竜は恩を忘れなかった
航海先の孤島で仲間に置き去りにされた廻船商人・佐吉は、断崖に囲まれた鱗谷の底で、翼を傷めた幼竜と出会う。谷に伝わる「怪鳥の巣」伝説の正体を知った佐吉は、富への渇望と芽生えた良心との間で引き裂かれていく。
一 置き去りの浜
佐吉は、生まれてこのかた、腹いっぱい米を食った記憶がなかった。
貧しい漁村の三男坊に生まれ、物心つく頃には兄二人の食い扶持にも足りぬと分かっていた。痩せた磯を這うようにして貝を拾い、冬になれば藁を編んで食いつなぐ。そんな暮らしの中で、佐吉が唯一慰めにしていたのは、寄港した廻船の水夫たちが浜辺で語る、遠い海の向こうの噂話だった。象牙の山、香木の森、そして誰も辿り着いたことのない秘境に眠る財宝――そうした話を聞くたび、佐吉の胸には、この痩せた磯からいつか抜け出してやるという渇きが、少しずつ澱のように積もっていった。
だから十五で村を出た。廻船問屋「丸十屋」の下働きとして千鳥丸に乗り込んだとき、佐吉の胸にあったのは望郷ではなく、ただ一つ、いつか自分の懐を金でいっぱいにしてやるという渇きだけだった。
千鳥丸が南海の島々を巡る交易は、決して楽な仕事ではなかった。それでも佐吉は、荷を担ぐ手を誰よりも早く動かし、値の駆け引きを盗み見るように覚え、五年のうちに下働きから小商人と呼ばれるまでにのし上がった。だが、のし上がっただけでは腹は膨れない。丸十屋の元締め・徳兵衛の下では、儲けの大半はいつも上へ上へと吸い上げられていく。佐吉が欲していたのは、誰かの下につく身分ではなく、自分自身の元手だった。
その渇きに火をつけたのが、ある寄港地で聞いた「鱗谷(うろこだに)」の噂だった。
「南に三月も下ったところに、断崖に囲まれた谷がある」年老いた水夫がそう語るのを、佐吉は身を乗り出して聞いた。「谷底には、拳ほどもある宝石まじりの石がごろごろ転がっているというが、生半な気持ちで踏み入れば命はない。大蛇がひしめいているうえに、崖の上には太古から怪鳥が巣を構えていてな」
「怪鳥、ですか」
「迦楼羅(かるら)とも、鳳(おおとり)とも呼ぶ者がある。とにかく、人を丸呑みにするほどの大鳥だ。だが、その怪鳥にも弱みがある――肉の匂いには目がないということだ」
老水夫の話によれば、谷を訪れた商人たちは崖の上から生肉の塊を投げ込む。肉塊が谷底に落ちると、そこに転がる宝石まじりの石が肉の脂に絡みつく。やがて怪鳥がその肉を見つけて掴み上げ、崖の巣まで運んでいく。あとに残るのは、怪鳥が食べこぼした肉片と、そこにこびりついたままの宝石だけ。谷底に降りる勇気さえあれば、その宝石を拾い集めるだけで、一生かかっても使い切れぬ富が手に入るという。
「戻らぬ者も、少なくないがな」老水夫は、酒で焼けた声を一段低くして続けた。「儂の若い時分の朋輩も、一人はあの谷で消えた。もう一人は、命からがら戻ってきたはいいが、それからというもの、夜な夜な崖の上を飛ぶ影の夢に魘されて、二度と船に乗らなんだ。金では贖えぬものを、あの谷は連れ去っていくのかもしれん」
老水夫はそう付け加えたが、佐吉の耳にはもう届いていなかった。頭の中では、拳大の宝石が山と積まれた光景ばかりが渦を巻いていた。
千鳥丸が鱗谷の島に錨を下ろしたのは、それから半年後のことだった。徳兵衛を筆頭とする一行は、崖の上から谷底を見下ろし、噂に違わぬ光景に息を呑んだ。切り立った岩肌の底、陽の光を弾いて煌めく石の群れ。傍らには、太い縄のようにとぐろを巻く大蛇の影が、幾つも見て取れた。
