竜は水の恩を忘れなかった
大聖堂の鐘楼に人知れず匿われて育った竜カリヨンは、灯火祭で見世物にされた夜、旅の踊り子リゼットから対等な優しさで水を与えられる。彼女が濡れ衣で火刑に処されようとしたとき、竜は正体を明かして鐘楼から舞い降りる。
一 鐘楼の子
ヴェルダンヌの町は、サンテール大聖堂の鐘の音とともに一日を始める。夜明けの霧がまだ石畳に這う頃、澄んだ低音が塔の頂から響き渡り、パン屋は竈の火を熾し、市場の商人は荷を解き、子どもたちは寝台の中で寝返りを打つ。町の誰もが、その鐘の音を大助祭オーギュスタン・ダルコンただ一人の献身によるものと信じていた。彼が毎朝、毎夕、老いた身体を引きずって塔を上り下りし、綱を引いているのだと。
真実を知る者は、この世に一人としていなかった。
塔の最奥、鐘楼の梁の陰に、その者は棲んでいた。灰褐色の鱗に覆われた背丈は人の倍近くあり、畳まれた翼は蝙蝠のそれに似て骨張っている。名をカリヨンといった。二十年前、まだ卵の殻もかろうじて割れたばかりの姿で、大聖堂の階に置き去りにされていたのを、当時まだ若かったダルコンが拾い上げたのだという。この地方では一世代前、竜の群れが山向こうの領地を焼いたという言い伝えが根強く残っており、卵一つ落ちていただけでも、見つかれば即座に打ち殺されて不思議のない時代であった。「捨て置けば凍え死ぬ。かといって町の者に見せれば、石をもって迎えられよう」――ダルコンはそう独りごちて、赤子の竜を誰の目にも触れぬ塔の最上階へと運び、密かに育てた。
カリヨンにとって、鐘こそが言葉であった。人の声を真似ることはできても、その姿を人前に晒すことは決して許されなかったから、彼は代わりに鐘楼の綱を握り、その音色で己の心を語った。喜びのときは軽やかに、寂しさのときは長く尾を引くように。町の者たちが「今日の鐘は妙に優しいな」「今日はどこか物寂しい響きだ」と語り合うとき、それがどれほど的を射ているか、彼らは知る由もなかった。
「今日もまた、あの音か」
ダルコンは塔の階段を上りながら、独り言のように呟いた。齢五十を超えてなお背筋の伸びた大助祭は、灰色の法衣を纏い、片手に燭台を持っていた。カリヨンは太い綱から手を離し、恭しく頭を垂れた。長年、この人物にだけは忠実であるよう躾けられてきたのだ。読み書きも、聖典の一節も、鐘の打ち方も、すべてダルコンから授けられたものだった。それゆえにカリヨンは、彼を父とも、主とも呼びかねる、名付けようのない敬いと恐れの入り混じった感情を抱いていた。
「今日は灯火祭の触れが出た。町中が浮き足立っておる。お前は決して窓に近寄るな。良いな」
「分かっております、大助祭さま」
カリヨンの声は低く、くぐもっていたが、はっきりとした人の言葉だった。ダルコンは燭台の炎越しにその異形の顔をしばし見つめ、それから目を逸らすように踵を返した。
「お前を拾ったのは、我が信仰の証だ。憐れみ深き行いだと、天は必ずや見ておられよう。だが人はそう見てはくれぬ。忘れるな、カリヨン。人はお前の姿を見れば、憐れみではなく、恐怖でしか応えられぬのだ。それが分かっているからこそ、私はお前をこの塔に留め置いている」
その言葉を、カリヨンは幾度となく聞かされてきた。反論したことは一度もない。ただ、鐘楼の格子窓から見下ろす町の暮らしに、時折どうしようもなく心を惹かれるのを止められなかった。市場に並ぶ果物の色、井戸端で笑い合う女たちの声、恋人たちが手を取り合って歩く広場、夕暮れに漂う焼きパンの匂い――それらはカリヨンにとって、届かぬ場所で灯る遠い炎のようなものだった。夜ごと、独りで梁に身を横たえながら、彼はその炎を思い描いては眠りについていた。
