物語り
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竜は契約を語らなかった

大地竜連邦テラフォートの農耕集落「稲田の郷」には、八つの頭を持つ大蛇竜を討った剣士と救われた花嫁の英雄譚が伝わる。観察者レイブンが川上で出会った末裔の竜は、怪物ではなく古い契約の番人だったことをわずかに仄めかすが、真偽は語らないまま夕陽の郷に沈んだ。

一 稲田の郷、剣を祀る社

稲穂の匂いが、風に乗って遠くまで届く土地だった。

レイブンが稲代川沿いの谷を下っていくと、両岸に広がる田が黄金色に波打っているのが見えた。大地竜連邦テラフォートの内陸部、地図にはようやく小さな点で載る程度の集落「稲田の郷」は、しかしその実りの豊かさにおいて、決して小さな土地ではないらしい。畦道を行き交う村人の表情には、収穫を控えた者たちに特有の、忙しなくも満ち足りた張りがあった。

郷の中心、こんもりとした杜に囲まれた小さな社の前で、レイブンは足を止めた。柴垣の奥、拝殿の奥まったところに、一振りの古い剣が横たえられているのが見える。柄はすっかり朽ちかけ、鞘も失われて久しいのだろう、剣身には錆とも見紛う暗い光沢が浮いていた。それでいて、刃の線だけは、長い歳月を経てなお凛と保たれている。ただの飾り物ではない、何か確かな由緒を背負った品だと、一目で知れた。

拝殿の壁には、色褪せた絵が描かれていた。八つの頭を持つ、とぐろを巻いた巨大な蛇のごとき竜。その周りに並ぶ八つの大きな酒槽。そして、剣を手にした一人の男の姿。絵の隅には、これも判読しづらいほど薄れた墨書きで「契り」という一文字だけが、かろうじて読み取れた。その下にもう幾字かあったはずの銘は、風雨に晒されて完全に失われている。

記録帳を取り出し、レイブンは壁画の構図を手早く写し取った。旅を重ねるほどに、こうした古い絵や彫り物のたぐいが、口伝の言葉よりも雄弁に土地の記憶を語ることを、レイブンはよく知っていた。

社の前を掃き清めていた若い女が、箒の手を止めてレイブンを見た。旅装と記録帳に目をやり、興味深そうに小首を傾げる。

「記録屋さんですか。今の時季にいらっしゃるのは珍しいですね。ちょうど、収穫祭の支度で郷じゅうが浮き足立っているところですから」

「収穫祭、ですか」

「ええ。稲田の郷では毎年、稲刈りの後に大きな祭りを開くんです。この社に伝わる古い言い伝えを偲ぶ祭りでもあります」女はそう言うと、社の奥に横たわる剣へちらりと目をやった。「あの剣にまつわる話です。ご興味がおありなら、村の惣右衛門さまに聞くのが一番でしょう。あの方は郷の言い伝えなら誰よりもよく知っていますから」

礼を告げて杜を出ると、レイブンは郷の中を歩いてみた。家々の軒先には、収穫を祝う藁飾りがすでに下げられ始めている。子供たちが稲穂を束ねる真似ごとをしながら駆け回り、井戸端では女たちが祭りの料理の相談に花を咲かせていた。その賑わいの中に混じって、レイブンは小さな違和感をいくつか拾い集めた。すれ違う村人の何人かが、谷の上流――川が山あいへ消えていく方角へ、ふと視線を向けては、すぐに逸らす。祝祭の高揚だけでは説明のつかない、どこか落ち着かない気配が、その仕草には滲んでいた。

宿にたどり着き、荷を下ろすと、レイブンは記録帳の新しい頁を開いた。「稲田の郷。社に古い剣。壁画に八つ頭の大蛇竜と八つの酒槽。『契り』の一文字」。そして最後に、小さく書き添えた。「村人、川上の方角を避ける仕草」。窓の外では、実りを終えた田が、夕日を受けて燃えるような色に染まっていた。

夕餉の席で、宿の主人がふと漏らした一言が、レイブンの耳に残った。

「私の祖父は、収穫祭が近づくたびに、少し塞ぎ込んだような顔をしていたものです。理由を尋ねても、はぐらかされるばかりで。子供の頃は、ただ年寄りの気まぐれだと思っていましたが」

