竜は縄張りの外までは追わなかった
水竜王国アクアリウス、狭い海峡の港町。崖の「六頭の岩竜」と対岸の「渦を統べる竜」、二つの脅威を避ける古い航路をめぐり、生贄説と縄張り説に語りが分かれる。若い漁師が渦に呑まれかけた夜を経て、レイブンは竜の気配を観察するが、確証を得ぬまま海峡町を去る。
一 狭門の海峡町、二つの影
崖の切れ目を船で抜けたとき、レイブンは思わず舷側の縄を握り直した。
水竜王国アクアリウスの北方、両岸から切り立った岩壁が迫り出し、海そのものを絞り上げたような狭い水路が続いている。船頭が「狭門(せば)」と呼ぶこの海峡を抜けた先に、へばりつくように建つ家々と、石積みの波止場を持つ小さな港町があった。旅の記録者として各地を渡り歩いてきたレイブンも、これほど息を詰めて船に乗ったのは久しぶりのことだった。
町の名も、そのまま「狭門の海峡町」といった。波止場に降り立つと、潮の匂いに混じって、どこか張り詰めた気配が漂っているのをレイブンは感じ取った。家々の壁には、崖から剥がれ落ちたのだろう黒っぽい岩片が魔除けのように埋め込まれ、軒先には干した海藻とともに、貝殻を連ねた飾りが吊るされている。行き交う漁師たちの足取りは忙しないが、誰もが海峡の中ほど、切り立った崖と対岸の暗い海面を交互に見やっては、小さく息をつく。まるで、そこに何かが潜んでいることを片時も忘れられずにいるかのようだった。
町の広場に面した掲示板には、古びた木の板に焼き印で「定められた航路より外に出るべからず」とだけ刻まれていた。文字の縁はすっかり丸くなり、幾世代にもわたって指でなぞられてきたことをうかがわせた。子供たちは広場で遊びながらも、その板の前を通るときだけは、決まって声を落とす。よそ者であるレイブンの目にも、それが単なる決まり文句以上の、この町の背骨のようなものであることは、すぐに見て取れた。
「旅の方かい。ここいらは、初めてだろう」
波止場で網を繕っていた老人が、レイブンの旅装を見て声をかけてきた。名をオルソといい、代々この町で水先案内人を務めてきた一族の当主だという。白く濁った目の奥に、それでも鋭い光を宿した老人だった。
「記録者のレイブンと申します。狭門の名は、旅の先々で耳にしておりました。二つの脅威が守っているとか」
「よくご存知だ」オルソは網を繕う手を止め、崖の方角を顎で示した。「あの崖の洞窟には、六つの首を持つ岩竜が棲んでいる。土地の者は『牙崖(ががい)の主』と呼んでいるがね。もう一方――対岸の海の底には、渦を統べる竜が眠っているという。土地の言葉では『渦母(うずも)』だ」
「両方とも、船を襲うのですか」
「襲うと言えば襲う。だが、正確に言うなら、こちらが縄張りに踏み込んだときだけだ」オルソは慎重に言葉を選ぶように、一語一語区切って続けた。「渦母は一日に幾度か、決まった刻限に海水を吸い込んでは吐き出す。近づけば船ごと呑まれる。牙崖の主は、崖の下を通る船が近づきすぎれば、首をもたげて威嚇する。だから、この町の船は代々、その両方の縄張りのどちらにも踏み込まぬ、細い水路だけを通ることになっている」
レイブンは記録帳を取り出し、「狭門の海峡町」「牙崖の主(六頭の岩竜)」「渦母(渦を統べる竜)」「独自の航路」と書き留めた。波止場の奥、崖に近い岩場に一人の老漁師が腰を下ろし、こちらをじっと見つめているのに気づいたのは、そのときだった。眼差しには、単なる好奇心とは違う、どこか苦い色が滲んでいるように見えた。
「あちらの方は」
