竜は名乗らなかった
凶作の晩、羊飼いの祝宴に迷い込んだ旅人の正体は、飢えて羊を喰らい死刑を宣告された若い竜だった。後から訪れた竜狩りの執行人は、隣に座る相手が己の獲物とも知らず杯を交わす。トマス・ハーディ『三人の見知らぬ男』の翻案。
一 嵐の晩の客
高地の羊飼い村オルディスは、三年続きの凶作にすっかり痩せ細っていた。麦畑は霜に灼かれ、牧草地は乾いた年と長雨の年が交互に襲い、羊の乳も毛も、以前ほどの実りをもたらさなくなっていた。それでも人々は、隣人と分け合いながら、どうにか冬を越す術を身につけていた。
ミラは十六になる娘で、羊飼いヨナスとその妻グレタの家に、五つの年から引き取られて育った。実の親については、ミラ自身もほとんど覚えていない。ある冬、村外れの雪だまりで凍えかけていたところをヨナスに拾われ、それ以来、誰も彼女の素性を問い質すことはなかった。ただ「拾った子だから」というだけで、家族として迎え入れられた。
拾われた夜のことを、ミラはおぼろげにしか覚えていない。ただ、体の芯まで凍りつくような寒さと、誰かに抱き上げられた瞬間の、焼けるように熱い体温だけは、今でも鮮明に思い出すことができた。あの夜、もしヨナスが素性も知らぬ子を見過ごしていたら、自分はきっと生きていなかった――そう思うたび、ミラは胸の奥に小さな借りのようなものを感じていた。だからミラは、この村に流れ着く見ず知らずの旅人にも、どこか身内めいた親しみを覚える性分だった。
その晩、ヨナスとグレタの家では、遅くに生まれた娘ロザの洗礼を祝う宴が開かれていた。凶作の年に無理をして開く宴だったが、「生まれてきた命を祝わずして、何を祝うというのか」というグレタの一言に、誰も異を唱えなかった。狭い母屋には近隣の羊飼いたちが集まり、乏しい蓄えから絞り出した麦酒と干し肉、蜂蜜漬けの木の実が並べられていた。暖炉の火が爆ぜる音に混じって、素朴な弦楽器の音と笑い声が響いていた。
窓の外では、夕刻から降り出した雨が次第に勢いを増し、峠を越えて吹き下ろす風が、家の梁を軋ませていた。
「今夜は荒れそうだね」
ミラが呟くと、ヨナスは薪を暖炉にくべながら頷いた。
「高地の連中も、こんな夜は巣にこもっているだろうさ。もっとも――」
ヨナスはそこで言葉を濁した。ここ数日、村では不穏な噂が広まっていた。境の牧に放していた羊が一頭、何者かに喰い殺されたのだという。羊の骨の折れ方、爪痕の深さから、下手人は人間でも狼でもなく、高地に棲む竜の仕業だと断じられた。
オルディス村と高地の竜たちの間には、祖父の代よりもさらに昔から「山と谷の盟約」と呼ばれる古い掟が結ばれている。竜は谷に降りて人の家畜を奪わない。人は竜の縄張りである高地の岩場を荒らさない。互いにそう約束することで、長らく大きな争いもなく共存してきたのだ。盟約を破った者は、代々「竜狩り」を家業とする一族の手によって、裁きも猶予もなく討たれる――それが、双方が守るべき唯一にして絶対の掟だった。
言い伝えによれば、盟約が結ばれる前の時代、谷と山とは絶えず血を流し合っていたのだという。竜は幾度も家畜を奪い、人は幾度も高地に火矢を放った。その果てに、双方の長老たちが「もう互いを喰らい合うのはよそう」と取り決めたのが、この盟約の始まりだった。以来、竜狩りの一族は、盟約を破った者を討つと同時に、盟約そのものを守り続ける番人でもあった。誰かを憎んで討つのではない。ただ、再び谷と山とが血に沈まぬように、その役目だけを背負ってきたのだ。ミラはその話を、子供の頃に何度もヨナスから聞かされていた。だからこそ、掟が時に情け容赦なく人や竜を裁くことを、彼女はどこか腑に落ちない思いで受け止めていた。
「盟約を破った竜がいるなら、もう名も知られているんでしょう」
ミラが尋ねると、ヨナスは重い声で答えた。
「痩せた若い竜だったそうだ。飢えて我を忘れたのだろうと、みな噂している。竜狩りの一族にはすでに討伐の許しが下りたと聞く。もっとも――哀れな話さ。竜たちだって、この凶作で獲物の獣が減っているのは、俺たちと同じだろうに」
