竜は待つことをやめなかった
天上の花園を守る古竜は、かつて強欲から村を焼き奈落に堕ちた我が子を、幾百年経てもなお忘れずにいる。生前ただ一度だけ虫の命を見逃した記憶を頼りに、古竜は己の銀髭を一本、奈落へと垂らす。
一 天上の花園、銀嶺の記憶
天と呼ばれるその場所には、季節というものがなかった。
いつ訪れても同じ温さの風が吹き、いつ見上げても同じ高さに雲が浮かび、花園を埋め尽くす白い花々は、咲いたまま散ることを知らなかった。花弁の縁からこぼれる光の粒だけが、時のかわりに、ゆるやかに地面へと降り積もっていく。踏みしめれば、素足の裏に淡い温もりが伝わってくるような、不思議な光の粒だった。その光を踏みしめながら、一頭の古竜がいつものように園の畦を歩いていた。
竜の名を銀嶺(ぎんれい)といった。全身を覆う鱗は、若い頃には青みがかった銀色をしていたというが、今では雪解けの水のような、透き通った白銀に変わっている。背丈は花園の最も高い木をも超え、翼を広げれば、園の半分を影で覆い尽くすほどだった。それでいて、歩く足取りはどこまでも静かで、花の一輪すら踏み折ることがない。長い首をゆっくりと巡らせるたび、鱗の隙間から、かすかに鈴を鳴らすような音が漏れる。それは銀嶺がこの花園を歩くたびに必ず立つ、いわば足音の代わりのようなものだった。銀嶺がこの花園の番人を務めるようになってから、数えることをやめてしまうほどの歳月が流れていた。
花園の番人という役目は、傍から見れば、この上なく穏やかな仕事に思えるだろう。花に水をやる必要もなく、害する獣もおらず、ただ在るだけで務めが果たせるように見える。銀嶺自身、長い間そう信じて疑わなかった。だが、この花園の際(きわ)まで歩くと、地面には裂け目のような穴が一つ、ぽっかりと口を開けている。縁に立って覗き込めば、底の見えない暗闇がどこまでも続いており、時折、地の奥深くから、獣とも人ともつかぬ呻き声のようなものが、微かに立ちのぼってくることがあった。花園の甘い匂いに混じって、そこだけ、焦げた土のような臭いが漂うこともある。里人たちがそれを何と呼ぶかを、銀嶺は知らない。だが銀嶺は、その穴の名を、誰よりもよく知っていた。
奈落。
銀嶺がその穴の縁に佇む時、決まって思い出すのは、遠い昔にこの花園で共に過ごした、一頭の仔竜のことだった。
「今日も、あちらを見ていらっしゃるのですね」
背後から声をかけてきたのは、この花園に古くから仕える花守の宵羽(よいは)だった。人よりもいくらか小柄な姿をしているが、その正体は花園そのものに宿る精霊だという。銀嶺が花園の番人になるよりもさらに前から、この地にいるのだと本人は語る。宵羽の足取りには重みというものがなく、歩くたびに、踏んだ場所の花がわずかに頭を垂れて礼をするように揺れた。
「癖のようなものだ」銀嶺は低く答えた。「もう幾百年になるか、数えるのもやめてしまったが」
「炎(ほむら)様のことでしょう」
宵羽がその名を口にすると、銀嶺の金色の瞳が、わずかに揺れた。炎というのは、銀嶺がかつて手ずから育てた、たった一頭の仔竜の名だった。花園の際に生まれ落ち、まだ翼も定まらぬうちから銀嶺の背に乗って空を飛びたがった、あの小さな竜のことを、銀嶺は今も昨日のことのように覚えている。
「あの子が奈落へ堕ちてから、もうどれほどになりましょうか」
宵羽の問いに、銀嶺はしばらく答えなかった。ただ、奈落の縁に生い茂る白い花を一輪、そっと鼻先で撫でるだけだった。花はその重みに耐えかねたように、ほんの少しだけ頭を垂れ、それでもすぐにまた、何事もなかったかのように天を仰いだ。花園の風はいつもと変わらず穏やかに吹いていたが、その日に限って、銀嶺には、どこか肌寒いもののように感じられた。