「バルドだ」オルソは一瞬、言葉を濁らせた。「古い話をよく知っている男だよ。……だが、今日のところは、まず宿を取るといい。日が暮れれば、この海峡はいっそう表情を変える」
宿へ向かう道すがら、波止場の隅で若い漁師たちが小舟の櫂を磨いているのが目に留まった。中でもひときわ声高に笑っている青年がいた。名をケイルというその若者は、周りの仲間に向かって、いかにも自信ありげに言い放っていた。
「縄張りの目印なんぞ、少しくらいはみ出したところで、何も起きやしないさ。爺様たちが臆病なだけだ」
「よせよ、ケイル。オルソ様の耳に入ったら、大目玉だぞ」
仲間の一人がたしなめたが、ケイルは肩をすくめただけだった。レイブンはその遣り取りを記録帳の片隅に書き留めながら、胸の奥にかすかな胸騒ぎを覚えた。この町の均衡が、思いのほか脆いものの上に成り立っているのかもしれない――そんな予感が、初日の宵闇の中で、静かに芽生えていた。
その夜、レイブンが借りた宿の窓からは、暗く沈んだ海峡がかろうじて見えた。崖の側からも、対岸の海面からも、これといった物音は聞こえてこなかったが、その静けさこそが、かえって町の緊張を物語っているように思われた。
二 水先案内人の記録、択ばれた航路
翌朝、オルソに招かれ、レイブンは水先案内人一族の古い家を訪ねた。壁には航路を記した古い海図が幾枚も貼られ、崖と対岸のあいだを縫うように、細い朱線が引かれている。潮の満ち引きによって書き足された注釈が幾重にも重なり、海図全体が一族の年月そのもののように見えた。
「これが、代々受け継いできた航路だ」
海図を示したのは、オルソの孫娘だというミラだった。若いながらも見習いの水先案内人として、すでに幾度も船を導いた経験があるという。日に焼けた頬に、真っ直ぐな眼差しをした娘だった。
「渦母の縄張りは、対岸から一定の距離まで。牙崖の主の縄張りは、崖の際からやはり一定の距離まで。その間に残った、ほんのわずかな水路だけを通る。潮の流れも複雑で、案内人が一人前になるまでには十年はかかると言われています」
「この航路は、いつから」
「はっきりとした始まりは、私たちにも分かりません。ただ、家に伝わる最も古い記録には、この航路を初めて見つけた者の名が残っています」
ミラは棚の奥から、古びた革表紙の帳面を取り出した。すっかり色あせたインクの文字を、彼女は慣れた手つきで読み解いていく。
「異国から漂着した航海者――名をテオドロスといったそうです。もとの船を渦母の縄張りで一度は失いかけ、代わりに牙崖の主の側を通ることを選んだ。結果として、六人の乗組員を失いながらも、テオドロス自身と残りの者たちは海峡を抜けて生き延びた、と記録にはあります」
「六人を失った、その顛末については」
「詳しくは書かれていません」ミラは帳面の頁をめくりながら、少し声を落とした。「ただ、『崖の獣、一人ずつを喰らう』という一文があるだけです。テオドロスがそれを実際に見たのか、それとも波に呑まれた仲間を、そう解釈しただけなのか――今となっては、確かめようがありません」
帳面の隅には、震える筆致でこうも記されていた。「われ渦を恐れて崖に寄りすぎたるか、あるいは崖の主われらを待ち構えていたるか、いずれとも定めがたし」。さらに別の頁には、「六人のうち、最初に消えし者の名をここに記す。だが誰が見たわけでもなし。ただ、その者の座っていた場所だけが、いつのまにか空いていた」ともあった。レイブンはその一文を、そのまま記録帳に書き写した。数百年を隔てても、なお判じえぬままの言葉が、そこにはあった。
オルソが横から口を挟んだ。
