物語雳
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·読了目安 15分脇役

竜は鎖を解かなかった

人を疑い処刑を繰り返す王に囚われた青年の身代わりに、竜が自ら人質となる。力ずくで鎖を破れるはずの竜は、なぜ動かなかったのか——太宰治『走れメロス』を翻案した信頼の物語。

一 山の友

ラダ村は、都イストリアから馬で二日ほど北へ分け入った、岩山と牧草地の境に開けた小さな村だった。羊の数のほうが人の数より多く、朝は霧が谷を這い、昼になるとようやく日が差し込んでくる。夜になれば、風が岩の裂け目を鳴らし、遠くの狼の遠吠えが谷を渡ってくる。そういう土地である。

ユーリは、その村で羊を追い、冬には猟をして暮らす青年だった。気は短いが、それは腹に何も溜め込めない性分のせいで、悪意というものをほとんど知らずに育った。困っている者を放っておけず、不公平を見ると前後の考えもなく口を挟む。村の年寄りたちには「お前はいつか、その気性で痛い目を見るぞ」と、半ば呆れ、半ば愛しむような調子でよく言われたものだった。もっとも、羊の扱いにかけては村一番で、迷い出た仔羊を崖際から救い出したことも一度や二度ではない。そういう不器用な誠実さを、村の誰もが知っていた。

彼にはマーシャという妹がいた。来月、隣村の若者のもとへ嫁ぐことになっている。母を早くに亡くしたユーリにとって、マーシャは妹であると同時に、家を守ってきた同志のような存在だった。父は寡黙な猟師で、山を教えてはくれたが、家事や祝い事の段取りはいつもマーシャが取り仕切ってきた。だからこそ、その婚礼だけは、何を措いても立派に見送ってやりたいと思っていた。

そしてもう一人、いや一頭、ユーリには生まれたときからの友がいた。村の裏手にそびえる岩山の中腹、洞窟に棲む竜――セレンである。

セレンは村の言い伝えによれば、ユーリの父の代よりもさらに前からその岩山に棲んでいるという。鱗は夕暮れの湖面のような灰青色をしており、翼を広げれば納屋の屋根ほどもある。だが村人たちがその竜を恐れることはなかった。物心つく前からユーリが岩山を駆け回り、その背によじ登って昼寝をしていたことを、誰もが知っていたからだ。冬には吹雪を避ける旅人が洞窟の軒先を借りることもあり、セレンはそのたびに、迷惑そうな顔をしながらも焚き火のひとつも起こしてやるような、そんな竜だった。

「今日は妙に静かだな、ユーリ」

洞窟の入り口で寝そべっていたセレンが、片目だけ開けてそう言った。低く、地の底から響くような声だが、その調子には親しみが滲んでいる。夕暮れの光が岩肌を橙色に染め、遠くの牧草地では羊たちが鈴の音を立てながら群れをなしていた。

「マーシャの婚礼のことを考えていた。あと三十日もない」

ユーリは岩に腰を下ろし、持ってきた干し肉をひとつ、竜の鼻先に放った。セレンはそれを器用に受け止め、噛み砕きながら唸るように笑った。

「お前が誰かの父親役をやるのか。それは見物だな」

「茶化すな。父さんがいない分、俺がちゃんとしてやらないと」

「わかっている。お前は昔からそうだ、ユーリ。誰かのために意地を張る。覚えているか、五つの頃、崖から落ちかけた仔羊を追って、お前自身が崖から落ちかけたことを」

「あれは、お前が羽で受け止めてくれなきゃ死んでた」

「そうだとも。だから私は今でも、お前の無鉄砲を見張っていてやらねばならん」

セレンはそう言うと、翼をゆっくりとたたみ、体の力を抜いた。二人――人と竜――の間に流れる沈黙は、気詰まりなものではなく、長い付き合いだけが持つ心地よさに満ちていた。谷を渡る風が、乾いた草の匂いを運んでくる。