「宵羽よ。私はときどき考える。あの子を奈落へ堕としたのは、果たして正しい裁きであったのかと」
「正しかったかどうかは、私には分かりかねます」宵羽は静かに答えた。「けれど、銀嶺様が今も苦しんでいらっしゃることだけは、よく分かります」
銀嶺は答えず、ただ長い息を吐いた。その息は花園の風に混じり、やがて音もなく消えていった。
花園には、銀嶺のほかにも幾頭かの若い竜が住まうことを許されていたが、いずれも数百年も経てば、それぞれの持ち場を得て、地上や別の天へと巣立っていく。銀嶺だけが、この花園に根を張るようにして留まり続けていた。それは番人としての務めであると同時に、いつか奈落の縁で我が子の気配を感じ取れるかもしれないという、誰にも打ち明けたことのない、ささやかな願いのためでもあった。
「銀嶺様は、なぜそこまで奈落の縁にこだわられるのですか」若い竜の一頭が、かつてそう尋ねたことがある。「あの穴からは、もう何も上がってこないというのに」
「それでも、見ていたいのだ」銀嶺はそう答えるにとどめ、それ以上は語らなかった。若い竜は釈然としない様子だったが、それきり深くは問わなかった。銀嶺の横顔にある静かな翳りが、それ以上の言葉を拒んでいるように見えたからだという。
二 奈落に堕ちた仔と、一度だけの慈悲
炎は、生まれつき力の強い竜だった。
孵ったばかりの頃から、他の仔竜よりも一足も二足も速く飛ぶことを覚え、誰よりも早く炎を吐くことを覚えた。花園の空を飛び回っては、「父上、見ていてください」と何度も銀嶺の名を呼び、着地のたびに得意げに胸を反らせた。銀嶺はその成長を誇らしく思う一方で、炎の中に育っていくものに、ひそかな危うさを感じてもいた。力を持つ者は、力の使い方を学ばねばならない。銀嶺はそう説き続けたが、若い炎の耳には、その言葉はいつも半分ほどしか届いていないようだった。
「父上は臆病すぎます」ある日、炎は不満げに言い放った。「力があるなら、使えばいい。それの何が悪いというのです」
「力とは、使い道を誤れば、たちまち己をも焼き尽くす刃だ。お前にはまだ、その恐ろしさが分かっていない」
銀嶺の言葉に、炎はただ肩をすくめただけだった。その仕草の中に、既に父の言葉を軽んじる色が滲んでいたことに、銀嶺はその時まだ気づいていなかった。
それでも、炎が悪しき竜であったわけではない。花園の年下の仔竜たちの面倒はよく見たし、傷ついた小鳥を見つければ、わざわざ翼を休めてまで巣に戻してやることもあった。銀嶺はそうした一面を見るたびに、この子はきっと立派な竜になるだろうと信じて疑わなかった。ただ、炎の内には、優しさと同じだけの分量で、負けん気の強さと、他者に認められたいという渇きが同居していた。そのどちらが勝るかは、まだ誰にも分からなかった。
やがて年月が経ち、炎は花園を離れ、地上の空を自由に飛び回るようになった。時折、里の人々を助け、時折、彼らと言葉を交わし、里からは「炎の竜」と慕われてもいた。困っている旅人を送り届けたり、日照りに苦しむ田畑に雨雲を呼び寄せたりする炎の噂は、花園にいる銀嶺の耳にも、風に乗って届いていた。その頃はまだ、銀嶺の胸にも、確かな安堵があった。
だが、力とはひとたび振るう味を覚えると、際限なく求めたくなるものらしい。銀嶺のもとに届く噂は、少しずつ、色を変えていった。
