竜は虫の名を語らなかった
水竜王国アクアリウスの湖畔、唐橋町には「橋を恐れず渡った弓取りと龍神の盟約」の伝承が伝わっていた。観察者レイブンが聞き込むほどに、討たれた巨大な魔物の正体は食い違い、湖の奥の老竜は多くを語らぬまま、真相は祭りの灯りの奥に留め置かれた。
一 唐橋町、橋のたもとの壁画
湖を渡る風は、思っていたよりも冷たかった。
レイブンが唐橋町の入口に立ったのは、日が傾き始めた頃だった。水竜王国アクアリウスの領内をあてもなく巡り歩く記録者にとって、地図の隅にようやく名の載るほどの小さな町だが、湖に張り出した石造りの橋だけは、その名にふさわしい古い風格を保っていた。橋は緩やかに弧を描き、苔むした欄干のあちこちに、長い歳月に磨かれた丸みが宿っている。何十世代もの旅人の手が、同じ場所を撫でてきたのだろう。橋板の継ぎ目には、幾度となく補修を重ねた跡が縞模様のように残り、それすらもこの町の年輪のように見えた。
橋のたもとに立つ小さな祠の壁に、色褪せた壁画があった。とぐろを巻いた大蛇の傍らを、恐れる素振りも見せずに歩み去る一人の男の姿。よく見れば大蛇の鱗の合間に、ほのかな金色の光が透けて描かれている。ただの獣ではなく、何か貴いものを内に秘めた姿として描かれたのだと、レイブンにはすぐに分かった。壁画の周囲には、小さな石を積んだ賽銭台のようなものがあり、真新しい花が一輪、供えられていた。誰かが、毎日のようにこの場所を訪れているのだろう。
記録帳を取り出し、壁画の構図を手早く写し取る。旅を続けるうちに、こうした壁画や石碑のたぐいが、口伝の伝承よりも雄弁に土地の記憶を語ることを、レイブンは幾度となく学んできた。絵の隅には、判読しづらいほど摩耗した銘があった。目を凝らすと、かろうじて「盟約」という文字が読み取れる。その下にもう一行あったはずの銘は、風化によって完全に失われ、白い石肌がのぞくばかりだった。
橋を渡りきったところで、提灯を吊るす支度をしている老爺と行き会った。明日の晩に何か祭りでもあるのかと尋ねると、老爺は手を止めて、興味深そうにレイブンの旅装を眺めた。
「明日は盟約祭さね。よそから見物に来たのかい、それとも――」老爺は言葉を切って、レイブンの記録帳に目を留めた。「記録屋さんかね。そういう手合いは、たまに来るよ。この橋の伝説を聞きにね」
「盟約祭、とは」
「湖の龍神さまと、この町の祖先が結んだ約束を祝う祭りだよ。詳しいことは、宿の脇に住んでるカネ蔵じいさんに聞くといい。あの人は昔語りの生き字引きだから」
老爺はそう言うと、また提灯を吊るす作業に戻っていった。町並みを歩けば、家々の軒先にも同じ提灯が下げられ、祭りを迎える支度の熱気がそこかしこに漂っている。子供たちが手に手に小さな旗を持って走り回り、路地の奥からは太鼓の稽古らしい音が漏れ聞こえてくる。だがその熱気の奥に、レイブンはかすかな違和感も嗅ぎ取っていた。すれ違う住人の何人かが、橋の方角を一瞬だけ振り返り、それからすぐに目を逸らす。祝祭の高揚だけでは説明のつかない、何か落ち着かない気配が、この町の空気には混じっていた。
宿にたどり着き、荷を下ろすと、レイブンは記録帳の新しい頁に、今日見たものを書きつけた。「唐橋町。橋のたもとに、大蛇と旅人の壁画。明日、盟約祭」――そして最後に、小さく付け加えた。「住人の視線、橋を避ける」。窓の外では、湖面が夕日を受けて、しばらくのあいだ橙色に染まっていた。
夕餉の席で、宿の主人がぽつりと漏らした言葉が、レイブンの耳に残った。
