物語り
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·読了目安 15分脇役

竜は縄張りの外を狙わなかった

水竜王国アクアリウス、狭門の海峡町。崖に棲む六頭の岩竜と対岸に潜む渦を統べる竜、二つの脅威を避けて航路を守る町で、レイブンは生贄説と縄張り防衛説に割れた言い伝えに触れ、境を侵した若者をいずれの竜も追わなかった一日に立ち会う。

一、狭門の海峡町、二つの言い伝え

崖の間を縫うように続く道を下りきったとき、レイブンは眼下に開けた光景に思わず足を止めた。

水竜王国アクアリウスの領内、二つの断崖が向かい合うように迫った狭い海峡があり、その両岸に張りつくように家々が並んでいる。「狭門(せば)の海峡町」と地図に記されたその土地は、名前の響き以上に切り詰まった地形をしていた。崖の上から見下ろすと、海峡の水面はところどころ暗い緑色に沈み、潮の流れがねじれるように渦を巻いているのが見て取れた。風は絶えず崖の間を吹き抜け、ひゅう、ひゅうと低い音を立てながら、坂道の途中に生えた痩せた松の枝を揺らしていた。

坂道を下りていくと、干した魚の匂いと、濡れた縄の匂いが入り混じって漂ってきた。港には小さな漁船が幾艘も舫われていたが、そのどれもが崖に沿った片側の航路だけを通って出入りしているらしく、海峡の中央や対岸に近い水域には、一艘の船も見当たらなかった。船縁には、色褪せた青い布切れがそれぞれ結ばれていて、レイブンが尋ねると、ある老婆は「無事に帰ってこられるようにという、まじないだよ」と短く答えるだけだった。

「旅の記録者さんかね」

声をかけてきたのは、腰の曲がった老人だった。網を繕う手を止めず、目だけをレイブンに向けている。名をバルトロと言い、この港で長く水先案内人を務めてきたという。皺の深い顔に、潮風に灼かれた褐色の肌をしていた。

「はい。土地に伝わる言い習わしや、暮らしの様子を書き留めて回っております。この海峡には、何か特別な決まりがあるようにお見受けしましたが」

バルトロは網を膝に置き、崖の方角へ顎をしゃくった。

「あの崖の途中に、洞窟がひとつ空いている。あそこに、六つの首を持つ岩竜が棲んでいると言われている。そして海峡の向こう岸、あの静かに見える水面の下には、渦を統べる竜が潜んでいるとも言われている。どちらの縄張りにも、決して近づかない――それが、この町の船乗りが親から子へ伝えてきた、ただひとつの掟だ」

「二頭の竜、ということですか」

「そうだ。片方は崖の岩竜、もう片方は渦の竜。船は必ず岩竜の棲む崖側を、崖にぎりぎり寄り添うように進む。渦の側には、決して舵を切らない。理由を訊かれても、今の者たちは誰も、はっきりと答えられんだろうがね」

レイブンは記録帳を取り出し、「六頭の岩竜」「渦を統べる竜」「崖側の航路のみ」と書き留めた。老人の口ぶりには、恐れというよりも、長年守り続けてきた習わしへの慣れが感じられた。

港の奥、小さな石段を上った先に、苔むした小さな祠があるのが見えた。花や干し魚の切れ端が供えられ、誰かが今朝方訪れたばかりのように、供物はまだ新しかった。石段の途中には、風雨に晒されて文字も判読しがたい古い木札が幾本も立てられていた。

「あの祠は」

「昔、海峡で命を落とした船乗りたちを祀っている。祠の守りは、代々グーナという名の女がしている。今の代のグーナは、もう八十を超えているがね。話を聞きたければ、訪ねてみるといい」