その静けさに、しかし小さな翳りが差したのは、その日の夕方のことだった。行商人が村に立ち寄り、酒場で語った話を、ユーリは又聞きに聞いた。

「都では、この頃また処刑が続いているそうだ。王を裏切ろうとした者を捕らえては、次々に首を刎ねているとか」

「疑わしいというだけで、ろくに裁きもなく引っ立てられる者もいるらしい。先月などは、税の取り立てに文句を言った商人が、そのまま塔に放り込まれたと聞く」

村人たちは眉をひそめ、そそくさと話題を変えた。都のことは都のこと、山の向こうの出来事だ――誰もがそう思おうとしていたし、ユーリもまた、そのときはまだ、それが自分の身に降りかかることになるとは、露ほども考えていなかった。ただ、その夜、洞窟へその話を伝えに行くと、セレンは珍しく長いこと黙り込み、やがてぽつりとこう言った。

「人が人を疑いすぎる国は、いずれ自分の足元から崩れる。お前は都へ行くときは、気をつけろよ」

ユーリはそのときは軽く笑って聞き流した。まさか、その忠告が数日のうちに現実になるとは、思いもしなかったのである。

二 王都の刃

婚礼に必要な布と、マーシャが以前から欲しがっていた銀の髪飾りを求めて、ユーリは都イストリアへ下ることにした。片道一日半の道のりである。道中、峠を越えるたびに見える景色は、村の慎ましさとは対照的に、次第に石造りの塔や畑の広がりへと変わっていった。

イストリアの都は、ユーリが記憶している以上に静まり返っていた。市はいつも通り立っていたが、人々の声は低く、誰もが誰かの顔色をうかがうように話している。露店の商人たちは、値切り交渉すら小声で済ませ、通りを衛兵が横切るたびに、会話がぴたりと止んだ。理由は、都の中央広場に足を踏み入れてすぐにわかった。

そこには処刑台があった。縄で縛られた白髪の老人が、衛兵に囲まれて跪かされている。罪状を読み上げる役人の声が、広場に不釣り合いなほど朗々と響く。

「この者、王への謀反の疑いにより――」

「疑い、だと?」

老人の隣に立つ女が――おそらく娘だろう――悲鳴のような声を上げた。「父はただ、税のことで不満を漏らしただけです! 誰も殺そうなどとは! 父は、ただの機織りです、王様に刃向かう力なんて、指一本だってありません!」

役人は取り合わず、儀式的な手続きのように処刑を執行しようとした。周囲の群衆は、恐怖に凍りついたように、誰も声を上げなかった。誰かが小さく袖で顔を覆い、また別の誰かは目を逸らして子供の手を引き、その場を離れようとした。

ユーリの中で、何かが弾けた。彼は懐に忍ばせていた狩猟用のナイフに手をかけ、人垣を割って進み出ようとした。何をするつもりだったのか、自分でも判然としない。ただ、この理不尽を止めなければという思いだけが、彼の体を動かしていた。

だが、彼が三歩と進まぬうちに、屈強な衛兵の手が肩をつかんだ。

「懐に刃物を隠し持つ不審者だ! 王のおわす広場でとは、大した度胸だな」

「放せ! 俺はただ――」

ユーリの言葉は、もう誰の耳にも届かなかった。彼は取り押さえられ、そのまま王宮へと引き立てられた。石畳の廊下は冷え冷えと長く、両脇に並ぶ衛兵の槍が、ユーリの背に無言の圧力をかけ続けた。

謁見の間で、ユーリは初めてヴォルム王と対面した。玉座は高く、周囲には金の装飾が施されていたが、その豪奢さとは裏腹に、王は思ったよりも若く、しかしその目には、年齢に不釣り合いなほど深い疲労と猜疑が澱んでいた。

「愚かな田舎者め。この私を、あのナイフ一本で刺すつもりだったか」

「あの老人を助けたかっただけだ! 何をしたというんだ、あの人が!」

ユーリが叫ぶと、王は片頬だけで嗤った。玉座の傍らに控える廷臣たちは、誰一人として口を挟もうとしなかった。

「お前のような青二才には分かるまい。私はかつて、最も信頼していた側近に裏切られ、寝所で命を狙われた。血を分けた叔父同然の男だった。あの夜以来、私は誰も信じられなくなった。信じられるのは、疑い、断ち、恐れさせることだけだ。それが、この国を守る唯一の方法だと知った」