「うちの祖父も、盟約祭が近づくと決まって機嫌が悪くなったものです。理由を尋ねても、はぐらかされるばかりで。……子供の頃はただの偏屈だと思っていましたが、今になって思うと、あれは何かを恐れていたのかもしれません」
「何を恐れていたと」
「さあ。それが分かれば、私もこんなに長く引っかからずに済んだんですがね」
主人はそう言って、それ以上は語らず、空いた皿を片付けに立ってしまった。レイブンは残った汁の湯気を見つめながら、記録帳にもう一行、書き添えた。「祖父の代からの、名指せぬ恐れ」。窓の外では、いつしか日が沈み、湖面には星々の光が細かく散らばっていた。
二 古老の語る伝承、食い違う証言
翌朝、レイブンは宿の主人に教えられた通り、路地の奥に住むカネ蔵という老爺を訪ねた。訪いを入れると、日向で網を繕っていた老爺が、皺だらけの顔をほころばせて迎え入れてくれた。土間には、干した川魚や薬草の束が所狭しと吊るされ、長年この土地に根を張って暮らしてきた者の匂いが満ちていた。
「壁画を見てきたんだろう。あれの謂れを知りたいのかね」
「差し支えなければ」
カネ蔵は繕いかけの網を脇に置くと、湯呑みを二つ用意しながら、ゆっくりと語り始めた。
「大昔――といっても、この町の暦で数えればせいぜい十数代前のことだが――一人の弓取りがこの橋を渡ろうとした。名を伊佐雄という。腕利きの狩人でな、諸国を渡り歩いて仕事を探していたそうだ。ところがこの橋の上に、とぐろを巻いた大蛇が横たわっていた。並みの旅人なら回れ右をするところだが、伊佐雄はまるで動じず、大蛇の背をひとまたぎして渡り切ってしまった」
「伊佐雄という人は、もとよりこの町の生まれだったのですか」
「いや、余所者だったそうだ。故郷を失って、行くあてもなく諸国を渡り歩いていたと聞く。だからこそ、大蛇如きに怯む理由もなかったのかもしれん。失うものが、もう何もなかったのだろうよ」
「大蛇は、何もしなかったのですか」
「それがこの話の肝でな。大蛇は伊佐雄の胆力に感じ入って、その夜、若い娘の姿になって彼の宿を訪ねた。自分は湖の底に住まう龍神で、名を瀬淵という。一族が、七卷山に棲みついた恐ろしい魔物に苦しめられていると訴えた」
カネ蔵は湯呑みをすすり、続けた。
「七卷山を七巻き半するほどの、途方もなく巨大な化け物でな。田畑を荒らし、家畜をさらい、逆らう者は湖にまで引きずり込んだという。伊佐雄は瀬淵に頼まれて山へ向かい、強弓を引き絞って矢を放った。だが一本目も二本目も、化け物の分厚い体皮に弾かれてしまう。矢羽根が根元から折れて、崖下へ転げ落ちていったそうだ。そこで伊佐雄は三本目の矢に、己の唾を塗って放った。すると矢はものの見事に急所を貫き、化け物は山を揺るがすほどの唸り声を上げて息絶えたという」
「その化け物とは、いったい何だったのですか」
レイブンが問うと、カネ蔵は当然のように答えた。
「大百足さ。山を七巻き半する、途方もない大百足だったと聞いている。婆さまから聞いた話じゃ、退治のあとも三日三晩、山肌に生臭い臭いが残っていたそうだ」
そのとき、開け放した戸口の向こうから、しわがれた声が割って入った。
「カネ蔵、また出鱈目を教えているのか」
戸口に立っていたのは、カネ蔵よりもさらに年嵩と見える老爺だった。杖をつきながら土間に入ってくると、不服そうに鼻を鳴らす。
「百足だなんぞ、俺の婆さまはそんな風には言っていなかったぞ。あれは竜だ。それも、瀬淵さまと同じ血を引く、よその竜だったと聞いている。縄張り争いの果てに討たれたんだと」
「トヨ、お前の婆さまの話はいつも尾ひれがつく。百足で間違いない。だいたい、山を七巻き半するほどの体なんぞ、竜にできるものか」