「私の一族は、代々こう考えてきた。牙崖の主は、縄張りに踏み込んだ者にしか手を出さない。テオドロスの船が、渦母を恐れるあまり崖に近づきすぎた。それだけのことだ、とね」
「では、六人が失われたのは」
「航路選びの結果だ、と私たちは思っている。竜が積極的に人を求めて襲ったのではなく、竜の縄張りに、人の側が踏み込みすぎた。……もっとも、それを声高に言えば、失った者の血縁にはひどく酷な話に聞こえるだろうがね」
オルソの声には、長年その考えを胸にしまい込んできた者だけが持つ、静かな重みがあった。ミラは祖父の横で、航路図の朱線を指先でなぞりながら、何かを堪えるように黙っていた。
家を辞したあと、ミラは崖沿いの小道をレイブンに案内した。潮風にさらされて丸くなった目印の石が、一定の間隔で並んでいる。
「この石より海側には、決して出ないよう教え込まれます。子供の頃から、数え切れないほど繰り返し」
「怖くはありませんでしたか、この航路を学ぶことは」
「怖いというより、責め苦のようでした」ミラは石に触れながら、微かに笑った。「一族の誰かが命を落とせば、その死に方がどうであれ、最後には必ず航路の話に行き着く。私たちの選んだ道のせいだと言われることもあれば、竜の仕業だと言われることもある。……どちらであっても、私たちが背負うものは、そう変わらないのかもしれません」
レイブンはその横顔に、単なる家業への誇りだけではない、もっと張り詰めた何かを感じ取っていた。
三 分かれる語り、生贄説と縄張り説
その日の午後、レイブンは波止場の岩場に座るバルドのもとを訪ねた。近づくと、老漁師は皺の刻まれた顔をこちらに向け、値踏みするような視線を寄越した。
「水先案内人の家で、何を聞いてきた」
「航路のこと、テオドロスという航海者の記録のことを伺いました」
「奴らは、そう語るだろうな」バルドは吐き捨てるように言った。「縄張りに踏み込んだだけ、竜は悪くない、犠牲は航路選びの結果――そう言えば、自分たちの先祖が、誰かを崖の獣の縄張りへ導いたという事実から、目を逸らせるからな」
「あなたは、違う考えをお持ちなのですね」
バルドは海峡の崖を睨むように見上げた。
「私の兄は、若い頃、あの航路を通る漁に出て、二度と戻らなかった。案内人は『潮に流された』と言った。だが、この海峡で生まれ育った者なら、あの航路のどこが危ういか、身に染みて分かっている。兄が単なる潮の悪戯で命を落としたとは、私にはどうしても思えん」
「では、どうお考えに」
「牙崖の主は、ただ縄張りを守っているだけの獣ではない。この海峡を通る者から、定期に生贄を求めているのだ。水先案内人の一族は、それを分かっていながら、『縄張り』などという言葉で飾り立てているに過ぎん」
バルドの声には、長年胸に溜め込んできた怒りと、それ以上に深い喪失の色が滲んでいた。レイブンは記録帳に、その言葉を一字一句書き留めながらも、胸の内では判断をつけかねていた。オルソとミラの語る「縄張り説」と、バルドの語る「生贄説」――どちらも、当人にとっては疑いようのない真実として語られている。
「水先案内人の一族とは、長く諍いが」
「諍いというほどのものではない」バルドは短く答えた。「ただ、兄の弔いの日に、案内人の先代が『航路は正しかった』と繰り返すのを聞いて以来、私はあの一族の言葉を、素直には信じられなくなった。それだけのことだ」
夕暮れ、波止場に戻る道すがら、レイブンは昨日見かけたケイルたちの一団と再び行き合った。ケイルは仲間に向かって、なおも威勢のいい調子で話していた。
