怯える理由が、私には見つかりません」

コンラートは、しばらく黙り込んでいたが、やがて重い息を吐いた。

「……分かった。だが、それで水が戻らねば、次の手はすぐに議会にかけてもらうぞ」

「もちろんです」

アデールは頷き、井戸の縁に歩み寄った。木彫りの竜の像を手に、代々受け継がれてきた帯を、静かにその首へ結んでいく。松明の炎に照らされたその横顔には、迷いよりも、静かな覚悟が浮かんでいた。

「イレイン様。あなたが結んだ誓いを、私も同じように結びます。恐れのためではなく」

帯を結び終えた像を、アデールはゆっくりと井戸の底へと下ろしていった。縄が擦れる音だけが、静まり返った広場に響いた。

その時、井戸の奥から、低く長い唸り声のようなものが響いた気がした。人によっては風の音だと言い、人によっては確かに竜の声だったと言った。真偽を確かめる術は、誰にも残されていなかった。

祭りが終わった翌朝、井戸の水位に劇的な変化はなかった。だが、その週の終わりに降った久方ぶりの雨が、少しずつ水位を戻し始めた。村人の中には、それを竜の応えだと語る者もいれば、単なる季節の巡り合わせだと語る者もいた。

出立の朝、アデールが見送りに来てくれた。

「あの方のこと、どう書き記すおつもりですか」

「二つとも、書き記すつもりです」レイブンは答えた。「泉を穢した怪物を剣士が討ち、その帯で手なずけたという村の誇らしい伝承と、竜自身がその穢れの真偽も、その後の約束の行方も、定かに覚えていないという証言と。どちらが正しいかを、私が決めることはできません」

アデールは、少し驚いたような顔をしたあと、静かに微笑んだ。

「それでいいと思います。あの方自身が、決めることができなかったことなのですから」

坂を下りながら、レイブンは何度も井戸のほうを振り返った。朝の光の中では、あの石像はただの古い石積みにしか見えなかった。それでも、水面の下で静かに沈んでいった老竜の双眸だけは、確かにレイブンの記憶に刻まれていた。

村を出る手前、レイブンは足を止め、記録帳の最後のページを開いた。

――竜は、穢れの真偽を最後まで語らなかった。自らが泉を穢したのか、ただそこに棲みついていただけなのか。約束が守られたのか、破られたのか。竜自身の記憶さえ、伝え聞いた話と自ら見た光景との境目を失っていた。それでも、帯が結ばれたあの温もりだけは、偽りではなかったのだと、竜は確かにそう言った。判じることのできぬ真偽の間に、それだけが、揺るがぬものとして残っていた。

麦畑を渡る風が、レイブンの記録帳の頁をめくった。振り返った先に、聖泉の村はもう小さく霞んでいた。

あとがき

本作は、聖ゲオルギウス(セント・ジョージ)と竜の伝承――ヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説』(13世紀)を中心にヨーロッパ全域に伝わる中世の聖人伝承――を下敷きにした翻案である。原典では、リビアの都市シレネ近郊の泉に棲みついた竜の息が疫病をもたらし、村人は羊を、やがてくじで選んだ娘を生贄に供えねば水を汲めなくなる。ある年、王女がくじに当たるが、旅の騎士ゲオルギウスが竜と対峙して深手を負わせ、王女の帯を竜の首に結んで従順にさせ、街まで引いて行く。ゲオルギウスは住民の改宗を条件に竜を討ち果たすという筋書きが、後の聖人伝の中核をなしている。

本作では、この逸話を大地竜連邦テラフォートの農村「聖泉の村」に置き換え、原典の結末――竜が改宗の証として討たれる――を意図的に開いたままにした。村に伝わる「竜は守り神として生き続けた」「結局は殺されて泉に沈められた」という二つの相反する言い伝えと、当の地竜自身が自らの記憶の真偽さえ判じかねているという証言とを併記することで、勝者の物語が語りたがらない空白を、あえて埋めずに残す構成を選んでいる。井戸の水位低下という現代的な危機を絡めたのは、古い伝承が現実の暮らしの不安と結びついたとき、人がどちらの物語を選び取るかという問いを、旅する観察者レイブンの記録に添えるための創作である。舞台となる村の名以外の地名・人物名(オズウィン、アデール、ハーヴィス家、コンラート、ヴァンス、バルドー、イレイン、グレタほか)は、いずれも本作のための創作であり、原典や特定の翻訳文からの逐語的な引用は行っていない。


本作はヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説』(The Golden Legend、13世紀成立、ウィリアム・キャクストン英訳版)に伝わる聖ゲオルギウスと竜の聖人伝承を参考にした翻案作品です。

本作はヤコブス・デ・ウォラギネ(Jacobus de Voragine)、英訳: ウィリアム・キャクストン(William Caxton)の『聖ゲオルギウスと竜(黄金伝説所収)』を参考にした作品です。原典