「今は、違うとお考えですか」

主人はしばらく黙って盃を傾けていたが、やがて小さく首を振った。

「さあ。祭りは祭りです。ただ、あの剣にまつわる話には、表に出てくる筋書きの他にも、何か語られていないものがあるような気がすることが、時折あるだけです」

それ以上は語らず、主人は空いた皿を片付けに立ってしまった。窓の外はすでに暗く、谷の向こうに連なる山影だけが、星明かりにうっすらと浮かび上がっていた。

二 惣右衛門の語る英雄譚

翌朝、レイブンは教えられた通り、郷の外れに住む惣右衛門という老爺を訪ねた。訪いを入れると、縁側で藁を編んでいた老爺が、皺だらけの顔をほころばせて迎え入れてくれた。土間には、刈り取ったばかりの稲束が幾つも積まれ、実りの季節の匂いが濃く満ちていた。

「あの剣の謂れを聞きに来なすったか」

「差し支えなければ」

惣右衛門は編みかけの藁を脇に置くと、湯呑みを二つ用意しながら、ゆっくりと語り始めた。

「大昔――といっても、この郷の暦で数えれば十数代も前のことになるが。この谷を流れる稲代川は、今よりずっと荒々しい川だったそうだ。毎年、稲刈りの季節が近づくと決まって水嵩を増し、田畑を押し流した。だが、それだけならまだ良かった。川上には、八つの頭と八つの尾を持つ大蛇竜が棲みついていてな。氾濫のたびに、郷は娘を一人差し出さねば、水はいつまでも引かないと言い伝えられていた」

「娘を、差し出す」

「そうだ。毎年一人。今の代の名主の家系――先祖代々、郷長を務めてきた一族には、七人の娘があった家があってな。上から順に六人までが、大蛇竜への供物として差し出され、二度と戻らなかったという。そうしていよいよ、末娘の稲羽という娘に順番が回ってきた年のことだ」

惣右衛門は湯呑みをすすり、続けた。

「そこへ、旅の剣士がふらりとこの郷を訪れた。名を颯馬という。諸国を巡り歩いていた剣の遣い手でな。娘の父母が泣く泣く事情を語ると、颯馬は『大蛇竜を討ち果たそう、その代わり、稲羽どのを妻にいただきたい』と申し出た」

「それで、大蛇竜はどうやって討たれたのですか。八つの頭を持つとなれば、並みの相手ではないでしょう」

「そこが颯馬の知恵の見せどころでな」惣右衛門は少し身を乗り出した。「颯馬は郷の者たちに命じて、八つの大きな酒槽を用意させ、それぞれに強い酒をなみなみと満たした。大蛇竜が現れると、八つの頭はそれぞれの槽に鼻面を突っ込み、争うように酒を飲み干した。やがて酔いつぶれて、その場に眠り込んでしまった。颯馬はその隙をついて剣を振るい、八つの首を次々と斬り落としたのだ」

「その剣が、社に祀られている剣なのですか」

「いや」惣右衛門は首を振った。「あの剣は、颯馬が最初から持っていたものではない。八つ目の尾を斬り裂いたとき、その中から、もう一振りの剣が現れたのだ。颯馬の剣の刃は、その尾の鱗の硬さにさすがに刃こぼれしていたそうだが、中から現れた剣だけは、傷一つなく輝いていたという。颯馬はその剣を郷に献上し、以来、郷の宝として社に祀られている」

「稲羽どのと颯馬どのは、その後どうなったのですか」

「夫婦になった」惣右衛門は目を細めた。「颯馬はこの郷に留まり、稲羽と共に田畑を興し、郷の礎を築いた。二人の子孫が、今の郷長の家系だ。だからこそ、あの剣は郷にとって、単なる武勇の証ではない。始まりそのものなのだよ」

レイブンは記録帳に、聞いた話を丁寧に書き留めた。「大蛇竜――八頭八尾。毎年の人身供物。剣士颯馬、酒で酔わせて討伐。尾より剣。始祖夫婦、颯馬と稲羽」。惣右衛門はそれを見て、満足そうに頷いた。

