物語雳
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·読了目安 14分悪役

竜は身を縮めることを厭わなかった

遺産といえば黒猫一匹きり。途方に暮れる三男坊の前で、猫は長靴と頭陀袋を求めた。狙うは、力ずくで谷を奪った見栄坊な老竜の居城――化けくらべの果てに、竜は自ら鼠に縮んで滅びる。

一 忘れ形見の三男坊

花蓮国の外れ、水音の絶えない谷あいに、小さな水車小屋があった。粉屋の重吉が三十年かけて回し続けたその水車が、ある秋の朝を境に止まったのは、重吉が床についたまま二度と起き上がらなかったからだった。長患いというほどでもなく、ただある日ふっと粉を挽く手を止め、それきり戻ってこなかった。谷の者たちは口々に、実直に働き通した男らしい静かな去り方だと噂した。

弔いが済むと、三人の息子たちは重吉の遺したものを分けることになった。長男の巌は生まれたときから水車小屋を継ぐものと決まっていたから、迷わずそれを受け取った。水車の軋む音を子守唄代わりに育った巌にとって、それは当然の相続だった。次男の惣二には、粉袋を運ぶための驢馬が譲られた。年老いてはいたが、まだ十分に働ける驢馬だった。惣二は驢馬の背をひとなでし、これさえあれば食いっぱぐれはしないと胸を撫で下ろした。

残るは三男の耕介だった。重吉が耕介に遺したのは、痩せた黒猫が一匹きり。名を黒丸といった。

「兄さんたちは小屋と驢馬か。俺には猫か」

耕介は水車小屋の戸口に座り込み、膝の上でまるくなる黒丸を眺めながら、乾いた声で呟いた。猫を食って生き延びるわけにもいかない。毛皮を売ったところで、酒代にもならないだろう。二十歳になったばかりの耕介の前には、これから先の当てもない暮らしだけが広がっていた。兄たちはそれぞれの分け前を抱え、憐れむような目を耕介に向けただけで、自分たちの暮らしのために足早に去っていった。

その晩、誰もいなくなった水車小屋の隅で、耕介は膝を抱えて座り込んでいた。壁の隙間から差し込む月明かりが、埃の積もった床をぼんやりと照らしている。

「猫如きを侮るものではないぞ、耕介」

黒丸がそう言葉を発したとき、耕介は転げ落ちるようにして飛びのいた。

「お、おまえ、しゃべったのか」

「今さら驚くようなことでもあるまい。私はこれまで、しゃべるだけの理由がなかっただけだ」

黒丸は前足で顔をひとなですると、耕介の膝にひらりと戻ってきた。

「頼みがある。長靴を一足と、口を紐で締められる頭陀袋をひとつ、私に用意してくれ。それさえあれば、おまえを飢えさせはしない」

「猫が長靴を履いて、何をするつもりだ」

「見ていればわかる。ただし、いま俺の言うことを笑わずに聞けるなら、の話だ」

耕介には他に頼れるものもなかった。なけなしの銭で古道具屋から小ぶりの長靴を買い求め、母の遺した頭陀袋の紐を締め直して黒丸に渡すと、猫は器用に後ろ足で立ち上がり、長靴を履いてみせた。その姿は、どこか誇らしげでさえあった。

谷の向こうには、鎧嶽という名の山があった。かつては何の変哲もない山だったというが、いまではその麓一帯を、鎧嶽と同じ名を持つ一頭の老竜が領していた。灰色の鱗を持つその竜は、幾世代も前、力ずくで周辺の土地を切り取り、みずからを谷の主に据えたのだという。噂によれば、竜はどんな生き物にも姿を変えられる神通力を持ち、それを笠に着て、格下と見た者を決して許さない見栄坊な性分だと伝えられていた。耕介もまた、幼い頃から大人たちの声を潜めた噂話の中でしか、鎧嶽の名を聞いたことがなかった。行商人が谷を通るとき、鎧嶽領の方角を指差しては、決まって声を落とし、あの山に近づいてはならぬと子どもたちを諭したものだった。