──炎が、山向こうの村の宝物殿を襲った。 ──炎が、貢物を差し出さぬ村を、一夜で焼き払った。 ──炎が、己を敬わぬ者を許さぬようになった。
信じたくはなかった。だが、噂を確かめるために銀嶺が地上に降り立った時、目にしたのは、黒く焼け焦げた村の跡と、その中心に悠然と翼を休める、かつての我が子の姿だった。焼け跡には、まだ煙がくすぶっており、崩れた家々の残骸から、細く白い煙が幾筋も立ちのぼっていた。焼け跡に立ち尽くす銀嶺に気づくと、炎は悪びれる様子もなく、むしろ誇らしげにさえ言った。
「見てください、父上。この村の財は、もう誰にも渡しません。力ある者が、力なき者から奪って何が悪いのですか」
「炎、お前は何をした。ここに暮らしていた者たちは、どこへ行った」
「知りません。逃げたか、燃えたか。どちらでも構わないでしょう」
その言葉を聞いた瞬間、銀嶺の中で何かが静かに折れる音がした。説き伏せることも、叱ることも、もはや意味をなさないのだと悟った。銀嶺は長い咆哮とともに、我が子をその場に組み伏せ、天の裁きの力をもって、奈落の底へと堕とした。堕ちていく我が子の目に、最後まで浮かんでいたのは、恐怖でも後悔でもなく、ただ理解のできないという色だけだった。それは親としてなし得る、最後の、そして最も苦しい役目だった。
それから幾百年、銀嶺は花園の番人として、ただ静かに日々を送ってきた。奈落の縁に立つたびに、あの日の炎の声を思い出す。あの子は今も、あの暗闇の底で、血の池のような場所に沈んでいるのだろうか。それとも、とうに何もかも忘れ、獣のように吠えるだけの存在になっているのだろうか。銀嶺には知る術がなかった。
ある日、宵羽がふと、こんなことを言った。
「銀嶺様、覚えていらっしゃいますか。炎様がまだ幼かった頃、花園の隅で、一匹の羽虫を助けたことがありましたでしょう」
銀嶺は記憶をたどった。ずっと忘れていたはずの、あまりに小さな出来事だった。
あれは、炎がまだ翼も生えそろわぬ頃のことだ。花園の小道を歩いていた炎の足元に、一匹の弱った羽虫が力なく蠢いていた。羽の片方が破れ、もう飛ぶこともできずに、地面の上でただ小さく震えているだけの、名も知れぬ虫だった。他の仔竜であれば気にも留めず踏み潰していたかもしれないその羽虫を、炎はわざわざ足を止め、じっと見下ろした。
「踏んだら、可哀想だから」
炎はただそれだけを呟くと、鼻先でそっと羽虫を押しやり、花の陰へと逃がしてやった。そして何事もなかったかのように、また花園の奥へと駆けていった。銀嶺はその場面を、少し離れた木の陰から見ていた。取るに足らない、ほんの一瞬の出来事だったはずだ。褒めるほどのことでもないと、その時はそう思っていた。だが銀嶺の胸の奥には、なぜかその光景だけが、幾百年の歳月を経てもなお、消えることなく残り続けていた。
「あの子は、生涯であの一度だけ、見返りを求めずに小さな命を助けた」銀嶺は静かに呟いた。「それだけが、あの子が持っていた、たった一つの善行だったのかもしれない」
宵羽は何も言わず、ただ銀嶺の傍らに寄り添っていた。花園を渡る風が、二頭のあいだをゆっくりと通り抜けていった。
三 銀糸、奈落へ垂れる
その夜、銀嶺は久方ぶりに、奈落の縁へと足を運んだ。
月というものがこの天にはなかったが、花々の放つ淡い光が、夜のあいだも花園全体をぼんやりと照らしていた。裁く者としてではない。ただ、親として。銀嶺はそう自分に言い聞かせながら、長い首をもたげ、自らの顎に生えた一本の銀の髭に、そっと爪をかけた。それは花園の主たる古竜の証とも言われる、齢とともに伸び続けてきた特別な髭だった。抜けば二度と生え変わらぬと、宵羽からも幾度となく諭されてきたものだ。
