物語雳
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·読了目安 13分主役

竜は口づけを求めなかった

泉に沈めた黄金の毬を拾ったのは、拳ほどの小さな竜だった。同じ卓で食べ、同じ寝床で眠るという約束を、王女は渋々ながら最後まで守り抜く――呪いを解いたのは、愛の口づけではなかった。

一 泉のほとりの毬

蒼霞国の王城から森を抜けて半刻ほど下ったところに、誰に教わるでもなく人が集まる泉があった。水は底の小石が見えるほど澄み、夏でも凍えるほど冷たい。末王女の雫は、行儀作法の稽古から逃げ出したいときに決まってそこへ来た。

雫の手には黄金の毬があった。亡き母后の形見で、幼い頃から肌身離さず持ち歩いている宝だった。母の顔はもうおぼろにしか思い出せないのに、この毬を放り上げて受け止める仕草だけは、体が覚えていた。

「雫姫様、また稽古を抜け出して」

侍女のたよりが息を切らして追いついてきたときには、もう遅かった。雫が高く投げ上げた毬は、指先をかすめて弧を描き、泉の真ん中へ吸い込まれるように沈んでいった。

たよりは幼い頃から雫の乳母代わりを務めた女で、口うるさい反面、誰よりも雫の胸の内をよく知っていた。稽古の合間、たよりはよく古い言い伝えを聞かせてくれた。曰く、この泉は約束を映す鏡のようなもので、ここで交わした言葉は、たとえ誰も聞いていなくとも、水底に沈んだまま消えることはないのだという。子どもだった雫は半ば眉唾に聞いていたその話を、なぜか今日に限って思い出していた。

「――ああ」

短い声を上げただけで、雫はその場にへたり込んだ。水面は何ごともなかったかのように静まり返り、母の面影を映していた金色の光は、もうどこにも見えなかった。

「陛下に申し上げれば、新しい玩具くらいすぐにご用意くださいましょう」

たよりの慰めは、雫の耳を素通りした。あれは玩具ではない。母がいなくなってから、雫にとって唯一、誰にも取り上げられなかったものだった。

「あんな毬のひとつやふたつ、俺が拾ってやろうか」

不意に低い声がして、雫は飛び上がった。声のした岩陰を覗き込むと、拳ほどの大きさしかない小さな竜が、丸い目でこちらを見上げていた。炎のように赤みを帯びた鱗が、夕暮れの光を弾いて鈍く光っている。

「竜――それも、こんな小さな」

「小さかろうと、竜は竜だ。見くびるものではないぞ、姫」

雫は思わず笑いそうになった。国境の森の奥に竜が棲むという噂は幼い頃から耳にしていたが、こんな掌に乗るほどの大きさだとは、誰も語っていなかった。たよりが後ずさりながら雫の袖を引いたが、雫はしゃがみ込み、竜と目の高さを合わせた。

「本当に拾えるの、あの毬」

「造作もない。泉の底になら、いくらでも通う道がある」

「拾ってくれたら、褒美をあげる。金貨でも、宝石でも」

竜は喉の奥で小さく笑うような音を立てた。

「金なぞ、竜の巣には唸るほどある。俺が欲しいのは別のものだ」

「言ってみて」

「城に連れて帰り、俺を仲間として扱ってほしい。同じ卓で飯を食い、同じ寝床で休ませてくれるなら、毬を拾ってやろう」

あまりに他愛のない望みに、雫は拍子抜けした。皿の隅にでも置いてやればいい話だ。今すぐ毬さえ戻ってくるなら、安いものだった。

「いいわ、約束する」

雫がそう言うが早いか、竜は身を翻して泉に飛び込んだ。しばらくして水面に小さな波紋が立ち、竜は口に黄金の毬をくわえて岸に這い上がってきた。雫は転がるようにして駆け寄り、毬を抱きしめた。冷たい水を吸った毬は、いつもよりわずかに重く感じられた。