ミラは、暖炉の火を見つめながら、かつて自分が雪の中で見つけられた夜のことをぼんやりと思い出した。飢えと寒さに追い詰められた末の過ちを、盟約とやらは容赦なく裁くのだろうか。そう思うと、胸の奥がざわついた。
風がひときわ強く戸を叩いた。宴の賑わいの底に、ミラはかすかな予兆を感じ取っていた。
二 二人の客、杯を交わす夜
戸を叩く音がしたのは、宴もたけなわを過ぎた頃だった。ヨナスが戸を開けると、頭から爪先までずぶ濡れの旅人が、暗闇の中に立っていた。丈の長い外套を目深に纏い、フードの下から覗く顔には、旅の疲れが色濃く滲んでいた。
「すまない、道に迷ってしまってね。一晩、軒先だけでも貸してもらえないだろうか」
「こんな夜に軒先もないだろう。中へ入りなさい、火に当たるといい」
ヨナスは気安く旅人を招き入れた。この村では、荒天の晩に助けを求める者を拒む習わしはなかった。旅人は礼を言って火の傍に腰を下ろすと、椀に注がれた温かい麦酒を両手で包むように受け取った。
「カイと申します。しがない行商人で」
旅人はそう名乗った。ミラは彼に乾いた布を差し出しながら、ふと妙な感覚を覚えた。外套の下から覗く手首に、うっすらと硬い光沢の筋が走っているように見えたのだ。だが、火影のいたずらだろうと思い直し、それ以上は問わなかった。誰かの素性を詮索しない――それは、この家がミラ自身にしてきたことでもあった。
カイは酒が進むにつれ、次第に場に馴染んでいった。飢えた旅の日々の話を、まるで昔語りのように語って聞かせ、居合わせた者たちを笑わせた。赤子のロザをあやす手つきは驚くほど優しく、グレタは「行商人にしては、子供の扱いに慣れているのね」と目を細めた。
「腹を空かせた者の気持ちが、少しわかるだけです。ひもじさというのは、人を存外みじめにさせる」
カイがそう呟いたとき、その声にはどこか、この場の誰とも違う、深い翳りが滲んでいた。ミラはその横顔を見つめながら、なぜか放っておけない気持ちになった。
「あなたも、どこかで拾われたことがあるの」
「――さあ、どうでしょうね」
カイは曖昧に笑って答えを濁した。ミラはそれ以上追及せず、ただ隣に腰を下ろし、火を見つめる彼の横顔を静かに見守った。
しばらくして、ロザがぐずり始めた。グレタが手を離せずにいるのを見て、カイはごく自然な仕草で赤子を抱き上げ、低い声で聞いたことのない旋律を口ずさんだ。それは歌というより、獣が仔を宥めるときの唸りに近い、奇妙な響きを帯びていた。だがロザはすぐに泣き止み、安らかな寝息を立て始めた。居合わせた女たちが感心して囁き合う中、ミラだけが、その旋律のどこか懐かしいような、それでいて人のものとは思えぬ響きに、小さな戸惑いを覚えていた。
「良い子守唄ですね」
ミラがそう声をかけると、カイは少し驚いたように顔を上げ、それから照れくさそうに笑った。
「昔、誰かに歌ってもらった歌を、覚えているだけです。もう随分と、聞いていませんが」
「あなたの故郷でも、赤子にはそうやって歌うの」
「――故郷、か」
カイはその言葉を、まるで異国の響きのように口の中で転がした。それから遠くを見るような目をして、ぽつりと言った。
「故郷というものが、まだ自分にあるのかどうか、俺にもよくわからないんですよ。ただ、腹を空かせて彷徨っていた頃、拾ってくれる誰かがいてくれたらと、何度も願いました。だから今夜、こうして火に当たらせてもらえるだけで、十分すぎるくらいです」
その言葉に、ミラは思わず自分自身の来し方を重ねた。誰かに拾われるということの意味を、この旅人は、自分と同じくらい深く知っているのかもしれない――そう思うと、彼女の胸に温かなものがこみ上げた。
再び戸を叩く音が響いたのは、それからほどなくのことだった。今度の客は、黒い外套に身を包んだ、目つきの鋭い壮年の男だった。