「バルド爺の話は、聞き飽きた。生贄だ何だと言われ続けて、俺たちの代でも同じ航路をびくびく通り続けるのか。目印の石をひとつ越えたところで、渦母が本当に牙崖の主の縄張りまで見ているものか、確かめてやろうじゃないか」
「およしなさい、ケイル」ミラがちょうど通りかかり、鋭い声で割って入った。「あなたの度胸試しに、船と仲間を巻き込むつもりですか」
「案内人様の言うことにも、いい加減うんざりしていてね」ケイルは軽い調子で受け流した。「今夜、少し漁場を広げてみるだけさ。誰の許しも要らないだろう」
ミラは言葉を重ねようとしたが、ケイルはすでに仲間を促して船着き場へと歩き去っていた。その背を見送るミラの表情には、案内人としての苛立ちだけでなく、幼馴染への案じるような色も滲んでいた。
その晩、宿に戻ったレイブンは、オルソとミラから聞いた話と、バルドから聞いた話を並べて記録帳に書きつけた。同じ海峡、同じ航路、同じ犠牲を巡りながら、語る者によってまるで違う竜の像が浮かび上がってくる。どちらが正しいのかを判じる術は、今のところレイブンの手元にはなかった。窓の外、日が完全に落ちる頃、遠くから小舟の櫂を漕ぐ音が、いつになく波止場から遠ざかっていくのが聞こえた気がした。
四 渦に呑まれかけた夜、竜たちの気配
半刻ほど経った頃、けたたましい鐘の音が町中に響き渡った。レイブンが宿を飛び出すと、波止場にはすでに幾人もの漁師が集まり、松明を掲げて対岸の暗い海面を指差していた。
「ケイルの船だ! 渦母の縄張りに近づきすぎた!」
誰かが叫んだ。目を凝らすと、対岸近くの海面で、小さな船影が波にもてあそばれるように傾いでいるのが見えた。ちょうど渦母が海水を吸い込む刻限に差しかかっていたのだ。ミラはすでに舟を出す支度を整え、オルソもまた、老いた体に鞭打つように舷側に飛び乗ろうとしていた。
「私も行きます」
レイブンが名乗り出ると、ミラは短く頷いただけだった。数艘の救助船が松明の明かりを頼りに漕ぎ出していく。渦母の縄張りの手前で船を止め、ミラは声を張り上げてケイルたちに指示を送った。
「船縁を掴んで、絶対に手を離すな! 綱を投げる!」
海面はすでに緩やかにうねり始め、渦の兆しが水面に薄い模様を描いていた。松明の炎に照らされた水の下、太い影がゆっくりと蠢くのが見えた気がしたが、それが渦母の姿なのか、単なる水流の乱れなのか、誰にも見極める余裕はなかった。ケイルの仲間の一人が「引っ張られる、船が引っ張られる!」と悲鳴を上げ、櫂を握る手が震えているのが、松明の明かり越しにもはっきりと見て取れた。
綱がケイルたちの船に届き、力を合わせて手繰り寄せる。潮の抵抗は思いのほか強く、ミラは歯を食いしばりながら「離すな、あと少しだ!」と繰り返し叫んだ。オルソもまた、老いた体のどこにそれだけの力が残っていたのかと思うほど、綱を握る腕に力を込めていた。船が縄張りの外へと引き出された、まさにその直後、背後の水面が大きく渦を巻いて沈み込んだ。水音は雷鳴のように海峡いっぱいに響き渡り、しばらくの間、誰も声を発することができなかった。ほんのわずかでも遅れていれば、船ごと呑み込まれていたに違いなかった。
岸に引き上げられたケイルは、震えながらも無事だった。ずぶ濡れの体を仲間に支えられながら、彼は言葉もなくうなだれていた。崖の方角からは、その騒ぎに応じるように、低い唸り声が一度だけ響いたが、牙崖の主が縄張りの外まで姿を見せることはなかった。
翌朝、町は昨夜の出来事でざわめいていた。バルドは波止場に集まった人々に向かって、声を荒らげていた。
「見たか、あの渦の動きを。まるで狙い澄ましたかのようだったろう。あれこそが、竜が人を求める証だ」
