竜は水源を独り占めしなかった
雷竜国サンダーストライクの高地の村「天涙の高地」には、山々を堰き止めた竜を英雄が討ち、七つの大河を解き放ったという創世伝承が伝わる。観察者レイブンが川上で出会った老竜は、水を独占していたのではなく加減して分け与えていた番人だったことをわずかに仄めかすが、真偽は語らないまま高地に川音だけが残った。
一 天涙の高地、雷霆祭前夜
雷竜国サンダーストライクの奥深く、乾いた岩肌が幾重にも折り重なる高地に、天涙の高地と呼ばれる集落はあった。名の由来を尋ねれば、村人はみな同じ話をする。この地には涙のかたちをした窪地があり、そこに一筋の川が湧き出し、七つに分かれて麓の平野を潤しているのだ、と。レイブンが肩掛けの記録帳を提げてその窪地に立ったとき、まず目に飛び込んできたのは、乾いた大地には不似合いなほど瑞々しい川音だった。
高地一帯は、年の大半を乾いた風に晒されている。畑を耕すにも、家畜に水をやるにも、村人たちはこの七つの川の恵みに頼りきりだった。だからこそ、川の流れ方ひとつが、村の暮らしの浮き沈みをそのまま映す鏡になる。水嵩が少なければ作物は枯れ、多すぎれば畦を洗い流す。村人たちは日々、空の色と川の音を注意深く読み分けながら生きていた。
七つの川は、それぞれ麓に点在する小さな里へと注ぎ込み、そこからさらに枝分かれして、遠く雷竜国サンダーストライクの中枢にまで水を届けているのだという。高地の村人たちは、自分たちが暮らすこの窪地こそが、国じゅうの水がめの、いちばん最初の一滴を受け止める場所なのだと、誇らしげに語った。だがその誇りの裏には、もし源流で何かが狂えば、麓の里も、さらにその先の国土も、一斉に渇きか、あるいは氾濫に見舞われるという緊張が、常に張り詰めていた。旅の記録者としてレイブンが各地を巡る中で、これほどまでに水源そのものへの畏れと感謝が入り混じった土地は、そう多くはなかった。
村に着いたのは、雷霆祭の前夜だった。広場には篝火の準備をする若者たちの姿があり、女たちは干し肉と麦の粥を大鍋で煮込み、子供たちは色とりどりの布を張った雷紋の旗を担いで駆け回っていた。祭りの熱気の中心には、小さな石造りの祠がある。屋根の低いその祠の祭壇には、黒く光る石で作られた杵の形の道具――金剛の複製――が、丁寧に布を敷かれて安置されていた。
祠の奥の壁には、古びた壁画が刻まれている。幾重にも連なる山々に、太い蛇のような姿の竜が全身を巻きつけ、その口からわずかに水がにじみ出している絵だった。もう一枚の壁画には、雷を纏った人影がその竜に杵を振り下ろし、砕けた顎から奔流が迸り出て、七筋の川となって扇状に広がっていく様子が描かれている。
レイブンはしばらくその壁画の前に立ち尽くした。旅の記録者として、これまで幾つもの村で似たような英雄譚の壁画を見てきた。討伐された怪物の姿は、たいてい牙を剥き、爪を立て、明らかな敵意をもって描かれるものだ。だが、この壁画の竜には、どこか奇妙な違和感があった。討たれる寸前だというのに、その巻きつき方は、山を締め上げているというより、むしろ山を抱きかかえているように見えたのだ。目を凝らせば凝らすほど、その姿は怪物の凶暴さよりも、何かをかばうような、静かな緊張をたたえているようにさえ見えてくる。
祭壇の脇には、村の人々が持ち寄ったとおぼしき素朴な供物が並んでいた。干した果実、編み込んだ麦の穂、そして小さな陶器に満たされた水。水そのものを供物として捧げるという習わしは、レイブンがこれまで巡った他の乾いた土地では見たことがなかった。
「珍しいでしょう、あの絵」
背後から、涼やかな声がかけられた。振り返ると、祭りの支度で忙しく立ち働いていたはずの若い娘が、水桶を抱えたまま、レイブンの視線を追うように壁画を見上げていた。娘はノラと名乗った。
「旅の記録者です。あの壁画について、詳しい方を紹介していただけないでしょうか」
「うちのお祖父ちゃんに聞くといいわ。シグルズ翁。この村で一番、あの絵と、あの絵にまつわる話に詳しい人だから」
ノラは快活に笑ったが、ふと表情を曇らせ、声を落として付け加えた。
「ただね、今年は少し様子が変なの。祭りの前だっていうのに、川の水嵩がいつもより高い。雪解けが早いせいだって年寄りたちは言うけれど、うちのお祖父ちゃんは、なんだか落ち着かない顔をしているのよ」
