竜は名乗りを上げなかった
光竜神聖国ルミナリア、崖に囲まれた「石剣の村」。石に刺さった古い剣と、危機の夜に湖から授かったという別伝、二つの言い伝えを追うレイブンは、継承の儀の夜に起きた出来事の真偽を、最後まで確かめられないまま村を去る。
一 石剣の村、柄だけを見せる古い剣
崖の間を縫うように続く道を下りきったとき、レイブンの眼下に、鏡のように静まり返った湖が広がった。
光竜神聖国ルミナリアの奥地、四方を切り立った崖に囲まれたこの窪地には、日中でもほとんど風が届かない。湖面は薄い霧をまとい、対岸の輪郭さえ滲んで見えた。石を積んだ家々が湖畔にひしめき、木の桟橋が幾つも水に浮かんでいる。崖の道を下る間、レイブンは幾度も足を止め、眼下に広がる窪地の全景を記録帳へ写し取った。外の国からこの土地へ至る道は、この一本の崖道を除いてほとんど存在しないらしく、村そのものが世界から切り離された小さな盆のように見えた。
レイブンが「石剣の村」という名をこの旅で初めて耳にしたのは、三日前、隣国の宿場でのことだった。
「あそこには、誰も抜けない剣があるんだとさ」と、宿の主人は笑いながら言っていた。「抜けた者だけが村を導く、なんて話が、今も本気で信じられているらしい」
村の広場に足を踏み入れると、噂の物はすぐに見つかった。膝の高さほどの円い石の台座に、古びた柄だけが覗いている。刃はどこまで石に埋もれているのか分からない。柄には長い年月に磨かれた艶があり、無数の手がそこに触れてきたことを物語っていた。子供が通りすがりに柄へ手を添え、何ごとかを呟いてから駆けていく。老人が水桶を提げたまま足を止め、深く一礼して去っていく。誰も本気で引き抜こうとはしない。それでいて、誰もその前を素通りはしない。
近くで遊んでいた子供たちに尋ねると、幼い声が口々に答えた。「試験の日に、抜けたら村の大将になれるんだよ」「でも誰も抜けたことないんだって、ひいお祖母ちゃんが言ってた」「あたしは怖いから触るだけにしてる」――その無邪気なやりとりの奥に、村の生活と結びついた古い決まりごとの重みが、確かに息づいているのをレイブンは感じ取った。
「旅の方かい」
声をかけてきたのは、水汲みの帰りらしい中年の女だった。名をイーダといい、この村で生まれ育ったという。
「はい。記録の旅をしております、レイブンと申します。あの剣について伺いたく」
イーダは水桶を下ろし、剣を一瞥してから、少し声を落とした。
「今はちょうど、悪い時期に来なすった。……いや、悪いというのは言い過ぎかね。ただ、村の中がざわついているのは確かだよ」
「何かあったのですか」
「長老様――村を長く導いてこられた方が、先月、お亡くなりになった。跡を継ぐはずだったお子はとうに他界していて、血筋の上での後継ぎがいない。それで今、五日後の満月の夜に『継承の儀』をやることになったのさ。あの剣を、誰でも試してよいという日をね」
イーダは剣の柄をちらりと見やり、それから湖の方角へ目を細めた。
「本当に抜ける者が現れるとは、正直、誰も思っちゃいない。昔からそういう日は何度もあった。長老様が代替わりするたび、儀式として皆でやってみるのさ。だが、誰の手にも応えたことはなかった」
「今回は、何か違うのでしょうか」
「話し合いだけで決めるわけにもいかない事情が重なってね。近頃、湖の向こうの尾根に、見慣れない一団の焚き火が見えるという者もいる」
「見慣れない一団、というのは」
「よそ者だよ。山賊か、はぐれ傭兵の群れか。まだ村に手を出されたわけじゃない。だが長老様を失ったばかりのこの時期に、そういう影がちらつくのは、正直、気味が良くない。誰が村をまとめるのか、はっきりさせておきたいという声が、日を追うごとに強くなっている」
そう言ってイーダは水桶を担ぎ直し、足早に去っていった。レイブンは記録帳に「石剣の村」「継承の儀・五日後」「長老死去、後継未定」「尾根の焚き火、正体不明」と書きつけながら、湖面を渡ってくる冷たい風に目を細めた。静かな水面の下に、何かが息を潜めているような、そんな気配が村全体に薄く広がっているのを、レイブンは確かに感じ取っていた。