「良い話だろう。この郷の誰もが、子供の頃からこの話を聞いて育つ。収穫祭は、その颯馬の武勇と、稲羽が救われたことを祝う祭りでもあるのだ」

礼を告げて土間を出るとき、レイブンはふと尋ねた。

「収穫祭では、川に酒を献じる習わしがあると伺いましたが」

惣右衛門の表情が、わずかに翳った。

「ああ、それもある。大蛇竜を酔わせた酒にちなんだ、祝いの所作だ」

「祝いの、所作」

「……そうとも。それ以上でも、それ以下でもない」

惣右衛門はそう言うと、それきり口を閉ざし、また藁を編む作業に戻ってしまった。レイブンはその横顔に、先ほどまでの朗らかさとは違う、何か言葉を選ぶような硬さを見た気がした。

三 剣を継ぐ家、深まる違和感

社に戻ると、レイブンは拝殿の前を掃除する若い巫女――昨日声をかけてきた女――と再び行き会った。名をサキといい、颯馬と稲羽の血を引く郷長の家系の生まれで、幼い頃からこの社に仕えているのだという。

「惣右衛門さまから、始祖の話はもうお聞きになりましたか」サキは箒を壁に立てかけながら尋ねた。

「はい。見事な武勇伝でした。ですが」レイブンは少し言葉を選んだ。「収穫祭で川に酒を献じる習わしについて伺ったところ、惣右衛門さまの口が急に重くなったように見えました」

サキは一瞬、答えに迷うような間を置いた。それから、社の奥に横たわる剣へ目をやりながら、静かに言った。

「あの献酒は、単なる祝いの所作にしては、少し様子が違うんです」

「と、言いますと」

「収穫祭の夜、郷長の家の者が、社から川の畔まで酒瓶を運んで、川面に注ぐんです。私も子供の頃から何度も見てきましたが……あれは、勝利を祝う所作というより、何かに詫びているような、あるいは、何かをなだめているような手つきに見えるんです。頭を垂れて、声を潜めて。祝い酒を注ぐにしては、あまりにも恭しすぎる」

レイブンは記録帳のページをめくる手を止めた。

「毎年、必ず行われるのですか」

「ええ。一度だけ、私が子供の頃、日照りが続いて祭りの支度が遅れ、献酒の日取りが例年より半月ほど遅れたことがありました。すると、その年の初雪の頃、久しぶりに川が荒れて、下流の田が幾つか押し流されたんです。郷の者たちは、皆それを『あの年は献酒が遅れたせいだ』と噂しました。表向きは、大蛇竜はすでに討たれ、剣はただの記念の品だということになっているのに」

「討たれたはずの相手に、なぜ今も供物を捧げる必要があるのでしょう」

「それが、私にもよく分からないのです」サキは困ったように微笑んだ。「祖母は生前、この社を私よりずっと長く守っていました。あるとき、私が同じ疑問を口にすると、祖母は少し考え込んでから、こう言ったんです。『颯馬さまと稲羽さまの話は、確かに本当のことだろう。でも、それがすべてではないのかもしれないよ』と」

「他にどんな話があるのか、祖母さまは仰いましたか」

「いいえ。祖母はそこまでしか言わず、それ以上詳しくは語らないまま、私が嫁入り前の年に亡くなってしまいました。先代の郷長――私の祖父も、何か知っていたようですが、祖母の死後は、その話題そのものを避けるようになりました」

その日の午後、レイブンは郷の中をさらに歩き、収穫祭の支度に追われる人々に話を聞いて回った。多くの者は惣右衛門と同じ英雄譚を、誇らしげに、あるいは半ば儀礼のように語った。だが幾人かは、サキと似たような戸惑いを口にした。

畦道で稲を刈っていた中年の男は、鎌の手を止めてこう言った。

「うちの婆さまは、大蛇竜のことを『討たれた怪物』とは、あまり呼びたがらなかったな。むしろ、まるで年寄りが誰か懐かしい知り合いの話でもするような口ぶりで、『あの方』なんて言い方をすることがあった。子供心に、妙な違和感を覚えたのを覚えているよ」

井戸端で洗い物をしていた老女は、声を潜めてこう漏らした。

「あたしの家系では、颯馬さまが最初から大蛇竜を討つつもりで来たわけではない、という話も伝わっているよ。もっとも、大声で言うことじゃないけどね。ここだけの話にしておくれ」