その一言に、レイブンは記録帳のページを繰る手を止めた。旅の記録者として培った勘が、この村に何か見過ごせないものが潜んでいることを、静かに告げていた。
「うちのお祖父ちゃんに聞くといいわ」
ノラは水桶を揺らしながら、祭りの喧騒の向こうを指差した。篝火の薪を積む若者たちを、白い顎髭を蓄えた老人が、杖を片手に静かに見守っている姿があった。レイブンは記録帳を握り直し、その方角へ歩き出した。
二 古老の語る創世の伝承、そしてもう一つの声
シグルズ翁の家は、広場から少し外れた高台にあった。窓からは、扇状に広がる麓の平野と、そこに幾筋も走る川の輝きが見渡せる。老人は茶を淹れながら、囲炉裏の火を見つめるようにして、ゆっくりと語り始めた。
「この高地の始まりを知りたければ、あの祠の絵の意味から話さねばなるまいな」
はるか昔、この一帯の山々はことごとく、一頭の巨大な竜の巻きつく体に覆われていたのだという。竜は山という山にその身を絡ませ、地の底から湧き出るはずの水を、その太い胴で堰き止めていた。大地は幾星霜にもわたって渇き続け、作物は育たず、家畜は倒れ、人々は乾いた喉を潤す一滴の水を求めて争うほどだったという。
「そんな時代に、雷を統べる英雄が現れた。名をガイエルという。ガイエルは、鍛冶匠トヴァルが鍛え上げた雷杵――今、祠に飾られているあの複製のもとになった武器だ――を手に、山々に挑んだ。だが、竜の巻きつく力はあまりに強く、幾度打ち込んでも、その顎を砕くことはできなかった」
ガイエルが疲れ果てて岩陰に伏したとき、どこからともなく老いた巫女が現れ、妙酒と呼ばれる不思議な酒を彼に授けたのだという。妙酒を飲み干したガイエルの雷杵には、それまでにない力が宿った。ガイエルは再び山へ挑み、渾身の一撃で竜の顎を打ち砕いた。その瞬間、堰き止められていた水が一気に解き放たれ、山々の間を割って七筋の激流となって流れ下り、乾いていた大地を隅々まで潤したのだという。
「その水こそが、今わしらの見ている七つの川だ。だからわしらは、毎年この時期に雷霆祭を催す。ガイエル様が水を解き放ってくださった、その恵みに感謝するためにな」
シグルズ翁は続けて、祭壇に飾られた金剛の複製の由来も語った。もとの雷杵そのものは、ガイエルの死後、彼を弔った塚の下に共に埋められたと伝えられているが、その形を写した複製だけが、代々この村の鍛冶の家に受け継がれてきたのだという。複製を打つ役目を負う家の当主は、毎年雷霆祭の直前に、山の奥にある古い坑道へ籠もり、七日七晩、槌を振るって傷んだ複製を打ち直す。その儀式が絶えたことは、この村の記憶にある限り、一度もないという。
「その七日七晩の間、鍛冶の当主は、誰とも口を利かぬ。ただ槌の音だけが、坑道の奥から聞こえてくる。わしも若い頃、一度だけその音を聞きに行ったことがあるが……妙な話だが、あの音は、槌の音というより、何かをなだめるような、そんな響きに聞こえたものだ」
「今年は水嵩が高いと、ノラさんから伺いました。それも、ガイエル様の恵みなのでしょうか」
シグルズ翁は、レイブンの問いに一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「毎年、多少の増減はある。雪解けの早い年もあれば、遅い年もある。今年はいささか早いというだけのことよ」
そう答える声には、これまでの朗々とした語りとは違う、わずかな硬さが滲んでいた。レイブンはそれを聞き逃さず、丁寧に書き取りながらも、ふと壁画で見た竜の姿を思い出していた。抱きかかえるような巻きつき方――あれは、本当に堰き止める者の姿だったのだろうか。
その晩、篝火の傍らで祭りの支度を手伝う老婆の一人が、誰にともなくぽつりと呟くのをレイブンは聞き逃さなかった。
「あの竜は、独り占めしていたわけじゃないのかもしれないねぇ」
老婆はメイリという名で、この村でも指折りの年寄りだった。レイブンが問いかけると、メイリは薪を焚べる手を止めずに、独り言のように続けた。
「一度に全部を解き放ったら、この高地の下に広がる村々は、みんな押し流されてしまっただろうにねぇ。あの竜は、少しずつ、少しずつ、加減しながら水を配っていた番人だったんじゃないかって、わしの婆さまがよく言っていたもんさ。今年みたいに水嵩が上がる時こそ、その番人の仕事が試される年なんだと」
