物語雳
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·読了目安 14分脇役

竜は声なき手を疑わなかった

声を持たぬ屋敷の下男が、増水の川辺で拾った衰弱した幼竜とだけ心を通わせる。だが夜ごとの唸り声が女主人の逆鱗に触れ、彼は己の手で最後の別れを選ぶ――喪失の果てに、初めて自らの意志で歩き出す静かな反逆の物語。

一 声なき下男

白樺荘の朝は、いつもコルヴィンの足音から始まった。

厩の扉を開け、馬たちに水を与え、薪を割り、井戸から水を汲む。誰よりも早く起き、誰よりも遅く眠る。それが、この屋敷における彼の役目であり、同時に彼の存在そのものだった。

コルヴィンは、生まれつき耳が聞こえず、言葉を発することもできなかった。麦生村で生まれ、母を早くに亡くした彼を引き取ったのは、当時の白樺荘の主人――今は亡きエルミーヌ夫人の夫だった。「体さえ動けば、口の利けぬ者の方がかえって都合がよい。余計な口答えをせぬからな」。そう言って笑っていたと、古参の使用人たちは語り継いでいる。皮肉なことに、その言葉は今も屋敷の中で生き続けていた。彼は屋敷の誰よりも重い荷を運び、誰よりも長く働かされ、そのくせ誰からも労いの言葉ひとつかけられることがなかった。もっとも、たとえかけられたところで、彼の耳には届かなかったのだが。

彼の体躯は並みの男の二人分はあろうかというほど逞しく、力仕事にかけては屋敷中の誰も敵わなかった。荷車を独りで持ち上げ、薪を一抱えどころか三抱えも運び、暴れる馬さえ片腕で押さえ込む。だがその圧倒的な力は、彼を恐れさせこそすれ、親しませることはなかった。他の使用人たちは彼を「白樺荘の熊」と陰で呼び、必要な用件以外で近づこうとする者はほとんどいなかった。夜、厨房の裏で食事を摂る彼の姿を、下働きの少年たちは遠巻きに眺めては、聞こえぬと分かっていながら悪態をついて笑い合った。それは残酷というより、幼い無知がなす、無邪気な排斥だった。

そんな彼にただ一人、屈託なく笑いかける者がいた。厨房で働く娘、リーサである。

「コルヴィン、今日も薪運びありがとう。手が悴んでるでしょう、これ飲んで」

温かい麦湯を差し出しながら、リーサは身振りを交えて話しかけてくる。コルヴィンは言葉を返せない代わりに、深く頷き、湯気の立つ器を両手で包むように受け取った。彼女だけが、身振りと表情だけで交わす彼との対話を、面倒だとも気味悪いとも思わなかった。それどころか、彼女は身振りの意味を覚えようとし、簡単な合図をいくつも二人だけで作り上げていた。手のひらを上に向ければ「大丈夫」、指を二本立てれば「もう少し待って」。誰にも理解されぬ孤独の中で、それだけが、コルヴィンにとって唯一の、言葉に代わる橋だった。

屋敷の主、エルミーヌ夫人は、気まぐれで知られていた。虫の居所が悪い日には些細な粗相で使用人を折檻し、機嫌のよい日には見知らぬ旅芸人にすら気前よく銀貨を投げ与える。先月も、古参の御者が長年可愛がっていた飼い猫が居間の敷物を引っ掻いたというだけで、夫人は「目障りだ」の一言で猫を捨てさせた。御者が涙ながらに猫を手放した夜、コルヴィンは厩の隅でその背をただ黙って見ていることしかできなかった。理不尽さに声を上げる術を、彼は持ち合わせていなかった。声を持たぬ者にできることは、ただ、見届けることだけだった。