バルトロはそう言うと、再び網へ視線を落とした。話はそこで終わりのようだった。

港を見て回りながら、レイブンはふと、若い漁師の一団が船着き場の隅で言い争っているのに気づいた。中心にいるのは、バルトロによく似た目元をした青年だった。

「今年の漁は、去年よりもさらに悪い。岩竜側の航路をぐるりと回るだけで、半日が潰れてしまう。もっと近い航路があるなら、なぜ誰も試そうとしないんだ」

「ケイオ、よせ。渦の側には近づくなというのは、子供の頃から言われてきたことだろう」

「言われてきただけだ。実際に何かが起きたところを、俺は見たことがない」

年上の漁師たちがケイオという青年をなだめる声が、風に流されて途切れ途切れに届いた。ケイオの舟だけが、他の舟に比べて幾分小さく、継ぎの当てられた帆を張っていることに、レイブンは気がついた。日暮れが近づき、港の灯りがひとつずつ点る頃、レイブンはその様子を記録帳の端に書き添えながら、この町にはまだ語られていない何かが、水面の下に沈んでいるらしいと感じ取っていた。

二、エイナルの航海記録、六人の犠牲

その日の夕刻、レイブンはバルトロの家を訪ねた。古い木造の家の奥に、革表紙の分厚い帳面が幾冊も積まれている。壁には、色の褪せた古い海図が張られ、崖と渦の位置に、誰かが赤い糸で印をつけた跡が残っていた。バルトロの家系は代々、この港の水先案内を務める家柄で、記録の束はその家系そのものの歴史でもあった。

「これは、私の祖にあたるエイナルという男が、異国からこの海峡に流れ着いた時の記録だ」

バルトロは埃をかぶった一冊を取り出し、丁寧に頁をめくった。古い文字は掠れて読みにくかったが、そこには確かに、二つの脅威の間を航海した記録が残されていた。

「エイナルはもともと、遠い異国の船乗りだったらしい。嵐に遭って船が傷み、たどり着いたのがこの海峡だった。土地の者に、渦の竜と岩竜の二つの危険を教えられたが、船はもはや渦を避けるだけの余力もなく、どちらかの側を通らねば進めない状態だったという」

「エイナルは、どちらを選んだのですか」

「岩竜の側だ。渦に呑まれれば船も人も残らず失われる、そう判断したのだろう。だが崖に寄り添って進む間に、六人の乗組員を失った。記録には、そう書かれている」

バルトロは帳面の一節を指でなぞった。「崖の上より、影のごときもの六つ、次々と船縁に触れ、六人の仲間、波間に消えたり。船は止まることを許されず、われらは前へ進むほかなかりし」――そう記されていた。文字の端には、何度も書き直された跡があり、消えた乗組員の名らしき文字が、線を引かれた上からなお読み取れた。

「エイナルは、生き延びてこの町に住み着いた。そして自らの航海記録を、水先案内の心得として子孫に伝えた。以来、私の家は代々、この記録に従って船を導いてきた。海峡を渡る船があれば、必ずこの帳面の航路をそのまま伝える。それが、この家の生業そのものだ」

レイブンは帳面の記述を丁寧に書き写しながら、ふと尋ねた。

「この記録を、あなたはどう読んでおられますか。岩竜が積極的に襲ったのか、それとも」

バルトロは少し黙り、帳面を閉じた。窓の外では、日が落ちきり、波の音だけが低く響いていた。

「私の考えを言えば、岩竜はただ、自分の縄張りに近づいた船を追い払おうとしただけではないかと思っている。狩ろうとしたのではなく、境を侵されたことに応じただけだ、と。だが、それを裏付ける記録はない。エイナル自身の言葉にも、断定は一切書かれていない。ただ『船は止まることを許されず』と書かれているだけで、岩竜がどのような意図を持っていたか、当人にも判じられなかったのだろう」

翌日、レイブンは祠を訪ね、グーナという老女に会った。腰は曲がっていたが、眼差しはしっかりとレイブンを見据えていた。手には、朝摘んだばかりの野花の束を抱えていた。

「エイナル様の話を、バルトロから聞いたのだね」

「はい。六人の乗組員を失ったという記録を拝見しました」

グーナは祠に供えられた干し魚を整えながら、静かに語った。

「私たちはずっと、あの六人は岩竜への生贄だったと信じてきた。エイナル様が渦を避けて岩竜の縄張りを通ったのは、渦の竜への生贄を避け、岩竜への生贄を選んだということなのだと。そうでなければ、六人ちょうど、頭の数と同じだけの命が失われたことの説明がつかないと、この土地の年寄りは口を揃えて言うのさ」