「まずは肉塊を放り込め。焦ることはない」
徳兵衛の指図で、一行は牛の肉塊を幾つも谷底へ落とし始めた。佐吉は崖の縁に立ち、宝石を纏った肉に群がる大蛇たちの姿を見下ろしながら、苛立ちを募らせていた。怪鳥が肉を運び去るのを待ち、そのあとの食べこぼしを拾うだけでは、割り前は他の商人たちと山分けになる。それでは、いつまでも元手を独り占めにはできない。
「俺は、縄を伝って谷底に降ります」
佐吉が言い出したとき、徳兵衛は眉をひそめた。
「馬鹿を申すな。あそこには大蛇がいるのだぞ」
「怪鳥が肉を運び去るまでの、ほんの束の間なら。今なら大蛇どもも肉に気を取られている。誰よりも先に、いちばん大きな石をこの手で拾ってきます」
止める間もなく、佐吉は腰に縄を結び、崖を伝って谷底へと降り立った。大蛇たちの目を盗み、無我夢中で袂に石を詰め込む。だが、欲に駆られた足取りは慎重さを欠いていた。踏みしめた岩が崩れ、佐吉は体勢を崩して転倒し、腰の縄がほどけて岩陰へと滑り落ちた。
「佐吉! しっかり掴まれ!」
崖の上から徳兵衛の声が降ってきたが、同時に、太い大蛇の一匹が佐吉のいる岩陰へと鎌首をもたげるのが見えた。悲鳴を上げて逃げ惑ううち、日は傾き、崖の上からはこれ以上の助けを待つことは叶わぬと悟った一行の声が響いた。
「これ以上は、船ごと危うい! 佐吉、すまぬ!」
縄が引き上げられ、崖の上の人影が遠ざかっていく。佐吉は、涸れた岩の割れ目に身を潜めながら、初めて、自分の欲が命よりも軽んじられる瞬間を思い知った。夜の帳が降りる谷底に、佐吉はただ一人、取り残された。
二 幼竜との盟約
夜の鱗谷は、昼間とは似ても似つかぬ恐ろしさに満ちていた。
岩の隙間に身を押し込めた佐吉の耳に、大蛇が這いずる乾いた音が、絶え間なく届いてくる。喉の渇きと恐怖で意識が朦朧としかけた頃、すぐ近くの岩陰から、ずるり、と何かが這い寄ってくる気配がした。佐吉は声を殺し、震える手で小刀を握りしめた。
だが、月明かりに浮かび上がったのは、大蛇の太い胴ではなかった。人の背丈ほどの、細く華奢な体軀。灰色がかった鱗が、月光を受けてわずかに輝いている。それは、翼の片方を不自然に折り曲げた、幼い竜だった。
佐吉が息を呑んで身構えると、幼竜もまた、怯えたように後ずさった。だが、その動きは鈍く、痛みをこらえるように震えている。よく見れば、右の翼の付け根に深い傷があり、そこから血がにじんでいた。
「お前……大蛇にやられたのか」
言葉が届くはずもないと思いながら、佐吉はそう呟いた。すると、幼竜は驚いたように目を見開き、しかし逃げようとはせず、ただじっと佐吉を見つめ返した。緑がかった瞳には、警戒とともに、かすかな期待のようなものが宿っているように見えた。
その時、岩の裂け目から、太い大蛇の鎌首がぬっと現れた。幼竜はとっさに体を丸めたが、傷ついた翼では飛び立つこともできない。佐吉は、我知らず、手にした小刀を大蛇めがけて投げつけていた。狙いは逸れたが、思わぬ物音に大蛇はひるみ、鎌首を引っ込めて岩陰へと退いていった。
「今のうちだ、こっちへ」
佐吉は幼竜の傷ついていない側の体を支え、少し離れた、大蛇の届かぬ高さの岩棚へと連れて上がった。幼竜は最初こそ身を強張らせていたが、やがて抵抗をやめ、佐吉の手に体を預けた。
岩棚に落ち着くと、佐吉は自分の袖を裂き、傷口に巻きつけた。手当てなど覚えたこともなかったが、血を止めねばという一心だった。幼竜は痛みに小さく唸ったが、逃げようとはしなかった。
「俺は佐吉という。お前は、名はあるのか」
