物語り
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·読了目安 14分脇役

竜は水を堰き止めなかった

水竜王国アクアリウス、氾濫を治めた治水都市・堰郷。堤に固執し失脚した先代と、水を導いた澪王、そして尾で川筋を刻んだという黄竜の伝承。観察者レイブンは源流の老竜を訪ね、大堤に固執する州牧の野心が招いた氾濫の夜、功績の所在を明かさぬまま静かに去りゆく竜の姿を見届ける。

一 堰郷、澪王廟に兆す不安

水竜王国アクアリウスの南、幾筋もの支流が扇状に広がって海へ注ぐ土地に、堰郷(えんごう)という古い都市がある。潤河(じゅんが)の下流に築かれたこの町は、毎年の増水期になると決まって水位を上げる暴れ川と共存するために、幾世代もかけて張り巡らせた運河網を誇りとしていた。石畳の水路が町を縦横に走り、荷を積んだ小舟が絶え間なく行き交い、堤の上には葦簀葺きの市が立つ。朝には魚売りの声が水面を渡り、昼下がりには子供たちが橋の欄干から水路を覗き込んで遊び、夕暮れには舟提灯の灯りが幾つも川面に映る。旅の観察者レイブンがこの町に足を踏み入れたとき、真っ先に目に留まったのは、そうした穏やかな水辺の景色の下に潜む、どこか張り詰めた空気だった。

「今年の水は、いつもより早く来るらしいですよ」

宿の女将は、レイブンに茶を出しながらそう言った。「潤河の上流で、雪解けが早いんだとか。うちの亭主なんかは、堤の見回りを二倍に増やせと騒いでますけどね」

女将の言葉通り、町の各所では水路守たちが慌ただしく橋脚の点検に回り、堤の亀裂を土嚢で塞ぐ作業に追われていた。それでいて市場の喧騒は普段と変わらず、誰もが表向きには軽口を叩き合いながら、心の奥底に小さな不安を抱えているように、レイブンには見えた。

町の中心には、古い廟が建っていた。屋根瓦は色褪せ、柱には長い年月を物語る罅が走っているが、朝な夕なに絶えず線香の煙が立ち上っている。廟に祀られているのは、この地に伝わる「澪王(みおおう)」と呼ばれる古の統治者だった。かつて幾度となく町を呑み込んだ大氾濫を治め、二度と溺れることのない町を築いた英雄として、堰郷の人々は今もこの人物を敬っている。

廟の正面には、素朴な木彫りの像が二体並んでいた。ひとつは冠を戴いた人の姿、澪王その人であるという。もうひとつは、鱗を持つ長い体をとぐろのように巻いた竜の像だった。金泥はほとんど剥げ落ち、下から覗く木地の色は、かろうじて黄色だったことを窺わせるに過ぎない。線香の煙にいぶされ続けた竜の顔は、笑っているようにも、何かを堪えているようにも見えた。

「あれは、黄竜様の像ですよ」

案内を買って出た廟守の老人、阿泉(あせん)がそう教えてくれた。「澪王様が河を治められたとき、力を貸したという竜です。もっとも、竜が本当にいたのかどうか、今となっては誰にも分かりませんがね」

レイブンは像の前に佇み、剥げかけた金泥の竜を見つめた。二百年、あるいはそれ以上、この町はこの伝承と共に生きてきたのだろう。だが、その伝承の奥に本物の竜がいるとしたら――旅の記録者としての好奇心が、静かに疼き始めていた。

町を歩くうちに、レイブンはもうひとつの噂を耳にした。この春に着任したばかりの若い州牧、郁光(いくこう)が、下流の要となる水門の脇に、これまでにない規模の大堤を築く計画を進めているという。堤の完成を祝う碑には、すでに郁光自身の名が刻まれる手筈になっているとも聞いた。「これさえあれば、もう水路の面倒な手入れなど要らなくなる」と、郁光は町の広場で自ら演説していたらしい。運河の維持よりも、目に見える巨大な建造物を欲しがる為政者の心理は、レイブンがこれまで訪ねた多くの町でも見てきたものだった。だが、水位が例年より早く上がりつつあるこの年に、その計画がどのような意味を持つのか。誰もまだ、はっきりとは口にしていなかった。夕暮れの水路を眺めながら、レイブンは何とはなしに、この町にもうしばらく留まってみようと思った。