「バルトロさんは、少し違う考えをお持ちのようでした」

「知っているよ」グーナは小さく笑った。「あの一族は、記録に書かれた言葉以上のことを、決して口にしない。だが私たちは、記録に書かれていない祈りの言葉を、代々口伝えに受け継いできた。どちらが正しいかなど、私には分からない。ただ、六人の魂を慰めるための祠を、私は絶やさぬだけだ。この花も、毎朝、私が摘んでくるものだよ。誰に頼まれたわけでもないがね」

「あなた自身は、どちらの言い伝えを信じておられますか」

グーナはしばらく手を止め、海峡の方を眺めた。

「信じるというより、そう思わなければ、六人の死に意味を見出せなかったのだろうね。私の母も、その母も、同じことを言っていた。生贄だったと思えば、少なくとも彼らの死には理由があったことになる。ただの事故だったと思うよりは、そのほうが、遺された者にとっては幾分か救いになるものだよ」

レイブンは記録帳に、二つの解釈を並べて書き留めた。岩竜が生贄を求めたという言い伝えと、岩竜がただ縄張りを守っただけだという推測。どちらも確たる証拠を持たぬまま、この町に長く息づいていた。

三、割れる解釈、ケイオの焦り

数日、レイブンは港の周辺を歩き、漁師たちの話を集めて回った。話を聞くたび、岩竜と渦の竜についての語り口は少しずつ違っていた。生贄を信じる者、縄張りの防衛だと考える者、そのどちらでもなく単に「近づかないほうが安全だから近づかないだけだ」と割り切っている者もいた。

そんな中、レイブンは船着き場でケイオに声をかけられた。網を繕う手を止め、少し警戒するような目つきをしていた。

「記録者さんは、あの二つの竜の話を集めているそうですね」

「はい。この町に伝わる言い習わしを、そのまま書き残そうとしています」

ケイオは苦い笑みを浮かべた。

「だったら、正直な話も書いてください。俺たちの家は、もう三代続けて漁の稼ぎが減り続けている。父は、俺が十のときに、崖側の航路の途中で嵐に遭って舟を失い、それきり漁を諦めて陸の仕事に移った。祖父さんが今も水先案内を続けているから、俺たちは何とかやってこられたが、俺の代になってからは漁場そのものが遠く、稼ぎも細くなる一方だ」

「渦の側を突っ切れば、漁場までの時間は半分で済むのですか」

「そうだ。潮の流れを見ていれば分かる。海峡の中央を突っ切れば、崖沿いを回るより、はるかに早く外海の漁場へ出られる。そう思って調べてみたが、村の誰も本気で試そうとはしない」

「試したことがある方は」

「いない。誰も、本当に渦の竜がいるのかどうかすら、確かめようとしていない。ただ怖がって、遠回りを続けているだけだ。俺は、確かめもせずに諦めるのが、どうしても納得できないんだ」

バルトロがちょうどそこに通りかかり、ケイオの言葉を聞きつけて足を止めた。皺の寄った顔に、いつもより強い険しさが浮かんでいた。

「ケイオ、その話はもうよせと言ったはずだ」

「祖父さんは、エイナル様の記録を大事にするあまり、その先を考えようとしない。渦の竜の話だって、本当に危険なのかどうか、誰も近くで確かめたことがないんだ。父さんが舟を失ったのも、崖側の航路が悪かったからかもしれないじゃないか」

「それは違う」バルトロの声が珍しく大きくなった。「あの日の嵐は、航路のせいではない。だが、いくら話しても、お前には届かんのだろうな」

二人の言い合いは、しばらく続いた。バルトロは記録に基づく慎重さを説き、ケイオは家業の窮状を訴えた。レイブンはその様子を黒く塗りつぶすことも、どちらかに肩入れすることもせず、ただ二人の言葉をそのまま記録帳に書き留めた。