そう問いかけると、幼竜はしばらく黙っていたが、やがて、風の音に紛れるような、かすかな声で応えた。
「……玻璃(はり)」
人語を話せることに、佐吉は驚きを隠せなかった。だが、それ以上に驚いたのは、玻璃の瞳に宿る感情の豊かさだった。恐れながらも、佐吉を見つめる目には、確かな意志があった。
「お前が、玻璃か。……手当てはこれで足りるかどうか分からんが、朝までは持つはずだ」
「なぜ、助けた。人は、皆、我らの巣を壊しにくる者ばかりだと聞いていた」
玻璃の問いに、佐吉は言葉を詰まらせた。谷に降りた自分もまた、宝石を求める者の一人だったからだ。だが、目の前で震える幼竜を見捨てることは、どうしてもできなかった。
「……分からん。ただ、放っておけなかっただけだ」
その夜、二人はその岩棚で夜を明かした。玻璃は、傷の痛みに耐えながらも、少しずつ佐吉に心を許していくようだった。星明かりだけが谷底を照らす静けさの中、玻璃はぽつりぽつりと、生まれてから一度も谷の外に出たことがないこと、崖の向こうに広がる海がどのようなものか知らぬことを語った。佐吉もまた、貧しかった村のこと、腹を空かせて眠った幾つもの夜のことを、飾らぬ言葉で話して聞かせた。互いの孤独を知ったとき、恐れと警戒とで固く閉じていた二人の間の壁は、少しずつ緩んでいった。
翌日も、その次の日も、佐吉は岩棚に留まり、玻璃の翼の手当てを続けた。傷口を洗う水を求めて崖の窪みを探し、薬になりそうな苔を煎じ、乏しい手持ちの干し飯を分け合った。玻璃は日を追うごとに元気を取り戻し、片翼だけをぎこちなく羽ばたかせては、佐吉を見て照れたように鼻先を鳴らした。夜が明ける頃には、佐吉もまた、この谷底で生き延びるためには、この幼竜の助けが要ることを悟っていた。
「玻璃、俺はどうすればここから出られる」
「……それは、母上に聞かねば分からない。母上が、じきに戻る」
その言葉に、佐吉の胸に、期待と恐れが入り混じった。
三 鱗谷、怪鳥の嘘
三日目の朝、空を切り裂くような羽音とともに、巨大な影が谷に舞い降りた。
その姿を見た瞬間、佐吉は腰を抜かしそうになった。老水夫の語っていた「怪鳥」の正体――それは、鳥などではなく、玻璃よりも遥かに大きな、成竜だった。全身を覆う鱗は、宝石の粒を編み込んだように複雑な光を放ち、翼を広げれば崖の陰さえ覆い尽くすほどだった。
「母上!」
玻璃が声を上げると、成竜――母竜は、鋭い眼光を佐吉に向けた。喉の奥から、地を這うような低い唸りが漏れる。
「人の子か。この谷に踏み入った者を、我らは容赦したことがない」
「母上、待って。この者は、私を助けてくれた。傷の手当てもしてくれたのです」
母竜は、しばし玻璃の翼に巻かれた布きれと、佐吉の怯えながらも逃げ出そうとしない様子を見比べていたが、やがて、唸り声を収めた。
「……人の子よ、名を名乗れ」
「さ、佐吉と申します。廻船商人の一人です」
「商人か。この谷を狙う者たちの多くが、そう名乗る」
母竜の声には、深い疲労と、抑えきれぬ怒りが滲んでいた。佐吉が恐る恐る問うと、母竜は静かに、しかし重く語り始めた。
「お前たちが崖の上から放り込む肉塊。それを拾いに舞い降りるのは、怪鳥などではない。我ら竜だ」
「では……怪鳥の巣というのは」
「この崖の上に、我らの巣がある。だが、我らは肉を求めて舞い降りるのではない。谷底に転がる、鱗のかけらを帯びた石――お前たちが宝石と呼ぶあれは、我らの卵を守り、幼子の巣床を固めるための、大切な巣材なのだ」