「約束を、忘れるなよ」

竜がそう呼びかけたときには、雫はもう毬を胸に抱いて森の小道を駆け出していた。たよりが慌てて後を追う。竜の声は木々のざわめきにまぎれ、振り返る者は誰もいなかった。

その夜、城の広間では、旅の吟遊詩人が古い唄を歌っていた。約束を違えた者には、いつか同じだけの報いが返るという、他愛もない教訓唄だった。雫はその唄を右から左へ聞き流し、取り戻した毬を寝台の脇に置いて、安らかに眠りについた。約束のことなど、もう頭のどこにもなかった。

その頃、国境の森ではもうひとつの噂がひそかに囁かれていた。旅商人たちの間で、夜な夜な小さな竜の唸り声が聞こえるという話や、行方知れずとなった隣国紅蓮国の若き王子が、何年も見つかっていないという話が、断片的に語られていた。蒼霞国の宮廷にまでは届かぬほど小さな噂ではあったが、そのふたつの話が、実はひとつの糸で繋がっていることを、この時まだ誰も知らなかった。

二 城門に立つもの

翌日の夕餉どき、城門の見張りが慌てふためいた様子で大広間に駆け込んできた。

「も、申し上げます。城門の前に、竜が――喋る竜が参っております。雫姫様にお目通りを願うと」

広間はどよめいた。二人の姉王女は扇の陰でくすくすと笑い、末の妹の突飛な話にまた尾ひれがついたのだろうと囁き合った。雫だけが、匙を持つ手を止めて青ざめた。

「私に、何の用だと」

「約束を果たしてほしいと、そればかりを」

国王の泰玄は、娘の顔色を見て何かを察したらしく、静かに問うた。

「雫、心当たりがあるのか」

雫は俯いたまま、昨日の泉での出来事をぽつぽつと語った。語り終える頃には、姉たちの笑いは消え、広間は水を打ったように静まっていた。

「約束というものはな、雫」

泰玄はゆっくりと立ち上がり、娘の前まで歩いてきた。

「たとえ相手が小さく、姿の醜い生き物であろうとも、一度口にしたものを違えてよい理由にはならぬ。おまえがその約束を交わし、毬を受け取った以上、王家の名において、それを果たさねばならぬ」

「あんな小さな生き物との口約束です。誰も見ていなかったのに」

「誰も見ていなければ違えてよいのなら、約束などという言葉はこの世に要らぬ」

父の声には、有無を言わせぬ静けさがあった。雫は唇を噛み、重い足取りで城門へ向かった。

門の前には、小さな竜がちょこんと座っていた。その傍らには、見慣れぬ旅装の男が一人、少し離れて佇んでいた。灰色の外套に身を包み、胸のあたりが不自然に膨らんで見える。男は竜には目もくれず、ただ城の様子を窺うように立っていた。

「よく来たな、姫」

「城の中へ。約束は、守るわ」

雫はそう言うと、竜を両手ですくい上げた。ひやりとした鱗の感触に、背筋がぞわりとした。旅装の男は雫たちが城内へ消えていくのを、じっと見送っていた。その視線に気づく者は、雫はおろか、竜自身も持たなかった。

夕餉の席で、竜は雫の皿の隣にちょこんと置かれた小皿から、行儀よく肉を摘まんだ。長姉の澪が扇の陰から囁いた。

「妹は、ずいぶんと変わった伴を連れてきたこと」

次姉の茜が、くすくすと笑いを堪えながら続けた。

「竜だなんて、物語の中だけの話かと思っていたけれど。まさか本当に城に上げるなんてね」

「約束したのだから、仕方がないでしょう」

雫が硬い声で言い返すと、姉たちは顔を見合わせ、それ以上は何も言わずに遠くの席へ移っていった。姉たちに悪気はないのだと、雫にもわかっていた。ただ、自分だけがこの奇妙な取り決めの重さを背負っていることが、無性に心細かった。雫は俯いたまま、味のわからない夕餉を無理やり喉に流し込んだ。

