物語雳
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·読了目安 14分脇役

竜は憎しみを継がなかった

ゴブリンが地の底で憎しみだけを教え込み、地上への侵攻兵器として育てていた幼竜。鉱夫の少年カーディーは力でも歌でもなく、根気強い言葉だけでその心を少しずつ開いていく。王女誘拐の夜、竜は誰の命令でもなく自らの意志で牙を剥く相手を選んだ。

一 坑道の底の唸り声

山の腹には、銀を掘るための坑道が幾筋も走っていた。カーディーは十三になったばかりで、父に連れられてその坑道に入るようになってから、もう三年が経っていた。手のひらにはとうに鉱夫らしい硬い皮ができていたが、それでも坑道に入る前の一瞬だけは、まだ幼い頃と同じように胸が高鳴った。

山の頂近くには、夏のあいだだけ王家が滞在する館があった。城壁も持たない、白い石造りの質素な建物だったが、そこに幼い王女アイリーンが暮らしていることを、麓の鉱夫町の者は誰もが知っていた。館の窓からは坑道の入り口がちょうど見下ろせる位置にあり、夕暮れどきになると、王女が乳母に手を引かれて庭先に出てくる姿が、豆粒のように小さく望めることもあった。町の子供たちは、遠くにその姿を見つけるたびに、手を振るでもなく、ただ立ち止まって眺めていた。王女もまた、時折こちらに小さく手を振り返してくれることがあり、それだけで一日の疲れが和らぐのだと、鉱夫仲間の誰かが言っていたのをカーディーは覚えている。

カーディーの父は寡黙な男で、坑道の奥深くまで先頭に立って進むことを厭わなかった。カンテラの明かりを頼りに岩肌を打つ音だけが響く暗闇の中で、カーディーは父の背を追いながら、いつしかこの山の底が好きになっていた。地上の光から切り離されたその静けさには、他では味わえない落ち着きがあった。母は町で機織りをして家計を助けており、夕食の席では決まって、その日どれだけの銀が採れたかという話題で持ちきりになった。ささやかだが、満ち足りた暮らしだった。

けれどこの数週間、坑道の奥からは、いつもと違う音が響くようになっていた。

「また唸ってやがる」

年かさの鉱夫が、つるはしを止めて岩壁に耳を寄せた。低く長く尾を引くその音は、風が坑道を吹き抜ける音とも、地下水の流れる音とも違っていた。まるで巨きな獣が寝苦しそうに寝返りを打つときに漏らす吐息のような、重たい響きだった。

「ゴブリンの唸り声じゃあるまいよ。あいつらの声はもっと甲高い」

「じゃあ何だってんだ」

誰も答えを持たなかった。この山の奥深くにゴブリンの一族が棲んでいるという話は、鉱夫たちのあいだでは半ば当たり前の常識として語り継がれていた。かつて地上を追われた彼らの祖先が地の底に逃げ込み、以来、日の光と歌う声と、剥き出しの柔らかい足の裏を何より嫌うようになったのだと、年寄りたちは語った。それでも長らく、地上と地の底の境界は、暗黙のうちに保たれてきた。

だがカーディーは、その手の言い伝えを頭から信じ込む質ではなかった。ゴブリンが本当にいるとしても、あの唸り声が彼らのものだとは思えなかった。もっと別の、もっと大きな何かがこの山の底に潜んでいる。そんな予感が、坑道に入るたびに胸の奥でざわめいた。

「今日はここまでにしとけ」

父はいつもより早く仕事を切り上げ、カンテラを持ってカーディーの肩を押した。坑道を出ると、外はすでに藍色の夕闇に沈みかけていた。山上の館には、明かりが一つ、また一つと灯り始めていた。カーディーはその明かりを見上げながら、坑道の奥に何が眠っているのか、確かめずにはいられない気持ちを持て余していた。

その夜、家に帰ってからも、あの低い唸り声が耳の奥にこびりついて離れなかった。まるで誰かが助けを求めているような、そんな響きだったからだ。夕食の席で、カーディーはその話を切り出そうとしたが、父は「坑道の奥のことは坑道の奥に任せておけ」とだけ言って取り合わなかった。母もまた、余計な詮索は身を滅ぼすと眉をひそめた。カーディーは黙って頷いたが、その晩は寝床に入っても、なかなか寝つけなかった。