「竜狩りのテオドロスだ。国境の見張り所へ向かう途中でね、この嵐では動きが取れん。すまないが、一晩世話になりたい」
その名を聞いて、座は一瞬静まり返った。竜狩りの一族の当主が、まさかこの宴に現れるとは誰も思っていなかった。竜狩りの一族といえば、村の誰もが敬いながらも、どこか薄ら寒いものを感じる相手だった。彼らが村を訪れるのは、大抵の場合、何か不吉な知らせを携えている時だったからだ。ヨナスは動揺を隠しながらも、この嵐の晩に人を拒む家ではないと自分に言い聞かせ、彼を火の傍へと招き入れた。断る術など、そもそもなかった。
グレタは慌てて椀を用意しながら、ミラに小声で耳打ちした。
「竜狩りの旦那が来るなんて、悪い知らせでなければいいけれど」
「大丈夫。今夜は、ただの客人よ」
ミラはそう答えながらも、胸の奥で何かがざわつくのを感じていた。竜狩りと、正体を隠した旅人とが、同じ屋根の下に集うことになろうとは、彼女自身、まだ想像もしていなかった。
テオドロスは礼儀正しく席に着くと、勧められるままに杯を重ねた。カイの隣にちょうど空いた席があり、彼はそこに腰を下ろした。二人は言葉を交わし、やがて杯を打ち合わせて笑い合うほどに打ち解けていった。
「近頃は物騒な噂ばかりだ。羊を喰った竜がいるとかで、俺の一族に討伐の役目が回ってきた」
テオドロスが苦い口調で言うと、カイは表情を変えぬまま、静かに杯を傾けた。
「その竜も、よほど追い詰められていたのでしょうね」
「かもな。だが盟約は盟約だ。破った以上、俺が討つしかない。見つけ次第、迷わず仕留める」
「見分けはつくのですか、その、討つべき相手が」
カイが尋ねると、テオドロスは杯の縁を指でなぞりながら答えた。
「左の肩口に、古い傷痕があると聞いている。子供の頃に負ったものらしい。それだけが手がかりだ」
その言葉に、カイの手がわずかに強張ったのを、ミラだけが見咎めた。カイは何気ない仕草で外套の襟を掻き合わせ、左肩を隠すようにして、また杯を口へ運んだ。ミラの胸に、言いようのない予感がよぎった。それでも彼女は、何も言わなかった。
「もっとも」テオドロスは杯を干しながら続けた。「討つのは気の重い仕事だ。相手が飢えていたと知れば尚更にな。俺の父も、祖父も、この役目を継ぐたびに同じ言葉を漏らしていたそうだ。『討つべきは罪であって、罪を犯した者の腹の虫ではない』とな。だが盟約は盟約だ。情に流されれば、次に谷の羊を守れなくなる」
「厳しい家業ですね」
カイが静かに言うと、テオドロスは自嘲するように口の端を歪めた。
「厳しいのは家業ではなく、この俺の性分かもしれん。もっとも、こうして見ず知らずの旅人と杯を酌み交わしている今だけは、その役目を忘れていられる。悪くない夜だ」
そう言って、テオドロスは自分の杯をカイの杯に打ち合わせた。乾いた音が響き、二人は同時に笑った。ミラはその光景を見て、なぜか泣きたいような気持ちになった。互いの正体を知れば、決して笑い合うことなどできない二人が、今この瞬間だけは、確かに心を通わせているように見えたからだった。
宴はなおも続いた。弦楽器の音に合わせて誰かが歌い出し、テオドロスまでもが低い声で唱和した。カイもまた、疲れの滲む笑みを浮かべながら、杯を重ねていった。外では雨風がいよいよ激しさを増していたが、暖炉を囲む人々の間には、束の間、暖かな連帯が満ちていた。互いの正体を知らぬ二人の客が、肩を並べて笑い合う――その光景を、ミラだけが息を詰めて見つめていた。
三 号砲と、老いた竜
夜半、遠く国境の見張り所の方角から、鋭い角笛の音が響き渡った。境を侵す者があった時にのみ鳴らされる、緊急の合図だった。
「境が破られたぞ! 竜狩りを呼べ!」
外から駆け込んできた男の声に、座は一気に色めき立った。テオドロスは即座に立ち上がり、外套を纏い直した。
「すまない、世話になった。役目が呼んでいる」