その少し前には、庭師の老人が丹精込めて育てていた薔薇の茂みを、夫人が「今年の色は気に入らない」という理由だけで根こそぎ引き抜かせたこともあった。老庭師は何も言わずに従ったが、その晩、屋敷の裏手で長いこと膝をついていた姿を、コルヴィンは覚えている。白樺荘という場所は、誰の献身も、誰の丹精も、夫人の気分ひとつで容易く塵に還ってしまう場所だった。積み重ねた歳月に意味を持たせるかどうかは、いつも上に立つ者の胸三寸に委ねられていた。

屋敷は広大な敷地の中央に建ち、周囲には菩提樹の並木と、手入れの行き届いた庭園、そしてそれらを取り囲むように広がる森が続いていた。四季の巡りは美しく、春には並木道が新緑に萌え、秋には庭一面が黄金色に染まる。だがその美しさの奥で、使用人たちの日々は、常に主人の機嫌という見えない糸に操られていた。

その年の春、雪解け水を集めた灰硝川は、例年になく荒れた。濁流が土手を削り、下流の木々をなぎ倒しながら流れていく。屋敷の裏手を流れるこの川は、普段は穏やかな瀬音を響かせるばかりだったが、増水したその日ばかりは、地鳴りにも似た唸りを轟かせていた。もっとも、それを耳にすることのできぬコルヴィンにとって、川の恐ろしさは音ではなく、揺れる水面の色と、岸辺を洗う波の高さでしか測れないものだった。

増水の翌朝、屋敷の柵が崩れたとの報せを受け、コルヴィンは修繕の道具を担いで川辺へと向かった。空はまだ低く雲が垂れ込め、湿った風が頬を刺すように冷たかった。崩れた柵の残骸を片付けていた彼の視界の端に、小さな動きが映った。流木と枯れ草が絡み合う岸辺の窪みに、何かが蹲っていた。

近づいてみると、それは翼を持つ小さな生き物だった。灰褐色の鱗はところどころ剥がれ、片方の翼は不自然な角度に折れ曲がっている。濁流に揉まれ、力尽きる寸前といった様子で、荒い呼吸だけがかすかに鱗を上下させていた。竜だ、とコルヴィンは直感した。村の古老が語る、山奥の谷にのみ棲むという伝説の生き物。だが今、目の前にいるのは伝説などではなく、ただ弱り切った、一匹の幼い命だった。

彼は迷わなかった。上着を脱いで幼竜をくるみ、その小さな体を胸に抱き上げる。人間に対してであれば決して見せないはずの警戒心を、幼竜はなぜかコルヴィンに向けなかった。弱り切った金色の瞳が、ただじっと彼を見上げていた。

その視線を受けた瞬間、コルヴィンの胸の奥で、これまで感じたことのない何かが静かに疼いた。言葉を交わせぬ者同士が、言葉を介さずに何かを了解し合う――そんな予感だった。彼はその小さな重みを胸に抱いたまま、崩れた柵のことも忘れて、しばらくその場に立ち尽くしていた。

二 灰硝川の仔竜

コルヴィンは、幼竜を厩の屋根裏にひそかに匿った。誰も上がってこない干し草置き場の奥、屋敷の誰にも気取られぬ場所である。折れた翼には添え木をあて、麻布できつく固定した。傷が塞がるまでの数週間、彼は自分の食事を分け与え、夜ごと様子を見に上がった。

幼竜は、日を追うごとに元気を取り戻していった。折れた翼も、やがて危なげなく動くようになった。人語を持たぬコルヴィンと、まだ言葉というものを知らぬ幼竜――二人の間には、当初から不思議なほど滑らかな意思疎通があった。コルヴィンが干し草を運んでくる足音を聞き分けると、幼竜は喉の奥から低く小さな音を鳴らして迎えた。それは唸り声というより、甘えるような、親しみを込めた響きだった。

「また熊の旦那が、厩で唸ってるみたいだよ」

いつしか下働きの少年たちは、屋根裏から漏れ聞こえるその音を面白がって、幼竜のことを「グルル」と呼ぶようになっていた。むろん彼らはその正体が竜だとは知らず、コルヴィンが拾ってきた妙な鳴き声の獣とでも思っていたに違いない。コルヴィンはその呼び名を訂正する術も持たなかったが、不思議と、その名は幼竜にもよく似合っていた。