翌朝、井戸端で顔を合わせた隣家の老婆が、珍しく声をひそめてこんな話をした。数十年前、この山ではゴブリンとの間に小さな諍いが絶えなかったのだという。人間が坑道を深く掘り進めるたびに、地の底の住人たちは追い詰められ、両者の境はそのたびに描き直されてきた。境の杭は、そうした過去のいさかいの名残なのだと、老婆は皺だらけの手で杭のあたりを指し示した。

「あの杭より奥は、あたしらの土地じゃない。忘れちゃいけないよ」

老婆の声には、単なる迷信を語る調子とは違う、実感のこもった重みがあった。カーディーは曖昧に頷きながらも、内心では、境などというものが本当に両者を隔てているのか、次第に疑わしく思い始めていた。あの唸り声が、境の向こうから漏れ出てきたのだとしたら、境そのものがすでに、静かに軋み始めているのかもしれなかった。

二 鎖につながれた竜

数日後、父が町へ道具の修理に出かけた隙に、カーディーはひとり坑道へ足を向けた。いつもなら立ち入らない、坑夫たちが「これより先は行くな」と申し合わせている境の杭を、迷いながらも越えた。

杭の先の岩肌は、人の手で削られたものとは明らかに違う滑らかさをしていた。壁一面に淡く光る苔のようなものが生え、光源もないのにぼんやりと通路を照らしている。空気はひんやりと湿り、どこか甘く饐えたような匂いが漂っていた。カーディーはカンテラの火を絞り、足音を殺しながら奥へと進んだ。

しばらく行くと、通路は大きく開けた空洞に出た。天井は見上げるほど高く、あちこちに横穴が口を開けている。壁には粗末な松明台や、獣の骨で作られた道具が並び、ゴブリンの棲み処なのだと、直感でわかった。幸い、今は物音一つしない。カーディーは息を詰め、来た道を戻ろうとした。

そのとき、右手の横穴から、あの唸り声が聞こえた。今度ははっきりと、すぐ近くから。

好奇心が恐怖を上回った。カーディーは横穴に忍び寄り、そっと中を覗き込んだ。

そこにいたのは、ゴブリンではなかった。

岩を穿った狭い窪みの中に、太い鎖で四肢を縛められた一頭の竜がいた。まだ若い個体らしく、体は大人の竜の半分にも満たない大きさだったが、それでも見上げるほどの体軀だった。鱗は本来なら深い緋色を帯びているはずが、日の光を知らぬせいか、くすんだ煤色に近い色をしていた。両の眼だけが、暗がりの中で炉の残り火のように赤く光っている。

竜はカーディーの気配に気づくと、喉の奥から低い唸り声を上げ、牙を剥き出しにした。細く小さな炎が口の端から漏れたが、それは人を焼き払うような猛々しい炎ではなく、痩せ衰えた体から絞り出された、頼りない火の粉に近かった。

「……お前」

カーディーは思わず声を漏らした。竜は答える代わりに、鎖の許すかぎり体を引き、なるべくカーディーから距離を取ろうとした。怯えているのだと、すぐにわかった。憎しみを剥き出しにした唸り声の奥に、隠しきれない怯えが滲んでいた。

窪みの壁には、黒ずんだ焦げ跡がいくつも刻まれていた。何度も何度も、この場所で火を吐かされてきたのだろう。傍らには、人間を模したぼろ布の的が転がっていた。的の表面には、無数の爪痕と焼け跡が残っている。餌らしきものは、干からびた獣の骨が数本、窪みの隅に転がっているだけだった。

――この竜は、人間を憎むように仕込まれている。

カーディーはそう悟った。だが竜の眼の奥には、憎しみだけでは片づけられない色があった。それは、日の光の下で育ったことのない者だけが持つ、根深い孤独の色だった。

「もう行くから。心配すんな」

カーディーは静かにそう言うと、それ以上近づかず、来た道を引き返した。だが坑道を歩きながら、あの赤い眼がずっと脳裏から離れなかった。夜、床に入ってからも、鎖の音と、あの頼りない炎の記憶が交互に浮かんでは消えた。

三 根気の言葉を交わす日々

それから、カーディーは幾度となく境の杭を越えるようになった。父にも、町の誰にも告げずに。見つかれば大目玉を食らうことは分かっていたが、それでも足は自然と、あの窪みへと向かった。