二 沮侯の堤、澪王の疏導

阿泉老人の住まいを兼ねた廟の裏手には、代々書き継がれてきた古い記録帳が保管されていた。虫食いだらけの紙をめくりながら、老人はレイブンに、堰郷に伝わる治水の顛末を語って聞かせた。

「澪王様より前、この地を治めていたのは沮侯(そこう)という方でした」阿泉は茶を啜りながら続けた。「沮侯様は、氾濫のたびに堤をより高く、より厚く積み増すやり方に固執なさった。水は敵だ、力ずくで塞き止めればいずれ勝てる――そう信じておいでだったのでしょう。ですが水というものは、行き場を失えばどこかに溢れ出るものです。堤が高くなるほど、決壊したときの水勢は凄まじいものになった。ある年の大水で、沮侯様の堤はことごとく崩れ、町は今までにない被害を受けたと伝わっています。沮侯様はその責を負って、地位を追われました」

「その後を継いだのが、澪王だったのですね」

「ええ。澪王様は、父君である沮侯様の失敗を、誰よりも間近でご覧になっていた。だからこそ、堰き止めるのではなく、水に道を与えるという、まるで逆の方針を選ばれたのです。十数年にわたって国中の河川を巡り、水路を掘り、低地に逃げ道を作り、水が自ら望む方へ流れられるようにした。自らの屋敷にほとんど帰ることもなく、日に焼け、手足の爪は割れ、それでも澪王様は先頭に立って鍬を振るったと伝わっています。人々はその見返りを求めぬ献身を見て、澪王様についていくようになったのです」

古い記録帳の挿絵には、地面に刻まれた幾筋もの水路と、その傍らを這うように進む一頭の黄色い竜の姿が描かれていた。伝承によれば、澪王が水路の道筋に迷ったとき、一頭の黄竜が現れ、長い尾で地面を裂いて新たな川筋を示したのだという。

「竜は、澪王様と共に働いたのですか」

「そう伝わっています。もっとも」阿泉は少し声を落とした。「近頃の学者の中には、あれは澪王様の功績を大きく見せるための後付けの伝説だと言う者もいますよ。人の力だけで河を治めたと言うより、竜の助けがあったと言うほうが、後の世には都合が良かったのかもしれません。逆に、竜こそが真の立役者で、澪王様はその力を借りただけの器に過ぎなかった、と語る古老もいます。どちらの言い分にも、確かめる術はありません」

レイブンは記録帳を閉じながら、ふと思った。功績の所在を確かめたいなら、竜自身に尋ねるのが一番早い。もしその竜が、今もこの潤河のどこかに生きているのなら。

「この川の源流には、今も何かが棲んでいるという噂を聞いたことがあります」レイブンが水を向けると、阿泉は驚いたように顔を上げた。

「ご存じでしたか。潤河の水源、切り立った峡谷の奥に、誰も足を踏み入れない淵があります。漁師たちは、あそこには黄色い大きな影が棲んでいると言って、決して近づこうとしません。この百年ほどの間にも、興味本位で近づいた者が幾人かいたそうですが、皆一様に、竜の姿を見た者は言葉少なに戻ってきて、それきり二度と近づこうとはしなかったと聞いています」

舟を雇う前に立ち寄った船着き場の茶屋では、年老いた漁師が煙管をふかしながら、こう付け加えた。「わしも若い時分に一度だけ、あの淵の縁で黄色い影を見たことがある。逃げるように舟を漕いだから、はっきりとは覚えとらんが……あれは、こっちを見ていたような気がしてならんのだ」。誰の話も、細部は少しずつ食い違っている。それでも、誰もが同じ場所を、同じ色の影を語る。レイブンはその一致にこそ、確かめる価値があると感じた。