「竜だからこそできるんだろうが。虫ごときにそんな芸当ができるものか。だいいち、伊佐雄が三本目の矢に唾を塗った理由も、百足なら鱗の隙間を狙えばよかろうに、なぜわざわざ唾なんぞ必要だった。竜の逆鱗を欺くための呪だったからこそだ」
「阿呆らしい。唾で逆鱗が欺けるなら、猟師なんぞ苦労はせんよ」
二人の老爺は、レイブンをそっちのけで言い合いを始めてしまった。声はだんだんと大きくなり、隣家の犬まで吠え出す始末だった。レイブンは黙って記録帳を開き、二つの証言をそのまま書き留めた。「討たれた魔物――甲・大百足説(カネ蔵)。乙・竜の同族説(トヨ)。伝承、住民間で不一致。矢に唾を塗った理由についても解釈が割れる」。旅を重ねるほどに、こうした食い違いこそが、土地の記憶の本当の輪郭を教えてくれることを、レイブンはよく知っていた。
礼を告げて土間を出るとき、まだ言い合いを続ける二人の声が、路地の向こうまで聞こえていた。
三 尽きぬ米俵と、祭りの夜のざわめき
言い合う二人の老爺を後に、レイブンは町の中心にある小さな資料館へと足を向けた。かつての詰所を改装したという建物の奥に、盟約祭で用いる祭具が大切に納められている。案内してくれたのは、まだ年若い神官のミナだった。
「これが、龍神さまから贈られたと伝わる米俵です。どれだけ米を取り出しても、翌朝には満ちているのだとか」
彼女が指し示した木箱の中には、古びた俵が一つ収められていた。表面はすっかり褪せて灰色になっているが、俵を編んだ藁の一本一本は、驚くほど丁寧に保存されている。実際に米が湧き出す様子は誰も見たことがなく、今ではただ祭具として、年に一度の儀式で担ぎ出されるだけなのだという。隣には、同じく色褪せた反物が畳んで置かれていた。
「こちらは、切っても減らないと伝わる反物です。もっとも、今では大切に保管するだけで、誰も切って試そうとはしませんが」
「本物かどうかは、確かめようがないと」
「はい」ミナは少し困ったように微笑んだ。「私も神官として仕えていますが、正直なところ、伝承のどこまでが本当なのか、自分でもよく分かっていません。討たれた魔物についても、大百足だったという人もいれば、別の竜だったという人もいて。町の中でも、ずっと意見が割れたままなんです。先代の神官は、そのどちらでもない、もっと別の言い伝えを知っていたようですが、詳しくは私に伝える前に亡くなってしまいました」
「別の言い伝え、ですか」
「ええ。ただ、それが何だったのか、今となっては誰にも分かりません」
その夜、篝火が湖畔に何十と焚かれ、盟約祭が始まった。太鼓の音に合わせて踊り手たちが橋のたもとを練り歩き、豊漁と豊作を祈る唱えごとが夜気に響く。子供たちは提灯を手に橋を渡っては戻り、渡っては戻りを繰り返し、年に一度だけ許されるその遊びを心ゆくまで楽しんでいた。屋台からは焼いた魚と甘い蜜団子の匂いが漂い、レイブンはその賑わいの合間を縫って歩きながら、出会う住人ひとりひとりに、討たれた魔物について尋ねて回った。
「あれは百足だよ、決まってるじゃないか」と言う者もいれば、「うちの家系じゃ、竜の亜種だったと伝わっている」と言う者もいる。中には「そもそも、姿をちゃんと見た者なんて、誰もいやしないさ。みんな聞いた話をまた聞きで語っているだけだ」と、少し投げやりに笑う若者もいた。老いた織物師の女は、「私の家では、あれは元々この湖に棲んでいた、瀬淵さまの弟君だったと伝わっているよ。誰も大声では言わないけどね」と声を潜めて語り、すぐに人混みの中へ紛れていった。証言は集めれば集めるほど、輪郭がぼやけていくばかりだった。
屋台の並ぶ通りで、干し魚を焼いていた中年の女がふと手招きをした。
