竜は同じ血を争わなかった
崩れ続けた砦の跡地に築かれた集落エムリスの丘。孤児の血が礎になるはずだった伝承の奥で、レイブンは今も泉に潜む亡竜と出会う。勝者の伝承と、血族の対立を仄めかす異説の間で、真相は語られぬまま丘に沈む。
一 予兆の丘、崩れた砦と紅竜の紋
エムリスの丘に着いたのは、夕暮れの光が斜めに差し込む時刻だった。
光竜神聖国ルミナリアの山間、街道から一本外れた谷筋を登り詰めた先に、その集落はあった。石造りの家々は斜面に沿って身を寄せ合うように建ち並び、どの屋根も、長い年月の風雪に耐えてきた者だけが持つ、くすんだ落ち着きをまとっている。レイブンは肩掛けの記録帳を提げ直しながら、坂の途中で足を止めた。丘の頂には、崩れかけた古い砦の遺構が、夕焼けを背に黒い輪郭だけを晒していた。
崩れているのは、一部の壁だけではない。よく見れば、積み直された痕跡が幾重にも重なっており、まるで幾度も築き直しては、その都度また崩れ落ちた末に、ようやく諦められた場所であるかのようだった。石組みの隙間からは、名も知らぬ蔓草が力強く這い出していて、廃墟というより、土地そのものに拒まれた建造物、という言葉のほうがふさわしいように、レイブンには思えた。
集落の入り口には、素朴な木の門があり、その上部に、紅く塗られた竜の意匠が掲げられていた。長い年月で色は褪せていたが、それでも一目で「紅竜」と分かる、力強い曲線を持つ紋様だった。門の脇に佇んでいた老犬が、レイブンを一瞥すると、興味を失ったように再び目を閉じた。
門をくぐると、細い石畳の道の両側に、収穫を終えたばかりの野菜が並べられ、軒先には既に、祭りに向けた飾り布が幾つも吊るされているのが見えた。布にはどれも、同じ紅竜の意匠が刺繍されている。子供たちが数人、その飾り布の下を駆け抜けながら、聞き覚えのない節回しの歌を口ずさんでいた。
「崩れる壁も、紅きお方が、討たれてよりは、静かなり――」
歌詞の意味を尋ねようにも、子供たちはレイブンの姿に気づくと、笑いながら路地の奥へと消えていってしまった。旋律だけが、しばらく耳の奥に残った。レイブンは記録帳を開き、聞き取れた歌詞の断片を、そのまま書き留めた。
「旅の方かね」
声をかけてきたのは、薪を背負った中年の女だった。レイブンが記録者であること、この土地の言い伝えに関心があることを手短に告げると、女は驚いた様子もなく、顎で丘の頂を示した。
「あの砦の跡なら、見ての通りさ。今度の満月には、紅竜守護祭がある。うちの村にとっちゃ、一年でいちばん大事な祭りだよ」
「紅竜、というのは、あの門の紋様のことですか」
「そうとも。この土地を守ってくださっている竜様さ。……ただし」女は声をわずかに落とし、丘の西側、集落からやや外れた岩場のほうへ視線を送った。「西の古い採石場のほうへは、日が沈んだら近づかないほうがいい。あそこには、あまり良くない言い伝えが残っているからね」
それ以上は多くを語らず、女は薪を背負い直して坂を下っていった。レイブンは記録帳を開き、今しがた聞いた言葉と、崩れた砦、色褪せた紅竜の紋、そして西の採石場という三つの断片を、まずはそのまま書き留めた。旅を重ねるうちに身についた習慣として、意味づけを急いではいけない。断片は断片のまま、まずは並べておくべきだった。
宿を求めて坂を下る途中、レイブンはもう一度、丘の頂を振り返った。夕闇に沈みつつある砦の輪郭は、崩れているというよりも、まるで何かに押し返され続けているかのように、レイブンの目には映った。
二 ゴレン翁の語る伝承