その日のうちに、レイブンは荷物をまとめ、潤河を遡る小舟を雇った。舟を漕ぐ老船頭は「あの淵まで行くのかね」と一度だけ念を押し、それ以上は何も聞かずに櫂を握った。

三 源流に潜む黄竜

三日かけて舟を漕ぎ上り、両岸が切り立った岩肌に変わる頃、船頭はそれ以上進むことを拒んだ。「ここから先は歩くしかありません。私はここでお待ちしております」。レイブンは礼を言って舟を降り、獣道のような細い道を辿って、峡谷の奥へと進んだ。頭上を覆う崖のせいで日差しはほとんど届かず、湿った岩肌に苔がびっしりと張り付いている。谷底を吹き抜ける風は冷たく、水音だけが絶えず耳の奥に響いていた。

やがて視界が開け、深い緑色をたたえた淵が現れた。水面は不気味なほど静かで、切り立った崖に反響する水音だけが、あたりを支配していた。レイブンが淵の縁に腰を下ろし、しばらく待っていると、水面がゆっくりと盛り上がり、巨大な黄色い頭が持ち上がった。

「また人間か」

しわがれた、しかし芯の通った声だった。鱗は褪せた金色で、額には長い年月を物語る古傷が幾つも刻まれている。「この百年で、お前が三人目だ。皆、同じことを聞きたがる。澪王を助けたのはお前か、と」

「私は、その答えを求めているわけではありません」レイブンは静かに答えた。「ただ、あなた自身の言葉を聞きたいだけです」

黄竜はしばらく沈黙していたが、やがて億劫そうに岸辺へ這い上がってきた。「私の言葉など、聞いたところで大した話ではないぞ」

それでもレイブンが辛抱強く待っていると、黄竜はぽつりぽつりと、遠い昔のことを語り始めた。

「沮侯という男を、私は最初のうちは気に入っていた。あの男は、水を敵とみなし、力でねじ伏せようとした。若かった私には、その傲慢さがどこか心地よく映った。私も当時は、水を御するとは力で押さえつけることだと思い込んでいたのだ」黄竜は苦い記憶を辿るように、目を細めた。「だから私は、沮侯の堤に幾度も力を貸した。土を押し固め、石を運び、堤を高くする手伝いをした。だが、いくら堤を高くしても、水は行き場を求めて別の場所から溢れ出た。ある年、私が特に力を入れて固めた堤が、これまでで最も凄まじい勢いで決壊した。町は流され、多くの命が失われた。私はそのとき初めて、自分のしてきたことの意味を思い知った」

「それで、澪王に力を貸すようになったのですか」

「澪王が現れたとき、私は最初、力を貸すつもりなどなかった。もう二度と、人間の営みに関わるまいと誓っていたからな」黄竜は言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。「だが、あの男は違った。水を敵とは呼ばず、行く先を見出してやればよいだけだと言った。堤を築く代わりに、低地を掘り、遠くの湿地へと水を導いた。傲慢さの欠片もなく、ただ黙々と、幾年も土を掘り続けた。私はその背を、長いこと遠くから見ていただけだ」

レイブンがその日のうちに峡谷を後にすると、黄竜は「もう来ずともよい」と背を向けたが、翌旬、レイブンが再び淵を訪れると、黄竜は不機嫌そうにしながらも、岸辺に姿を現した。二度目の訪問で、レイブンは初めて、黄竜がかつて失った友のことを聞いた。

「澪王が水路を掘る中で、共に働いていた若い技師がいた。名を憶えているのは、私だけかもしれん」黄竜は淵の水面を見つめながら言った。「彼は、澪王よりもさらに熱心に、土を掘り、水の流れを読んだ。だが、ある大雨の夜、彼は詰まった水路を自らの手で開けようとして、押し寄せた濁流に呑まれて命を落とした。澪王は彼の亡骸を抱いて、一晩中泣き続けたと聞く。私はそれを、ただ遠くから眺めていることしかできなかった」