夜、寝室の扉が閉まると、竜は寝台の隅にちょこんと座った。

「同じ寝床で休ませてくれる約束だったはずだが」

「わかっている。わかっているから、そこにいて。それ以上、近づかないで」

雫は竜に背を向け、寝台の端に体を丸めた。鱗のこすれる乾いた音が、しばらく耳から離れなかった。

三 鱗の下の言葉

それから数日、竜は律儀に夕餉の席と寝室に姿を現した。雫は初め、口をきくことすら億劫だったが、竜のほうは意に介さず、勝手に喋り続けた。

「西の森には、月に一度しか花をつけぬ木がある。その根元には、迷い込んだ旅人の忘れ物が積もっている」

「知らないわ、そんな話」

「知らなくて当然だ。俺以外、誰も見たことがないのだから」

そんな他愛のない話が、いつしか夕餉の後の習わしになっていった。竜は森の奥に住む獣たちの噂話や、泉の底に沈む古い鐘の伝説を語った。雫は初めのうち聞き流すふりをしていたが、次第に自分から続きをせがむようになっていた。

「あなた、随分いろんなことを知っているのね」

「長く生きていれば、嫌でも耳に入る。特に、人に忘れられた話ほど、よく覚えているものだ」

竜の声には、時折、拭いきれない翳りが混じった。雫がそれを問い詰めることはなかったが、気にならないと言えば嘘になった。

ある雨の晩、外に出られず退屈していた雫は、棚の奥から古い盤上遊びの駒を引っ張り出してきた。母が生前よく興じていた遊びで、雫は駒の並べ方すら覚束なかった。

「これ、遊び方を知っている?」

「知らんな。だが、教えてくれるなら覚えよう」

雫がおぼつかない手つきで駒を並べ、見よう見まねで手ほどきをすると、竜は存外に筋がよく、二度目の勝負であっさりと雫を打ち負かした。

「ずるいわ、初めてのくせに」

「初めてだからこそ、余計な手癖に惑わされずに済む。おまえは、駒を守ることばかり考えすぎている」

「じゃあ、あなたはどうなの」

「守るべきものを見極めたら、それ以外はいくら失っても構わんと思うことだ。俺は昔、それができずに、大事なものまで一緒に取りこぼした」

雫は駒を並べ直す手を止めた。竜の声に混じる苦さに、続きを促したい気持ちと、これ以上踏み込んではいけない気がする気持ちが、同時に胸をよぎった。結局、その夜は何も聞かずに、もう一局だけ勝負をして眠りについた。

そんな夜が幾晩か続くうち、雫は竜のために小さな敷布を用意するようになっていた。寝台の隅、竜の定位置に、母の古い肩掛けを小さく折りたたんで敷いてやったのだ。

「これは、俺のためか」

「鱗が寝具にこすれる音が、うるさいだけよ」

竜はそれ以上何も言わなかったが、その夜からしばらく、寝台の軋む音は前よりも静かになった。

同じ頃、城下の宿には、灰色の外套の男が逗留していた。名は鉄斎と名乗り、旅の商人だと自らを称していたが、商いをする様子はまるでなかった。街の噂話に聞き耳を立て、竜の目撃談があると聞けば、どんな些細な話にも足を運んだ。彼の胸には、外套の下に隠された三本の鉄の箍が、きつく巻きついていた。

「城に、喋る小さな竜がいるそうだな」

鉄斎が居酒屋の亭主に尋ねると、亭主は苦笑いで答えた。

「ああ、雫姫様が泉で約束をなすったとかで。もう十日近く城に通っておいでだ」

鉄斎の目が、わずかに鋭さを増した。箍のひとつが、きしむような音を立てた気がした。彼はそれ以上何も言わず、静かに杯を置いて席を立った。

翌日、鉄斎は城の御用聞きに紛れて城内に入り込み、遠くから雫の後をつけた。廊下の角から覗き見た小さな竜の姿に、鉄斎は息を呑んだ。赤みがかった鱗、丸い目、喉の奥から漏れる笑い方――どれもが、記憶の奥底にある誰かの面影と重なった。だが確信を持つには、あまりに小さく、あまりに姿が違いすぎた。鉄斎はその日、声をかけることなく城を後にした。