グルルが人間の言葉を解するようになるまでに、さほど時間はかからなかった。話せずとも、コルヴィンの手の動き、視線の向き、体の緊張や弛緩から、彼が何を求め、何を案じているかを読み取るようになっていった。夜、コルヴィンが疲れ切って屋根裏に上がると、グルルは彼の肩に鼻先をそっと押し当て、低く喉を鳴らした。それだけで、その日の疲れの幾らかが溶けていくのを、コルヴィンは感じていた。

ある夜、屋根裏の梁の隙間から差し込む月明かりの下で、コルヴィンは干し草に埋もれるようにして眠るグルルの背を、指先でそっとなぞった。鱗はもう傷だらけではなく、艶やかな光沢を帯び始めている。彼はふと、都で自分を見捨てた者たちのことを思い返した。人は裏切る。だがこの小さな竜は、彼の手だけを疑わずに信じ続けている。その事実だけで、コルヴィンの中の何かが静かに満たされていくようだった。

「コルヴィン、近頃なんだか顔つきが違うね。何かいいことあった?」

厨房の裏口で薪を渡しながら、リーサがそう尋ねたことがあった。コルヴィンは曖昧に頷くだけで、屋根裏の秘密を明かすことはなかった。だがその夜、彼は初めて、自分の胸に二つの温もりがあることに気づいた。リーサの笑顔と、屋根裏で待つ小さな命と。二つの光が重なり合うことで、声を持たぬ彼の日々は、思いがけず柔らかな色を帯び始めていた。

その均衡は、しかし長くは続かなかった。

夏の初め、屋敷に滞在していた遠縁の男爵が、リーサの器量を見初めた。「あの娘を、隣村の御者頭にでも嫁がせてやろう。ちょうどよい年頃だ」。エルミーヌ夫人は鷹揚にそう請け合い、まるで庭の花を誰かに切り分けてやるかのような気軽さで、縁談をまとめてしまった。相手は酒癖の悪さで知られる中年の男だった。

「私、行きたくない。でも、旦那様のお決めになったことだから……」

出立の朝、荷物をまとめたリーサは、涙をこらえながらコルヴィンにそう告げた。彼女の意思など、初めから誰も尋ねてはいなかった。コルヴィンは声を上げることも、彼女を引き止めることもできなかった。ただ、荷馬車が土埃を上げて遠ざかっていくのを、厩の前に立ち尽くしたまま見送るしかなかった。荷馬車が丘の向こうに消えるまで、彼は一度も瞬きをしなかった。声を持たぬ者にできる別れの作法は、それしかなかった。

その晩、コルヴィンは屋根裏に上がり、グルルの傍らに崩れるように座り込んだ。言葉にできぬ喪失感が、彼の体の奥から込み上げてくる。グルルは彼の異変を敏感に察したのか、いつもより長く、彼の腕に鼻先を擦り寄せてきた。声を出せぬ男の悲しみに、声にならぬ生き物が寄り添う。それは奇妙なほど自然な光景だった。夜が更けても、グルルはその場を離れようとせず、まるで彼の胸の内を丸ごと引き受けるかのように、静かに体を寄せ続けていた。

季節がひとめぐりする頃には、グルルは厩の屋根裏では手狭なほどに育っていた。翼を広げれば干し草の梁に届きかける大きさになり、夜ごとの唸り声も、以前よりずっと低く、腹に響くものへと変わっていった。コルヴィンはその成長を、誇らしさと、拭えぬ不安の両方で見つめていた。この静かな日々が、いつまで匿い通せるものか――彼自身、そう長くはないだろうと、どこかで悟っていた。