「渦が生まれる刻限に、たまたまケイルが近づいただけです」ミラが疲れた声で言い返した。「渦母が誰かを狙って刻限を変えたわけではありません」
「たまたま、で片づけられるものか。何人がその『たまたま』で命を落としてきたと思っている」
言い合いは平行線をたどるばかりだった。レイブンはその様子を記録帳に書き留めながら、自らもう一度、確かめておきたいという思いに駆られた。ミラに頼み込み、日中の穏やかな時間を選んで、再び崖と対岸の水域を見て回ることにした。
崖の際では、漁船が縄張りに近づきすぎた際、六つの首が洞窟からゆっくりと持ち上がり、威嚇したのちに船が退くと、それ以上追うことなく静かに引っ込んでいく様子を、昨日と同じように確認できた。対岸では、決まった刻限に渦が生まれ、同じ間隔で凪いでいく周期を、レイブンは幾度も時を計って記録した。ケイルが巻き込まれた渦もまた、いつもと変わらぬ周期の内に生まれたものであるらしいことが、記録の突き合わせからおぼろげに見えてきた。
「昨夜のことは、渦母が誰かを狙ったのではなく、いつもの刻限に、ケイルが偶然近づきすぎただけ、ということになるのでしょうか」
「私にも、そうとしか思えません」ミラは静かに答えた。「けれど、それを証すすべは、やはりどこにもありません。渦母自身に問うことができない以上、バルドさんの言葉を、完全に否定することも私にはできない」
レイブンは二頭の竜について、ひとつの仮説をゆっくりと組み立てていった。牙崖の主も、渦母も、積極的に人を狩る怪物というよりは、それぞれの縄張りと生態の周期を守っているだけの生き物に過ぎないのかもしれない。だが、その仮説をどれほど組み立てたところで、テオドロスの六人の乗組員が命を落とした事実、そして昨夜ケイルが危うく命を落としかけた事実そのものは、消えてなくならない。竜に問いかける術を持たない以上、この仮説を確かめる手立てはどこにもなかった。
五 弔いの祠、判じえぬ真実
海峡町を発つ前日、レイブンはミラに案内され、崖の中腹にひっそりと建つ小さな祠を訪れた。苔むした石積みの前に、色あせた供物の跡がいくつも残っている。
「テオドロス様の乗組員のうち、六人を弔うために建てられたと伝わっています」ミラが静かに言った。「毎年、決まった日に、水先案内人の一族が花を手向けに来ます」
祠の前で手を合わせていると、少し離れた岩陰から、バルドがゆっくりと歩み寄ってくるのが見えた。彼もまた、手には小さな花を携えていた。その後ろには、包帯を巻いた手で花束を抱えたケイルの姿もあった。ミラと目が合うと、三人はどちらからともなく、小さく頭を下げ合った。長年のわだかまりを溶かすには足りないだろうが、少なくともこの祠の前でだけは、互いに刃を収めているらしかった。
「毎年、同じ日にここへ」
レイブンが問うと、バルドは短く答えた。
「兄が死んだ日だからな。……水先案内人の考えとは違うが、ここで手を合わせることだけは、誰にはばかることでもない」
「岩竜が生贄を求めたという考えは、今も」
「変わらん」バルドは花を供えながら、静かに続けた。「だが、正直に言えば、確かめる術がないことも分かっている。竜に直に問うことなど、誰にもできんのだからな」
ケイルは俯いたまま、初めて素直な声で口を開いた。
「昨夜のことは、俺が悪かった。渦母のせいにするつもりはない。……それでも、あの水の下に、確かに何かがいるのは見た。あれが竜なのか、ただの潮の乱れなのか、俺にはもう分からない」
ミラもまた、祠の前にそっと花を置きながら口を開いた。