「あの山の話は、俺も聞いたことがある。近づくものじゃないと、父さんもよく言っていた」

「近づかずに済むなら、それに越したことはない。だが世の中には、近づかねば手に入らないものもある」

翌朝、隣家の女房が水車小屋を覗きに来て、耕介の身の上を憐れむように言った。

「三男坊は猫一匹だなんて、あんまりだよ。重吉さんも、こんなことになるとは思っていなかったろうに」

「大丈夫です。猫でも、案外役に立つかもしれません」

耕介がそう答えると、女房は怪訝な顔をしながらも、それ以上は詮索せずに帰っていった。谷の暮らしは、誰もが自分の畑と家畜のことで手一杯で、隣人の不幸に長く構っている余裕はなかった。それでも、水車小屋の煙突から夕餉の煙が上がらぬ日が続けば、誰かが噂を立てるだろうということは、耕介にもわかっていた。

黒丸はそう言って、頭陀袋の口を器用に紐で結んだ。夕暮れの光が谷を茜色に染めるころ、猫は袋を担いで、ひとり森の奥へと歩き出していった。耕介はその後ろ姿が木立の向こうに消えるまで、戸口に立ち尽くしていた。何をどう手伝えばいいのかもわからぬまま、ただ胸の奥に、これまで感じたことのない小さな期待が芽生えているのを、耕介自身も持て余していた。

二 柘榴野侯、参上

黒丸は森で兎を捕らえると、その足で王城へと向かった。花蓮国を治める睦王の御前に進み出て、後ろ足で立ち、恭しく頭を垂れた。

「陛下に申し上げます。私の主、柘榴野の御領主より、心ばかりの品を献上いたしたく参りました」

睦王は喋る猫の姿にいたく興味を引かれ、兎を受け取ると上機嫌で笑った。

「柘榴野の領主とは、耳にしたことのない名だが。よほど奥ゆかしいお方と見える」

「奥ゆかしいと申しますより、日々の政に忙しく、みずから都に出向く暇のないお方にございます」

黒丸はそう応じると、丁重に一礼して城を辞した。翌日は山鶉を、その翌日は野雁を、黒丸は日を置かず王城に運び続けた。城の役人たちも、次第に「柘榴野侯」の名を覚えていった。侍従のひとりが「またあの喋る猫が参ったぞ」と囁けば、別の者が「柘榴野侯というのは、よほど徳の高いお方らしい」と応じる。噂は自然と、王城の内側で確かな形を持ち始めていった。芙蓉姫もまた、女官たちが交わすその噂話を幾度となく耳にし、まだ見ぬ柘榴野侯とやらに、いつしかほのかな興味を抱くようになっていた。

水車小屋に帰った黒丸は、獲物を分けた残りの銭を耕介の前に置いた。

「これで、しばらくは食うに困らんだろう」

「おまえ、毎日城まで通っているのか。俺のために」

「おまえのためだけでもない。私自身、退屈な水車小屋の隅で鼠を追っているよりは、性に合っている」

耕介は焚き火の前で、黒丸の長靴を軽く撫でた。爪の先が擦り切れかけているのに、耕介はようやく気づいた。

「柘榴野侯というのは、誰のことなんだ」

「おまえのことだ、いずれ」

「俺には、領地も館もないぞ」

「いまはまだ、な」

黒丸の目が、燠火の照り返しを受けて金色に光った。耕介にはまだ、黒丸の企みの全貌が見えていなかったが、猫の声には、これまで聞いたことのない確かな響きがあった。

「なぜ、そこまでしてくれる」

「理由が欲しいか。ならば言っておこう。私はかつて、ある屋敷に飼われていたことがある。芸を仕込まれ、鼠を捕らねば餌を貰えず、気に入られねば折檻を受けた。爪を切られ、尾を短く落とされそうになった夜、私はその屋敷を逃げ出した。行く当てもなく彷徨っていたところを、重吉が拾ってくれた。何も求めず、ただ屋根の下で眠らせてくれた。恩を返す相手が、もう先に逝ってしまっただけのことだ」