「今年は、その番人の仕事がうまくいっていないと?」
メイリは一瞬、火の粉の舞う篝火をじっと見つめた。
「わしがまだ嫁いだばかりの頃、一度だけ、川が丸三日、恐ろしいほど荒れたことがあってねぇ。麓の里が二つ、畑を丸ごと流されたと聞いた。あの時も、今年みたいに雪解けが早い年だった。年寄りたちは、あれは番人の加減が乱れた年だったのだと、こっそり噂し合っていたものさ。表立っては、誰も口にしなかったけれどね」
「その噂は、なぜ表立って語られなかったのですか」
「ガイエル様が竜を討ってくださったおかげで、この高地に水があるという話は、村の誇りそのものだからね。それを揺るがすような話は、誰も好んで口にはしないものさ」メイリはため息のように呟いた。「さあてね、今年がどうなるかは、わしにも分からないよ。ただ、シグルズの語る話が間違っているとは言わないよ。ただ、この村には、そういう言い伝えもあるってだけの話さ。信じるか信じないかは、お前さんが決めることだ」
近くで火の番をしていた若い男が、二人の話に割って入った。
「婆さま、そんな話、祭りの晩にするもんじゃない。ガイエル様が竜を討ってくださったからこそ、この高地に水があるんだ。それを疑うような真似は、罰当たりだよ」
「疑ってなどおらぬよ」メイリは静かに笑った。「ただ、恵みというものは、誰か一人の力で成るものではないと、年寄りは知っているというだけのことさ」
若い男はそれ以上何も言わず、不服そうに火の番へと戻っていった。レイブンは記録帳に、シグルズ翁の語った創世伝承と、メイリの仄めかした異説とを、並べて書き留めた。どちらが真実なのか、この時点ではまだ判断のしようがなかった。
三 増水する川上、水音の番人
雷霆祭の当日、村は朝から祝祭の熱気に包まれた。太鼓の音が坂道を伝い、笛の音がそれに重なり、家々の軒先には昨夜のうちに編まれた雷紋の飾りが揺れていた。だがレイブンは、その賑わいから離れ、川の源流を目指して高地の奥へと歩を進めることにした。壁画の違和感と、ノラやメイリの言葉、そして鍛冶の当主が坑道の奥で幾夜も打ち続けるという、なだめるような槌の音の話が、レイブンの記録者としての性分を静かに疼かせていたからだ。
道のりは険しかった。前夜からの雨が山肌を伝って川に流れ込み、普段より明らかに水嵩が増していた。岩の隙間を縫うように流れる水は、次第に勢いを増し、レイブンの足元を何度も洗った。谷が狭まるあたりでは、川面が岩にぶつかって白く砕け、耳の奥にまで届くような重い水音を立てていた。レイブンは記録帳を防水布でくるみ直しながら、メイリの語った「三日荒れた川」の話を思い出さずにはいられなかった。
谷を登る途中、レイブンは川辺に降りて祭りに供える花を摘んでいた子供たちの一団に出くわした。ノラの弟だという幼い少年を先頭に、五人ほどの子供が、増水した流れのすぐ際で色鮮やかな花を摘んでいる。祭りの日には、川辺に咲く青い花を祠に供える習わしがあるのだと、後になって少年は語った。
「危ないですよ、もっと岸から離れて」
レイブンが声をかけたその時だった。上流のさらに奥で、雪解け水が堆積した岩の詰まりが崩れたのか、地鳴りのような轟音とともに、一段と巨大な濁流の壁が谷を駆け下ってくるのが見えた。子供たちは悲鳴を上げて立ち尽くし、逃げ場を探して右往左往するばかりだった。レイブンは咄嗟に駆け寄ったが、濁流と子供たちの距離は、もはや人の足では間に合わないほど詰まっていた。
その刹那、谷の奥の岩の亀裂から、灰青色の巨躯が音もなく躍り出た。年経た竜だった。竜は増水の壁が子供たちを飲み込む寸前、その巨躯を川筋に沿って横たえ、まるで堤のように水の勢いを受け止めた。濁流は竜の脇腹にぶつかって高く飛沫を上げ、幾筋にも枝分かれしながら、勢いを殺されたまま、それでも川筋に沿って緩やかに下流へと流れていった。子供たちは尻餅をつきながらも、誰一人として水に飲まれることなく、岸辺で震えているだけで済んだ。
「大丈夫か」
竜の低い声に、子供たちは声も出せずにただ頷いた。レイブンが駆け寄って安否を確かめている間に、竜はゆっくりと巨躯を岩の亀裂の方へと戻し始めていた。