村の市場を歩いてみると、表向きの活気の下に、同じ不安が薄く沈んでいるのが見て取れた。干し魚を並べる商人は「今年は儀式の後で市を開くべきか」と隣の店主と言い合い、子供に木刀を買い与える親の姿もいつもより目立つという。誰もが口にするのは天候の話や作物の出来だが、話の端々に、必ずと言っていいほど「五日後」という言葉が滑り込んでくる。広場を離れる間際、レイブンは振り返ってもう一度、石に刺さった剣の柄を見やった。夕暮れの光が柄の艶にひとすじ滲み、まるでそこだけが別の時間を刻んでいるかのようだった。
二 二つの言い伝え、抜いた孤児と授けられた剣
その晩、村長老の代理を務める古老オズベルトの家に招かれ、レイブンは囲炉裏端で長い話を聞くことになった。壁際には、村の歴史を記した古い木彫りの板が幾枚も立てかけられ、剣を掲げる人影が粗く彫り込まれているのが見て取れた。
「この村の始まりについて知りたいのなら、まずロウェンの話をせねばなるまい」オズベルトは杖を撫でながら、ゆっくりと語り始めた。「今から数えて十代近く前のことだ。当時のこの土地は、私欲に走った領主に治められ、湖の魚も、山の実りも、ほとんどが領主の蔵へと運ばれていた。民は飢え、村はまとまりを失いかけていた」
「その頃に、ロウェンという人物が」
「身寄りのない孤児だった。両親を早くに亡くし、村のあちこちを渡り歩いて育った子でな。誰の家の子でもなく、誰からも本気で気にかけられずに育った。ある日、飢えと絶望に沈んだ村人たちの前で、広場の石に突き立った古い剣――当時すでに、誰も抜いたことのない剣だ――に、ロウェンがふらりと歩み寄り、両手を添えた。誰もが、また徒労に終わるだろうと見ていた。だが、剣は驚くほどあっさりと石から抜けたのだ」
オズベルトは炉の火をひとつ突き直し、続けた。
「その剣を掲げたロウェンに、人々は自然と従うようになった。身寄りのない子が選ばれたことに、当時は戸惑う声もあったと伝わっている。だが彼は領主の理不尽な取り立てに抗い、村人をまとめ、やがてこの土地に新しい秩序をもたらした。それが、私たちの伝える『石が選んだ指導者』の物語だ」
レイブンは筆を走らせながら、ふと問いを重ねた。
「先ほど村の方から、剣にまつわる話がもう一つあると伺いました」
オズベルトは、少しばかり眉を寄せた。
「よく耳にしてきたな。……そう、別の語りも確かに残っている。ロウェンが剣を抜いた数年後、今度は隣国からの侵略者がこの湖畔に押し寄せた年があった。村の守りは薄く、誰もが陥落を覚悟したという。その夜、ロウェンはただ一人、湖の岸に立ち、水面に向けて何かを叫んだと伝わっている」
「湖に向けて、ですか」
「そうだ。すると湖の底から、水を割って一振りの剣が浮かび上がり、ロウェンの手元まで漂い着いたという。その剣を手にしたロウェンは、寡兵ながら侵略者を退け、村を守り抜いた――そういう語りも、確かにこの村には残っているのだ」
レイブンは記録帳の頁をめくる手を止め、壁の木彫りに目をやった。よく見れば、板は二枚あり、一枚には石の台座に手を添える人影、もう一枚には湖に向かって片手を掲げる人影が、それぞれ別々に彫られていた。
「あの二枚の板は、いつ頃、誰の手で」
「片方は私の曾祖父の代、もう片方はさらにその前の代に彫られたと聞いている」オズベルトは静かに答えた。「つまり、二つの語りは、そう遠くない時代から、すでに並び立って伝わっていたことになる。どちらか一方が後から作られた作り話とも言い切れぬ、古さを持っているのだ」
「同じロウェンという方が、石の剣と、湖の剣と、二振りの剣を手にした、ということになりますが」
「そこだ」オズベルトは深く頷いた。「二つの語りは、細部でどうしても噛み合わない。石の剣を抜いた話が先にあり、後から侵略者を退けた際の武勇に、別の剣の逸話が付け加えられたのか。それとも、実際に二振りの剣が存在し、片方は石から、片方は湖から、それぞれ異なる時にロウェンの手に渡ったのか。……正直なところ、私にも判じきれぬ。ロウェン自身の言葉も、時代が下るごとに、少しずつ形を変えて伝わってきたようでな」
「湖の剣は、誰が、あるいは何が、ロウェン殿に授けたと考えられているのでしょうか」
オズベルトはしばらく黙り込み、それから低い声で答えた。
「昔からこの湖には、竜が棲むという言い伝えがある。姿を見た者はほとんどいない。だが、村の危機に際して、その竜が力を貸したのではないか――そう語る年寄りは、今も少なくないのだ。もっとも、そう信じぬ者も同じくらい多い。この村では、その二つの考えが、いつも並んで存在してきた」