その日の午後、広場では旅の一団が到着したという噂が塔の隙間からも聞こえてきた。タンバリンの軽やかな音、色とりどりの幌馬車、そして一人の踊り子の名が、通りを行く人々の口の端に上っていた。
「リゼットとかいう娘だそうだ。見た目も踊りも、噂に違わぬ美しさらしい」 「幼い頃から旅から旅への暮らしで、身寄りもないという話だぞ」
カリヨンは格子窓に額を寄せ、遥か下の広場に小さく見える人影を目で追った。赤い布を靡かせて踊る娘の姿は、豆粒ほどの大きさでしかなかったが、その動きだけは不思議と生き生きと伝わってきた。灯火祭は三日後に迫っていた。町の古い習わしでは、その夜、広場に「醜人の玉座」と呼ばれる粗末な椅子が据えられ、最も醜い顔をした者が選ばれて、その場限りの王冠を被せられるという。厄払いの祭りだと、ダルコンは苦々しげに語っていた。「醜きものを笑い、貶めることで、本物の災いを遠ざけるのだと、この町の者たちは信じておる。愚かしい話だ」
カリヨンはその夜、久方ぶりに、自分がこの塔の外に出たなら何を見るのだろうかと考えながら眠りについた。それは長く胸の奥に押し込めてきた問いであり、灯火祭の触れがその蓋を静かに揺らし始めていた。
大聖堂の尖塔は町のどこからでも見上げることができたが、その内側で何が起きているかを知る者は誰もいなかった。石造りの回廊、色硝子の割れ窓から差し込む虹色の光、鳩の羽ばたく音だけが響く沈黙――カリヨンにとってその全てが世界のすべてであり、同時に、彼を外の世界から隔てる分厚い壁でもあった。日課は判で押したように定まっていた。夜明けに鐘を突き、朝の礼拝が終われば聖典の書き写しを手伝い、昼は誰の目にも触れぬ屋根裏で眠り、夕刻にまた鐘を突く。その繰り返しの中で、彼が心から待ち望むのは、ただ夜ごとに格子窓から漏れ落ちる町の灯りだけだった。
二 灯火祭の夜
灯火祭の夜、ヴェルダンヌの広場は無数の松明と紙提灯に彩られ、まるで地上に星が降りたかのようだった。楽師たちの奏でる旋律に合わせて人々が輪を作って踊り、露店には焼き栗と蜂蜜酒の匂いが立ち込めている。カリヨンは塔の最上階から、抑えきれぬ好奇心に負けて、古い外套を頭からすっぽりと被り、誰にも気づかれぬよう裏階段を伝って地上へ降りた。ダルコンは町の有力者たちとの会食に出ており、塔を離れていた。
人混みの端、暗がりに身を潜めながら見る祭りは、想像していたよりもずっと眩く、騒がしく、そして温かかった。誰もが素顔で笑い、隣の見知らぬ者の肩を抱いて踊る。カリヨンは初めて間近に見る人々の笑顔に、胸の底が疼くのを感じた。ほんの数歩でいい、あの輪の中に紛れてみたい――そんな詮無い願いが胸をかすめた。
だが、運命はその夜、彼に容赦しなかった。酔漢の一人がふざけて外套を引っ張った拍子に、フードが外れ、灰褐色の鱗と裂けた瞳孔が松明の灯りに晒された。
一瞬の静寂の後、悲鳴が上がった。
「化け物だ! 竜が現れたぞ!」
群衆は恐慌に駆られて逃げ惑う者と、好奇心から取り囲む者とに分かれた。逃げようとしたカリヨンは、酔いに任せた若者たちに取り押さえられ、あっという間に広場の中央、あの「醜人の玉座」へと引きずられていった。誰かが悪ふざけの冠を彼の頭に無理やり乗せ、群衆はやんやと囃し立てた。
「これこそ今年の醜人王だ! 拝め、拝め!」
石が飛び、腐った果実が投げつけられた。カリヨンは翼で身を庇いながらも、逃げることも抗うこともしなかった。抗えば、その力の全てを見せることになる。それこそが、ダルコンの最も恐れていたことだと知っていたからだ。ダルコンの言葉が正しかったのだと、彼は静かに思い知らされていた。人は、恐ろしいものには石を投げる。それだけのことだった。