その夜、宿に戻ったレイブンは、記録帳に集めた証言を並べて眺めた。「英雄譚(表)――颯馬、酒で大蛇竜を酔わせ討伐。剣士と花嫁、始祖となる」「違和感(裏)――今も続く献酒、恭しい所作、遅れれば氾濫。『あの方』という呼び方。祖母の仄めかし、『それがすべてではない』」。二つの記述の間に、まだ埋まらない隙間があることを、レイブンははっきりと感じ取っていた。

窓の外、月明かりに照らされた稲田が、風にざわめきながら谷の奥へと続いている。その先、山影の切れ込みの向こうに、稲代川の源流があるはずだった。

四 川上の主、仄めかされた契約

翌未明、レイブンは宿を出て、まだ夜の明けきらぬ谷を一人上流へと向かった。郷の者たちに道を尋ねると、誰もが一様に「あまりお勧めしません」という顔をしたが、それでも道筋そのものを教えてくれる者はいた。禁じられているわけではなく、ただ誰も好んで近づかない場所なのだろう。

田畑の続く道はやがて途切れ、川沿いの獣道へと変わった。両岸の切り立った岩肌が迫り、川音は次第に激しさを増していく。半刻ほど登ったところで、川はいったん大きく広がり、深い淵をなしていた。淵の奥、切り立った崖の下に、大きく抉れた洞のような窪みが見える。近づいてみると、そこには何か巨大なものが長い年月をかけて這い出入りしたような、擦れた跡がいくつも残っていた。

朝靄がまだ淵の水面を覆う中、水音とは違う何かが動く気配があった。レイブンが息を潜めて見つめる先、水面が大きくうねり、それを割って現れたのは、鱗の艶を失いかけた、一頭の年老いた竜だった。細長い体は、伝承にある八つの頭を思わせるほどの巨躯ではないが、水を割って現れたその姿には、確かに古い血を思わせる重々しさがあった。金色に濁った瞳が、じっとレイブンを見下ろす。

「久しく、この淵の奥まで人が来ることはなかった」

低く、地の底から響くような声だった。レイブンは震える手を落ち着かせ、素性を名乗った。

「各地を巡り、伝承を記録して回る者です。稲田の郷に伝わる、剣士颯馬と大蛇竜の話について、お尋ねしたいことがあります」

竜はしばらく沈黙していた。波紋がゆっくりと広がり、また静まっていく。

「その名を、久方ぶりに聞いた」

「あなたは、その大蛇竜と、何か関わりがあるのですか」

「血を分けた者だ、とだけ言っておこう」竜は静かに答えた。「詳しく語ることに、大した意味はない」

レイブンは焦らず、次の問いを重ねた。

「郷では、討たれた大蛇竜について、二つの見方が語られています。一つは、毎年娘を求めた恐ろしい怪物だったという話。もう一つは、それだけでは語りきれない、何かがあったのではという仄めかしです。真実は、どちらなのですか」

長い沈黙が落ちた。老竜の巨躯が、水面の下でゆっくりと身じろぎする気配だけが伝わってくる。

「討たれたことは、事実だ」竜はぽつりと言った。「剣士の腕は本物だった。それは否定しない」

「では、娘を毎年求めていたことも、事実なのですか」

竜は答える代わりに、深く長い息を吐いた。朝靄が、その息にわずかに揺れる。

「昔、この谷の水は、今よりずっと荒々しかった。稲刈りの季節が近づくたびに氾濫し、田畑を押し流し、時には人の命さえ奪った。それを鎮めるための、古い契りがあった」

「契り、というのは」

「大昔、この谷にまだ人が根づいたばかりの頃だ。ある取り決めが交わされた。毎年、実りの季節が来る前に相応の供物を差し出せば、川の主はその年の水を鎮め、氾濫を起こさぬようにする、と。それは、一方的に人を喰らう約定ではなく、双方が交わした契りだった」

レイブンは息を呑んだ。

「供物とは、娘のことですか」

「初めのうちは、そうだったのかもしれぬ。だが長い年月を経るうちに、その形は幾度も変わっていったはずだ。私が生まれる前のことゆえ、詳しくは知らぬ。ただ、私が物心ついた頃には、供物とはすでに、酒であり、穀物であり、時折は貴重な織物であった。人を求める契りは、とうの昔に形を変えていたはずだ」