炉の炎が小さく爆ぜ、影がゆらりと壁を這った。レイブンは「ロウェン、石の剣と湖の剣、二つの異伝」「木彫りの記録、いずれも古い」「湖の竜、目撃例なし」と書き記しながら、この村に流れる時間の厚みを、指先でなぞるように感じていた。
三 湖畔の夜、ダグの記憶と継承の候補たち
翌日、レイブンは湖畔で網を繕う若い漁師ダグに声をかけた。ダグは手を止めずに、しかし気安く応じた。
「湖の竜の話かい。うちの親父も、そのまた親父も、見たことはないと言っていたな。この村の連中は、だいたい半分半分だ。信じている年寄りもいれば、迷信だと笑う若い連中もいる。……ただ、俺は一度だけ、妙なものを見た」
「妙なもの、と申しますと」
「子供の頃、夜釣りに出て湖の真ん中あたりまで漕いでいった時のことだ。月明かりの下で、水面のずっと下に、光る目のようなものが二つ、こちらを見上げていた気がした」ダグは網を編む指を止め、少し照れたように笑った。「誰にも本気にされないから、めったに話さない話だがな。あれが本当に竜だったのか、月光の反射だったのか、今でも自分でも確信が持てない」
「その後、何か起きたのですか」
「いや、何も。ただ静かに見つめられて、それで終わりだ。怖くはなかった。むしろ、こちらの方が見られている値打ちがあるのか、値踏みされているような気がしたな。それ以来、夜の湖に出るときは、少しだけ言葉遣いを丁寧にするようになった。誰かに聞かれているような気がしてな」
レイブンが記録帳にその言葉を書き留めていると、湖の向こうから、継承の儀の候補者となる二人の姿が見えた。一人は亡き長老の孫娘リアナ、もう一人は数年前によそから流れ着いた元傭兵のケドリックだった。
リアナは村の子供たちに囲まれ、湖畔の道端で薬草の見分け方を教えている。物腰は穏やかだが、村の細部まで知り尽くした落ち着きが、その所作の端々に滲んでいた。声をかけると、彼女は少し困ったように微笑んだ。
「正直に申しますと、私が剣を抜くとは思っておりません。祖父の血を引いているというだけで、剣術の心得もありませんし」
「それでも、儀に臨まれるのですね」
「臨まないという選択肢が、私には残されていないように感じています」リアナは湖に目をやった。「祖父が遺した村を、誰かが導かなければならない。それが血筋の私であってもなくても、この村の暮らしを知る誰かが、あの場に立たねばならないと思うのです」
一方のケドリックは、広場で村の若者たちに剣の型を教え込みながら、大きな声で笑っていた。腕は確かに立つ様子で、見守る村人の中にも、彼の力強さに安堵の色を浮かべる者が少なくなかった。レイブンが声をかけると、彼は汗を拭いながら屈託なく答えた。
「俺がこの村に流れ着いて、もう五年になる。よそ者だと言われるのは百も承知だ。だが、尾根に得体の知れない連中がうろついている今、腕っぷしのある人間が前に立たなくてどうする、という思いもある。剣が抜けようが抜けまいが、俺は村を守るつもりでいる」
「石の剣が、あなたに応えると思われますか」
「さあな」ケドリックは肩をすくめた。「そんなものは信じちゃいないが、村の連中があの剣を大事にしているのは分かる。抜けたら儲けもの、抜けなくても俺のやることは変わらん」
「あの二人が、継承の儀に」レイブンがダグに尋ねると、ダグは網を畳みながら頷いた。
「そうだ。リアナ様は長老様の血を引く唯一のお方だが、剣は握ったこともないお人だ。ケドリックの旦那は腕こそ立つが、この村に来てまだ数年、血筋も何もない、よそ者だ。……尾根に不穏な影がちらつく今、力のある者に導いてほしいという声も、正直、村には強くなってきている」
「あなた自身は、どちらを」
ダグはしばらく考え込み、湖に視線を落とした。
「分からん。剣が抜けるかどうかで決まる話なら、そもそも迷う必要もないんだがな」
その夜、レイブンは一人で湖畔に留まり、夜釣りの明かりも消えた漆黒の水面を、長いこと見つめていた。風はなく、波紋ひとつ立たない。だが水の底の暗がりには、確かに何かが在るという確信めいた気配だけが、絶えずレイブンの肌をかすめていた。
四 継承の儀の夜、霧の中で退いた影