母竜が語るところによれば、鱗谷の石には、竜の鱗が長い年月をかけて溶け込んでいる。その石を集めて巣の壁に塗り固めることで、初めて幼竜の卵は外敵の牙からも、寒暖の変化からも守られる。だが、崖を登って直接石を運ぶには限りがあり、谷底に降りて拾い集めねばならぬことも多い。そこへ、人が投げ込む肉の匂いに誘われて舞い降りれば、思いがけず石を拾う手間が省ける――竜たちは、長年そうして肉に紛れた石を巣材として持ち帰っていたに過ぎなかった。
「お前たち人間は、我らが運び去ったあとの食べこぼしから、さらに石を拾い集めていたのだろう。だが、それがどれほどの意味を持つか、考えたことはあるまい」
母竜の声が、初めて震えを帯びた。
「近年、谷底の石は目に見えて減った。人の手が、我らよりも先に、先に、と石を奪っていくからだ。巣材が足りねば、卵は守り切れぬ。この五年で、我らの一族は、三つの巣を失った」
佐吉は、言葉を失った。谷底に転がる宝石まじりの石を、ただの富としか見ていなかった自分の浅はかさを、今更ながらに思い知らされた。今もなお、袂には谷底で拾い集めた石が幾つも詰まっている。それを手放すことへの未練が、胸の奥でちくりと痛んだ。
ふと、玻璃が身を寄せてきて、佐吉の袂に目を落とした。
「その石も、私たちの巣の一部になるはずだったもの」
責めるふうでもなく、玻璃はただ静かにそう言った。だが、その一言は、老水夫の噂話に胸を躍らせていたあの日の自分を、佐吉に鮮やかに思い出させた。崖の上から見下ろした谷底の煌めきを、命の重みも顧みず美しいとしか思わなかった自分を。
「……申し訳、ありません」
「詫びを聞きたいのではない。ただ、知れというだけのことだ」
母竜はそう言うと、傷ついた玻璃の翼にそっと鼻先を寄せた。その仕草には、佐吉に対する怒りとは別の、深い慈しみが滲んでいた。
「玻璃、お前を助けてくれた恩は忘れぬ。人の子よ、しばしこの谷で傷を癒すがよい。だが、二度と、この巣の秘密を誰にも明かしてはならぬ」
佐吉は、袂の石をそっと握りしめながら、頷いた。だが、その胸の内では、富への未練と、目の前の親子への良心とが、静かにせめぎ合い始めていた。
四 商人仲間の企み
佐吉が谷に取り残されて十日が過ぎた頃、崖の上に、再び人の気配がした。
「まさか、あそこに人影が」
崖の縁から身を乗り出し、谷底を覗き込んでいたのは、徳兵衛だった。佐吉を置き去りにしたことへの後ろめたさから、せめて遺体だけでも回収できぬかと、様子を見に戻ってきたのだという。だが、崖下に佐吉が生きて立っているのを見つけた徳兵衛の顔には、安堵よりも先に、別の色が浮かんでいた。
「佐吉、生きていたか! ……ときに、お前、そこで何を見た」
徳兵衛の傍らには、見慣れぬ屈強な男たちが数人、槍や網を手にして控えていた。佐吉が置き去りにされたあの日から、崖の上ではある噂が広まっていた――谷の奥で、翼を持つ巨大な影を見た者がいる、と。それは怪鳥などではなく、伝説にのみ語られる「飛ぶ大蛇」、すなわち竜ではないか、という噂だった。
「竜の鱗、竜の牙、竜の逆鱗――それらが本物ならば、宝石の石など比べ物にならぬ値がつく。佐吉、お前は谷底で十日も生き延びた。何かを見たはずだ。竜の巣の在処を、正直に話せ」
徳兵衛の目には、佐吉を案じる色などかけらもなかった。ただ、途方もない富への欲だけが、ぎらついていた。佐吉は、乾いた喉を鳴らしながら、答えに詰まった。