「私たちも、縄張りを守っているだけだと信じてはいますが……それが本当に確かなことなのか、竜自身から聞いたわけではありません。ただ、そう信じることでしか、この航路を守り続けることができないだけなのかもしれません」
二つの解釈は、その日もなお、互いに譲ることなく祠の前に並んでいた。それでも、バルドとミラ、そしてケイルが、同じ祠の前で肩を並べて花を手向けている光景そのものは、レイブンがこの町に来て初めて目にする、ささやかな和解のかたちだった。竜の正体をめぐる語りは決して一つにまとまらないだろうが、犠牲になった者たちを悼む気持ちだけは、誰の中にも等しく息づいているらしかった。レイブンはそのどちらをも記録に残すことにした。
翌朝、船に乗り込む前、レイブンは最後にもう一度、崖と対岸の海を見渡した。牙崖の主の洞窟は静まり返り、渦母の海面も、今はただ穏やかに凪いでいる。記録帳の最後の頁に、レイブンは短くこう書き記した。
――狭門の海峡町には、崖に棲む六頭の岩竜「牙崖の主」と、対岸の海に潜む「渦母」という二つの脅威が伝わる。異国の航海者テオドロスは、渦母を避けて牙崖の主の側の航路を選び、六人の乗組員を失いながらも生き延びたと記録に残る。滞在中、若い漁師が渦母の縄張りに近づきすぎ、間一髪で救出されるという出来事にも立ち会った。水先案内人の一族は、二頭の竜がいずれも縄張りを守るだけの生態を持つに過ぎず、犠牲は航路選択の結果だと語る。一方、犠牲者の血縁は、竜が生贄を求めたのだと今も固く信じている。私自身、崖の竜が船の後退とともに縄張りの内へ戻る様と、渦母の渦が決まった周期で生まれる様を、この目で確かめた。だが、それが六人の死と昨夜の危難の真相を証すものかどうかは、判じることができなかった。ただ、航海者の苦悩と、町に残る二つの解釈だけが、確かにこの手に残った。
崖の間を抜ける潮風が、記録帳の頁を静かに揺らした。レイブンは筆を置き、次の旅路へと船を出させた。
あとがき
本作は、ホメロス『オデュッセイア』第12巻に記録される、オデュッセウスがスキュラとカリュブディスという二つの脅威が待ち構える海峡を通過する挿話を下敷きにした翻案である。魔女キルケーの助言に従い、オデュッセウスは渦潮の怪物カリュブディスを避け、六つの首を持つ怪物スキュラの側の航路を選び、六人の部下を犠牲にしながらも海峡を突破するという原典の骨格を、本作でも踏襲した。
原典では怪物として一方的に描かれるスキュラとカリュブディスを、本作では「六頭の岩竜(牙崖の主)」と「渦を統べる竜(渦母)」という、縄張りと生態の周期を持つ生き物として置き換え、その正体を「積極的に人を狩る怪物なのか、縄張りを守るだけの生態を持つ生き物に過ぎないのか」という判じえぬ問いへと開き直した。犠牲者を「生贄」と捉える血縁の語りと、「航路選択の結果」と捉える水先案内人一族の語りという、町に残る二つの解釈、さらに若い漁師が渦に呑まれかけるという新たな出来事は、原典の航海者オデュッセウス自身が部下を救えなかった苦悩を抱え続けたという要素を、本作独自の形で発展させたものである。登場人物・竜の名(レイブン、オルソ、ミラ、バルド、ケイル、テオドロスほか)、地名(狭門の海峡町等)はいずれも本作のための創作であり、原典や特定の翻訳文からの逐語的な引用・翻訳は行っていない。
本作はホメロス『オデュッセイア』第12巻に記録されるオデュッセウスとスキュラ・カリュブディスの伝承を参考にした翻案作品です。参考: https://www.gutenberg.org/ebooks/1727