「では、水路に道を示したという伝承は」

黄竜はふっと息を吐いた。それは、笑いに似た響きだった。「その若い技師が命を落とした夜、澪王もまた力尽きて倒れているのを見つけた。このまま放っておけば、彼も死ぬ。私は迷った末に、尾で地面を裂いて、彼が探し続けていた抜け道を教えてやった。それだけのことだ。川筋を刻んだのは確かに私の尾だが、そこに水を導き、田畑に変え、町を築いたのは、澪王と、彼に付き従った人間たちの意志だ。私はただ、道を一本示しただけに過ぎない」

レイブンは黄竜の言葉を、静かに記憶に刻んだ。「あなたは、その功績を誰のものだと考えているのですか」

「考えたことなど、一度もない」黄竜は淵の水面を見つめながら答えた。「功績を数えるのは人間のすることだ。私はただ、かつて自分の犯した過ちを、少しばかり償っただけのことだ」

三度目に淵を訪れたとき、レイブンは思い切って尋ねてみた。「あなたは、なぜこんなにも長く、ここに一人でいるのですか」

黄竜はしばらく答えなかった。やがて、崖の上に差し込む細い光の帯を見上げながら、独り言のように言った。「かつて仲間がいた。だが、人間の営みに深く関わりすぎたことを咎められ、皆この地を去った。私だけが、償いを終えるまでは去れぬと思い込んで、居残った。……もっとも、いつになれば償いが終わるのか、それすらも、私には分からぬままだ」

その声には、これまでの素っ気なさとは違う、隠しきれない孤独が滲んでいた。レイブンは何も言わず、ただその言葉を静かに聞いていた。慰めの言葉をかけることも、答えを急かすこともしなかった。長い沈黙の後、黄竜はふんと鼻を鳴らし、「柄にもないことを口にした」と呟いて、また淵の底へと姿を隠した。それでも、次にレイブンが訪れたとき、黄竜は前よりも早く、水面に顔を出した。

その日を境に、レイブンは幾度となく峡谷の淵を訪れた。黄竜は最初のうちこそ素っ気なかったが、日を追うごとに、堰郷の様子や、潤河の水位の話などを、ぽつりぽつりと尋ねてくるようになった。あるとき、レイブンが郁光の大堤計画のことを話すと、黄竜の目に、初めて鋭い光が宿った。

「堤を、高くする、だと」

「ええ。それも、この春に始まった水位の上昇に間に合わせるつもりだとか」

黄竜は長いこと押し黙っていた。「沮侯と、同じ過ちだ」

四 堰の崩れ、氾濫の夜

レイブンが堰郷に戻ったのは、雪解け水が例年よりひと月も早く押し寄せ始めた頃だった。郁光の大堤は、水門脇の要となる場所にほぼ完成していたが、その建設のために、古くからある水路の維持作業は後回しにされ続けていた。澪王の代から受け継がれてきた水路守の一人、澪(みお)という若い女が、詰まりかけた分水路の泥をひとりで浚っているところに、レイブンは行き会った。

「郁光様は、この水路の手入れに回すはずだった予算を、堤の石材に回してしまったんです」澪は泥にまみれた手を止めずに言った。「大堤さえあれば安心だと、皆に言い聞かせていますが……この水路が詰まったままでは、いくら堤を高くしたところで、水はどこかから溢れ出ます」

澪は、代々水路守を務めてきた一族の末裔だという。「祖母の、そのまた祖母の代から、うちの家は水路の様子を見て歩くのが仕事でした。誰に褒められるでもない、地味な仕事です。でも、澪王様が命がけで掘った道を、絶やすわけにはいかないんです」。その言葉には、家業への誇りと、報われなさへの微かな諦めが同居しているように、レイブンには聞こえた。