ここで真実を話せば、徳兵衛たちは大挙して玻璃たちの巣を襲うだろう。だが、黙して語らねば、この場で見捨てられ、二度と故郷の土を踏めぬかもしれない。長年焦がれてきた富への渇きが、佐吉の喉元まで込み上げてきた。徳兵衛に付き従えば、この島を出て、いつか自分の元手を持つ商人になれるかもしれない。
「……何も、見ておりません。谷底の石を拾い集めるので精一杯でした」
佐吉は、震える声でそう答えた。だが、徳兵衛は疑わしげに目を細めた。
「本当か。近頃、この谷では、崖の上を飛ぶ影を見たという者が幾人もいる。お前が十日も生きていられたのが、その証ではないのか」
その時だった。岩陰から、傷の癒えかけた玻璃が、不用意にも佐吉の様子を窺おうと顔を覗かせてしまった。
「――いたぞ! あれが噂の竜か!」
男の一人が叫び、手にした網を玻璃めがけて投げつけようとした。佐吉は、考えるより先に、玻璃と網との間に体を割り込ませていた。
「よせ! この子に手を出すな!」
「佐吉、お前……!」
徳兵衛の顔から、驚愕と、そして裏切られたという怒りが滲んだ。
「お前は、竜どもの側についたというのか。この谷を出たくば、竜の在処を教えろ。それだけで、お前の分け前も、故郷に帰る道も約束してやる」
佐吉の脳裏に、貧しかった村の記憶、渇き続けた欲、そしてこの十日で見た玻璃と母竜の姿が、一斉に駆け巡った。徳兵衛の申し出は、かつての自分ならば、迷わず飛びついていたに違いない話だった。故郷に錦を飾り、二度と飢えを知らずに済む暮らし――それこそが、佐吉がこの海に出た、たった一つの理由だったはずだ。
だが今、傷の癒えかけた翼で自分を庇うように寄り添う玻璃の温もりを、この背に感じている。富か、良心か――その天秤は、ほんの刹那のうちに、静かに、しかし確かに傾いた。
「教えぬ。……お前たちには、教えるつもりはない」
「ならば、勝手にするがいい! お前など、初めから死んだものと思っていた!」
徳兵衛の怒声とともに、男たちは佐吉を岩棚に置き去りにしたまま、槍と網を手に、崖のさらに奥へと踏み入ろうとした。佐吉は、玻璃を庇いながら、なす術もなくその場に立ち尽くした。
五 誓いの羽ばたき
その時、谷全体を震わせるほどの咆哮が響き渡った。
崖の上から舞い降りてきたのは、母竜だった。翼を大きく広げ、その巨躯を誇示するように宙を舞う姿に、徳兵衛たちは悲鳴を上げてその場に凍りついた。母竜は、彼らを傷つけようとはしなかった。ただ、燃えるような眼光と、地を這う唸り声だけで、男たちを竦み上がらせた。
「ひ、退け! 退けぇ!」
槍を放り出し、我先にと崖を這い上がっていく男たちの背を、佐吉は複雑な思いで見送った。徳兵衛もまた、一度だけ佐吉を振り返ったが、何を言うでもなく、逃げるように崖の向こうへと消えていった。
静寂が戻った谷底で、母竜はゆっくりと佐吉の前に舞い降りた。
「人の子よ、お前は、あの者たちに我らの在処を教えなかった」
「教える気には、なれませんでした。……この十日で、俺は何を大事にすべきか、少しだけ分かった気がします」
母竜は、しばし佐吉を見つめていたが、やがて、深い声で言った。
「玻璃を助けた恩を、我らは忘れぬ。そして、今この時、お前が示した心も、忘れぬ」
「母上、佐吉をここから連れて行ってあげて」玻璃が、傷の癒えた翼をわずかに震わせながら、母竜に頼んだ。「あの船は、もう戻らないでしょうから」
母竜は頷き、佐吉に向かって、静かに背を向けた。
「乗るがよい。お前を、人里近くの浜まで送り届けよう。ただし、一つだけ誓え。この谷のこと、我らのことを、二度と誰にも語らぬと」