宿に戻った鉄斎は、外套を脱ぎ、胸に巻いた三本の鉄の箍をそっと確かめた。焱がまだ幼かった頃、竜のようにたくましく育ってほしいという願いを込めて、傅役の鉄斎自身が誂えたものだった。皮肉にも、その願いは思わぬ形で叶い、そして王子は行方知れずになった。以来鉄斎は、主を捜し出せぬまま歳月を重ねる自分への戒めとして、その箍を片時も外さずにいた。

「もし、あの竜が本当に殿であるならば」

鉄斎は独りごちながら、窓の外の城の灯りを見つめた。だが、正体を明かすにはあまりに確証が乏しく、下手に騒ぎ立てれば、王女の立場を危うくしかねない。鉄斎はもうしばらく、静かに機を窺うことに決めた。

夜、寝室で、雫は珍しく自分から口を開いた。

「あなたには、帰る場所があるの」

竜は一瞬、答えを探すように黙り込んだ。

「――昔はあった。今はもう、わからん」

「どうして」

「約束を、破った。取り返しのつかない形で。それ以来、俺は俺自身の居場所を失った」

雫はそれ以上を尋ねなかった。竜の声に滲む苦さが、これ以上踏み込むなと告げているようだった。ただその夜、雫は寝台の端で丸くなる竜から、いつものように顔をそむけることをしなかった。ほんのわずかな距離を、自分から詰めたことに、雫自身が一番驚いていた。

四 壁に散った鱗

半月が過ぎる頃には、雫と竜の間には、言葉にしがたい奇妙な馴染みが生まれていた。それでも夜、鱗の乾いた感触が肌に触れるたび、雫の胸の奥には抑えきれない嫌悪がわだかまり続けていた。慣れることと、平気になることは、決して同じではなかった。

その日、隣国から縁談の使者が到着した。相手は歳の離れた老公爵で、雫の意志など初めから勘定に入っていない、政略のための縁組だった。泰玄は渋い顔をしながらも、国の事情を思えば無下にはできぬと告げた。

「父上、私には竜との約束が――」

「その話とこの話は別だ、雫。おまえがあの竜との約束を律儀に守っているのは、王として誇らしく思う。だが国のための縁組を拒む理由には、なりはせぬ」

泰玄の言葉に、雫は返す言葉を失った。約束を守れと諭したのも父なら、その約束と引き換えに得た小さな安らぎを、あっさりと切り捨てようとするのも同じ父だった。雫は自室に戻ると、寝台の上で膝を抱え、初めて声を殺して泣いた。

「今日は、機嫌が悪いようだな」

竜がいつものように寝台の隅に上ってきたとき、雫の中で何かが弾けた。

「あなたには関係ない。いいえ、あるわ。全部、あなたのせいよ。あなたなんかと約束したせいで、私はずっとこんな――」

言葉は途中で崩れ、雫は震える手で竜を掴み上げていた。鱗のひやりとした感触が、憎らしいほど手のひらに馴染んでいた。

「もう、うんざりなの。全部、うんざり」

叫ぶと同時に、雫は竜を渾身の力で壁に投げつけていた。乾いた音とともに、竜の体が壁に当たり、ずるりと床に滑り落ちる。

静寂の中、雫は自分のしたことに息を呑んだ。後悔よりも先に、行き場のなかった感情を吐き出してしまった、空っぽな安堵が胸を満たしていた。

床に転がった竜の体から、ぱりん、と乾いた音を立てて鱗が一枚剥がれ落ちた。続けて二枚、三枚――やがて赤い鱗はまるで殻のように次々と砕け散り、その内側から、若い男の姿が現れた。