その足で、レイブンは船着き場に立ち寄り、ケイオの母だという女に声をかけた。継ぎの当てられた帆を繕っていた彼女は、レイブンの問いに手を止めず、ぽつりぽつりと答えた。

「あの子の父が舟を失ってから、この家は随分と苦しくなった。夫は今も陸で日雇いの仕事をしているが、ケイオはどうしても、海の仕事を諦めたくないらしい。私も、あの子の焦りが分からないわけではないよ。ただ、崖側の航路を疑うのと、渦の側を試すのとは、まるで別の話だと思うのだけれどね」

「ケイオさんに、そう伝えたことは」

「何度もあるよ。だが、あの子の耳には届かない。祖父の言葉さえ届かないのだから、私の言葉なぞ、なおのこと」

女はそう言って、小さくため息をついた。レイブンはその言葉も、記録帳の片隅に書き添えた。

その晩、レイブンはバルトロに、実際に海峡の水域を船から観察してみたいと申し出た。バルトロは長く考え込んだ末、頷いた。

「記録者としての目で見てもらうなら、悪い話ではないだろう。だが、崖にも渦にも、決して近づきすぎないことだ。約束できるかね」

「約束します」

出発は数日後、潮の穏やかな日を選ぶことになった。その間、レイブンは崖の近くまで歩いて、洞窟の入り口を遠くから望むこともした。暗い穴の奥に、時折り何か大きなものが動く気配があり、鱗のこすれるような音がわずかに響いてくることがあった。対岸の水面は、日によって不気味に静まっていることもあれば、細かな泡が絶えず立ち続けることもあった。どちらの竜も、姿をはっきりと見せることはなかった。

夜、レイブンは一人で崖の上に立ち、月明かりに照らされた海峡を見下ろした。潮の匂いに混じって、どこからか低い唸り声のようなものが響いてくる。それが対岸の渦から聞こえてくるのか、あるいは崖の洞窟からなのか、判別することはできなかった。ただ、その音は絶えず変化し、まるで海峡そのものが呼吸しているかのように、強くなったり弱くなったりを繰り返していた。レイブンは、その夜聞いた音の変化を、できるだけ正確に記録帳へ書き取った。

四、海峡の観察、迫る渦

観察の日、レイブンはバルトロの小舟に乗り込んだ。崖に沿って進むいつもの航路を、ゆっくりと辿っていく。潮は思いのほか穏やかで、崖の岩肌に反射する光が水面に揺れていた。

「あの洞窟のあたりが、岩竜の縄張りの境だと言われている」

バルトロが指し示した先、崖の中腹に黒々とした穴が見えた。舟が近づくにつれ、レイブンは崖の岩肌に、うっすらとした影がいくつも動くのを見た気がした。数えれば、確かに六つ。だがそれ以上のことは、遠目にはどうしても判じきれなかった。舟が進むあいだ、影はゆっくりと洞窟の奥を出たり入ったりしながら、こちらの動きに合わせて緩やかに位置を変えていた。まるで、境の内側だけを、行き来しているかのようだった。

そのとき、対岸の方角から小さな舟が一艘、勢いよく水面を切って進んでくるのが見えた。ケイオだった。

「あいつ……!」

バルトロが声を上げた。ケイオの舟は、いつもの崖側の航路ではなく、明らかに海峡の中央、渦の竜が棲むとされる水域へ向かっていた。

「祖父さんが本気で観察するなら、俺も自分の目で確かめる!」

ケイオの声が水面を伝って届いた。バルトロが呼び止める間もなく、ケイオの舟は海峡の中央へと進んでいった。

しばらくは、何も起こらなかった。水面は静かなままで、ケイオの舟は思いのほか順調に進んでいるように見えた。バルトロの拳が、舵を握る手の上でわずかに震えていた。だが、舟が海峡のちょうど中ほどに達したとき、水面が急に不自然な形にうねり始めた。低い、腹の底に響くような音が海峡全体を満たし、水が渦を巻きながら盛り上がっていく。飛沫が高く舞い上がり、風に混じって塩辛い匂いが濃く立った。