佐吉は、袂に詰めていた宝石まじりの石を、そっと谷の岩の上に置いた。長年焦がれ続けた富の欠片を、自らの手で手放す瞬間だった。
「誓います。この谷のことは、生涯、誰にも明かしません」
母竜の背に乗り、佐吉は大きく羽ばたく翼の音とともに、谷底から舞い上がった。眼下に遠ざかっていく鱗谷を見下ろしながら、佐吉は最後にもう一度、岩棚に佇む玻璃の姿を目に焼き付けた。玻璃もまた、傷の癒えた翼を大きく広げ、遠ざかる佐吉を見送っていた。
母竜は、半日ほど飛び続けたのち、見知らぬ漁村の浜辺に佐吉を降ろした。
「これより先は、お前自身の足で歩め。そして、忘れるな――恩とは、返せぬこともある。だが、それを忘れずにいることだけは、誰にでもできる」
母竜はそう言い残すと、再び大きく羽ばたき、雲の彼方へと姿を消した。
佐吉は、見知らぬ浜から幾月もかけて歩き、ようやく故郷の村へと帰り着いた。丸十屋に戻った徳兵衛は、「鱗谷には近づくな、あそこには恐ろしい飛ぶ大蛇がいる」と、まるで自分が全てを知っていたかのように吹聴して回ったが、谷の奥に隠された本当の真実――それが竜の親子の慎ましい営みであったことは、誰にも語らなかった。佐吉もまた、生涯その秘密を胸の内に留め続けた。
村に戻った佐吉は、それから幾年か、慎ましい暮らしを続けた。だが、人の欲というものは、そう容易く消え去るものではない。歳月とともに、鱗谷で手放したはずの渇きが、佐吉の胸の奥底で、再びかすかに疼き始めていることに、彼自身、まだ気づいてはいなかった。海の彼方には、まだ見ぬ島々と、まだ見ぬ富の噂が、幾つも佐吉を待ち受けていたからである。
あとがき
本作は、『千夜一夜物語(アラビアンナイト)』に収められた「シンドバッドの第二の航海」を翻案したものである。原作では、船から一人取り残された商人シンドバッドが、ダイヤモンドで覆われながら大蛇がひしめく谷底に迷い込み、地元商人たちが長年行ってきた「肉塊に食い込んだダイヤを怪鳥(ロック鳥)に巣まで運ばせて回収する」という手法を逆手に取り、自らの体に肉を縛りつけて怪鳥に運ばれることで奇跡的に谷から脱出し、莫大な富とともに故郷へ帰還する。
本作では、この「怪鳥の巣」の正体を、人目を避けて断崖に営巣するわずかな数の竜の一族に置き換えた。商人たちが長年怪鳥の仕業だと信じて拾い集めてきた鱗混じりの宝石は、実は親竜が幼竜のために運び込んだ大切な巣材であったという設定とし、瀕死の主人公・佐吉を見つけた幼竜・玻璃が彼を匿い、母竜が真相を打ち明ける展開とした。富への欲と目の前の竜の親子への良心の間で揺れ動いた佐吉は、最終的に母竜の背に乗せてもらって谷を脱出する代わりに、二度と谷を狙わぬよう誓う。だが物語の結びでは、その誓いを立てた当人の中に、いずれ再び富への渇きが頭をもたげていく気配を、あえてわずかに滲ませて終えている。
原作の骨格である「肉塊を用いた、巣からの回収という仕組み」と「絶体絶命の谷底からの飛翔による脱出」はそのまま生かしつつ、原作にはない「幼竜との友情」「母竜による真相の開示」「良心と欲望の葛藤」という要素を独自に加えることで、単なる冒険譚から一歩踏み込んだ物語とした。
登場人物の名前、地名、商家の名、竜の設定や語り口はすべて独自に創作したものであり、原文からの翻訳や逐語的な引用は一切行っていない。
本作は『千夜一夜物語(アラビアンナイト)』所収「シンドバッドの第二の航海」(作者不詳、英訳:アンドルー・ラング)を参考にした翻案作品です。