雫が声も出せずに立ち尽くしていると、扉が乱暴に開き、鉄斎が転がり込んできた。異様な物音を聞きつけ、廊下を駆け抜けてきたのだった。

「――焱様」

鉄斎の声は、震えていた。床に座り込んだ若者は、ゆっくりと顔を上げた。

「久しいな、鉄斎。よくぞ、俺を見つけてくれた」

「見つけたのではございませぬ。ただ、諦めきれなかっただけのこと」

若者は隣国紅蓮国の王子、焱と名乗った。幼い頃、隣国の姫と交わした婚約の誓いを、身勝手な恐れから土壇場で破り捨て、城を飛び出して姿をくらませたのだという。その罪を、旅の魔女イバラに見咎められた。

「誰かがおまえとの約束を、最後まで守り抜くまで、竜のままでいるがいい」

魔女はそう告げて、焱を竜の姿に変えた。以来、焱は森を彷徨い、誰にも正体を明かせぬまま、長い歳月を独りで過ごしてきたのだった。

「俺は、待っていた。誰かが俺との約束を、最後まで守り抜いてくれる日を。だが正直に言えば、もう半ば諦めていた。姫、おまえが俺を投げつけたときも、俺はそれで呪いが解けるとは、露ほども思っていなかった」

雫は、震える声で問い返した。

「なのに、どうして」

「おまえは俺を厭いながらも、約束を違えることだけはしなかった。十日と幾夜、俺を遠ざけず、追い出しもしなかった。それが、俺との約束を最後まで守り抜くということだったのだと、今ようやくわかった」

鉄斎の胸元で、鈍い音が響いた。外套の下に巻かれていた鉄の箍の一本が、堪えきれぬ喜びに耐えかねたように、勢いよく弾け飛んだ。

「殿、ご無事で、よろしゅうございました……!」

続けて二本目、三本目の箍が、次々と音を立てて砕けた。鉄斎はその場に膝をつき、長年の重石から解き放たれたように肩を震わせた。

雫は言葉もなく、目の前の若者と、崩れ落ちた鉄の箍を、ただ交互に見つめていた。

五 泉のほとりで

騒ぎを聞きつけた泰玄が駆けつけたときには、事の次第はおおよそ収まりかけていた。焱は深く頭を垂れ、これまでの経緯と、自らの過去の過ちを、包み隠さず語った。老公爵との縁談は、隣国の若き王子が絡む思わぬ事態を前に、自然と立ち消えとなった。

城の者たちは、この一件を美しい恋物語として語りたがった。憎からず思っていた竜が、実は隣国の若き王子であったという筋書きは、誰の耳にも心地よく響いた。姉の澪でさえ、「妹はとんだ玉の輿ね」と半ば本気で羨ましがった。だが雫自身は、その語り口にどうしても馴染めなかった。

「私は、あなたを好いていたから約束を守ったわけじゃない」

婚礼の噂が城内にひそかに広まり始めた頃、雫は焱を伴い、久しぶりに泉のほとりを訪れていた。

「わかっている。むしろ、厭うておられた」

「それでも守ったのは、破ったら私が私でいられなくなる気がしたから。あなたのためじゃない」

焱は静かに頷いた。その横顔には、拗ねるでも落胆するでもない、どこか安らいだような色が浮かんでいた。

「それでいい。むしろ、そのほうがいい。俺は、口づけひとつで元に戻る甘い救いなど、端から望んではいなかった。誰かの気まぐれな愛情ではなく、誰かが自分自身の意地で貫いた約束によって救われる――それこそが、俺にふさわしい罰の解き方だったのだろう」