「記録屋さん、聞き回ってるんだろう。うちの店にも代々伝わる話があるよ」女は串をひっくり返しながら続けた。「あの化け物はね、もとは湖の主だったのを、瀬淵さまが追い出して、その座に代わって収まったんだって話もあるのさ。だから瀬淵さまは、化け物を討たせたあと、二度とこの話を口にしなくなったって」
「それは、先ほど別の方から伺った話とも、また違いますね」
「そりゃそうさ。この町の数だけ、話があるんだから」女は屈託なく笑い、また串を返し始めた。「本当のことなんて、とうの昔に湖の底さね」
祭りも終わりに近づいた頃、湖畔で網を片付けていた老いた漁師が、レイブンの問いにふと手を止めて言った。
「魔物の正体なんぞ、俺には分からんよ。ただ――」老漁師は湖の暗い水面へ目をやった。「今でも、夜更けにあの湖の一番奥まで漁に出ると、時々、水面がひとりでに揺れることがある。何かが、まだあそこに棲んでいるような気がしてならん。若い頃、一度だけ舟を出したことがあるが、あの先はどうにも空気が違う。それきり、俺は二度と近づいていない」
「湖の奥、ですか」
「近づかんほうがいい、とみんな言うがね。記録屋さんなら、行ってみるのも悪くないかもしれん。……ただし、聞いたことを鵜呑みにはせんことだ。あそこにいるのが何であれ、機嫌を損ねれば只では済まんという話だからな」
老漁師はそれだけ言うと、網を担いで家路についた。篝火が一つ、また一つと消えていく中、レイブンはしばらく暗い水面を見つめてから、記録帳を閉じ、小舟を借りる算段をつけることに決めた。
四 湖の底、老いた竜との対話
夜半、レイブンは町の桟橋から一艘の小舟を借り受け、湖の最奥を目指して漕ぎ出した。祭りの喧噪はすでに遠く、聞こえるのはただ、櫂が水を切る音と、夜霧の中で滲む虫の声だけだった。灯りを絞った提灯ひとつを頼りに、レイブンは湖の中央よりもさらに奥、地図にも記されていない入り江へと舟を進めた。水面は驚くほど静かで、まるで舟の下に、底なしの闇がそのまま広がっているかのようだった。
入り江の水面が、不意に大きく波立った。
舟が大きく揺れ、レイブンは咄嗟に艫にしがみついた。次の瞬間、湖面を割って現れたのは、鱗の艶を失いかけた、途方もなく巨躯の老いた水竜だった。金色に濁った瞳が、じっとレイブンを見下ろしている。恐ろしいというより、深い疲労を湛えた眼差しだった。首筋には、古い傷跡らしき筋が幾筋も走り、長い年月を経てなお消えずに残っていた。
「久しく、この奥まで舟を寄せる者はいなかった」
低く、地の底から響くような声だった。レイブンは震える手で提灯を掲げ、素性を名乗った。
「私は各地を巡り、伝承を記録して回る者です。この町に伝わる、弓取り伊佐雄と龍神瀬淵の盟約について、お尋ねしたいことがあります」
老竜はしばらく沈黙していた。波紋がゆっくりと広がり、また静まっていく。
「瀬淵、という名を、久方ぶりに聞いた」
「あなたが、その瀬淵なのですか。それとも」
「それに答えることに、大した意味はない」老竜は静かに言った。「名など、伝承の中でだけ生き続ければ、それで十分なものだ」
レイブンは焦らず、次の問いを重ねた。
「町では、伊佐雄に討たれた魔物の正体について、伝承が食い違っています。ある者は大百足だったと言い、またある者は、あなたと同じ血を引く竜だったと言います。真実はどちらなのですか」
長い沈黙が落ちた。老竜の巨躯が、水面の下でゆっくりと身じろぎする気配だけが伝わってくる。提灯の灯りが、風もないのにわずかに揺れた。