集落でただ一軒の宿を営む老爺は、レイブンが記録者だと知ると、思いのほか気安く迎え入れてくれた。囲炉裏端で夕餉をとっていると、隣家に住むという古老が、噂を聞きつけて顔を出した。名をゴレンといい、若い頃は石工の棟梁を務めていたという。
「あの砦の話が聞きたいのかね。だったら、わしより詳しい者はおるまいよ」
ゴレンは茶碗を両手で包み込むようにしながら、ゆっくりと語り始めた。
「今から数百年も昔、この丘一帯を治めていたのは、アンヴィンという領主だった。アンヴィンは山の頂に砦を築こうとしてな、石工たちを総出で働かせたのだが……いくら積み上げても、一夜明けると壁が崩れ落ちている。何度やり直しても、同じことの繰り返しだった」
「それは、地盤が悪かったから、というわけではなく」
「もちろん、最初は誰もがそう考えたさ。だが土を掘り返しても、水を抜いても、何をやっても崩れる。困り果てたアンヴィンが占い師や賢者を呼び集めたところ、ある者がこう進言したのだ。父を持たぬ子の血を礎に注げば、砦はもう崩れなくなる、とな」
ゴレンは一度言葉を切り、火の粉が爆ぜる音を待つように、しばし黙り込んだ。
「そうして探し出されたのが、身寄りのない孤児の少年だった。名を、ティルンといった。少年は処刑台に上げられ、まさに命を絶たれようとしたその刹那、こう言い放ったそうだ。――崩れる本当の理由は、血の呪いではない。この山の地下深く、隠された泉の底に、紅と白、二頭の竜が眠っているのだ、と」
「二頭の、竜」
「ああ。ティルンの言葉を半信半疑で確かめるべく、アンヴィンが家臣たちに地面を掘らせると、本当に、地下の泉から二頭の巨大な竜が姿を現した。紅い竜と、白い竜だ。二頭は互いを咎めるように睨み合い、やがて凄まじい戦いを始めた。山が震え、木々がなぎ倒されるほどの死闘の末、紅竜が白竜を打ち破り、そのまま北の空へと去っていった」
ゴレンは、火に照らされたその顔に、どこか誇らしげな色を浮かべた。
「戦いの後、砦は結局、一度も築かれなかった。アンヴィンは山頂に城を持つことを諦め、代わりに谷筋に集落を築いた。それが、今のこのエムリスの丘の始まりだ。……崩れ続けた壁の跡地に、人は住み着かなかったが、その麓には、こうして幾世代もの暮らしが積み重なっていった。皮肉なものよ」
ゴレンは茶をひとくち啜り、遠くを見るような目をした。
「以来、この丘では紅竜こそが土地の守り手とされ、あの門の紋様として祀られるようになった。一方、負けた白竜は、余所者を招き寄せる不吉な存在として、長く忌み嫌われてきた。西の採石場に近づくなという言い伝えは、白竜が敗れて消えたとされるその場所を、恐れ続けてきた名残なのだろうよ」
「先ほど、道すがら子供たちの歌を耳にしました。『崩れる壁も、紅きお方が、討たれてよりは、静かなり』と」
「ああ、あの手鞠歌か。この丘の子供なら、誰でも諳んじておる。……もっとも、あの歌詞の『討たれてより』が、白竜を討ったことを指すのか、それとも二頭の争いそのものが鎮まったことを指すのか、正確なところは、わし自身も、はっきりとは分からんのだがな」
ゴレンはそう言って、皺の刻まれた顔に、どこか困ったような笑みを浮かべた。長く伝えられてきた言葉の中にも、輪郭の曖昧な部分が、確かに残っているのだった。
「命を救われたティルンは、その後どうなったのですか」
「この丘に留まり、妻を娶り、子をなした。あの子孫は、今もこの村に暮らしておる。……エッダという娘が、ちょうどそうだ。丘の外れの小さな祠を、代々守っている家系でな」