そのとき、群衆をかき分けて一人の娘が進み出た。赤い布を纏い、黒髪を風に靡かせたリゼットだった。彼女は嘲笑う人々を一顧だにせず、腰の水袋を手に取ると、カリヨンの前に膝をつき、水を差し出した。
「喉が渇いているでしょう」
群衆がどよめいた。「よせ、化け物に近づくな」と誰かが叫んだが、リゼットは振り返りもしなかった。カリヨンは戸惑いながらも、震える手で水袋を受け取った。恐怖ではなく、慈しみをもって自分に触れた者は、生まれて初めてだった。喉を通る水よりも、その手のひらの温もりの方が、彼の胸に深く染み渡った。
「……なぜだ」
「なぜ、とは?」
「私は、恐ろしいだろう」
リゼットは小首を傾げ、それから静かに微笑んだ。
「祭りの夜に石を投げる人たちの方が、私にはよほど恐ろしく見えます。それに――私も、生まれた土地を知りません。物心ついた頃から旅の一座に拾われ、行く先々で余所者と呼ばれて育ちました。恐ろしいものと、見慣れぬものは、違うと思うのです」
その言葉を最後に、駆けつけた夜警たちが群衆を追い払い、騒ぎは収まった。カリヨンは混乱に紛れて塔へと逃げ帰り、暗い梁の陰でひとり、水袋に残った水の味を長く長く噛みしめていた。
それから幾晩か、カリヨンは夜な夜な、鐘楼の陰からリゼットの旅芸人一座が広場で演じるのをそっと見守るようになった。ある夜、酔った男たちが彼女に絡もうとしたとき、カリヨンは声だけを低く響かせ、鐘楼の暗がりから唸り声を送った。男たちは震え上がって逃げ去った。また別の夜には、荷馬車の車輪が緩んでいるのに気づき、彼女たちが寝静まった隙に、こっそり降りていって締め直しておいたこともあった。翌朝、リゼットは車輪の異変に首を傾げながらも、ふと塔を見上げて、その下に赤いリボンを結び付けた。
「昨夜、助けてくれた誰かへ。お礼に」
誰にともなく呟いたその声を、カリヨンは格子窓越しにしかと聞き取った。彼はそのリボンを、誰にも見られぬよう鐘の綱にそっと結んだ。それは彼が初めて手にした、自分だけの宝物だった。
そんな彼の変化を、ダルコンは見逃さなかった。ある晩、リゼットの踊りを見下ろす窓辺に佇むカリヨンの背に、大助祭の冷えた声が投げかけられた。
「あの娘に近づくな」
「近づいてなどおりませぬ。ただ、見ているだけです」
「見ているだけで済むと思うてか」ダルコンの声には、抑えきれぬ苛立ちが滲んでいた。「あの娘は、我らの側の者ではない。お前が心を寄せたところで、どうにもならぬ」
その言葉を口にするダルコン自身の目もまた、広場の踊り子を追っていることに、カリヨンは気づいていた。だが、それを指摘するだけの言葉を、彼はまだ持ち合わせていなかった。「お前は」と言いかけて口をつぐんだダルコンの横顔に、カリヨンはこれまで見たことのない、何か脆いものが揺れているのを感じ取っただけだった。
それでもカリヨンは、夜の見守りをやめなかった。リゼットが一座の焚き火のそばで、幼い旅芸人の子どもたちに踊りの型を教える姿。雨に降られた日、濡れた衣を絞りながら笑い合う女たちの姿。塔の上から見下ろすだけのそれらの光景は、カリヨンにとって、これまで知らなかった「暮らし」というものの手触りを、少しずつ教えてくれた。誰かのために何かをすること、誰かに何かを分け与えること――鐘を打つこと以外に、自分にもできることがあるのかもしれないと、彼は初めて思い始めていた。
三 疑惑の影