そう言い残し、彼は嵐の中へと飛び出していった。村の男たちも次々に槍や松明を手に取り、後に続いた。ミラも人々に押し出されるようにして戸口へ向かったが、ふと振り返ったとき、先ほどまで火の傍にいたはずのカイの姿が、いつの間にか消えていることに気づいた。
「カイさんは……」
呟いた声は、嵐の音にかき消された。誰も彼の不在に気を留める余裕はなかった。
一行が見張り所へ駆けつけると、テオドロスは境界の泥の上に落ちていた、外套の留め金を拾い上げていた。古びた青銅の留め金には、鱗を模した紋様が刻まれていた。それを見た瞬間、彼の顔から血の気が引いた。
「――左の肩に傷のある男。あれは……」
テオドロスの脳裏に、宴の間中、隣で杯を重ねていた旅人の姿が蘇った。杯を持つ手が、火を避けるように、いつも左側だけをかばっていたこと。外套の襟を、幾度も不自然に掻き合わせていたこと。何もかもが、今になって符合していく。
「――一晩中、隣に座っていたというのか」
呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。悔しさとも、奇妙な可笑しさともつかない感情が、胸の底からせり上がってくる。だが、それを噛みしめる暇すらなかった。境の先、切り立った崖沿いの獣道には、確かに大きな爪痕が新しく刻まれており、雨に流されかけた血の匂いがかすかに漂っていた。松明の火は雨に叩かれて幾度も消えかけ、村人たちは足元の緩んだ岩を踏み外さぬよう、互いの肩を支え合いながら斜面を登った。
だが、感傷に浸る間もなく、見張り所の先の岩陰に、うずくまる大きな影が見つかった。松明の明かりに照らし出されたのは、痩せ衰えた老いた竜だった。翼は薄く裂け、鱗はところどころ剥がれ落ち、肋の浮き出た体を岩に預けるようにして、荒い息をついていた。
「動くな! お前が羊を喰った竜か!」
村の男の一人が槍を構えて叫んだ。老竜は抵抗する素振りも見せず、ただ深く項垂れた。
「――違う。喰ったのは、わしの倅だ」
かすれた声で、老竜――ヴァルドと名乗ったその竜は、途切れ途切れに語り始めた。三年続いた凶作は、高地の獣たちにも及んでいた。谷の羊よりも先に、山羊も鹿も、餓えた竜たちの牙にかかって数を減らしていた。倅は、生まれつき体が弱く、翼も小さく、群れの中でも狩りの下手な若い竜だった。母を早くに亡くし、ヴァルドが男手一つで育ててきたのだという。この一年は、獲物を求めて日に日に痩せていく倅の姿を見ることしかできず、ヴァルドは自らの取り分をそっと分け与えることで、どうにか命を繋がせてきた。だがそれにも限りがあった。飢えに飢え抜いた末、たった一度、谷に降りて羊を一頭喰らってしまったのだという。
「あれは、幾晩も迷った末に降りたのだ。わしにも相談しなかった。もし打ち明けていたら、わしが体を張ってでも止めていただろう。気づいた時にはもう、盟約は破られ、討伐の許しが下りた後だった」
ヴァルドは肋の浮いた胸を大きく上下させながら、言葉を継いだ。
「わしは倅を捜して、盟約を破ってでも谷へ降りた。年老いた身では、もう狩る力もない。せめて、あれが逃げおおせたかどうかだけでも知りたかった。討たれるならわしが討たれよう。あれはまだ、生きねばならぬ若さだ」
ヴァルドの目から、涙とも見紛う雨粒が伝い落ちた。テオドロスは槍の柄を握りしめたまま、しばし動けずにいた。彼の脳裏には、宴で酒を酌み交わした旅人の、あの寂しげな横顔がちらついていた。
四 情けの追跡、そして語り継がれる夜
「討つのか、テオドロス」
村人の一人が、押し殺した声で尋ねた。テオドロスは長い沈黙の後、槍を下ろした。
「盟約が破られたのは事実だ。だが、俺が討つべきは――餓えて我を忘れた者ではなく、餓えを見過ごした俺たち自身の怠慢の方かもしれん」
その言葉に、集まった村人たちは互いに顔を見合わせた。彼らもまた、この凶作の三年、隣人と分け合うことでどうにか生き延びてきた者たちだった。飢えの果てに罪を犯した者を、ただ掟のままに裁くことに、誰の胸にも小さな痛みが差し込んでいた。