「そんなものは国を守っているんじゃない。ただ、あんた一人が怯えているだけだ。怯えを、民に押しつけているだけだ」

謁見の間に居並ぶ廷臣たちが息を呑んだ。誰かが小さく「不敬な」と呟いたが、それを咎める声すら上がらなかった。王の顔から、初めて薄い嗤いが消えた。彼はしばらくの間、王座の肘掛けを指先で叩きながら、遠い記憶を辿るような目をしていた。裏切られたあの夜、寝所に忍び込んだ側近の顔、灯りの落ちた廊下、駆けつけた衛兵の松明の匂い――そうした記憶の断片が、ユーリの言葉によって不意に呼び覚まされたのかもしれない。だがユーリは怯まなかった。王は、しばし黙ってユーリを見据えたのち、静かに言った。

「面白い。誰も、私に面と向かってそう言った者はいなかった。ならばお前にも、この老人と同じ罪を与えよう。三日後、日没とともに処刑する」

衛兵がユーリの腕を取り、地下の牢へと連れていこうとしたとき、王はふと思い出したように付け加えた。

「ただし――先の老人は、放免してやろう。お前の言い分にも一理ある。もっとも、それでお前の罪が消えるわけではないがな」

老人が連れ戻されていく足音を聞きながら、ユーリは石牢の暗がりの中で、ひとまず胸を撫で下ろした。少なくとも、あの理不尽だけは止められた。だが、次の瞬間には、自分自身の命がいくらも残されていないという事実が、ずしりと肩にのしかかってきた。

三 三日の約束

「待ってくれ」

ユーリは膝をつき、初めて声を落とした。石の床に額がつきそうなほど深く頭を垂れる。

「三日でいい。いや、あと三日だけ、待ってほしい。妹の――俺の妹の婚礼が、もうすぐなんだ。それを見届けさせてくれ。必ず戻ってくる。だから、頼む」

王の傍らに控えていた宰相カインが、薄い笑みを浮かべて口を挟んだ。頬骨の高い、いつも何かを値踏みするような目つきの男である。

「陛下、逃亡する魂胆に決まっております。人質もなしに解き放つなど、示しがつきませぬ」

「人質、か」

王はその言葉を面白がるように繰り返した。「よかろう。誰かこの男の代わりに、ここに留まる者はいるか。三日後の日没までにこの男が戻らねば、代わりにその者を斬る」

沈黙が満ちたそのとき、王宮の窓の外から、大気を震わせる咆哮が響いた。石造りの尖塔がびりびりと鳴り、廷臣たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。次の瞬間、灰青色の巨体が、王宮の中庭に轟音とともに舞い降りた。

セレンだった。ユーリが連れ去られたと聞きつけ、村から一昼夜かけて、翼を休めることなく飛んできたのだ。鱗のあちこちに、無理な飛行の証か、小さな擦り傷が滲んでいた。

「私が人質になろう」

セレンは、その巨躯に見合わぬ静かな声で言った。人語を解する竜など見たことのない廷臣たちは、恐慌をきたして武器を構えたが、王は片手を上げてそれを制した。

「竜が人語を話すか。しかも自ら人質を申し出るとは、近頃聞いた中で一番の見世物だ」

「ユーリは私の友だ。妹の婚礼に出させてやってほしい。三日待てば、必ず戻る」

カインが、興味深そうに目を細めた。

「陛下、これは一興ではございませんか。竜という生き物は、鎖など本気を出せば紙のごとく引きちぎれる力を持つと聞きます。逃げようと思えばいつでも逃げられる立場で、それでも待ち続けるかどうか――もし逃げれば、我らはこの男を処刑すればよいだけのこと。損はございません。むしろ、獣に情など通じぬということの、良い証となりましょう」

王は少し考え、やがて興味深そうにセレンを見上げた。

「竜よ、ひとつ聞かせろ。お前ほどの力があれば、この男に構わず、好きな山へ飛んで行けばよいだけのことだ。なぜ、たかが人間ひとりのために、そこまでする」

セレンは、しばし考えるように目を細めた。

「王よ、あなたは力の強さで、忠誠や愛情まで測ろうとしている。だが、それは違う。私がユーリのために留まるのは、私が弱いからではなく、私がユーリを友と選んだからだ。力があろうとなかろうと、選んだものを裏切らない――それだけのことだ」