郁光もかつては、悪意でこの計画を進めたわけではなかったのだろう、とレイブンは思う。着任したばかりの若い州牧は、地味な水路の維持にどれだけ手間をかけても、民の目には映りにくいことを知っていた。それよりも、天を衝くような堤を築き上げ、そこに自らの名を刻むほうが、任期の間に成果を示す近道に思えたに違いない。だが、その野心が、幾世代もかけて積み重ねられてきた慎重な均衡を、いとも簡単に踏みにじろうとしていた。

その夜、上流からの水量が一気に膨れ上がった。急ごしらえの大堤は、想定を超える水圧に軋み始め、やがて轟音と共に、堤の一部が崩落した。飛び散る水しぶきと共に、巨大な石材が幾つも川面に転がり落ちる音が、町の隅々にまで響き渡った。堰き止められていた水は行き場を求めて逆流し、手入れの遅れていた旧水路の分岐点で、大量の土砂と共に流れを塞いでしまった。町の低地に、みるみるうちに水が押し寄せ始める。半鐘が鳴り響き、寝間着のまま飛び出してきた住人たちが、子供や年寄りを背負って高台を目指して走り出した。

「このままでは、町の東半分が沈みます!」

澪が叫びながら駆けつけてきた。詰まった分岐点の泥を人力で取り除くには、あまりに時間が足りない。郁光は青ざめた顔で右往左往するばかりで、指示らしい指示も出せずにいた。「まさか、こんなことになるとは……」と震える声で呟く郁光を横目に、澪と数人の水路守たちは、松明の灯りを頼りに黙々と泥をかき出し続けていた。

レイブンは迷わず峡谷へと走った。三日かかる道のりを、一晩で駆け抜けることなど到底できはしない。それでも、走らずにはいられなかった。

夜明け前、疲れ果ててようやく峡谷にたどり着いたレイブンを、黄竜はすでに淵の縁で待っていた。潤河の異変を、遠く離れたこの場所からも感じ取っていたのだろう。

「もう誓いを破るつもりはない、と言ったはずだ」黄竜は低く唸った。

「私は、あなたに何かをしてくれと頼みには来ていません」レイブンは息を切らしながら答えた。「ただ、今この瞬間も、澪という水路守が、たった一人で泥を掻き出し続けていることを、あなたに伝えたかっただけです」

黄竜は長いこと、レイブンを見つめていた。それから、静かに水面へと身を沈めた。

夜が明ける頃、堰郷の分岐点では、澪をはじめとした水路守たちが、なおも泥にまみれながら水路を浚い続けていた。誰もが力尽きかけ、水位はなおも上がり続けている。そのとき、地鳴りのような震動と共に、分岐点の下流にあった小さな丘が、まるで大きな爪で引き裂かれたかのように崩れ、新たな水路が口を開けた。行き場を失っていた濁流は、その裂け目へと吸い込まれるように流れ込み、みるみるうちに水位が下がっていった。

「見たか、今の……!」誰かが叫んだが、誰もその正体を確かめられなかった。夜明け前の薄闇の中、水しぶきの向こうに、黄色い何かが一瞬だけ見えたと言う者もいれば、崩れかけていた土手が、たまたま水の重みに耐えかねて崩落しただけだと言う者もいた。澪自身も、泥にまみれた顔を上げたときには、すでにそこには何もなく、ただ新しく口を開けた水路と、引いていく水だけがあった。

五 川を刻んだ意志は誰のものか

数日後、町の被害を調べに来た州の監察によって、郁光の大堤計画にまつわる不正な資金の流用が明るみに出た。彼は職を追われ、大堤は取り壊され、その資材は旧水路の補修に回されることになった。町の広場には新たに、堤ではなく水路を守ることを誓う碑が建てられ、澪をはじめとした水路守たちの名が刻まれることになった。碑文の傍らには、あの夜に開いた新しい水路のことも、簡潔な一文として書き添えられた。「原因は定かならず、されど町を救いたる流れなり」。