「引き込まれるぞ! 舵を切れ!」

バルトロが叫んだ。ケイオの舟は渦の縁に捉えられ、じりじりと中心へ引き寄せられていくのが見えた。バルトロは即座に舵を握り、崖の縄張りぎりぎりの水路を選んで舟を進めた。舟底が岩肌をこするような音を立て、レイブンは記録帳を握りしめる手も忘れ、その光景に目を凝らした。

崖の洞窟から、六つの影が一斉にざわめくように動いた。まるで舟の接近に気づいたかのようだったが、影はそれ以上、崖から離れることはなかった。ただ洞窟の奥で身じろぎするだけで、追ってくる様子はなかった。レイブンの目には、それが威嚇のようにも、単に驚いて身を縮めただけのようにも見え、どちらとも判じることができなかった。

バルトロの舟は崖のぎりぎりを縫うようにケイオの舟に近づき、投げた縄がケイオの手に届いた。渦の縁に留まっていたケイオの舟を、二人がかりで引き寄せる。腕が痺れるほどの力で縄を引き、舟がわずかずつ渦の外側へと動いていく。渦はなおも唸り続けていたが、やがて音が徐々に低くなり、水面はもとの静けさへと戻っていった。潮の飛沫が収まり、辺りには波の穏やかな音だけが残った。

「怪我はないか」

「……ない。すまない、祖父さん」

ケイオは震える手で縄を握りながら、それでも渦の方角を見つめていた。渦の竜は、結局その姿を一度も見せなかった。海水が吸い込まれ、また吐き出されるだけの、繰り返しの現象がそこにあったようにも見えた。

「見たか」バルトロが低い声で言った。「岩竜は、舟がすぐそこまで近づいても、崖を離れようとはしなかった。渦の竜も、姿を見せずにただ渦を巻いただけだ。どちらも、境の外まで追ってくることはなかった」

「それでも、渦に呑まれれば命はなかったでしょう」レイブンが言った。

「そうだ。だが、それは竜が積極的に狙ったからではなく、境そのものが人にとって危険な性質を持っているだけかもしれない」

確証と呼べるものは、依然として何もなかった。ただ、二頭の竜がどちらも、縄張りの外まで人を追い求める様子は、少なくともこの日は見られなかった。レイブンはその一点だけを、記録帳に太い線で囲んで書き留めた。

五、判じえぬ二頭、去りゆくレイブン

港に戻ると、ケイオはしばらく黙り込んでいた。やがて、バルトロに向かって深く頭を下げた。

「短い航路を試そうとしたことは、後悔していない。だが、渦がどういうものか、この目で見られたのは良かったと思う。……あれを毎日の漁で試すのは、割に合わない」

「分かってくれたなら、それでいい」バルトロは静かに言った。「エイナル様の記録も、私の考えも、絶対の答えではない。ただ、境を侵さなければ、竜のほうから何かをしてくるわけではないらしい、それだけは今日、はっきりしたのではないか」

ケイオはしばらく海峡の方を見つめ、それから小さく頷いた。

「稼ぎの少なさは、渦を試したところで変わりはしなかったのかもしれない。……漁場までの距離のことは、また別の方法を考えるよ」

港に集まっていた他の漁師たちも、ケイオが無事に戻った姿を見て、安堵の声を漏らした。中には、ケイオの肩を叩き「馬鹿なことをしたものだ」と呆れながらも、どこか誇らしげに笑う者もいた。継ぎの当てられた帆を繕っていたケイオの母も、船着き場まで駆けてきて、何も言わずに息子の背を強く叩いた。その拍子に、ケイオは咳き込みながらも、久しく見せなかったような、ばつの悪い笑みを浮かべた。

「稼ぎのことは、これからも考えていかねばならないだろうがね」バルトロが静かに言葉を継いだ。「渦を試すこと以外にも、道はきっとあるはずだ。崖側の航路をもう少し工夫するとか、外海に出る時刻を変えるとか。……お前と、もう一度きちんと話し合うべきだったのかもしれない」