耕介は初めて聞く黒丸の身の上に、しばらく言葉を失った。焚き火の爆ぜる音だけが、しばらく二人の間を埋めていた。

「だったら、なおさら危ないことはするな」

「危ないことをせずに、誰かの人生を変えられるものか。おまえは黙って、私のいうとおりにしていればいい」

「わかった。おまえを信じる」

耕介がそう言うと、黒丸は珍しく、ふっと目を細めて笑うような顔をした。

三 泥濘の街道と鎧嶽の影

睦王が姫の芙蓉とともに領内を巡幸するという報せが届いたのは、それから半月ほど後のことだった。行列は鎧嶽領へ続く谷あいの街道を通る予定だという。黒丸はその日取りを聞き込むと、耕介を川辺へ連れ出した。

「服を脱いで、川に飛び込め」

「正気か。この時期の水は骨まで凍える」

「凍えぬ程度に、うまくやれ。あとは私に任せろ」

耕介が言われるままに川に飛び込むと、思いのほか流れが速く、水は身を切るように冷たかった。耕介は歯を食いしばりながら岩陰にしがみつき、黒丸は岸辺で大声を張り上げた。

「助けてくだされ! 柘榴野侯が、賊に身ぐるみ剥がれた挙句、川に落とされましてございます!」

折しも通りかかった王の行列が足を止めた。睦王は自ら馬車の窓を開け、事情を知ると、供の者に命じて耕介を引き上げさせ、替えの衣服を持ってこさせた。粗末な普段着しか持たない耕介の身には不釣り合いなほど立派な絹の衣が、その場であてがわれた。震える体に絹の袖を通しながら、耕介は自分がまるで別人になったような、落ち着かない心地を味わっていた。

「柘榴野侯とやら、とんだ災難でしたな。良ければ、我らの馬車にお乗りなさい」

耕介は戸惑いながらも、黒丸に目配せされ、なんとか礼を述べて馬車に乗り込んだ。馬車の中では、傍らに座る芙蓉姫が、遠慮がちに濡れた髪を気遣ってくれた。噂に聞いていた柘榴野侯の名と、目の前の少し垢抜けない青年の姿が、姫の中でうまく重ならず、かえってその戸惑いが親しみへと変わっていくようだった。行列が再び動き出すと、黒丸は先回りするようにして街道を駆けていった。

道々、畑を耕す領民たちの姿があった。痩せた土地に、まばらな麦が頼りなく揺れている。黒丸は彼らのもとに駆け寄ると、声を低めて告げた。

「もうすぐ王の行列が通る。この土地について尋ねられたら、柘榴野侯の領地だと答えよ。さもなくば、良からぬことが起こるぞ」

領民たちは初め怪訝な顔をしたが、黒丸の物言いには有無を言わせぬ迫力があった。それに、彼らにはもとより訴えたいことがあった。

「どうせこの土地は、鎧嶽様に年貢を吸い上げられるだけの土地だ。誰の名を騙ろうと、今更どうということもない」

年老いた百姓のひとりがそう吐き捨てるように言った。その皺だらけの顔には、長年の労苦がそのまま刻まれているようだった。鎧嶽領の民は、山の主である老竜に重い年貢を課され、逆らえば家を焼かれると恐れながら、長年を耐え忍んできたのだという。子を三人育てているという若い女は、収穫の半ば以上を取り立てられ、冬を越すたびに誰かが飢えで倒れると、抑えた声で語った。傍らで話を聞いていた耕介は、馬車の窓越しに見た廃屋の黒ずんだ柱を思い出し、胸の奥が締めつけられるのを感じた。自分ひとりが立派な衣を着せられ、侯爵と偽られていることの後ろめたさが、ふいに込み上げてくる。だが今さら後には引けなかった。黒丸はその話に耳を傾けながら、内心で小さく頷いた。