王は、その答えに一瞬、虚を突かれたような顔をしたが、すぐにまた薄い笑みを取り戻した。

「よかろう。竜よ、お前を鎖につなぎ、刑場に留め置く。三日後の日没までにこの男が戻らねば、お前を殺す。逃げたければ、いつでも逃げるがいい――それがお前たち生き物の、本当の姿というものだろうからな」

セレンは静かに頷いた。ユーリは駆け寄り、その太い前脚に縋りついた。

「セレン、駄目だ、そんな……お前が代わりに殺されるかもしれないなんて」

「行け、ユーリ。マーシャの晴れ姿を、お前が見届けなくてどうする。それに」

セレンは低く笑うように喉を鳴らし、額をユーリの頭にそっと押しつけた。

「私は逃げない。逃げないと決めたら、逃げない。それだけのことだ」

その夜のうちに、セレンの首と四肢には、王宮の鍛冶が特別に打った鎖が繋がれた。星の光を弾いて鈍く光るその鎖を見上げながら、ユーリは唇を噛み、幾度も振り返りながら、都をあとにした。

四 帰路の嵐

婚礼は、涙と笑いに満ちた、良い式だった。マーシャは白い花を髪に飾り、隣村の若者と誓いを交わした。村の広場には即席の卓が並び、楽師が古い祝い歌を奏で、老人たちは若い頃の恋の話を肴に酒を酌み交わした。ユーリは兄として、精一杯の祝福を述べた。だが、宴もたけなわというところで、ユーリは席を立った。

「まだ帰るには早いだろう、兄さん。せっかくの日なのに」

マーシャが不思議そうに引き止めるのへ、ユーリはただ、「大事な約束があるんだ。お前は今日、思う存分笑っていろ」とだけ答えた。だが、その顔にいつもの軽口の色がないことに、マーシャは気づいていた。

「兄さん、都で何かあったんでしょう。ここ数日、様子がおかしい」

「何もない。ただ――」

ユーリは一瞬言葉に詰まり、それから無理に笑ってみせた。

「ただ、セレンが待っている。それだけだ。心配するな、お前は今夜だけは、俺の心配なんかせずに笑っていろ」

マーシャはそれ以上追及しなかったが、兄の背中を見送る目には、拭いきれない不安が滲んでいた。ユーリはそのまま振り返ることなく、夜の道を駆け出した。

村を出て半日ほど進んだところで、空模様が急変した。夏の終わりの嵐が、山の稜線を越えて襲いかかってきたのだ。いつもは涸れ川に近い渓流が、みるみるうちに濁流と化し、丸太橋を呑み込んで流し去ってしまった。雷鳴が谷にこだまし、雨粒は顔に礫のように打ちつけた。

ユーリは川岸を上流へ、下流へと走り回り、渡れる場所を探した。焦りが胸を焼く。日没までに戻らねば、セレンが殺される。その一念だけで、彼は増水した流れに飛び込み、渦に呑まれながらも、なんとか対岸の岩にしがみついた。息が上がり、肺が焼けるように痛んだが、休んでいる暇はなかった。

ようやく渓流を越えたと思えば、今度は昨夜の雨で緩んだ斜面が音を立てて崩れ、山道を塞いでいた。土砂の中を這うように越え、膝を擦りむき、掌から血を流しながら、ユーリは進んだ。途中、飢えた狼の群れに行く手を阻まれ、松明代わりの燃え木を振り回して追い払う一幕もあった。狼たちの目が闇の中で緑色に光り、消えていくのを見届けてから、ユーリはようやく肩の力を抜いた。

さらに進むと、峠道の途中で、荷を積んだ馬車が泥濘にはまって立ち往生している旅の一家に出くわした。幼子を抱いた母親が困り果てた顔をしているのを見て、ユーリは一瞬迷ったものの、車輪に肩を入れ、渾身の力で押し出してやった。礼を言おうとする一家に背を向け、ユーリは再び闇の中へ駆け出した。誰かを見捨てられない性分は、こんなときにも変わらなかった。もっとも、そのわずかな寄り道が、ただでさえ乏しい時間をさらに削ったことも、彼自身よくわかっていた。