リゼットには、テオという幼馴染がいた。旅の一座に加わって間もない若い楽師で、リュートを爪弾きながら彼女の踊りに彩りを添える存在だった。二人が肩を並べて笑い合う姿を、ダルコンは礼拝堂の窓越しに、幾度となく苦い顔で見つめていた。
大助祭の胸の内で、信仰と呼ぶにはあまりに歪んだ執着が、日ごとに膨れ上がっていた。ある夕刻、彼はとうとうリゼットを大聖堂の裏庭に呼び出し、「魂を導きたい」という体裁のもとに言葉をかけた。
「あなたの踊りには、罪深いほどの美しさがある。私はそれを、正しき道へ導く責を負うている。この教会の庇護のもとに留まってはくれぬか」
リゼットは丁寧に、しかしはっきりと彼の申し出を退けた。
「大助祭さまのお心遣いには感謝いたします。ですが、私の道は、私自身が選びます。庇護は、時に鎖にもなりましょう」
その拒絶は、ダルコンの自尊心と抑え込んできた欲望に、深い亀裂を走らせた。彼は無言のまま踵を返したが、その背は怒りにわなないていた。
灯火祭から十日ほど過ぎたある夜、路地裏で争う声と呻き声が響いた。カリヨンが塔の窓からその方角に目を凝らすと、月明かりの下、フードを目深に被った人影がテオを引き倒し、短剣を振るう姿が見えた。カリヨンは咄嗟に叫び声を上げたが、人影はすぐさま闇の奥へと駆け去っていった。カリヨンが地上に降りたときには、テオは血を流して倒れ、意識を失っていた。彼はためらいながらも近くの家の戸を叩き、人を呼び、再び闇に紛れて塔へと戻った。
翌朝、町は騒然となった。テオは一命を取り留めたものの、重傷で意識が戻らない。そして現場には、リゼットが肌身離さず身に着けていたはずの赤い布切れが落ちていたという。夜警の一人が、「あの踊り子は、以前から怪しげな呪具を持ち歩いていた」と証言し、瞬く間に「踊り子リゼット、妖術をもって若者を呪い、刺した」という話が町中を駆け巡った。
裁きの場は大聖堂脇の広間で、簡略な形ばかりのものだった。町の代官と数名の長老が居並ぶ前で、リゼットは繰り返し無実を訴えたが、証拠として掲げられた血染めの赤い布切れと、彼女の異国めいた出自を前に、耳を貸す者は少なかった。
「私はテオを傷つけてなどおりません。彼は幼馴染であり、大切な友です。なぜ、それが呪いだと言われねばならないのですか」
リゼットの訴えは、広間の高い天井に虚しく響いて消えた。ヴェルダンヌでは、竜や魔女にまつわる古い恐れが根強く、証拠らしい証拠がなくとも、疑わしいというだけで火刑台へと送られる時代であった。「余所者の踊り子など、いつ何を為すか知れぬ」――そう囁く声が、判決を後押しした。傍聴の隅に立っていたダルコンは、うつむいたまま、その裁きを止めようとはしなかった。
カリヨンは混乱していた。あの夜、逃げた人影の背格好は、見覚えのあるものだった。ダルコンの着る法衣の裾の揺れ方、その足の運び方に、あまりに似ていた。
その晩、カリヨンはダルコンの部屋を訪ねた。灯りの落ちた書斎で、大助祭は震える手で法衣の裾を繕っていた。裾には、繕いきれない裂け目と、黒く乾いた染みが残っていた。
「大助祭さま。それは――」
ダルコンは針を握る手を止め、長い沈黙の後、力なく笑った。それは、これまでカリヨンが見たことのない、崩れた笑みだった。
「愚かなことをした。あの女が、あの若造と睦まじく笑う姿を見て、私は自分を抑えられなかった。だが、これは……これは天が私に与えた試練だ。あの女さえいなくなれば、私の心も鎮まろう」
「彼女を、火刑にかけるおつもりですか。あなたが犯した罪のために」
「私は大助祭だ、カリヨン。私が裁かれれば、この大聖堂も、お前の居場所も、すべてが失われる。分かるな。お前は、私が拾い、育てた。恩を忘れたわけではあるまい」