「待ってください」
レイブンが呼び止めると、竜は動きを止め、灰青色の双眸をこちらに向けた。その眼差しには、若い竜には決して宿らないであろう、深く澄んだ静けさがあった。
「旅の記録者です。この高地に伝わる創世の伝承を調べています。今のあなたの行いは――」
「何ということもない。ただの癖のようなものだ」竜は静かに言った。「一度に流れ下れば、麓の里だけでなく、あの子供たちも押し流されてしまう。少しばかり、加減しているだけのことよ」
「伝承では、山々に巻きついて水を堰き止めていた竜は、英雄に討たれたとされています。あなたは、その末裔なのですか」
竜は答える代わりに、しばらく沈黙した。谷を渡る風の音と、幾分か穏やかになった川のせせらぎだけが、その沈黙を埋めていった。
「討たれた、というのは正しいのかもしれぬ。だが――堰き止めていた、というのは、いささか正しくないな」
竜はそう言うと、灰青色の瞳をレイブンに向けた。
「一度に解き放てば、大地を潤すどころか、里を丸ごと呑み込んでしまうほどの水がある。誰かが、それを少しずつ加減して配らねばならぬ。それが、わしらの――いや、わしの先の者たちの、務めであったのやもしれぬ」
「では、なぜ英雄に討たれたと伝えられているのですか」
「加減する者の姿は、遠くから見れば、堰き止める者の姿と、さして変わらぬのだろうよ」竜はふっと息を吐いた。「水を求める者にとって、加減という行いは、ただの物惜しみにしか映らぬ。急いで奪い取ろうとする者と、あるいは、そういう者に打ち勝ったことにしたい者たちにとっては、なおのことだ。今日わしがしたことも、この子らが語れば、また違う形の話に変わっていくのかもしれぬな」
「あなたが担っているのは、番人としての務めなのですね」
竜はそれには答えなかった。ただ、灰青色の瞳を伏せ、もう一度、増水した川面へと視線を戻した。
「その務めは、孤独ではありませんか」
レイブンが思わずそう尋ねると、竜は初めて、わずかに驚いたように顔を上げた。
「孤独、か」竜は低く笑うような声を漏らした。「加減するということは、誰にも気づかれぬということと、ほとんど同じ意味だ。うまく配分できている間は、誰の目にも留まらぬ。何かが狂った時にだけ、ようやく人はわしらの存在を思い出す――しかもその時は、たいてい、恨みの形でだ。それでも、この務めを厭うたことはない。この務めを担う者がいなくなれば、加減されるはずだった水は、ただの災いにしかならぬのだからな」
「それでも、あなたは名も残らず、伝承の中では討たれた怪物として語られています」
「名など、とうに意味を失っていると言ったはずだ」竜は静かに言った。「わしが今日ここで為したことも、いずれ形を変え、別の話として語られていくのだろう。それでよい。水が絶えず流れ続ける限り、わしの務めは果たされている。それ以上を、誰かに分かってもらう必要はない」
「わしの言葉を、そのまま真実だと記す必要はない。お前が見た、この光景だけを、正しく記せばよい」
そう言い残すと、竜は巨躯を岩の亀裂の奥へとゆっくり引っ込めていった。レイブンが慌てて呼び止めようとしたときには、すでにその姿は闇の中に溶けて消えていた。後に残ったのは、いくらか穏やかになった川の水音と、震えながらも無事だった子供たちの、安堵の吐息だけだった。
四 二つの真実、雷霆祭の賑わいの中で
子供たちを村まで送り届けたレイブンが広場に戻ったとき、雷霆祭はすでに宵の盛りを迎えていた。ノラの弟は、興奮した口ぶりで「大きな影に助けられた」と周りの大人たちに話していたが、大人たちはそれを、増水に驚いた子供の勘違いだと笑って受け流していた。誰もそれを、竜の仕業だとは思いもしなかった。
広場では、大人も子供も入り交じって踊りの輪を作り、祠の前では、祭壇に飾られた金剛の複製に向かって、村人たちが代わる代わる祈りを捧げていた。誰もがガイエルの英雄譚を口ずさみ、堰き止められた水が解き放たれた恵みに感謝していた。
レイブンは踊りの輪から少し離れた場所に腰を下ろし、記録帳を開いた。ページには、シグルズ翁が語った創世の伝承――堰き止める竜を英雄が討ち、七つの大河を一気に解き放ったという話――が、丁寧な筆致で記されている。その隣に、レイブンは新たな一文を書き加えた。老いた竜が仄めかし、そして今日この目で見た、水を独り占めしていたのではなく、里を守るために加減して配っていた番人だったのかもしれない、という異説を。