秋のある晩、屋敷の見回りをしていた下働きの一人が、厩の周りをうろついているところをコルヴィンに見咎められたことがあった。彼は身振りだけで相手を追い払ったが、その男が屋根裏から漏れる低い響きに気づいていたかどうか、確かめる術はなかった。それ以来、コルヴィンは屋根裏への上り口を、より頑丈な木箱で塞ぐようになった。だが、いくら人目を欺いても、グルルが日々大きくなっていく事実だけは、どうにも隠しようがなかった。

体が育つにつれ、グルルは飛ぶことを覚え始めていた。人目の絶える深夜、コルヴィンは彼を連れて森の奥、誰にも見つかることのない小さな空き地まで足を運んだ。月明かりの下、グルルはぎこちなく翼を広げ、地面を蹴っては数歩の高さを漂い、着地に失敗して転げる。そのたびにコルヴィンは駆け寄り、鱗についた土を払ってやった。何度失敗しても、グルルは怯むことなく翼を広げ直した。その姿を見るたび、コルヴィンの胸には、言葉にならない誇らしさがこみ上げた。誰に強いられたのでもなく、ただ自分の意志で空を目指すその姿は、彼自身がまだ持ち得ずにいる何かのようにも思えた。

ある晩、ようやく数十歩の距離を飛びきったグルルが、勢い余ってコルヴィンの胸に飛び込んできたことがあった。二人はもつれるように草の上に倒れ込み、グルルは満足げに喉を鳴らし続けた。空を見上げれば、雲間から星々が瞬いていた。声を交わさずとも、その瞬間だけは、確かに二人の間に笑いに似た何かが満ちていた。

三 唸り声、あばかれた匿い事

その夜は、月のない、ひどく静かな夜だった。

静けさゆえに、いつもより低く響いたグルルの唸り声は、離れの寝所にまで届いてしまった。眠りの浅かったエルミーヌ夫人が、その音に気づいたのは不運としか言いようがなかった。

「今のは、何の音だい。獣の唸り声のようだったが。まさか狼でも紛れ込んだのではなかろうね」

夫人に問い詰められた老僕のヨーゼフは、震えながら厩へと調べに向かった。長年この屋敷に仕え、夫人の機嫌一つで自分の立場が左右されることを骨身に染みて知る彼は、主人の不興を買うことを何よりも恐れていた。灯りを掲げ、木箱を退けて屋根裏を照らしたヨーゼフは、そこに眠る巨躯を目にした瞬間、声にならぬ悲鳴を上げて梯子を転げ落ちそうになった。

翌朝、夫人みずから厩を検分に訪れた。灰色の鱗に覆われた巨躯を目の当たりにし、夫人は悲鳴に近い声を上げて後じさった。

「なんという不気味な生き物を、勝手に飼っていたのだい! こんなものが屋敷内にいたなど、正気の沙汰ではない! 今すぐ始末しておしまい! 一刻たりとも、この屋敷にこんな化け物を置いておくわけにはいかない!」

コルヴィンは、その言葉の意味を、夫人の形相と指先の動きから正確に読み取った。始末しろ――それは、グルルの命を絶てという命令だった。彼は膝をつき、両手を合わせるようにして夫人に訴えた。声にならぬ懇願だった。だが夫人は苛立たしげに扇子を振るうと、踵を返して離れへと戻っていった。

「ヨーゼフ、お前が手配なさい。あの熊には任せられない。あんな図体の生き物に情でも移されては、いつまで経っても終わらないだろうからね」

命じられたヨーゼフは、下働きの男たちを数人集め、厩へと戻ってきた。手には縄や棒、鋭く尖らせた竹槍まで携えている。

「相手は竜だぞ。下手に近づけば、こっちがやられる。取り囲んで、一気に――」

「痛めつけて弱らせてから、川にでも放り込んじまえばいい。手間はかけたくないからな」

男たちの物言いには、恐れと、それを覆い隠そうとする粗暴さが滲んでいた。彼らの目に映るグルルは、心を通わせた命ではなく、ただの厄介な化け物に過ぎなかった。棒で小突き、槍で脅し、痛めつけながら追い立てようとする男たちの姿を想像しただけで、コルヴィンの胸は張り裂けそうになった。あの子は、痛みの意味さえ知らぬまま、恐怖だけを抱いて逝くことになる。それだけは、絶対に許せなかった。