レイブンは、記録帳に「エッダ」という名を書き加えた。勝者の伝承の輪郭は、これでほぼ像を結んだ。だが、負けた白竜について語られたことは、あまりに少なかった。「忌み嫌われた」という一言だけが、まるで意図的に、それ以上の詳細を覆い隠しているかのように、レイブンの耳に残った。
三 エッダとの出会い、語られぬ務め
翌朝、レイブンは丘の外れにあるという小さな祠を訪ねた。苔むした石積みの祠は、村の中心にある門の紋様とは対照的に、ひどく質素な造りだった。祠の前で、若い娘が枯れかけた花を新しいものに取り替えているところだった。日に焼けた肌に、意志の強そうな眉をした娘だった。
「あなたが、旅の記録者ね。ゴレン翁から聞いたわ」
「エッダさんですね。ティルンの血筋だと伺いました」
娘――エッダは、花を活け終えると、値踏みするような目でレイブンを見つめた。その眼差しには、単なる警戒だけではなく、誰かに聞いてほしいという、相反する響きが同居しているように見えた。
「うちの家系には、村の誰もが知っている話とは、少し違う言い伝えがあるの。話したところで、信じてもらえるかどうかは分からないけれど」
「聞かせていただけますか」
エッダはしばらく黙って、祠に供えられた小さな竜の彫像――紅というより、灰色に近い、経年で色の判別しがたい古い木彫りに目を落とした。
「ティルン様は、崩れる砦の真因が地下の泉の竜たちにあると見抜いた。それは村の誰もが知っている話。でも、うちに伝わっているのは、その先のこと。ティルン様は処刑を免れたあと、密かに白竜の様子を見に行ったのだそうよ。誰にも告げずに、たった一人で」
「なぜ、そんなことを」
「分からない。ただ、うちの家には、その理由も分からないまま、ある務めだけが受け継がれてきた。……西の採石場の奥、地下の泉に、今も何かがいる。うちの家系の者だけが、密かにそこへ通い、様子を見に行くの。祖母から母へ、母からわたしへ、そうやって」
レイブンは息を呑んだ。忌避されているはずの白竜の伝承の陰に、こうして代々続く秘めた務めが存在していたとは、記録帳のどのページにも予感すら書き留めていなかった。
「見せていただくことは、できますか」
エッダは長いこと迷うように視線を泳がせていたが、やがて小さく頷いた。
「今夜、案内するわ。ただし、絶対に口外しないこと。それから、あなたが見たものをどう記録するかは、あなた自身の判断に委ねる。わたしから何かを強制するつもりはないから」
その言葉には、警戒よりもむしろ、長く一人で抱えてきた秘密を、初めて誰かと分かち合えることへの、かすかな安堵が滲んでいるように、レイブンには感じられた。
日が沈むまでのあいだ、レイブンはエッダの日々の営みに付き添った。祠の掃除を終えると、エッダは丘の畑に出て、冬支度の野菜を収穫し、隣家の老婆に頼まれた繕い物を届け、祭りの準備で忙しい母親に代わって幼い弟妹の面倒を見た。その姿は、村の誰の目から見ても、ただの働き者の娘そのものだった。
「不思議なものね」畑仕事の合間、エッダはふと手を止めて言った。「昼間は、こうして誰よりも村に馴染んで暮らしているのに、夜になると、村の誰も知らない務めを果たしに行く。二つの自分が、同じ体の中にいるみたいな気がすることがある」
「怖くはないのですか。長く続けてきたその務めが」
「怖くない、と言えば嘘になる。でも……」エッダは、収穫したばかりの根菜を籠に入れながら、少し考えるように口を噤んだ。「シェヴォンが誰かを害したという話は、うちの家の誰からも聞いたことがない。ただ静かに、あそこにいるだけ。それを恐ろしいと決めつけて放っておくことのほうが、わたしには、よほど怖いことのように思えるの」