ケイオは少し驚いたように祖父を見た。それから、小さく頷いた。

「今度は、俺も先走らずに、まず話すようにするよ」

グーナは、その話を聞いて祠の前で静かに手を合わせた。

「それでも私は、六人の魂が岩竜への祈りとして受け入れられたのだと、信じ続けるつもりだよ。ケイオが無事だったのも、祠に日々祈りを絶やさなかったからだと、私は思う」

バルトロとグーナ、二人の言葉は、今日もまた噛み合わないままだった。だがどちらの言葉にも、この海峡を長く見つめてきた者だけが持つ重みがあった。レイブンは、そのどちらか一方を選ぶことをしなかった。

出発の朝、レイブンはもう一度、祠に立ち寄った。線香の煙が、静かな朝の空気の中にゆっくりと立ち上っていく。崖の方角には、今日も変わらぬ静かな洞窟が口を開け、対岸の水面は、いつもと変わらぬ穏やかさで陽の光を映していた。港では、ケイオがいつもの崖側の航路に舟を出す支度をしていて、バルトロがその様子を、少し離れた岸壁から見守っていた。

記録帳の最後の頁に、レイブンは短く書き記した。

――狭門の海峡町には、六頭の岩竜と渦を統べる竜、二つの脅威が語り継がれている。かつて異国から流れ着いた航海者エイナルは、渦を避けて岩竜の側を通り、六人の仲間を失いながらも生き延びた。町の者はその犠牲を、岩竜への生贄と語る者と、岩竜がただ縄張りを守っただけの結果と語る者とに分かれている。今日、境の内側まで踏み込んだ舟を、二頭の竜はいずれも、境の外まで追ってくることはなかった。竜が人を積極的に狩る怪物なのか、縄張りを守るだけの生き物なのか、私はついに判じることができなかった。ただ、犠牲になった六人を弔う祠の灯りだけは、今も絶えることなく、この海峡町に灯り続けている。

崖の間を吹き抜ける潮風が、記録帳の頁をひらひらと揺らした。レイブンは筆を置き、坂道を上って、次の旅路へと歩き出した。

あとがき

本作は、ホメロスの『オデュッセイア』第十二巻に記録される、オデュッセウスが六つの首を持つ怪物スキュラと、渦潮の怪物カリュブディスという二つの脅威の間を航海し、キルケーの助言に従って渦を避けスキュラの側を選び、六人の乗組員を失いながらも海峡を突破するという古代ギリシアの英雄叙事詩・口承伝説を下敷きにした翻案である。

本作では、怪物スキュラとカリュブディスを、水竜王国アクアリウスの海峡に棲む「六頭の岩竜」と「渦を統べる竜」という二頭の竜に置き換え、オデュッセウスの決断を、異国から流れ着いた航海者エイナルの逸話として町の記録に残す形に改めた。原典が英雄オデュッセウスの視点で語る物語を、旅の観察者レイブンが後世の町を訪ね、生贄説と縄張り防衛説という二つに割れた言い伝えを、どちらとも断定せずに記録するという構成に変えている。また、原典にはない要素として、家業の窮状から縄張りを試そうとする青年ケイオの逸話を新たに設け、二頭の竜が実際に境の外まで人を追う様子を見せないという観察結果を通じて、竜の生態への推測を深めながらも確証には至らないという結末を選んだ。登場人物の名前(レイブン、バルトロ、グーナ、ケイオ、エイナル)や地名(狭門の海峡町)は、いずれも本作のための創作であり、原典や特定の翻訳文からの逐語的な引用・翻訳は行っていない。


本作はホメロス『オデュッセイア』第十二巻に記録されるオデュッセウスとスキュラ・カリュブディス伝承(古代ギリシア神話・叙事詩)を参考にした翻案作品です。

本作はホメロス(伝承・古代ギリシア叙事詩)の『オデュッセイア(第十二巻 スキュラとカリュブディス挿話)』を参考にした作品です。原典