「案ずるな。近いうちに、その年貢の取り立ても終わりになる」

「猫のおまえに、何ができるというのだ」

「見ていればわかる。今はただ、私の言うとおりにしてくれればいい」

行列が通りかかり、睦王が窓越しに畑の持ち主を尋ねると、領民たちは口々に「これは柘榴野侯様の御領地にございます」と答えた。睦王は感心した様子で、耕介の方を振り返った。

「これほど広い土地をお持ちとは。柘榴野侯、なかなかの御仁ですな」

耕介は内心冷や汗をかきながらも、黒丸に教えられた通り、控えめに微笑んで見せるほかなかった。芙蓉姫だけが、耕介の目の奥にある戸惑いに気づいたようだったが、あえて何も問わずにいてくれた。

行列が谷の奥、鎧嶽の居城に近づくにつれ、空気は重く湿り気を帯びていった。街道の脇には、燃え落ちた跡のある廃屋がいくつも並んでいた。年貢を納められず、見せしめに焼かれた家々だという。城門の前には、痩せた体つきの竜の家臣が控えていた。灰色の鱗をまとった目付役で、名を灰兵衛といった。灰兵衛は先に城へ駆け込んできた黒丸の姿を見咎め、疑わしげに目を細めた。

「見慣れぬ猫だな。何の用だ」

「主人、柘榴野侯の使いにございます。鎧嶽様の御高名をかねてより伺い、ぜひ一度お目通り願いたく」

灰兵衛はしばらく黒丸を睨めつけていたが、やがて背を向け、城の奥へと引っ込んでいった。その後ろ姿を見送りながら、黒丸はひとつ息をついた。

「あの男、勘のいい目をしている。気をつけねばな」

四 見栄の宴

鎧嶽の居城は、黒々とした岩を積み上げた要塞のような佇まいをしていた。城壁のそこかしこに、かつての戦の爪痕とおぼしき焼け焦げが残っている。大広間に通された黒丸を、灰色の鱗に覆われた巨躯の老竜が、玉座から見下ろしていた。それが鎧嶽その人だった。

「柘榴野侯とやらの使いか。して、何用だ」

「恐れながら、鎧嶽様には、いかなる生き物にも姿を変えられる神通力をお持ちと伺いました。かねてよりその噂を耳にし、この目で拝見したいと願うておりました」

鎧嶽の目が、わずかに輝いた。見栄坊な老竜にとって、それは何より心地よい言葉だった。長年、力ずくで奪った土地に胡座をかき、誰からも本当の意味で敬われているわけではないと、鎧嶽自身どこかで感じ取っていたのかもしれない。だからこそ、その神通力を褒め称える言葉には、ことのほか弱かった。

「よかろう。見せてやる」

そう言うが早いか、鎧嶽の巨体はひとつ唸りを上げ、瞬く間に猛々しい獅子の姿に変わった。広間の壁が震えるほどの咆哮が響き渡り、控えていた家臣たちが慌てて後ずさった。黒丸だけは動じることなく、感嘆の声を上げてみせた。

「これは見事な。まさしく噂に違わぬ御力にございます。かような御力があれば、周りの小国など恐れるに足りませぬな」

「当然だ。この谷を切り取ったときも、私に逆らえる者などいなかったわ」

獅子の姿の鎧嶽は、得意げに鬣を揺らした。黒丸はすかさず、さらに褒め言葉を重ねた。

「では、大蛇の姿もお見せいただけましょうか。獅子の勇猛さに、大蛇の不気味さが加われば、まさに天下無双の御力かと」

鎧嶽は気を良くして、今度はうねる大蛇の姿へと変じてみせた。長い鱗の胴が広間の床を這い、太い柱に幾重にも巻きつく様に、控えていた家臣たちはいっそう身を縮めた。黒丸はわざとらしく後ずさりながら、感嘆の声を惜しまなかった。

「これほどの大蛇、都でも見た者はございますまい。鎧嶽様の御力は、まこと底知れませぬな」

そのとき、灰兵衛が広間に駆け込んできた。

「鎧嶽様、お待ちを! この猫、どうも怪しゅうございます。柘榴野侯などという領主、これまで年貢の帳面にも聞いたためしがございませぬ。それに、先の巡幸の道中、川に落ちたという話も、あまりに都合が良すぎまする」