その言葉を、レイブンは記録帳に静かに書き留めた。ティルンが処刑台の上で真因を見抜いたという伝承の核には、恐れに流されず、目の前のものをまっすぐ見ようとする意志があったのだろう。その意志が、幾世代を経てなお、エッダという一人の娘の中に、確かに受け継がれているように思えた。
夕刻、村の広場では紅竜守護祭に向けた準備が始まっていた。若者たちが幟を立て、女たちが料理の下ごしらえに追われる中、猟師頭のカドックとおぼしき若い男が、手勢を集めて何ごとか話し込んでいるのを、レイブンは遠目に見かけた。声までは届かなかったが、その表情には、祭りを控えた高揚とは異なる、張り詰めたものが滲んでいた。レイブンはその賑わいから一歩引いた場所で、日が完全に沈むのを待った。祭りの熱気の奥に、まだ誰も知らない何かが眠っているのだという実感が、静かに胸の内で膨らんでいった。
四 亡竜シェヴォンとの邂逅、迫る狩人
夜更け、エッダに導かれて西の採石場へ向かう道は、月明かりだけを頼りにするほかない、険しい獣道だった。切り立った岩肌の合間を縫うように進むと、やがて地の底へと続く、人ひとりがようやく通れるほどの裂け目に行き着いた。
「ここから先は、灯りを絞って」
裂け目を降りた先に広がっていたのは、静まり返った地下の泉だった。天井の隙間から差し込むわずかな月光が、水面に淡い光の筋を落としている。エッダは泉のほとりに膝をつくと、聞き取れないほど小さな声で、何ごとかを唱え始めた。
水面が、ゆっくりと盛り上がるようにうねった。
浮かび上がってきたのは、鱗の色がほとんど白骨のように褪せた、老いた竜だった。片方の角は根元から折れ、体のあちこちに、古い戦いの傷跡とおぼしき歪みが刻まれている。それでも双眸に宿る光だけは、驚くほど深く澄んでいた。
「……久しいな、ティルンの末よ。そちらの者は」
低く、しかし確かに人語を紡ぐ声だった。エッダが硬い声で答えた。
「旅の記録者よ。伝承を集めているの。……シェヴォン、あなたのことを、正しく書き記したいのだと思う」
老竜は、その名を呼ばれると、わずかに首を傾けた。レイブンは震える手で記録帳を開き、まずは深く一礼した。
「村では、紅竜が勝ち、あなたが敗れて姿を消したと伝えられています。その戦いについて、聞かせていただけますか」
シェヴォンは長いこと沈黙していたが、やがて静かに口を開いた。
「あの夜のことを、縄張り争いだったと語る者もいよう。だが、それは正しくない。……紅きあの者とわたしは、遠い昔、同じ一族から生まれた血縁だった。地上に降りるか、地の底に留まるか。人と関わるか、関わらぬか。積み重なった選択の違いが、いつしか埋めがたい溝になっていた」
「政治的な、対立だったと」
「そう呼びたければ、そう呼ぶがいい。だが、それ以上を語るつもりはない。血を分けた者同士の諍いというのは、他者に語るには、あまりに形を持たぬものだ」
「せめて、教えてください。あなたは、紅きあの者を、今も憎んでおられるのですか」
シェヴォンは、その問いに、しばらく答えなかった。水面に映る自らの姿を見つめるように、老いた双眸をわずかに伏せる。
「憎しみというものは、若い頃にはあった。だが数百年の歳月というのは、憎しみを保ち続けるにも、あまりに長すぎる時間だ。今のわたしにあるのは、憎しみというより……あの者が選んだ道と、わたしが選んだ道が、なぜあれほど早くに分かれてしまったのかという、古い古い疑問だけよ」
レイブンがその言葉を書き留めようとした、まさにその刹那。
その言葉が最後まで紡がれる前に、頭上の裂け目から、複数の松明の灯りが差し込んだ。