「あの夜、討たれたものの姿は――確かに、百足のようであった」老竜はぽつりと言った。「幾百の脚を持ち、七卷山を七巻き半するほどの、恐ろしい姿をしていた。それは嘘ではない」
「では、大百足だったと」
「だが」老竜は言葉を継いだ。「あれの最後の声を、私は聞いた。あれは、かつて私と同じ水を分けあっていた者の声だった。姿を違えても、私にはそれと分かる声音だった。長く生きるうちに、姿を保てなくなる者もいる。何を糧に生き延びるかによって、鱗が変わり、骨が歪み、ついには己が何であったかすら分からなくなる者も」
レイブンは息を呑んだ。姿は百足でも、声はかつての同族だという。それがどういう意味を持つのか、レイブンにはまだ判じかねた。
「縄張りを競り合った果ての、身内の諍いだった、ということですか」
老竜はそれには答えず、ただ深く長い息を吐いた。夜霧が、その息にわずかに揺れる。
「私が語れるのは、ここまでだ。それ以上を欲しがるのは、お前の仕事だろう。だが、私の口からは、それ以上は語らぬ」
「なぜですか」
「語ったところで、あの夜に失われたものは、戻ってこない」老竜の瞳が、初めてわずかに翳りを帯びた。「伝承は、生きている者たちのために語られる。死者のために語られることは、めったにない。町の者たちが誇らしく語る物語も、私が黙して語らぬ記憶も、どちらもこの湖のための嘘ではない。ただ、必要とする者が違うだけだ」
「あなたにとって、どちらが真実なのですか」
老竜は初めて、わずかに笑うような気配を見せた。それは人の笑いとは似ても似つかない、ただ喉の奥がかすかに震えるだけの仕草だった。
「その問いに答えを持たぬまま、私はもう幾百年もここで生きている」
レイブンはなおも問いを重ねた。
「あなたは、なぜ今も、この湖の奥に留まり続けているのですか。町を離れ、どこか別の場所へ移ることもできたはずです」
老竜の瞳が、初めて湖畔の町の方角へと向けられた。遠く、篝火の灯りがかすかに揺れているのが見える。
「あの町の者たちは、私を恐れながらも、盟約祭のたびに私の名を呼ぶ。誇らしい伝承の中の私を、だ。それでも、呼ばれることに変わりはない」老竜は静かに言った。「もし私がここを去れば、誇らしい伝承だけが残り、もうひとつの記憶は、永遠に語られることすらなくなる。私がここにいる限り、少なくとも、誰かがいつか、この沈黙の意味を問いに来るかもしれない」
「今夜のように」
「今夜のように」老竜はそう繰り返し、それきり口を閉ざした。
それ以上、老竜は何も語ろうとしなかった。レイブンが問いを重ねようとした矢先、巨躯はゆっくりと水面下へ沈んでいき、波紋だけを残して姿を消した。提灯の灯りの届く範囲には、もう何も残っていなかった。
五 灯る唐橋町を後にして
夜明け前、レイブンは静まり返った湖面を漕ぎ戻り、桟橋に舟を係留した。町では、祭りの後片付けをする住人たちの姿がちらほらと見え始めていた。まだ燃え残った篝火が、朝靄の中で頼りなげに揺れている。屋台の骨組みを片付ける若者たちの声、井戸端で水を汲む女たちの声が、静かな朝の空気にぽつぽつと響いていた。
橋のたもとの祠まで戻ると、レイブンはもう一度、あの壁画を見上げた。とぐろを巻いた大蛇と、それを恐れず渡り去る旅人の姿。昨夜聞いた老竜の言葉を思い返しながら、レイブンは記録帳の最後の頁を開いた。
そこに、二つの記述を並べて記した。ひとつは、町に代々伝わる「弓取り伊佐雄と龍神瀬淵の盟約」――大百足を退治し、尽きぬ米俵と減らぬ反物を贈られたという、誇らしい顛末の伝承。もうひとつは、湖の奥の老竜がわずかに漏らした、「討たれたものは、かつて同じ水を分けあっていた血族だったのかもしれない」という、影を帯びた異説。