どちらが正しいのか、レイブンには依然として判断のしようがなかった。壁画に描かれた巻きつく竜の姿も、シグルズ翁の確信に満ちた語り口も、メイリの意味深な呟きも、そして谷で目にした老竜の振る舞いも、それぞれに等しい重みを持って、記録帳の上に並んでいた。
「何を書いていらっしゃるの」
ノラが、踊りの合間に、水を差し出しながら声をかけてきた。レイブンは記録帳を閉じ、小さく笑った。
「この高地に伝わる、二つの伝承についてです。どちらが正しいのか、私には決めることができませんでした」
「二つ?」ノラは不思議そうな顔をした。「私は、お祖父ちゃんの話しか聞いたことがないけれど」
「弟さんが、今日、大きな影に助けられたと話していましたよ」
ノラは驚いた顔をしたが、すぐに苦笑した。
「あの子ったら、また大げさな話を。増水にびっくりして、夢でも見たんじゃないかしら」
レイブンはそれ以上、何も言わなかった。ただ、記録帳をそっと胸に抱いた。それもまた、この高地の記憶の一つの形なのだろうと思いながら。
祠の前では、まだ祈りの列が続いていた。誰もが、目に見える形の英雄――砕けた顎から水を解き放ったガイエルの姿――に感謝を捧げている。その傍らで、誰にも気づかれぬまま加減を続けてきたはずの者のことを、レイブンはしばらくの間、ただ黙って思い描いていた。もし本当に、あの老竜が幾世代にもわたって水を配り続けてきたのだとすれば、この賑わいそのものが、その孤独な務めの上に成り立っているということになる。だが、それを声高に語ったところで、村の誇りを塗り替えることにしかならないだろう。レイブンにできることは、ただそれを記録帳の片隅に、静かに書き留めておくことだけだった。
翌朝、レイブンは荷をまとめ、天涙の高地を後にした。見送りに出たノラは、最後にもう一度だけ、壁画の竜のことを尋ねてきた。
「結局、あの竜は、悪者だったの? それとも――」
「私にも、まだ分かりません」レイブンは正直にそう答えた。「ただ、この高地に流れる水が、誰かの務めによって今日も絶えずにいるということだけは、確かなように思います」
ノラは少し考え込むような顔をしたが、やがて小さく頷き、坂道の向こうへと戻っていった。振り返ると、扇状に広がる七つの川が、朝日を浴びて銀色に輝いているのが見えた。どちらの伝承が真実であったとしても、この水が絶えることなく人々の暮らしを支え続けてきたことだけは、確かな事実だった。記録帳に記された二つの真実は、答えを持たぬまま、レイブンの旅と共に次の土地へと運ばれていった。
あとがき
本作は、古代インドのヴェーダ神話「ヴリトラ神話」(『リグ・ヴェーダ』第一巻・第四巻等に記録された、インドラによる竜退治の神話)を下敷きにした翻案である。
原典では、原初の竜(あるいは巨大な蛇)ヴリトラが山々に己が身を巻きつけて世界の水を堰き止め、渇いた大地と人々を苦しめていた。雷神インドラは、職人トヴァシュトリが鍛えた武器ヴァジュラを手に、神酒ソーマの力を借りてヴリトラに挑み、その顎を打ち砕いて討ち果たす。ヴリトラの死によって堰き止められていた水が一気に解き放たれ、七つの大河が大地に流れ出したと伝えられる。
本作では、この「討たれた水の簒奪者」という英雄譚の構図をそのまま用いつつ、討たれた竜の末裔とおぼしき老竜を登場させ、「水を独占していたのではなく、一度に解き放てば人里を押し流してしまう激流を、加減して大地に配っていた番人だったのかもしれない」という異説を、当人の行いと言葉の両方を通して仄めかす形で描いた。観察者レイブンは、村に伝わる表向きの英雄譚と、老竜が体現した番人としての異説の両方を記録に併記するにとどめ、どちらが真実かの判断は意図的に保留したまま物語を閉じている。
登場人物・地名・竜の名などはすべて独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は行っていない。
本作は古代インドのヴェーダ神話「ヴリトラ神話」(『リグ・ヴェーダ』所収)を参考にした翻案作品です。