「やはり、ここにいたか」
裂け目から降りてきたのは、若い猟師頭のカドックと、その手勢だった。カドックは、かつて砦の崩壊時に人身御供を進言した占い師の家系の末裔で、その因縁を長らく恥じてきたのだと、後にエッダから聞かされることになる。紅竜守護祭を前に、丘の噂――夜な夜な西の採石場に灯りが動くという噂――を耳にしたカドックは、これを「敗れた白竜の残滓を、今度こそ自らの手で払う好機」と捉えたのだった。
「エッダ、お前がこんな真似をしていたとはな。祭りの前に、忌まわしいものの正体を暴いて見せよう」
カドックが手にした槍の穂先が、松明の灯りを鈍く照り返した。老いたシェヴォンは、逃げようとも、威嚇しようともせず、ただ静かにその場に留まっていた。それは諦めというより、長く生きた者だけが持ちうる、ある種の覚悟のようにレイブンには見えた。
「待ってください」
レイブンは、震える声を抑えて、カドックの前に進み出た。
「あなたの家系が、かつて何も知らぬまま孤児の命を礎にしようとしたことを、恥じておられるのでしょう。……ですが、それを正そうとするなら、今度は何も知らぬまま、この老いた竜を害することが、正しい道でしょうか」
カドックの手が、一瞬、止まった。
「俺の家系がどうして、それをお前が知っている」
「ゴレン翁から、砦の伝承を伺いました。父を持たぬ子の血を礎にせよと進言した占い師がいたことも。……その進言が、何一つ真実を捉えていなかったことも」
「黙れ。あれは大昔のことだ。俺が生まれるより、ずっと前の」
カドックの声には、怒りよりも、動揺に近い響きが混じっていた。松明を持つ手勢の何人かが、ちらりと互いの顔を見合わせるのが、薄闇の中でも分かった。
「かつてこの丘の悲劇を止めたのは、槍でも剣でもなく、真実を見抜こうとした一人の少年の目でした。あなたが本当に家系の因縁を清算したいのなら、まず見るべきです。この竜が、この長い歳月、いったい何をしてきたのかを」
エッダが、震える声で続けた。
「シェヴォンは、この地に何一つ害をなしていない。村の水源を守り、地の底で静かに生き続けてきただけ。……それを、わたしの家は代々見届けてきた。信じてもらえないのなら、あなた自身の目で確かめて」
沈黙が、地下の泉に満ちた。松明の炎が揺れる音だけが、しばらくの間、その場を支配していた。カドックは槍を構えたまま、老竜の澄んだ双眸を、長いこと見つめていた。そこにあったのは、憎悪でも敵意でもない、ただ静かな諦観だけだった。
「……今宵のところは、退く」
カドックはやがて、絞り出すようにそう言うと、槍を下ろした。
「だが、忘れるな。俺の家系の恥は、俺自身が晴らさねばならんものだ。今日のところは、この者たちの言葉に免じて見逃すが、それだけのことだ」
手勢を伴い、カドックは裂け目の向こうへと去っていった。その足音が完全に聞こえなくなるまで、誰も口を開かなかった。
五 記録帳の余白、丘を発つ朝
松明の灯りが遠ざかると、シェヴォンは深く長い息を吐いた。
「久方ぶりに、心の臓が波打った」
その声には、わずかな諧謔の響きがあった。エッダは崩れるように泉のほとりに座り込み、レイブンもまた、ようやく詰めていた息を吐き出した。
「ありがとう、レイブン。あなたがいなければ、どうなっていたか」
「私は、ただ問いを投げかけただけです。動いたのは、あなたと、あの人自身の中にあったものでしょう」
シェヴォンは、水面に映る歪んだ月を、しばらく見つめていた。
「わたしは、これからも語らぬ。紅きあの者との諍いの詳細も、なぜ地上に留まらず、地の底を選んだのかも。……ただ一つだけ、記していってほしいことがある」