最初のうちは、窪みの入り口に立つだけで竜は牙を剥いた。カーディーはそのたびに、無理に近づこうとはせず、少し離れた場所に腰を下ろして、とりとめのない話を聞かせた。

「今日は父さんと坑道の東側を掘ってたんだ。銀の筋が見つかってな、親方がえらく喜んでた」

竜は答えない。ただ、赤い眼だけがじっとカーディーを追っていた。

「お前、名前はあるのか。……ないなら、俺が呼んでもいいか」

返事の代わりに、低い唸り声が返ってきた。だがその日は、炎は上がらなかった。それだけでも、カーディーにとっては小さな前進だった。

翌週も、その翌週も、カーディーは通い続けた。ある日は湧き水で湿らせた布を差し出し、竜が疲れて横たわる岩肌の熱を冷ましてやった。ある日は地上の空の色を語って聞かせた。青い空、白い雲、夕暮れの橙色。竜がそれらの言葉に、耳をぴくりと動かして反応することに、カーディーは気づいていた。日の光を知らないはずのこの竜が、それでも光そのものに焦がれているのが伝わってきた。

一度だけ、油断して近づきすぎたカーディーの腕を、竜の爪がかすめたことがあった。傷は浅かったが、血がにじんだ。カーディーは驚いて後ずさったが、竜のほうも自分のしたことに戸惑うように、身をこわばらせて動かなくなった。長年、人を傷つけることだけを教え込まれてきた体が、勝手に動いてしまったのだろう。カーディーはその夜、傷の痛みよりも、竜の戸惑った眼が忘れられなかった。

「大丈夫だ。次からはもう少し離れて座るよ」

翌日、腕に布を巻いたまま訪れたカーディーがそう言うと、竜は初めて、自ら少しだけ首を垂れた。それが詫びの仕草なのか、カーディーにはわからなかったが、何かが変わり始めているのは確かだった。

その頃になると、カーディーは窪みの奥に、割れた卵の殻の欠片が幾つも埋もれているのに気づくようになった。ゴブリンの飼育係らしき老いた個体が、時折窪みに顔を出しては、餌を投げ入れながら独り言のように「地の底で拾った卵から孵った出来損ないが、まさかここまで育つとはな」と呟いていくのを、物陰から聞いたこともあった。ほむらは、もともとこの山の底に住んでいた竜の一族の生き残りではなく、崩れた岩の隙間か、あるいはどこか遠い土地から流れ着いた迷い卵だったのかもしれない。親も、兄弟も、故郷と呼べる場所も持たないまま、物心つく前からゴブリンの手の中で育てられてきたのだとしたら、ほむらの中に憎しみしかなかったとしても、それは無理からぬことだった。カーディーはそのことを知ってから、いっそう根気強く、窪みに通うようになった。

「ほむら、っていうのはどうだ」

ある晩、カーディーはそう名付けた。理由はうまく説明できなかったが、この竜の眼の奥にくすぶる小さな炎に、そう呼びかけたい気持ちがあった。竜は初め唸ったが、次にカーディーが訪れたとき、鎖の届く範囲でわずかに首を伸ばし、カーディーの手のひらに鼻先を近づけてきた。触れはしなかったが、それは明らかに、警戒を解こうとする仕草だった。

そうして幾晩か過ぎたある夜、カーディーは横穴の奥でゴブリンたちの声を耳にした。壁の陰に身を潜め、息を殺して聞き耳を立てる。

「王女の館へ続く裏道は、もう調べがついておる。あとは、あの獣を使うだけよ」

「まだ人を焼くほどの火は吐けまいが、岩を砕くにはじゅうぶんだ。館の地下まで届く道を、あれに切り開かせればいい」

「ハーレップ様の御世に、地上の王家を人質に取れば、我らの悲願も叶う」

カーディーの背筋が凍りついた。ほむらは、ゴブリンたちにとってただの見せしめの獣ではなかった。地上への侵攻の道具として、ここまで育てられてきたのだ。憎しみだけを吹き込まれ、日の光も知らぬまま、いずれ館を打ち破るための生きた槌として使い潰されるために。