郁光は取り調べの間、終始うつむいたまま、多くを語らなかったという。ただ最後に、澪に向かって「堤さえあれば、皆を守れると、本気で思っていたのだ」とだけ呟いたと、後になって澪はレイブンに教えてくれた。その言葉が言い訳なのか、偽らざる本音なのか、澪自身にも判じかねているようだった。

レイブンは町を発つ前に、もう一度だけ峡谷を訪れた。黄竜は淵の底からゆっくりと浮かび上がり、いつもと変わらぬ、どこか億劫そうな顔でレイブンを見た。

「あの夜、丘を裂いたのは、あなたですか」

「さあな」黄竜はそっけなく答えた。「古い土手が、たまたま水の重みに耐えかねて崩れただけかもしれん」

「あなたが、そう望むのなら、私はそう記録します」

黄竜はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。「川を刻んだのは、確かに私の尾だったかもしれん。だが、あの水路を今日まで守り続けてきたのは、澪という娘や、その前の代の水路守たちだ。丘ひとつ裂いたぐらいのことを、功績と呼べるものか。私はただ、かつての過ちを、また少し償っただけのことだ」

「功績が誰のものかは、決めなくてもよいのかもしれません」レイブンは静かに言った。「ただ、水路が守られ、町が沈まずに済んだ。それだけで、十分なのかもしれない」

黄竜は答える代わりに、ゆっくりと目を閉じた。「もう行け。次に誰かがここへ来るとすれば、また百年後のことになるだろう」

レイブンは一礼して踵を返した。峡谷を下る道すがら、振り返ると、黄竜の姿はすでに深い淵の底へと消えていた。

堰郷を出る朝、澪が船着き場まで見送りに来た。「結局、あの夜のことは、誰にも本当のことは分からずじまいですね」

「それでいいのだと思います」レイブンは答えた。「川を刻んだ意志が、竜のものだったのか、人のものだったのか。答えを急がなくても、水路は今日も、ちゃんと流れています」

澪は少し笑って、頷いた。「祖母たちが守ってきたものを、今度は私が守ります。竜がいてもいなくても、それは変わりませんから」

舟が岸を離れ、堰郷の町並みが遠ざかっていくのを、レイブンはいつまでも眺めていた。運河の水面には朝日が反射し、幾筋もの水路が、町の隅々まで静かに水を運んでいた。誰が刻んだかもわからない道筋を、今日もまた、水が迷わず流れていくように。

あとがき

本作は、中国古代の伝承に語られる大禹の治水譚(『史記』夏本紀、『山海経』等に記録)を下敷きにした翻案である。堤で水を塞き止めようとして失敗した父・鯀と、その教訓から「疏導」の方針へと転じて治水を成し遂げた禹、そして禹を助けたとされる黄竜(応龍)という伝承の骨格を保ちながら、舞台を水竜王国アクアリウスの架空の治水都市「堰郷」に置き換え、旅の観察者レイブンを狂言回しとして配置した。

原典では詳細の語られない黄竜の内面を、本作では「かつて力任せの治水に加担し、その結果を悔いた末に方針を転じた」という独自の背景として補い、現代の水路守・澪や、大堤に固執する州牧・郁光といった人物や事件は、いずれも本作のための創作である。物語の結末で、竜が丘を裂いたのかどうかを最後まで明言させず、功績の所在を曖昧なまま残したのは、伝承が本来持っていたはずの、人と自然の力がどこまで分かちがたく結びついているかという問いを、そのまま読者に委ねたかったためである。

原典の翻訳や特定の訳文からの逐語的な引用は行っていない。


本作は中国古代の大禹治水伝承(『史記』巻二 夏本紀、司馬遷著、https://ctext.org/shiji/xia-ben-ji)を参考にした翻案作品です。

本作は司馬遷の『史記 巻二 夏本紀』を参考にした作品です。原典