「何でしょうか」
「あの夜、わたしが敗れたのは、力が劣っていたからではない。血を分けた者と本気で争うことを、最後まで躊躇っていたからだ。それだけは、勝者の伝承の中には、決して残らぬだろうからな」
レイブンは、その言葉を、震える手で丁寧に書き写した。老竜は再び水面の下へと身を沈め、やがてその気配は、静かな泉の奥へと溶けて見えなくなった。
翌朝、レイブンは丘を発つ支度を整えた。祭りを前にした村は、昨夜の出来事など知る由もなく、いつもと変わらぬ賑わいに包まれていた。門のところで、エッダが見送りに来てくれた。
「シェヴォンの話、どう書くつもり?」
「二つとも、書き記すつもりです。紅竜が勝ち、この地を守ったという村の伝承と、血を分けた者同士の、決着のつかない諍いだったという異説と。どちらが正しいかを、私が決めることはできません」
エッダは少し驚いたような顔をしたあと、静かに微笑んだ。
「それでいいと思う。うちの家系も、何代もかけて、それを決めることができなかったんだから」
坂を下りながら、レイブンは何度も丘の頂を振り返った。崩れた砦の輪郭は、朝の光の中では、昨夜ほど恐ろしいものには見えなかった。それでも、その地の底に、今もなお血を分けた者との諍いを胸に秘めた一頭の竜が眠っていることを、レイブンは確かに知っている。
記録帳の最後のページに、レイブンは短くこう書き記した。
――竜は、同じ血を分けた者と争った理由を、最後まで語らなかった。それは、勝者の伝承が覆い隠してきた沈黙なのか、あるいは、竜自身が選び取った沈黙なのか。わたしにはまだ、判じることができない。ただ、血を分けた者同士の諍いには、他者には量りがたい重みがあるのだということだけは、確かにこの手に残った。
丘を吹き抜ける風が、レイブンの背を押すように、次の街道へと誘っていた。
あとがき
本作は、5世紀頃のブリテン島に伝わる「ダーラ・エムリス(ディナス・エムリス)の紅白竜伝説」――暴君の築こうとした砦が毎晩崩れ、父を持たぬ子の血を礎にせよと進言されるが、その子(後のマーリンの原型とされる予見者)が処刑の直前、崩壊の真因は地下に眠る紅竜と白竜の争いにあると見抜き、掘り出された二頭が戦った末に紅竜が勝利する、という筋書きを下敷きにした翻案である。この伝承は9世紀編纂の『ブリトン人の歴史』(Historia Brittonum)に記録され、中世ウェールズ文学『マビノギオン』所収「ルーズとレヴェリス」にも別の文脈で二頭の竜の逸話が伝わっている。
本作では、勝者となった紅竜がすでにこの地を去った後日談として物語を再構成し、敗れたとされる白竜の末裔「シェヴォン」を、地下の泉にひっそりと生き延びる存在として描いた。原典では語られない「なぜ二頭の竜が争ったのか」という空白を、本作では「かつて同じ血族だった竜同士の、埋めがたい選択の相違」という異説として提示し、旅する観察者レイブンが、勝者の伝承と敗者の沈黙のどちらにも与しないまま、それを記録するに留めるという結末を選んだ。舞台となる集落エムリスの丘、領主アンヴィン、孤児の少年ティルンとその子孫エッダ、猟師頭カドックといった人物・地名は、いずれも本作のための創作であり、原典や特定の翻訳文からの逐語的な引用は行っていない。
本作は『ブリトン人の歴史』(Historia Brittonum)および『マビノギオン』(Lady Charlotte Guest訳、https://www.gutenberg.org/ebooks/5160)に伝わる紅白竜伝承を参考にした翻案作品です。