儀式までの残り数日、村の空気は日ごとに張り詰めていった。見張りに立つ若者の数が増え、夜になると広場に集まって尾根の焚き火の数を数える者たちの姿が見られた。ある晩などは、遠くから馬のいななきらしき音が風に運ばれてきたといって、村中が一時騒然となった。結局何も起こらなかったが、その一件が村人たちの不安を、さらに一段深いものにしていた。
レイブンもその数日、湖畔と広場とを行き来しながら、村人たちの言葉の変化を記録し続けた。最初は「抜ける者などいまい」と笑っていた者たちも、次第に「せめて剣が誰かの手に応えてくれれば」と口にするようになった。信じていなかったはずの言い伝えに、追い詰められた人々の心がすがり始めている様子を、レイブンは幾度も目にした。ケドリックは相変わらず若者たちに稽古をつけていたが、その合間に一人、広場の石剣を長く見つめている姿を、レイブンは一度だけ見かけている。声をかけることはしなかった。
そうして迎えた満月の夜、村の広場には松明が並び、村人のほとんどが石の剣を囲むように集まっていた。オズベルトが儀の口上を述べ、まずケドリックが進み出た。
大きく息を吸い、両手で柄を握りしめる。肩の筋が張り詰め、額に汗が浮かぶ。しかし剣は、微動だにしなかった。ケドリックは何度か握り直し、最後には諦めたように手を離し、深く一礼して列に戻った。拍手とも溜息ともつかぬどよめきが広場を包んだ。
続いてリアナが進み出た。緊張に強張った面持ちで、両手をそっと柄に添える。力を込めるというより、まるで柄の温もりを確かめるような、静かな所作だった。
剣が、わずかに動いた。
石を擦る低い音とともに、柄がほんの数寸だけ持ち上がり、そして止まった。完全に抜けたわけではない。だが、これまでの記憶にある限り、誰の手でもこれほど動いた例はなかったという。広場は静まり返り、それから低いどよめきが広がった。リアナ自身が誰よりも驚いた顔で、動いた柄をじっと見つめていた。
「これは、どう判じたものか」誰かが声を上げた。「完全に抜けたわけではない。だが、ケドリックの旦那の手にはまるで応えなかった剣が、リアナ様の手には確かに応えたのだ」
その判定を巡って人々が言い争いを始めた、ちょうどその時だった。湖の方角から、これまでにない厚い霧が、地を這うように広場へと流れ込んできた。松明の炎が揺らぎ、視界が白く塗りつぶされていく。子供たちが母親の裾にしがみつき、犬が一斉に低く唸り始めた。
同時に、湖の対岸――村人が「見慣れない焚き火」と噂していた尾根の方角から、複数の悲鳴と、慌ただしく退却する足音、馬のいななきが霧越しに響いてきた。何が起きているのか、広場からは誰にも見て取れない。ただ、その音がしばらく続いた後、ふっと静まり、後には夜風だけが残った。
翌朝、村の見張りが確かめたところ、尾根に陣取っていたよそ者の一団は、荷を放り出したまま姿を消していた。焚き火の跡だけが残され、争った形跡も、何かに襲われた痕跡もない。ただ、ひどく慌てて逃げ出したことだけは明らかだった。
その朝、湖畔を歩いていたリアナが、泥に半ば埋もれた古い剣の柄を見つけたのは、まったくの偶然だったという。前夜の霧と、それに伴う湖の水位のわずかな変化が、長く沈んでいた何かを岸辺に運び上げたものと思われた。錆に覆われ、刃はほとんど朽ちていたが、その柄の意匠は、広場の石剣のものと明らかに似通っていた。
「まるで、言い伝えそのものだ」とオズベルトは、リアナの手にした錆びた柄を見つめながら呟いた。「侵略者に怯えた夜、湖から剣が授けられたという、あの話と」
レイブンはその夜も湖畔に立ち、霧の名残がまだ薄く漂う水面を見つめていた。一瞬、水面の下で何か大きなものが緩やかに身をよじったような、そんな気がした。だが目を凝らした時には、湖はすでに元の静けさを取り戻しており、確かめる術はどこにもなかった。
五 記録帳に残された、判じえぬ二つの剣
数日後、村を発つ前に、レイブンはもう一度リアナを訪ねた。彼女は、亡き祖父の書斎だった部屋で、湖から見つかった錆びた剣を丁寧に布で包んでいるところだった。
「結局、あなたが次の指導者になられるのですね」
「はい」リアナは静かに頷いた。「剣は最後まで抜けませんでした。ですが、ケドリックさんご自身が、私を推してくださって。……力で村を守ることより、あの霧の夜、私が逃げずにこの場にいたことの方が、村の皆にとっては大事だったようです」
「ケドリックさんは、どのようなお考えで」