「では、なぜ颯馬どのは、大蛇竜を討たねばならなかったのでしょう」

竜の瞳が、わずかに翳りを帯びた。

「契りを守る側と、契りを厭う側がいたのだろう。長く続く取り決めというものは、時が経つほどに、それを守り続けることへの疲れや、疑いを生む。差し出す側にとっては、豊かな年が続けば続くほど、なぜ今も供物を差し出さねばならぬのかという不満が募る。……その先に何が起きたのか、私は正確には知らぬ。ただ、契りを交わしていた者が、ある年、剣によって命を絶たれたことだけは確かだ」

「あなたは、その一部始終を見ていたのですか」

「いや」竜は静かに首を振った。「私が知るのは、伝え聞いた話に過ぎない。私自身は、契りを交わしていた当人ではない。ただ、その血を継ぐ者として、この淵に留まり続けているだけのことだ」

「なぜ、留まり続けるのですか。郷を離れ、どこか別の場所へ移ることもできたはずです」

竜の瞳が、初めて谷の下、郷のある方角へと向けられた。遠く、朝靄の切れ間に、田畑の広がりがかすかに見えている。

「あの郷の者たちは、今も収穫の前になると、この川に酒を注ぐ」竜は言った。「表向きは、討たれた怪物を偲ぶ祝いの所作だということになっているそうだな。だが、それは同時に、途切れることなく続いてきた、契りの名残でもある。……私がここを去れば、その所作はいずれ、本当にただの儀礼へと薄れていくだろう。それが良いことなのか、悪いことなのか、私には判じかねる」

「あなたが留まる限り、契りは今も生きているということですか」

竜はそれには直接答えず、ただ低く唸るような声を漏らした。

「契りが今も生きているのか、それとも、私一人がその名残に縛られているだけなのか。……その問いに、私自身、確かな答えを持たぬまま、幾百年もこの淵で過ごしている」

レイブンはなおも問いを重ねようとしたが、竜はゆっくりと巨躯を沈め始めていた。

「これ以上は語らぬ。語ったところで、討たれた者は戻らず、郷の暮らしが変わるわけでもない。お前が聞いたものを、どう記すかは、お前自身の仕事だろう」

「最後に一つだけ。あなたにとって、颯馬どのと稲羽どのの物語は、憎むべき話なのですか」

竜は水面下に消える寸前、かすかに――人には笑いとは映らないだろう、喉の奥の震えだけを残して答えた。

「憎しみだけならば、とうに、この淵を出て郷へ下っている。だが、そうしなかったということが、答えの一部にはなろう」

波紋だけを残して、竜の姿は水底へと消えていった。朝靄が晴れ始めた淵は、何ごともなかったかのように、ただ静かに水を湛えているばかりだった。

五 二つの記録を胸に

レイブンが郷へ戻った頃には、収穫祭の支度は最後の追い込みを迎えていた。刈り取られた稲穂が家々の軒先に積まれ、郷長の屋敷の前庭では、夜の祭りに使う篝火の薪が高く組み上げられている。子供たちは新しい藁沓を履いて駆け回り、女たちは祝いの膳を用意する手を止めなかった。

日が傾き始める頃、郷長の一族が社から剣を捧げ持ち、川の畔へと練り歩いた。惣右衛門をはじめとする村の古老たちがそれに続き、太鼓の音が谷にこだまする。サキも祭礼の装束に身を包み、行列の中ほどを歩いていた。レイブンはその様子を、少し離れた畦道から見守った。

川の畔に着くと、郷長が捧げ持っていた酒瓶を掲げ、朗々とした声で颯馬と稲羽の物語を語り始めた。娘を守るために剣を取った旅人、酒で酔わせた八つ頭の大蛇竜、剣士と結ばれた花嫁――誇らしい英雄譚が、夕暮れの空気の中に朗々と響き渡る。物語が結びに差しかかると、郷長は静かに膝をつき、両手で酒瓶を傾け、川面へとゆっくり酒を注いだ。

その所作は、確かにサキの言った通りだった。祝いの高揚とは異なる、深く頭を垂れた、恭しい手つき。周りに集う村人たちの表情もまた、笑顔の奥にどこか静かな緊張を湛えていた。太鼓の音が止み、しばらくの沈黙が流れたあと、ようやく郷長が顔を上げると、篝火の周りで再び笑い声と喧噪が戻ってきた。