ダルコンの声には懇願と脅しが入り混じっていた。カリヨンは、拾われ育てられた恩義と、水を差し出してくれた手の温もりとの間で、引き裂かれるように立ち尽くした。二十年分の恩と、たった数夜分の情け。それでも彼の中で、天秤はすでに大きく傾いていた。
「明日、処刑が執り行われる。お前はこの塔から、決して出るな。よいな」
そう言い残し、ダルコンは部屋を後にした。扉には外から鍵がかけられる音が響いた。カリヨンは暗い書斎に一人取り残され、震える拳を握りしめた。
四 鐘楼からの飛翔
処刑の刻、広場には夥しい数の群衆が詰めかけていた。木組みの台の上、火刑柱に縛られたリゼットは、恐怖に顔を強張らせながらも、気丈に前を見据えていた。ダルコンは司祭衣を纏い、粛々と裁きの言葉を読み上げる役目を務めていた。その手はかすかに震えていた。
塔の一室に閉じ込められたカリヨンは、扉に幾度も体当たりを繰り返した。古い木材が軋み、やがて鈍い音を立てて砕け散った。彼は階段を駆け上がり、鐘楼の最上階へと躍り出た。眼下に広がる広場、その中央で今まさに松明が薪の山に近づけられようとしていた。恩義か、情けか――その問いは、もはや彼の中には残っていなかった。
カリヨンは大きく息を吸い込み、この二十年、誰にも聞かせたことのない咆哮を、鐘の音に代えて解き放った。
その声は、鐘楼の石壁を震わせ、広場の隅々にまで響き渡った。人々が一斉に空を見上げたとき、彼らが目にしたのは、鐘楼の陰から身を躍らせ、灰褐色の翼を大きく広げて舞い降りる一頭の竜の姿だった。
悲鳴と怒号が入り乱れる中、カリヨンは火刑台へと真っ直ぐに降り立ち、その太い前脚で燃え上がる寸前の薪を薙ぎ払った。縄を鋭い爪で断ち切り、驚愕に目を見開くリゼットを抱え上げると、翼を一打ちして舞い上がり、大聖堂の尖塔近く、古くから「何人も傷つけてはならぬ」と定められた聖域の屋根へと降り立った。
聖域の屋根の上、夕暮れの風が二人の間を吹き抜けていった。遠く眼下では、なおも群衆のどよめきが波のように押し寄せては引いていく。
「あなたは……」
リゼットは震える声で、カリヨンの顔を間近に見つめた。恐怖はそこになかった。ただ、驚きと、ゆっくりと像を結んでいく確信だけがあった。
「あの夜、水をくれたのは、私だ」
その言葉に、リゼットの目に涙が浮かんだ。彼女はカリヨンの太い前脚にそっと手を添え、震える声で続けた。
「ずっと、あなたが見守ってくれていたのですね。荷馬車の車輪も、酔漢たちも……全部」
カリヨンは頷く代わりに、低く喉を鳴らした。それは、人の言葉よりも雄弁な、彼なりの肯定だった。
広場では、混乱がなお続いていた。ダルコンは群衆に向かって「あの竜こそ真の下手人だ、娘の呪いに操られた悪魔だ」と叫んでいたが、その声は次第に虚しく響くようになっていった。折しも、意識を取り戻したテオが、駆けつけた者たちに支えられながら広場に現れたのだ。彼は震える指でダルコンを指し、譫言のように呟いた。
「あの夜、私を刺したのは……大助祭さまの声だった。忘れるはずがない」
群衆のどよめきが、今度はダルコンへと向けられた。追い詰められた大助祭は、後退りながら鐘楼の外階段を駆け上がり、群衆から逃れようとした。だが焦りに足を滑らせ、苔むした石段から、なすすべもなく転落していった。
石畳に響いた鈍い音を最後に、広場は水を打ったように静まり返った。カリヨンはその一部始終を、聖域の屋根の上から、ただ黙って見下ろしていた。育ての親であり、彼を恐怖の中に閉じ込め続けた者の最期だった。悲しみとも安堵ともつかぬ感情が、彼の胸を静かに満たしていった。