どちらが真実なのか、レイブンには判じようがなかった。姿を偽って渡し守を試した龍神の物語と、身内の諍いを覆い隠すように語り継がれてきたかもしれない物語と。二つの伝承は同じ夜の出来事を指しながら、決して重なり合おうとしなかった。老竜の言葉を借りるなら、それはこの湖のための、それぞれに必要とされてきた記憶なのかもしれなかった。
記録帳を閉じ、レイブンは荷を背負い直した。宿の主人に別れを告げると、まだ祭りの余韻が残る町を、橋の方へと歩き出す。すれ違う住人たちは、今日もまた、橋の方角へちらりと視線を向けては、すぐに逸らしていった。その仕草の意味を、レイブンはもう、少しだけ分かるような気がしていた。誇らしい伝承の裏側に、誰もが薄々気づきながら口にしない何かがあることを、この町の誰もが、無意識のうちに知っているのかもしれない。
橋の中程で足を止め、レイブンは最後にもう一度、湖の奥へと目をやった。朝靄に沈む水面は、何ごともなかったかのように、ただ静かに凪いでいる。あの巨躯がどこかでまだ息をしているのか、それとも夜のうちに、さらに深い水底へと沈んでいってしまったのか、それを確かめる術はもうなかった。
記録帳に記された二つの伝承は、これから先も、この町で語り継がれていくのだろう。誇らしい盟約の物語として、あるいは、誰かが覆い隠したかった諍いの物語として。どちらの声も、いずれ祭りの灯りの中に溶けて消えていくのかもしれない。それでもレイブンは、自分が聞いたままの言葉を、判断を加えずに記し留めた頁を、そっと閉じた。
橋を渡りきり、唐橋町を振り返る。提灯の灯りが一つ、また一つと消えていくのを見届けてから、レイブンは次の道へと歩き出した。背後で、誰かが橋を渡る足音がした気がしたが、振り返っても、そこにはもう朝の光が満ちているばかりだった。
道の途中、振り返らずにはいられなかった。唐橋町は、朝靄の向こうに次第に小さくなっていく。あの町の人々は、これから先も誇らしい伝承を胸に、毎年盟約祭を祝い続けるのだろう。それが誰かにとっての慰めであることを、レイブンは否定するつもりはなかった。ただ、湖の最も深いところで、まだ何かが息をひそめ、名乗ることのなかった者の声を、ひとり抱え続けているという事実もまた、確かにこの旅の記憶に刻まれていた。
判断を下すことは、記録者の仕事ではない。ただ、聞いたものを聞いたままに残すこと。それだけが、レイブンにできる唯一のことだった。
あとがき
本作は、近江国瀬田の唐橋にまつわる「俵藤太のムカデ退治」伝説――『太平記』巻十五や、御伽草子『俵藤太物語』に記された、大蛇に化けた龍神が弓取りに山を七巻き半する大百足の退治を依頼し、感謝の証として尽きぬ米俵などの宝物を贈ったという伝承を下敷きにした翻案である。
原典では、弓取りの武勇と龍神の感謝が物語の主眼として語られ、討たれた大百足の正体が疑われることはない。本作ではその骨格を借りながら、「町に伝わる誇らしい伝承」と「湖の奥に生き残る当事者が仄めかす、もうひとつの記憶」という二つの視点を新たに設け、真相を敢えて明かさないまま物語を閉じる構成とした。唐橋町という架空の地名、伊佐雄・瀬淵・カネ蔵・トヨ・ミナといった登場人物、対話の内容や細部の出来事はすべて独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は行っていない。
本作は『太平記』巻第十五(https://ja.wikisource.org/wiki/太平記/巻第十五)および御伽草子『俵藤太物語』に伝わる俵藤太のムカデ退治伝説を参考にした翻案作品です。