彼は男たちの前に立ちはだかり、身振りで強く訴えた。自分に任せろ、と。両腕を大きく広げ、自分の胸を叩き、それから厩の奥を指し示す。ヨーゼフは戸惑いながらも、面倒事から逃れられるならばと、渋々頷いた。

「……分かった。だが、日暮れまでには片をつけろ。夫人の御前で、二度とあの声を聞かせるな。できなければ、次はお前の身がどうなるか分からんぞ」

その日の午後、コルヴィンは屋根裏でグルルと二人きりになった。彼は厨房からくすねてきた、グルルの最も好む蜜漬けの木の実と、脂の乗った干し肉を差し出した。グルルは何も知らぬまま、いつものように甘えた声を上げ、彼の手からそれを受け取っていく。その屈託のない仕草が、コルヴィンの決意を何度も揺さぶった。あと少しだけ、このまま何も知らぬ時間を続けさせてやれたら――そんな身勝手な願いが、幾度も胸をよぎった。

だが、他人の手にかかれば、グルルは苦しみながら死ぬことになる。痛みと恐怖の中、理解されぬまま追い詰められ、なぶられて終わる。それだけは、コルヴィンにはどうしても許せなかった。ならば、せめて自分の手で――信頼だけを知ったまま、安らかに逝かせてやりたい。それが、声を持たぬ彼にできる、最後にして唯一の献身だった。

ふと、リーサを乗せた荷馬車が丘の向こうに消えていった、あの朝の光景が脳裏をよぎった。あのときも、彼は何も守れなかった。声を持たぬがゆえに、誰の意思にも異を唱えられず、ただ大切なものが遠ざかっていくのを見送るだけだった。だが今度だけは違う。守れないのなら、せめて自分の手で終わらせる。それだけは、他の誰にも譲るつもりはなかった。膝の上で丸くなるグルルの温もりを確かめながら、コルヴィンは自分の中に、これまでになかった硬い決意が芯のように通っていくのを感じていた。

夕暮れ、コルヴィンは小舟に幼い頃から通い慣れた竿を積み、グルルを促した。グルルは疑う素振りひとつ見せず、いつものように彼の後をついてきて、素直に舟に乗り込んだ。彼の手が示す方角を、何の警戒もなく信じ切っていた。

灰硝川の水面は、夕陽を受けて燃えるような朱色に染まっていた。舟が岸を離れ、流れの緩やかな深みへと進んでいく間も、グルルはコルヴィンの膝に頭を預け、満ち足りたように喉を鳴らしていた。両岸の柳が夕風に揺れ、水面には千々に砕けた光の欠片が、絶えず形を変えながら流れていく。声を出せぬ男が、その日初めて、心の中で幾度も詫びの言葉を繰り返していた。すまない、すまない――届かぬと知りながら、それでも彼は繰り返さずにいられなかった。

深みに達した舟の上で、コルヴィンはグルルを両腕でしっかりと抱き寄せた。グルルは抗うことなく、むしろ甘えるように彼の胸に鼻先を埋めた。最後の瞬間まで、その金色の瞳に浮かんでいたのは、疑いの色ではなく、ただ深い信頼だけだった。声を持たぬ手が自分に何をしようとしているのかを知らぬまま、あるいは知っていてなお、グルルはその手を拒まなかった。

コルヴィンはゆっくりと水の中に身を沈めていった。冷たい流れが二人の体を包み込む。グルルの体から力が抜けていくのを、彼はその両腕にはっきりと感じ取った。抵抗も、恐怖の震えもなかった。ただ、最後まで彼に委ねきった、柔らかな重みだけがそこにあった。

やがて水面に小さな波紋が幾重にも広がり、夕陽の残照の中に静かに消えていった。舟の上には、コルヴィン一人だけが残された。彼はしばらくの間、濡れた両腕を見つめたまま、動くことができなかった。