五 鐘の音が残るところ
真実はやがて町中に知れ渡った。ダルコンの罪状、リゼットの潔白、そしてカリヨンが二十年もの間、鐘楼の陰で人知れず鐘を鳴らし続けてきたこと。町の人々の反応は様々だった。なおも竜という異形を恐れる声は消えなかったが、少なくとも、彼を石で迎えようとする者はもう現れなかった。代官は改めてリゼットの無実を宣言し、テオの証言を町の記録に留めることを約束した。
「あなたが、いつも鐘を鳴らしてくれていたのですね」
回復したテオが、塔を見上げてそう呟いたとき、傍らに立つリゼットは静かに微笑んだ。彼女は療養の日々の間、幾度となく塔の下を訪れては、カリヨンと言葉を交わした。恐れも、憐れみもない、ただ対等な会話だった。新しい大助祭が赴任するまでの間、大聖堂は町の古老たちの合議によって守られることとなり、カリヨンの存在は「大聖堂に古くから仕える守り手」として、静かに、しかし確かに町の暮らしの中へと迎え入れられていった。
けれど旅芸人であるリゼットの一座には、次の町へと向かう定めがあった。灯火祭の後始末が落ち着いたある朝、幌馬車の支度を終えたリゼットは、塔の下でカリヨンを見上げた。
「私は、また旅に出ます。それが私の生き方だから」
「分かっている。引き止める権利など、私にはない」
「けれど」リゼットは赤いリボンをもう一本取り出し、鐘楼の格子に結び付けた。「来年の灯火祭には、必ずまたこの町に戻ってきます。だから――待っていてくれますか」
カリヨンは、しばし言葉を失った。それから、長い喉を震わせるようにして、ただ一言だけ答えた。
「待っている。この鐘とともに」
幌馬車が石畳を軋ませて町を出ていくのを、カリヨンは鐘楼の格子窓から見送った。朝靄の向こうに小さくなっていく赤い布の色を、彼はいつまでも目で追い続けた。
その日の夕暮れ、カリヨンは久方ぶりに、誰に隠れることもなく鐘の綱を引いた。低く、深く、それでいてどこか晴れやかな音色が、ヴェルダンヌの空に広がっていく。恐ろしい姿の内側にこそ、誰よりも人間らしい心が宿っていたのだと、その音を聞いた町の誰かが、いつか気づいてくれるだろうか。
塔の下では、まだ幼い子どもたちが、鐘の音に合わせて手を叩きながら歌っていた。かつて彼を石で迎えた広場に、今は違う歌が流れている。それだけで十分だと、カリヨンは思った。恩人を失った悲しみも、育ての親を失った寂しさも、まだ胸の底に重く沈んだままだったが、その重さごと抱えて生きていくだけの強さを、彼はこの数か月の間に、確かに手に入れていた。
答えを急ぐことはなかった。鐘はこれからも、幾年も、この塔から鳴り続けるのだから。
あとがき
本作はヴィクトル・ユゴーの長編小説『ノートルダム・ド・パリ』(Notre-Dame de Paris)を翻案の下敷きとした。大聖堂前に捨てられた異形の赤子が鐘つき男として育ち、見世物にされたところを踊り子の慈悲によって救われ、後にその娘を処刑から救い出すという原作の骨格を活かしつつ、本作では捨てられた赤子そのものを「竜の子」に置き換え、育ての親である大助祭の横恋慕と裏切りに、竜自身が正体を明かして立ち向かう構造へと再構成した。
町の名、登場人物名、灯火祭や「醜人の玉座」といった祭事の設定は、すべて本作独自の創作であり、原文からの翻訳や逐語的な引用は一切行っていない。
本作はヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo)著『ノートルダム・ド・パリ』(Notre-Dame de Paris)を参考にした翻案作品です。