レイブンは記録帳を開き、その光景を丁寧に書き留めた後、これまでに集めた二つの記述を並べて記した。ひとつは、郷に代々語り継がれる「剣士颯馬と大蛇竜の英雄譚」――娘を守るために怪物を討ち、救われた娘と結ばれて郷の礎を築いたという、誇らしい始まりの物語。もうひとつは、川上の淵で末裔の竜がわずかに仄めかした、「氾濫を鎮める代わりに供物を受け取る、双方の契りだったのかもしれない」という異説だった。

どちらが真実なのか、レイブンには判じようがなかった。怪物を討ち滅ぼした剣士の武勇と、契りを違えられた者の沈黙。二つの話は同じ剣、同じ川を指しながら、決して重なり合おうとしない。それでも、収穫祭のたびに繰り返される献酒の所作だけは、どちらの物語にとっても欠かせぬものとして、今日まで絶えることなく続いてきたのだった。

祭りが更けていく中、サキがレイブンのもとへやってきた。

「川上まで行かれたのですね。何か、お分かりになりましたか」

「わずかな仄めかしをいただいただけです。断定できるようなことは、何一つとして」

サキは少し寂しそうに、けれどどこか安堵したようにも見える表情で微笑んだ。

「それで良いのだと思います。祖母も、きっと同じようなことを言おうとしていたのでしょうから」

篝火が夜空を焦がし、太鼓と笛の音が谷いっぱいに響く中、レイブンはしばらくその賑わいに身を置いてから、静かに祭りの輪を離れた。翌朝、まだ祭りの余韻が残る郷を、レイブンは荷を背負って歩き出した。すれ違う村人たちは一様に、実り豊かな一年を迎えられたことへの安堵に満ちた顔をしていた。その安堵の裏に、今も川の奥でひそかに続いているかもしれない何かがあることを、郷の誰もが薄々知りながら、あえて口にしないでいるのかもしれなかった。

社の前で足を止め、レイブンはもう一度、あの色褪せた壁画を見上げた。八つの頭を持つ大蛇竜と、八つの酒槽、そして剣を手にした男の姿。「契り」という一文字だけが読み取れる、失われた銘。判断を下すことは、記録者の仕事ではない。ただ、聞いたものを聞いたままに、記し留めること。それだけが、レイブンにできる唯一のことだった。

谷を下る道の途中、レイブンは一度だけ振り返った。稲田の郷は朝靄の向こうに小さくなり、その奥、山あいの切れ込みには、まだ姿の見えぬ川上の淵が静かに横たわっているはずだった。実りの季節が巡るたびに、郷では颯馬と稲羽の物語が誇らしく語られ、そして同じ数だけ、酒が静かに川へ注がれ続けるのだろう。二つの記録を胸に抱えたまま、レイブンは次の道へと歩き出した。

あとがき

本作は、出雲国を舞台とする八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治の神話――『古事記』『日本書紀』に記された、スサノオが酒で大蛇を酔わせて討ち果たし、その尾から現れた剣(のちの草薙剣)を得て、救った娘クシナダヒメと結ばれたという伝承を下敷きにした翻案である。

原典では、スサノオの武勇とクシナダヒメとの婚姻が寿がれる物語として語られ、大蛇そのものの由来や、討伐に至った経緯の是非が問われることはない。本作ではその骨格を借りながら、「郷に代々伝わる誇らしい英雄譚」と「討たれた側の末裔がわずかに仄めかす、氾濫を鎮める古い契りだったという異説」という二つの視点を新たに設け、いずれが真実かを敢えて明かさないまま物語を閉じる構成とした。稲田の郷という架空の地名、惣右衛門・颯馬・稲羽・サキといった登場人物、対話の内容や献酒の儀式の細部は、すべて本作のための創作であり、原典の翻訳や逐語的な引用は行っていない。


本作は『古事記』上巻(https://ja.wikisource.org/wiki/古事記/上巻)および『日本書紀』に記された八岐大蛇退治神話を参考にした翻案作品です。

本作は作者不詳(『古事記』太安万侶編・和銅五年成立、『日本書紀』舎人親王ら編・養老四年成立)の『八岐大蛇退治伝説(古事記・日本書紀)』を参考にした作品です。原典