黒丸の背筋に、冷たいものが走った。だが顔には出さず、すぐさま口を開いた。

「これはしたり、灰兵衛殿。柘榴野の地は、つい先ごろ我が主が興した新しき領。帳面に載らぬのも道理にございましょう。川の一件とて、運悪く賊に遭うたまでのこと。疑いを差し挟むより先に、鎧嶽様の御力を存分に称えるが、客人としての礼儀ではございませぬか」

黒丸はわざと灰兵衛には取り合わず、大蛇の姿のままの鎧嶽に向き直った。

「これほどの御力、他の誰にも真似のできぬこと。ですが、噂には続きがございました。いかに鎧嶽様でも、鼠のようにちっぽけな生き物にまで姿を変えることは、よもや叶いますまいと」

灰兵衛はなおも何か言い募ろうとしたが、鎧嶽が大蛇の姿のまま一声唸ると、その場に平伏するほかなかった。

「黙れ、灰兵衛。控えておれ。……鼠だと? 面白いことを申す。この鎧嶽に、できぬことなどないわ」

「滅相もございません。ただの世間の噂にございます。あまりに小さきものへの変化は、御力の証にはなりますまいし――かえって、格下と見られるだけのこと。お控えになるが賢明かと」

黒丸は殊更に、諭すような口ぶりで言った。それは鎧嶽の慢心を、この上なく巧みにくすぐる言葉だった。格下に見くびられることを何より嫌う鎧嶽にとって、「できぬ」と思われることこそが、耐えがたい屈辱だった。

「格下と見られる、だと。よかろう、この目で見せてやろうではないか。これしきのこと、造作もない」

「鎧嶽様、それだけはどうか、お控えを――」

灰兵衛が声を張り上げたが、もはや誰の耳にも届かなかった。鎧嶽の巨躯が、みるみる縮んでいく。うねっていた大蛇の胴は瞬く間に萎み、灰色の鱗は艶やかな毛並みへと変わり、やがて広間の床には、一匹の小さな灰鼠が残された。家臣たちは息を呑んで立ち尽くした。灰兵衛だけが「お待ちを――!」と叫んだが、その声が届くよりも早く、黒丸は身をひるがえし、灰鼠に飛びかかった。

一瞬の静寂ののち、広間に残っていたのは、満足げに口元を舐める一匹の黒猫だけだった。

五 空になった城

鎧嶽を失った居城は、急に静まり返った。灰兵衛は主を失った驚きに立ち尽くしていたが、黒丸はゆっくりと歩み寄り、静かに告げた。

「灰兵衛殿。この城の年貢の帳面、そこにあるものをすべて、麓の民に返してやってはくれぬか。新しき主は、力ずくで奪う真似はせぬ御方だ」

灰兵衛はしばらく黙り込んでいたが、やがて深く頭を垂れた。長年、鎧嶽の圧政に仕えながらも、内心では谷の民を憐れんでいたのかもしれなかった。

「……承知いたした。この城の門は、これより、真に民のために開かれるべきなのでしょうな」

まもなく、睦王の行列が城門に到着した。黒丸は先回りして城門に控え、うやうやしく一行を出迎えた。

「ようこそお越しくださいました。これなるは、我が主・柘榴野侯の居城にございます」

耕介は震える足で馬車を降り、絹の衣をまとったまま、広大な城の前に立った。睦王は感嘆の声を漏らした。

「これほどの城と領地をお持ちとは。柘榴野侯、いや……」

睦王は傍らの芙蓉姫を振り返った。姫は馬車の窓から、耕介の姿をじっと見つめていた。旅の道中、川で拾われてからというもの、姫は幾度となく耕介と言葉を交わしていた。飾らぬ受け答えの中に、姫は身分を超えた誠実さを見出していた。