雫は毬を懐から取り出し、泉の水面にそっと浮かべた。母の形見の金色が、揺らめく水面に滲んで映った。

「あなたはこれから、どうするの」

「紅蓮国へ帰る。かつて俺が誓いを破った姫に、詫びを言わねばならない。竜の姿ですら顔向けできなかった相手に、人の姿に戻った今こそ、けじめをつけねばな」

「戻ってくるの」

「わからん。だが、もし戻るとしたら、それは約束のためではなく、俺自身がそう望むからだ」

雫は小さく頷いた。かつて交わした約束は、もう二人の間のどこにも残っていなかった。あるのはただ、それぞれが自分の意志で選び直すべき、これからの時間だけだった。

焱と鉄斎は、その日のうちに紅蓮国へ向けて旅立っていった。鉄斎は最後に一度だけ振り返り、雫に深々と頭を垂れた。三本の箍が砕けたあとの身軽さが、その足取りにも表れているようだった。

雫は城門で二人を見送った後、一人で泉のほとりに戻り、水面に浮かぶ毬をすくい上げた。冷たい水を吸った毬は、記憶よりもいくらか重く感じられた。かつてここで、他愛のない口約束を交わしたことが、まるで遠い昔のことのように思えた。あの日の自分は、まさかその軽い約束ひとつが、これほど長い夜と、これほど厄介な情を連れてくるとは、思いもしなかっただろう。

たよりが遠くから声をかけてきたが、雫はしばらく答えず、水面に映る自分の顔を見つめていた。父に叱られ、姉にからかわれ、竜を厭い、それでも約束を手放さなかった幾晩かの自分。その顔は、泉に毬を落としたあの日の自分とは、どこか違う色をしているように見えた。

森の梢がざわめき、遠くで小鳥の声がした。雫は毬を胸に抱いたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。何かが終わり、何かが始まろうとしている――そんな予感だけが、静かに胸の奥に残っていた。

あとがき

グリム童話「かえるの王様、または鉄のハインリヒ」は、泉に落とした金の毬を拾ってもらう代わりに交わした口約束を、王女が渋々ながら履行し、しびれを切らして蛙を壁に投げつけた瞬間、蛙が呪いを解かれた王子の姿に戻るという、契約の重みを描いた古典である。忠臣ハインリヒが主を案じて胸に嵌めていた三本の鉄の箍が、王子の変身とともに弾け飛ぶ場面も、原作の印象的な仕掛けのひとつである。

本作では、蛙を拳ほどの小さな竜に置き換え、原作の骨格――泉での取引、渋々ながらの約束の履行、壁に投げつけたことで解ける呪い、鉄の箍を持つ忠臣――はそのまま活かしつつ、竜自身がかつて誓いを破った罰でその姿に変えられていたという背景と、「誰かが自分との約束を最後まで守り抜くまで竜のままでいよ」という呪いの条件を独自に設定した。これにより、王女が竜を厭いながらも約束を守り抜いたことそのものが救済の鍵となり、原作の「約束を守ることの重み」というテーマを、竜自身の過去とも二重写しにしている。

結末についても、口づけや恋情によってではなく、王女自身の意地と誠実さによって呪いが解けたという原作の核を尊重し、あえて甘い恋物語としては閉じず、互いが自分の意志で選び直す関係の始まりとして幕を引いた。

登場人物名・国名(蒼霞国、紅蓮国)などはすべて独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は行わず、あらすじと構図のみを参照し、文章・情景・展開は独自に執筆した。


本作はヤーコプ・グリム(Jacob Grimm)、ヴィルヘルム・グリム(Wilhelm Grimm)著『かえるの王様、または鉄のハインリヒ(Der Froschkönig oder der eiserne Heinrich)』を参考にした翻案作品です。

本作はヤーコプ・グリム(Jacob Grimm)、ヴィルヘルム・グリム(Wilhelm Grimm)の『かえるの王様、または鉄のハインリヒ(Der Froschkönig oder der eiserne Heinrich)』を参考にした作品です。原典