夜が更け、体力は底をつきかけていた。木の根につまずいて倒れ込んだとき、ユーリの心に、初めて弱気な考えがよぎった。

――もう、間に合わないかもしれない。

――このまま、動けなくなって死んでしまうのなら、いっそ、ここで諦めてしまおうか。セレンには悪いが、竜だ。あの力があれば、鎖など本当に、いつでも引きちぎれるはずだ。土壇場になれば、きっと自分で自分を助けるだろう。それが道理というものではないか……。

そんな都合のいい言い訳が、疲れきった頭の中を渦巻いた。雨はいつしか小降りになり、雲間から星がひとつ、ふたつと覗きはじめていたが、ユーリの心はなお、泥の中に沈んだままだった。だがその瞬間、脳裏に蘇ったのは、幼い日、岩山の洞窟で共に過ごした無数の夕暮れだった。何も言わずとも隣にいてくれた、あの静かな体温。崖から落ちかけた自分を、翼で受け止めてくれた日のこと。「逃げないと決めたら、逃げない」と言い切った、あの声。

ユーリは歯を食いしばり、泥だらけの体を引き起こした。膝は震え、視界の端は霞んでいたが、それでも一歩を踏み出した。

「そんなわけがあるか。セレンは、待つと言った。俺が信じなくて、誰が信じる」

その頃、都の刑場では、宰相カインが密かに動いていた。彼は夜半、看守の目を盗んでセレンの鎖のひとつを、緩めておいたのである。松明の灯りを避け、刑場の陰から、彼はその巨大な影に囁きかけた。

「さて、竜よ。今なら誰にも見られていない。逃げるなら今のうちだぞ。誰も咎めはしない、そういう生き物なのだから」

カインにとって、これは一種の実験だった。あの竜が、ほんの少しの好機に逃げ出す様を、あえて演出しておけば――「ほら見たことか、獣に情など通じぬ」と、王の疑い深さを正当化する材料になる。そうすれば、これまでのように、疑わしい者を次々処刑する政治を、これからも続けやすくなる。それがカインの目論見だった。

セレンは緩んだ鎖に気づいていた。前脚を少し動かせば、それだけで鎖はあっけなく外れるだろう。だが彼は、鎖をかけ直すように、静かにその場に伏せ直した。

「お前の企みは知れている、宰相殿」

「……なに?」

「鎖が緩んでいることくらい、私には分かる。だが、私が待っているのは、鎖のためではない。ユーリのためだ。鎖があろうとなかろうと、私はここを動かない」

カインは、闇の中でその答えに気圧されたように、しばし言葉を失った。それから小さく舌打ちをすると、逃げるように立ち去っていった。夜風だけが、鎖の鳴る音とともに刑場を通り過ぎていった。

五 陽の沈むまえに

三日目の空は、朱色に染まりはじめていた。刑場には、王ヴォルムと廷臣たち、そして噂を聞きつけた民衆が集まっている。鎖に繋がれたセレンは、身じろぎもせず、西の空を見つめ続けていた。その目には、恐れも、諦めも浮かんでいなかった。

「日が沈むまで、あと僅かだ」

王が呟いた。その声には、隠しきれない落胆にも似た響きがあった。彼は、あの男が本当に戻ってくるとは、心のどこかでまだ信じていなかったのかもしれない。周囲の廷臣たちの間にも、ざわめきが広がりはじめていた。

太陽の縁が山の稜線に触れかけたそのとき、街道の向こうから、土埃を巻き上げて駆けてくる人影があった。

「――待ってくれ! まだだ、まだ日は沈んでいない!」

ユーリだった。全身泥にまみれ、着物は裂け、足はもつれ、それでも彼は走ることをやめなかった。群衆をかき分け、刑場に転がり込むようにして、セレンの前に膝からくずおれる。