「父上、この方となら、添い遂げても良いと思います」

睦王は娘の言葉に目を細め、大きく頷いた。

「よかろう。柘榴野侯、我が娘を、そなたに任せよう」

耕介は驚きながらも、傍らに控える黒丸を見た。黒丸は何も言わず、ただ小さく頷き返すだけだった。

婚儀は、それからひと月と経たずに執り行われた。かつて鎧嶽に怯えて暮らしていた谷の民たちは、年貢を免じられ、新しい領主のもとで畑を耕し、子を育てるようになった。焼け落ちた廃屋のあった街道にも、少しずつ新しい家の柱が立ち始めた。耕介は柘榴野侯として、力によってではなく、地道な政によって谷を治めていった。かつて年貢の重さを恨みがましく語っていた老百姓は、豊かに実った麦畑の前で、孫たちを相手に「今の御領主様は、力ずくで奪う真似などなさらぬ」と、嬉しそうに繰り返すようになった。灰兵衛もまた城に留まり、新しい政の仕組みを整える役目を、以前にも増して熱心に務めた。

ある夜、婚礼の宴も落ち着いたころ、耕介は城の露台で夜風に当たっている黒丸を見つけた。谷を渡る風には、もう焼け跡の匂いは混じっていなかった。

「おまえのおかげだ、黒丸。何もかも」

「私は、少し知恵を働かせただけだ。おまえがそれを受け止める器を持っていたから、うまくいっただけのこと」

「鎧嶽は、なぜあんなにあっさりと、鼠になんぞ姿を変えたんだろうな」

黒丸はしばらく夜空を見上げていたが、やがて静かに答えた。

「大きな力を持つ者ほど、自分より小さきものに見くびられることを、何より恐れるものらしい。あの竜は、力では誰にも負けぬと信じていたが、その慢心こそが、いちばんの弱みだった。私はただ、その弱みをそっと押しただけのこと」

「おまえは、そういう真似はしないのか」

黒丸はふっと目を細め、長靴を脱ぎ捨てて、素足の前足を月明かりにかざした。

「私は、長靴を履くのも、脱ぐのも厭わぬ。大きく見せることに、さしたる未練もない。それだけのことだ」

そう言うと、黒丸は露台の隅で丸くなり、静かに目を閉じた。谷を渡る風が、かつて鎧嶽の重税に脅えていた民家の灯を、やわらかく揺らしていた。

あとがき

シャルル・ペローの「長靴をはいた猫」は、粉屋の父を亡くした三兄弟の末子が、遺産として受け継いだ一匹の猫の知略により、偽りの侯爵の身分と、人食い鬼から奪った城・領地・王女までも手に入れる、機知比べの痛快な民話である。

本作では、人食い鬼を、かつて力ずくで谷の土地を切り取り、重税で領民を苦しめてきた見栄坊な老竜「鎧嶽」に置き換えた。「どんな生き物にも姿を変えられる」という原作の鬼の神通力はそのまま竜の力として引き継ぎ、慢心をくすぐられた末に自ら鼠へと縮み、猫に呑まれて滅びるという原作の核となる仕掛けを活かしている。加えて、竜の家臣・灰兵衛による疑念と告げ口という独自の障害を転換点に据え、猫の機転がそれをも出し抜く場面を加えることで、単純な化かし合いに一段の緊張を持たせた。また、原作にはない猫自身の過去(かつて人間に飼われ、芸を仕込まれた境遇)や、竜に苦しめられてきた領民の暮らしを描き込むことで、化かし合いの痛快さだけでなく、成り上がりの支配者が滅びることの意味にも厚みを持たせている。

登場人物名・国名・城の名(鎧嶽)などはすべて独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は行わず、あらすじと構図のみを参照し、文章・情景・展開は独自に執筆した。


本作はシャルル・ペロー(Charles Perrault)著『長靴をはいた猫(Le Maistre Chat, ou le Chat Botté)』を参考にした翻案作品です。

本作はシャルル・ペロー(Charles Perrault)の『長靴をはいた猫(Le Maistre Chat, ou le Chat Botté)』を参考にした作品です。原典