「あの方は、正直な方です」リアナは微笑んだ。「『剣が動いたのはお前だけだ。あとのことは、俺には分からん』と、それだけ仰って。今も剣の稽古を村の若者たちに教えてくださっています。よそ者だと言われながらも、この村に残ると決めてくださった。私一人では、とても村を導けませんから、これからも力を貸していただくつもりです」
「霧の夜のこと、村の皆さんはどのように受け止めていらっしゃるのでしょう」
「意見は分かれたままです」リアナは、包んだ剣を静かに棚へ置いた。「湖の竜が、私たちを守ってくれたのだと信じる人もいます。単なる霧と、よそ者たちの臆病さが重なっただけだと言う人もいます。オズベルト様でさえ、どちらとも決めかねているご様子でした。……私自身、どちらが正しいのか、今も分かりません。ただ、あの夜、この剣が私の足元に流れ着いたことだけは、事実として残っています」
「これからその剣を、どうなさるおつもりですか」
「広場の石剣の傍らに、並べて置こうと思います」リアナは布の上から、そっと剣の輪郭を撫でた。「どちらが本当の証なのか、私には決められません。ですが、両方をこの村の記憶として残しておくことに、意味はあるはずですから」
村を出る朝、レイブンはオズベルトのもとにも別れの挨拶に立ち寄った。老人は杖にもたれ、壁の二枚の木彫りをしばらく見つめてから、静かに口を開いた。
「お前さんの目には、この村がどう映った」
「二つの言い伝えを、どちらも手放さずに生きている村だと感じました」
オズベルトは小さく笑った。
「昔は、それを優柔不断だと思っていた時期もあった。だが歳を重ねるほど、決めつけずにいることの方が、よほど難しいのだと分かるようになってな。……お前さんも、旅の記録の中で、そうしているのだろう」
「そのつもりでおります」
「ならば、この村にはちょうど良い客人だったわけだ」
レイブンは記録帳を閉じ、最後にもう一度、湖を見に行くことにした。岸辺に立ち、朝靄の残る水面をしばらく見つめる。波紋ひとつなく、湖はただ静かに村を映していた。何かが本当にそこに棲んでいるのか、それとも人々の言い伝えが、静かな水面に勝手に影を見ているだけなのか、レイブンにはついに判じることができなかった。
記録帳の最後の頁に、レイブンは短くこう書き記した。
――石剣の村には、孤児ロウェンが石の剣を抜いて指導者となったという言い伝えと、同じロウェンが村の危機に際して湖の剣を授かったという、二つの異なる言い伝えが残る。今回、後継者リアナの手で石の剣がわずかに動き、同じ夜、湖からは古い剣が新たに見つかり、素性の知れぬ一団は霧の中で姿を消した。これが湖に棲むという竜の仕業なのか、幾つもの偶然が重なっただけなのか、私には確かめる術がなかった。ただ、この村が二つの言い伝えのどちらをも手放さず、これからも語り継いでいくであろうことだけは、確かなことのように思われた。
朝日が崖の切れ目から差し込み、湖面を淡く照らし出した。レイブンは筆をしまい、静かな水面に一礼してから、次の旅路へと足を向けた。
あとがき
本作は、アーサー王伝説――大聖堂前の石に突き立った剣を抜いた者が正統な王となるという「石に刺さった剣」の挿話と、湖の乙女が名剣エクスカリバーをアーサーに授けたとする別伝の二つを下敷きにした翻案である。原典では同一人物の逸話として並置されるこの二つの剣の由来を、本作では「石の剣を抜いた孤児ロウェン」と「侵略者を退けた際に湖から授かった剣」という、村に伝わる二つの異伝として再構成した。
舞台を光竜神聖国ルミナリアの「石剣の村」に置き換え、王権の証としての剣ではなく、後継者を選ぶ儀式の道具として描き直した点、また竜の実在を最後まで確定させず、霧の夜の出来事を竜の介入とも偶然の重なりとも判じ得ないまま終える点は、本作独自の翻案である。登場人物・地名(レイブン、イーダ、オズベルト、ロウェン、ダグ、リアナ、ケドリック、石剣の村等)はいずれも本作のための創作であり、原典や特定の翻訳文からの逐語的な引用・翻訳は行っていない。
本作はアーサー王伝説(ジェフリー・オブ・モンマス『ブリタニア列王史』等の中世ロマンスに集成された、パブリックドメインの民間伝承)を参考にした翻案作品です。参考: https://en.wikipedia.org/wiki/Matter_of_Britain