「銀嶺様、それを失えば、あなた様の力もまた、幾許か損なわれましょう」
「知っている」
「それでも、なさるのですか」
「これは裁きではない」銀嶺は静かに、しかしはっきりと答えた。「裁きは、もう幾百年も前に下した。これは、あの子が一度だけ示した優しさに、親として応えたいだけのことだ」
宵羽はしばらく銀嶺の横顔を見つめていたが、やがて小さく頷いた。「承知いたしました。せめて、私はここで見届けさせていただきます」
「一つだけ、案じていることがある」銀嶺は奈落の縁を見つめたまま続けた。「あの子が、あの一度の優しさを忘れてしまっていたら、この糸は何の意味も持たぬだろう。それでも、私はこの手を止められない」
「銀嶺様がそう決められたのであれば、私に止める理由はございません」宵羽は静かに言った。「ただ、どうか、結果がどうであれ、ご自分を責めすぎませんように」
銀嶺はそれに答える代わりに、ゆっくりと目を閉じた。長い沈黙の後、再び開かれたその金色の瞳には、迷いの色は、もう残っていなかった。
一本の銀髭が、ぷつりと小さな音を立てて抜け落ちた。銀嶺はそれを大切に爪先で挟み、奈落の縁から、静かに底へと垂らしていった。髭は花園の光を受けて淡く輝きながら、糸のように細く長く伸び、やがて暗闇の奥へと吸い込まれるように消えていった。垂らし終えた銀嶺は、その場に伏せるように身を屈め、いつまでも縁を見つめ続けた。
奈落の底では、炎が血のように赤い沼のほとりに、力なくうずくまっていた。かつての誇り高い姿は見る影もなく、鱗はところどころ剥がれ落ち、翼も萎びて、もはや飛ぶこともままならない。周りには、炎と同じように堕ちてきた獣や、名も知らぬ亡者たちが、ひしめき合うようにうごめいていた。誰もが互いを見ることもなく、ただ苦しみの中でうずくまるだけの、果てのない時間だった。時折、遠くで何かが崩れるような重い音がしたが、誰もそちらを振り向きすらしなかった。
ふと、炎は自分の鼻先に、何かが触れるのを感じた。見上げると、暗闇の中を、一筋の銀色の光が、天から真っ直ぐに垂れ下がってきている。それは炎がまだ幼かった頃、父の顎の下で幾度となく目にした、あの懐かしい銀の髭に他ならなかった。
「……父上」
声にならない声で、炎はその名を呼んだ。長い間忘れていたはずの温もりが、胸の奥から急に込み上げてきて、炎は震える爪でその銀糸に縋りついた。糸は驚くほどしなやかで、それでいて驚くほど強く、炎の重みをしっかりと受け止めた。炎は残されたわずかな力を振り絞り、糸を伝って、ゆっくりと上へ、上へと這い登り始めた。周りでうずくまっていた獣たちが、ざわりと身じろぐ気配がしたが、炎はそれを気にする余裕もなく、ただひたすらに糸を握りしめていた。
四 我が身可愛さの叫び
登り始めてどれほど経ったか、炎にはもう分からなかった。
腕は痺れ、爪は幾度も滑りかけたが、糸だけは決して切れなかった。暗闇の底に沈んでいた重苦しい空気が、少しずつ薄れていくのを感じる。肌を刺すような冷たさが和らぎ、代わりに、遠い記憶にある花の香りに似た、かすかな匂いが漂い始めた。遠くにかすかな光が見え始めた時、炎の胸には、幾百年ぶりに、希望と呼べるものが灯った。
ふと、下から夥しい物音が聞こえてきて、炎は思わず振り返った。見れば、自分が這い登ってきたその同じ銀の糸に、無数の亡者や、堕ちた獣たちが、我先にと爪をかけ、後を追うようによじ登ってきているではないか。
「待ってくれ、俺も連れて行ってくれ」