「セレン……! 間に合った、か……?」

「ああ。間に合った」

セレンは、これまでで一番、優しい声でそう答えた。

「一時は、諦めかけた。お前を信じるより先に、自分の弱さを信じそうになった。すまない」

「それでも、お前は来た。それで十分だ。人は、誰しも一度くらいは弱気になる。そのたびに立ち上がれるかどうかが、すべてだ」

セレンはそう言うと、ゆっくりと首を垂れ、鎖に繋がれたままの額を、ユーリの肩にそっと押し当てた。巨大な竜と、泥まみれの人間が、刑場の真ん中で身を寄せ合う様を、誰もが息を呑んで見つめていた。

王ヴォルムは、玉座から立ち上がり、二人――いや、一人と一頭に近づいた。

「竜よ。鎖はとうに緩んでいたと聞いた。逃げようと思えば、いつでも逃げられたはずだ」

「その通りだ、王よ」

「なぜ、逃げなかった」

セレンは、静かにその瞳を王へ向けた。夕陽が鱗を照らし、灰青色の体を淡い金色に染めていた。

「逃げれば、私は生き延びられただろう。だが、ユーリの信頼を裏切ることになる。私にとって、それは死ぬことよりも恐ろしかった」

王は、長い沈黙のあと、かつて自分を裏切った側近の顔を思い出していた。あのとき自分が失ったのは、命を狙われたことそのものよりも、誰かを信じる力だったのかもしれない。目の前の竜と青年は、いともたやすく、王が長年手放していたものを体現してみせていた。

「……私は、間違っていたようだ」

王は、震える声でそう言うと、剣を抜き、セレンの鎖を自らの手で断ち切った。刃が鎖を打つ乾いた音が、静まり返った刑場に響き渡った。

「宰相カインより――いや、私自身がこの目で見た。お前は逃げる機会があってなお、逃げなかった。ならばこの国で、疑いだけを理由に人を裁く政治は、今日限りで終わりにしよう」

群衆から、堰を切ったようなどよめきと、拍手が沸き起こった。誰かが泣き、誰かが隣の者と抱き合った。王はユーリとセレンに向き直り、これまでの威厳を脱ぎ捨てたような、素朴な声で言った。

「一つ、頼みがある。私を、お前たちの友情とやらの、末席にでも加えてはくれまいか」

セレンは喉を鳴らして笑い、ユーリは泥だらけの顔のまま、久しぶりに晴れやかな笑みを浮かべた。

「望むところだ、王よ。友は、多いに越したことはない」

それから幾月かのち、ラダ村では新しい噂が語り草になっていた。都の王が、年に一度、供も連れずに山の岩山を訪れ、竜と人間の若者と、三人で酒を酌み交わしていくという噂である。真偽のほどは、村人たちにもよくわかっていない。ただ、都からの処刑の噂は、その年を境にぴたりと止んだという、確かな話も伝わっている。

そして、岩山の洞窟には今も、灰青色の竜が棲んでおり、夕暮れになると、決まって一人の青年が、その傍らで笑い合っている姿が見られるのだった。羊の鈴の音が谷に響き、風が乾いた草の匂いを運ぶ、いつもと変わらぬラダ村の夕暮れである。

あとがき

太宰治『走れメロス』における「人質」は、友の身を案じるメロスの疾走を支える、もう一つの信頼の物語である。原作では、力なき友セリヌンティウスが、ただ理不尽に耐えて待ち続けることで、その信頼の重さが際立つ。

本作では、その役をあえて竜――力においてはいつでも鎖を断ち切り得る存在――に置き換えることで、「信頼とは、逃げられる者が、あえて逃げないことによって証される」という主題を前面に出すことを試みた。弱い人質が理不尽に耐える物語から、強い者が自らの意志で留まり続ける物語へ。宰相カインという、忠誠を試そうとする第三者の存在も加えることで、その選択がただの偶然や運命ではなく、意志の力であることを強調した。原作の「信じられているから走るのだ」という一節と地続きの、しかし少し違う手触りの友情を、この一篇に込めたつもりである。


本作は太宰治『走れメロス』を参考にした翻案作品です。

本作は太宰治の『走れメロス』を参考にした作品です。原典