「近々、満月の晩に決行する」

ゴブリンの声が、そう締めくくった。

カーディーは音を立てぬよう横穴を離れ、ほむらの窪みへと駆け戻った。竜は、カーディーの只ならぬ気配を感じ取ったのか、身を起こしていた。

「聞いたか、今の話」

ほむらは答えなかった。だが、赤い眼の奥に、これまで見たことのない揺らぎが浮かんでいた。自分がどう使われようとしているのか、うっすらと察していたのかもしれない。

「お前は、あいつらの言いなりになる必要なんかない」

カーディーはそう言ったが、その声は自分でも情けないほど頼りなく響いた。ほむらは長いこと押し黙ったまま、カーディーの言葉をただ受け止めているようだった。カーディーは、竜の傍らにしばらく座り続けた。何を言えばいいのか、自分でもわからなかった。ただ、ひとりにはさせたくないという思いだけが、胸の中にあった。

四 王女誘拐の夜

満月の晩が来た。

カーディーは坑道に忍び込む前に、父に思い切って打ち明けようとした。だが言葉にすればするほど、荒唐無稽な話にしか聞こえず、父は取り合ってくれなかった。仕方なく、カーディーは自分の判断で先に山上の館へ走り、門番に「地下から敵が来る」とだけ伝えた。信じてもらえたかどうかは分からなかったが、それ以上は坑道へ引き返すしかなかった。

境の杭を越えると、いつもの静けさはどこにもなかった。ゴブリンたちの怒声と足音が、地の底から地響きのように伝わってくる。カーディーは横穴を駆け抜け、ほむらの窪みへと向かった。

そこでは、数体のゴブリンが太い綱でほむらを取り囲み、地上へ通じる新しい坑道の入り口へと追い立てているところだった。ほむらの四肢にはまだ鎖が絡みついたままで、逃げることも抗うこともできずにいた。

「ほら、進め。てめえの仕事はこれだけだ。岩を砕いて、あとは黙って戻ってくればいい」

ゴブリンの手にした鞭が、ほむらの脇腹を打った。ほむらは苦しげに唸ったが、地上へ通じる岩壁の前で、動きを止めたまま動こうとしなかった。

「ほむら!」

カーディーは声を張り上げた。ゴブリンたちが一斉に振り返る。ほむらの赤い眼が、その声のほうへ向いた。

「お前は、そいつらの武器になるために生きてきたんじゃない」

ゴブリンの一体が、ほむらの鎖を力任せに引いた。「小僧の言うことなど聞くな! お前は我らが育てた獣だ、我らの命に従え!」

ほむらは一瞬、身をすくめた。長年叩き込まれた恐怖と、鎖の重みが、その場に縫い留めようとしているのが見て取れた。カーディーは息を呑んで見守った。ここでほむらが命令に従えば、王女の館は打ち破られ、多くの命が危険にさらされる。だが力ずくで止める術も、歌で退ける術も、カーディーは持ち合わせていなかった。あるのは、これまで積み重ねてきた言葉だけだった。

「俺はお前を利用しない。ずっとそうだったろう。お前が誰かを傷つけたいわけじゃないことを、俺は知ってる」

その一言に、ほむらの喉の奥から、これまでとは違う響きの唸り声が漏れた。次の瞬間、ほむらは全身の力を込めて鎖を引きちぎった。長年の鍛冶で編まれた鎖が、乾いた音を立てて弾け飛んだ。

「ば、化け物が、裏切る気か!」

ゴブリンたちが得物を構えるより早く、ほむらは大きく息を吸い込み、口を開いた。放たれた炎は、人間を焼くための炎ではなく、地上へ通じたばかりの新しい坑道の壁面へと叩きつけられた。轟音とともに岩が崩れ落ち、ゴブリンたちが切り開いたばかりの侵攻路は、瞬く間に瓦礫で塞がれていく。土埃が渦を巻き、悲鳴と怒声が飛び交う中、カーディーは崩れる岩を避けて壁際まで身を伏せた。

逃げ惑うゴブリンたちの合間を縫って、ほむらはかつての飼い主たちに向き直り、低く炎を吐いて追い散らした。それは憎しみに任せた攻撃ではなく、これ以上誰も地上へ送り出させないための、意志を持った拒絶だった。ゴブリンの一体がなおも鞭を振り上げようとしたが、ほむらの尾の一振りで弾き飛ばされ、悲鳴を上げて横穴の奥へ逃げていった。

崩落の砂埃が収まる頃、そこに残っていたのは、荒い息をつくほむらと、瓦礫の陰から様子をうかがっていたカーディーだけだった。ほむらの体には、鞭の跡と、崩れた岩の欠片で切れたらしい傷がいくつも残っていたが、それでも竜は、静かにカーディーのほうへ首を垂れた。