「そこをどけ、俺が先だ」
口々に叫ぶ声が、暗闇の底から幾重にも重なって響いてくる。中には、炎がかつて見たこともない、ひどく痩せ細った獣の姿もあった。それぞれが、それぞれの重さと痛みを抱えたまま、ただ一本の細い糸に縋ろうとしていた。糸は依然として細く、頼りなく光っているだけで、これほど多くの重みに耐えられるとは、とても思えなかった。
すぐ真下で糸にしがみついていたのは、かつて炎が焼いた村の一つから堕ちてきたという、老いた狼だった。
「お前が誰だか、儂は知っている」老いた狼は、掠れた声で言った。「儂の仲間を焼き尽くした竜だ。だが、それを恨む力すら、儂にはもう残っていない。ただ、上に登りたい。それだけなのだ」
炎はその声に、束の間、胸を刺されたような痛みを覚えた。だがその痛みは、恐怖の大きさの前では、あまりに小さすぎた。炎は狼から目をそらし、ただ上へ、上へと続く光だけを見つめた。
炎の胸に、初めて冷たい恐怖が走った。この糸が、もし今にも切れてしまったら。自分は再び、あの底なしの暗闇へと引き戻されてしまう。積み重ねてきたわずかな希望が、指の隙間からこぼれ落ちていく感覚に、炎は総毛立った。
「――待て、これは俺の糸だ」
気づいた時には、炎はそう叫んでいた。喉から絞り出されたその声は、自分でも驚くほど醜く歪んでいた。
「俺だけの糸だ、下りろ。俺が父上から許されたのだ、お前たちには関わりのないことだ」
その叫びに応えるように、糸を掴む無数の手が一瞬たじろぎ、動きを止めた。ある者は目を伏せ、ある者は炎を見上げたまま、何かを訴えるように口を動かしたが、声にはならなかった。だが炎の心には、彼らを気遣う余地など、もはや欠片も残っていなかった。ただ、この糸が切れて、二度と光の届かぬ底へ引きずり戻されることだけを恐れていた。あの一度きりの、小さな優しさを示した頃の炎は、もうそこにはいなかった。
そして、まさにその叫びが空気を震わせた刹那、銀色の糸は、まるで炎自身の言葉に応えるかのように、ふつりと静かに断ち切れた。
悲鳴すら上げる間もなく、炎の体は再び暗闇の底へと吸い込まれていった。振り返る間際、炎の目に映ったのは、はるか高みで淡く光り続ける、断ち切られた糸の残り端だけだった。それはまるで、最後まで炎を見捨てまいとするかのように、しばらくの間、暗闇の中でひとすじの光を放ち続けていた。
五 静かな涙、また明日を待つ心
花園の縁に立ち、奈落の底を見つめていた銀嶺は、その一部始終を、瞬きひとつせずに見届けていた。
我が子が最後に放った、あの醜く歪んだ叫び声も、銀色の糸が音もなく断ち切れた瞬間も、銀嶺の目はすべてを捉えていた。宵羽は、銀嶺の傍らでそっと息を呑んだまま、かける言葉を見つけられずにいた。花園の風が、二頭の間をいつもより少し強く吹き抜けていった。
「銀嶺様……」
「よい」
銀嶺は静かに首を振った。その声には、怒りも、失望も滲んではいなかった。ただ、深い深い悲しみだけが、そこにあった。
「裁くべき時は、とうに終えた。あの子を罰する言葉を、私はもう持たぬ」
銀嶺の金色の瞳から、一粒の涙が、ゆっくりとこぼれ落ちた。それは奈落の縁に生い茂る白い花の上に落ち、花弁を静かに濡らして、やがて光の粒となって、闇の底へと吸い込まれるように消えていった。
「あの子は、また同じ過ちを犯した。それでも私は、あの子を憎むことができない。あの子が確かに、生涯にただ一度、小さな命を助けたことがあったということだけは、これから先も忘れずにいたいと思う」
「銀嶺様は、それでよいのですか。あれほどの銀髭を失ってまで」宵羽が静かに問うた。