四 麦生へ続く道

竿を握ったまま、コルヴィンはしばらく舟の上で動けずにいた。夕闇が川面を覆い尽くす頃、彼はようやく岸へと舟を戻し、濡れた竿を降ろした。

屋敷への道を、彼は歩かなかった。

濡れた上着のまま、コルヴィンは川沿いの道を、故郷である麦生村の方角へと歩き出した。振り返れば、白樺荘の灯りが夕闇の向こうに小さく揺れているのが見えた。長年、彼の生活のすべてがあった場所だった。だが今、その灯りは、もう彼を引き留める力を持っていないように思えた。

屋敷では、ヨーゼフが日暮れを過ぎても戻らぬコルヴィンを訝しみ、下働きの男たちを走らせた。だが川辺に辿り着いた彼らが見つけたのは、岸に引き上げられた小舟と、静かに流れ続ける灰硝川だけだった。

「熊の旦那、どこへ行ったんだ」

「知らんな。夫人には、竜は始末したとだけ伝えておけばいい。あとのことなど、どうでもいいだろう」

男たちは肩をすくめ、興味なさそうに屋敷へと引き返していった。誰も、コルヴィンの後を追おうとする者はいなかった。もとより、口の利けぬ下男の行方など、この屋敷の誰にとっても取るに足らぬことだったのだ。

コルヴィンは、ただ歩き続けた。夜通し歩き、足の裏に血豆ができても、休むことなく歩を進めた。誰の指図でもなく、誰かに命じられたのでもなく、自分の足が、自分の意志だけで選び取った道だった。生まれてこのかた、彼の毎日は常に誰かの命令によって形作られてきた。起きろと言われて起き、働けと言われて働き、そして昨日、始末しろと言われて、その通りにした。だが今この瞬間、彼の足を動かしているのは、命令ではなかった。

歩きながら、彼は幾度もグルルの重みを思い返した。腕の中で力が抜けていく、あの最後の感触。悲しみは薄れることなく、むしろ歩みを進めるごとに深く体に染み込んでいくようだった。それでも、その悲しみと共に、これまで感じたことのない静けさが、彼の胸の奥に確かに根を張り始めていた。誰かに支配されることのない、ただ自分だけの悲しみ。それは皮肉にも、彼が初めて手にした、自由と呼べるものの輪郭だった。

夜が明ける頃、コルヴィンは麦生村を望む丘の上に立っていた。眼下に広がる村は、朝靄の中でまだ眠りについている。かつて母と暮らした小さな家は、もう跡形もないだろう。それでも、この土地の空気だけは、彼の肺の奥に染み入るように懐かしかった。遠くで鶏の鳴く声がし、炊煙が一筋、朝の空へと立ち昇っていくのが見えた。

朝日が丘の稜線を越え、彼の背に長い影を落とした。振り返らずに、コルヴィンは丘を下り始めた。

村へ続く小道の脇には、見覚えのある野草が揺れていた。子どもの頃、母と摘みに来た花に似ている。コルヴィンは足を止め、しばらくその揺れを見つめた。言葉を持たぬ彼の記憶は、いつも匂いと手触りと光の加減だけで編まれていた。母の記憶も、リーサの記憶も、そしてグルルの記憶も、同じようにして彼の中に刻まれていくのだろう。声にならないまま、それでも確かな重みを持って。

灰硝川の水面には、朝の光がまだらに散っていた。その川底のどこかに、声を持たぬ男が最後に注いだ献身が、静かに眠っている。誰にも知られず、誰にも語られることのないまま。だが、その献身は確かに、一人の男の胸の中で、これまで誰にも折られたことのない何かへと形を変えていた。

コルヴィンは、二度と白樺荘に戻らなかった。その足取りに、迷いはなかった。

本作はイワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(Ivan Sergeyevich Turgenev)の『Муму(ムムー、1852年執筆・1854年『現代人』誌初出)』を参考にした作品です。原典