「終わったのか……」

カーディーは、崩れ落ちた坑道の跡を見上げながら、ようやく詰めていた息を吐き出した。

五 光を知らぬまま

夜が明ける前に、館の兵たちが坑道の異変に気づいて駆けつけた。崩落した坑道の奥にゴブリンの気配はもうなく、王女アイリーンの身にも何事もなかった。館の門番はカーディーの言葉を覚えており、遅ればせながら警戒を強めていたことが、被害を最小限に食い止めていた。カーディーは兵たちを、境の杭よりも手前で押しとどめた。

「ここから先は、崩れやすくて危ない。俺が確かめてきます」

半信半疑の兵たちを説き伏せ、カーディーはひとり瓦礫の向こうへと戻った。ほむらの姿を、誰にも見せるつもりはなかった。竜が地上の兵器として噂に上れば、今度はこちら側の人間が、同じようにほむらを利用しようとしないとも限らない。それだけは、させたくなかった。後日、館からカーディーの働きをねぎらう使者が町を訪れたが、カーディーは「たまたま異変に気づいただけです」とだけ答え、それ以上は何も語らなかった。

館では、王女アイリーンが無事だったことを知った乳母が、安堵のあまり泣き崩れたという。王自身も、崩落の一報を受けて坑道の入り口まで駆けつけ、警備の手薄さを嘆いたと後で伝え聞いた。誰もが、地震という結論に納得したふうを装いながらも、どこかで釈然としない顔をしていた。カーディーはそのやり取りを遠目に眺めながら、真実を口にしたい衝動をこらえ、ただ黙って人垣の後ろに立っていた。

窪みの奥で、ほむらは崩れた鎖の残骸のそばに、うずくまるようにして座っていた。傷ついた体を丸め、荒い息を整えているところだった。

「もう鎖はない。行きたければ、どこへでも行ける」

カーディーは、崩落の隙間から差し込むわずかな朝の光を指さした。

「外に出てみないか。お前が焦がれてた青い空も、白い雲も、本物を見せてやりたい」

ほむらは、その光にゆっくりと眼を細めた。長いあいだ憧れ続けてきたはずのその光を、しかし体はまだ受け入れる用意ができていないようだった。竜は静かに首を振り、後ずさるようにして、さらに奥の暗がりへと向かい始めた。

「……そうか」

カーディーは無理に引き止めなかった。日の光の下で生きることだけが、ほむらにとっての幸福だとは限らない。ずっとそう仕込まれてきた体と心が、たった一夜で作り変わるはずもなかった。それに、地上に留まれば、いずれ誰かがまたほむらを見世物にしようとするかもしれない。深い闇の底こそが、今のほむらにとって、いちばん安らげる場所なのかもしれなかった。

暗がりの境目で、ほむらは一度だけ振り返った。そして、小さく、ごく小さく、口の端に橙色の炎を灯した。危害を加えるためのものでも、威嚇のためのものでもない、ただそれだけの、ささやかな灯だった。カーディーには、それが何よりの言葉に思えた。

「ああ。俺も、忘れない」

ほむらはそれきり、闇の奥へと姿を消した。足音も、鱗の擦れる音も、次第に遠ざかり、やがて完全な静寂だけが残った。

館では、坑道の崩落によって何者かの侵入が未然に防がれたことが伝えられ、崩落の原因は地震だろうと結論づけられた。カーディーはその話に、あえて何も付け加えなかった。ほむらのことを語れば、いずれ誰かがまた、あの竜を鎖でつなごうとするかもしれない。だからカーディーは、あの夜のことを胸の内だけにしまい込んだ。

それから幾年か経った今も、坑道の奥深くへ仕事で入るたびに、カーディーはふと、あの日の小さな炎を思い出す。誰に話すでもなく、ただ静かに、あの日交わした沈黙の約束を守り続けている。地の底のどこかで、ほむらもまた、同じ記憶を抱えて生きているのだろうと、カーディーは信じていた。憎しみを教え込まれて生まれた竜が、それでも憎しみだけを継がずに済んだことを、知っているのは、この山の中で、カーディーただ一人だけだった。

本作はジョージ・マクドナルド(George MacDonald)の『The Princess and the Goblin(『王女とゴブリン』)』を参考にした作品です。原典