「よいのだ」銀嶺は迷いなく答えた。「私はあの子を裁くために糸を垂らしたのではない。ただ、あの子の中にまだ残っているかもしれない優しさに、賭けてみたかっただけだ。結果がどうであれ、その賭けをしたこと自体を、私は悔いてはいない」
宵羽は、その言葉に何も返すことができなかった。ただ、銀嶺の隣に静かに佇み、奈落の暗闇へと視線を落とすだけだった。
「もしまた、いつか」銀嶺は独り言のように続けた。「あの子が、誰かのために何かを差し出す日が来たなら――その時はまた、この糸を垂らそう。裁きのためではなく、ただ、親として」
その日から、銀嶺は以前と変わらぬ様子で、花園の畦を歩き続けた。花を撫で、光の粒を踏みしめ、時折り奈落の縁に佇んでは、暗闇の底をじっと見つめる。宵羽が幾度、気の遠くなるような話ではありませんかと問うても、銀嶺はいつも同じ答えを返した。
「気の長い話で構わない。私はもう、幾百年も待ってきたのだ。あと幾百年、待つことになったところで、今さら惜しくはない」
天に季節がないのと同じように、銀嶺の中の想いにも、終わりというものがなかった。今日もまた、花園には変わらぬ風が吹き、奈落の底では、名もなき者たちが蠢き続けている。その狭間に立つ一頭の古竜は、裁く者としてでも、罰する者としてでもなく、ただ静かに見守り続ける者として、明日という日にもう一度だけ現れるかもしれない、ささやかな善行を、気の遠くなるほど気長に待ち続けていた。
宵羽は、そんな銀嶺の姿を、幾百年ののちも変わらず傍らで見守り続けた。誰に頼まれたわけでもなく、ただ、待ち続ける者のかたわらに、もう一人誰かがいてもよいだろうと思ったからだった。花園を渡る風は今日も同じ温さで、白い花々は今日も咲いたまま散ることを知らず、光の粒だけが、ゆるやかに地面へと降り積もっていく。その繰り返される静けさの中で、一頭の古竜だけが、いつまでも奈落の底を見つめ続けていた。
あとがき
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』は、地獄に堕ちた大罪人カンダタが、生前ただ一度蜘蛛を助けた善行によってお釈迦様から垂らされた蜘蛛の糸を登るものの、後に続く罪人たちを蹴落とそうとする利己心のために糸が切れ、再び地獄へ堕ちるという、仏教説話に基づく寓話である。本作では、この骨格を保ちながら、裁く者と裁かれる者の関係を、赤の他人ではなく「親と子」という関係に置き換えた。お釈迦様に相当する存在を、かつて我が子を自らの手で奈落へ堕とした古竜・銀嶺とし、蜘蛛の糸を、古竜が己の身を裂いて差し出す銀髭に置き換えることで、原作にはない「裁く者自身の哀しみ」という新しい軸を加えている。
原作最大の眼目である、一度きりの善行が救いの糸となりながらも、当人の利己心によって断ち切られてしまうという皮肉な構造は本作でも核に据えつつ、糸を垂らした者が裁定者ではなく、我が子を想う親であり、その者が結末をただ悲しみとともに受け止め、なお見守り続けるという結末に翻案した。天上の花園、花守の宵羽、古竜銀嶺と仔竜炎の物語、細部の出来事や台詞はすべて独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は一切行っていない。
本作は芥川龍之介著『蜘蛛の糸』(https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card92.html、青空文庫収録)を参考にした翻案作品です。