「盟約を破ったのは事実だとしても」と、年嵩の羊飼いが低く言った。「わしらとて、去年の冬は隣の家から麦を分けてもらわねば越せなかった。あの竜たちのしたことと、どれほど違うというんだ」
誰も、それに異を唱えなかった。松明の火に照らされた村人たちの顔には、怒りよりも、むしろ自分たち自身への省みの色が浮かんでいた。
「爺さん、飯くらいは持たせてやろう。あんたの倅とやらが、二度とこんな真似をせずに済むように」
ヨナスがそう言うと、村人たちは頷き合い、乏しい携行の干し肉や麦の袋を、震えるヴァルドの傍らに置いた。ヴァルドは信じられぬという顔で村人たちを見回し、深く頭を垂れた。
「恩に着る。この恩は、山の掟に代えても忘れぬ」
老竜は覚束ない足取りで岩場へと去っていった。テオドロスは、遠ざかるその背を見送りながら、松明を握る手をわずかに緩めた。若い竜の行方を追う足取りは、誰からともなく緩やかになっていった。嵐に紛れた足跡を、それ以上深追いする者は誰もいなかった。
夜が明けきる頃、ミラは家路につく人々の後ろから、ふと高地の尾根を見上げた。薄い朝靄の向こうに、二つの影が寄り添うように歩いていくのが見えた気がした。一つは痩せた老いた影、もう一つは、それよりも小さく若い影。若い方の影は、一瞬だけ立ち止まり、谷の方を振り返ったように見えた。ミラは声をかけることも、指さすこともせず、ただ小さく頷き返した。届くはずのない距離だったが、影もまた、わずかに頭を垂れたように思えた。それから二つの影は朝靄に溶けるようにして、尾根の向こうへと消えていった。ミラはその光景を、誰にも語らぬまま、ただ静かに目に焼き付けた。
それから幾年もの月日が流れた。オルディス村では、凶作の年もいつしか過去のものとなり、畑には再び青々とした麦が実るようになった。「山と谷の盟約」も、あの晩を境に少しずつ形を変え、飢饉の年には双方が事情を汲み合う、という一文が新たに加えられたのだという。
宴の席では、いつからか、あの嵐の晩の出来事が、笑いと温もりの入り混じった民話として語り継がれるようになった。竜狩りの執行人が、己の追う相手とも知らずに一晩中杯を交わしていた――その皮肉な巡り合わせを語るとき、村人たちは決まって声を弾ませた。
大人になったミラは、自らの子供たちにその話を聞かせるとき、いつも同じ言葉で締めくくった。
「その旅人はね、最後まで、自分が何者かを名乗らなかったんだよ。でもね、名乗らなかったからこそ、みんな彼を、ただの困った旅人として迎えられたのかもしれないね」
暖炉の火は、あの晩と同じように、静かに爆ぜていた。
あとがき
トマス・ハーディの『三人の見知らぬ男』は、羊飼いの家で開かれた祝宴に、脱獄した死刑囚とその執行人が、互いの正体を知らぬまま次々に訪れて杯を交わすという劇的皮肉を軸にした短編である。警報とともに始まる追跡の末、捕らえられるのは脱獄囚とは別人であり、貧しさゆえの罪に対して刑があまりに重すぎたと知った村人たちが、追跡の手を緩めてしまうという結末を、本作でも大きな軸として踏襲した。
本作では、脱獄した「羊泥棒」を、凶作の年に飢えて羊を喰らってしまった若い竜に置き換え、その正体を隠したまま宴に紛れ込む姿を描いた。誤って捕らえられる「別人」を、逃げた若竜を捜して谷に降りた父竜に置き換えることで、飢えという同じ理由に村人と竜の双方が苦しんでいたという構図を加えている。竜自身は超常的な力を誇示することなく、あくまで飢えた一匹の生き物として最後まで描いた。
登場人物の名や村の名、盟約の詳細はすべて独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は一切行っていない。
本作はトマス・ハーディ著『三人の見知らぬ男』(The Three Strangers, Project Gutenberg収録) を参考にした翻案作品です。