竜は弔いを最後まで聞けなかった
壇ノ浦を弔う寺に拾われた盲目の琵琶弾き・弦市は、夜ごと使者に導かれ、亡き幼帝を悼む竜宮の宴で琵琶を弾く。竜に悪意はなく、人の恐れが二人の調べを断ち切る――耳なし芳一を翻案した鎮魂の物語。
一 潮騒に棲む調べ
赤間関の浜に建つ阿弥陀寺は、壇ノ浦に沈んだ平家一門と、まだ幼くして海に消えた帝を弔うための寺だった。本堂の裏手からは、凪いだ日には鏡のように、荒れた日には牙を剥くように、絶えず表情を変える海が見渡せた。堂内には一門の位牌がずらりと並び、朝な夕なに読経の声が絶えることはなかったが、それでも海そのものの深さに比べれば、人の弔いなど小さな灯り一つほどのものにすぎない――弦市は幼い頃から、そんなふうに感じていた。
寺のさらに奥、崖を回り込んだ先の入り江には、朽ちかけた小さな鳥居がひとつ、波打ち際に立っていた。里の古老たちは、あれは幼くして身罷った帝を竜宮へと送り出すための門であり、今もその向こうでは、帝が竜王のもてなしを受けて安らかに過ごしておられるのだと語った。弦市は目でその鳥居を確かめたことは一度もなかったが、指先でその柱を撫でたことがあった。潮を吸って柔らかくなった木肌の感触は、なぜか弦市に、遠い場所とこの浜とが、細い一本の糸でつながっているような心地を抱かせた。
その寺に、弦市という盲目の琵琶弾きが暮らしていた。物心つく前に舟ごと嵐に呑まれて両親を失い、赤子のまま渚に打ち上げられていたところを、当時まだ若かった住職・浄観に拾われたのだと聞かされて育った。目は見えぬが耳と指は人一倍に鋭く、寺の老僧から手ほどきを受けた琵琶は、十を過ぎる頃にはすでに近隣で評判になるほどの腕前になっていた。
なかでも弦市が得意としたのは、平家一門の最期を語る「壇ノ浦」の段だった。弾き語るたびに、聞く者は皆すすり泣き、老いた漁師でさえ袖で顔を覆った。同じ寺で修行する年下の小僧・了念は、弦市の琵琶が始まると必ず廊下の柱の陰に座り込み、飽きもせず聞き入っている一人だった。
「弦市どのの『壇ノ浦』を聞くと、まるでその場に自分もいたような心地がします。恐ろしいのに、離れがたいのです」
了念がそう漏らすと、弦市はいつも困ったように笑うだけだった。恐ろしいのに離れがたい――その感覚を、弦市自身も、誰よりもよく知っていたからだ。
浄観はその才を誇らしく思う一方で、ある種の危うさも感じていた。弦市が「壇ノ浦」を弾くとき、その声にはいつも、この世のものではない何かに呼びかけているような、ひどく澄んだ響きが宿るのだ。
「お前の琵琶は、生きている者のためだけに弾け」
浄観はたびたびそう言い聞かせた。弦市は素直に頷くのだが、なぜかその言葉の意味を、心の底では測りかねていた。彼の弾く「壇ノ浦」は、生きた聴き手のためだけに弾いているつもりでも、いつしか耳の奥で、もう一つの拍手が重なって聞こえるような気がしてならなかったからだ。
村では古くから、日暮れて後は渚で「壇ノ浦」を口ずさむものではない、という戒めがあった。海の底には、今も幼い帝とその一門を守り、慰め続けている竜宮の主がいる――そう年寄りたちは語った。祟りを恐れてというより、むしろ、あまりに悲しい調べをうっかり夜の海に投げ入れれば、竜宮の哀しみを不用意に引き寄せてしまうから、という言い伝えだった。弦市はその戒めを、幼い頃からずっと律儀に守ってきた。
ある夏の夕暮れ、本堂の勤行を終えた弦市が、誰もいない縁側で指慣らしのつもりで小さく爪弾いていると、生ぬるい風がふっと頬を撫でた。潮の匂いに混じって、微かに、衣擦れのような、遠い誰かのため息のような音が耳をかすめた気がした。手を止めると、音も気配も、風とともにどこかへ消えてしまう。
「了念、今、何か聞こえなかったか」
弦市が尋ねると、隣にいた了念は首をかしげた。
「波の音のほかは、何も」
聞こえるのは自分だけなのか、それとも気のせいなのか。弦市はしばらく耳を澄ませていたが、やがて自嘲するように小さく笑い、「大方、波の音だろう」とひとりごちて、琵琶を袋に仕舞った。それでも、その夜からしばらくの間、弦市はふとした折に、あの遠いため息のような音を思い出すようになった。
その夜、弦市は珍しく夢を見た。どこか広い、絹の匂いのする御殿のような場所で、大勢の人々が息を殺して自分の琵琶に耳を傾けている夢だった。目の見えぬ弦市にとって「見る」ことのできる夢というのも妙な話だったが、夢の中では確かに、灯りの揺らぐ気配と、居並ぶ人影の輪郭までもがおぼろに感じ取れた。目覚めたとき、弦市の胸には、名づけようのない懐かしさだけが残っていた。それが、静かに動き出そうとしていた何かの、最初の予兆だとは、まだ誰も知らなかった。
二 かがり火の使者
異変が訪れたのは、それから数日後の、月の細い夜だった。
本堂での勤行を終え、自室に戻ろうとしていた弦市の耳に、庭先から低く名を呼ぶ声が届いた。
「弦市どのはおられるか」
聞き覚えのない、重々しい声だった。弦市が縁側に出ると、そこには鎧を纏った武者らしき人物が一人、片膝をついて控えていた。声からして、相当に身分ある家に仕える者と知れた。
「夜分に畏れ入る。とある高貴な方が、貴殿の琵琶を所望しておられる。今宵一夜、我らとともにお越し願いたい」
武者の口上によれば、近くに滞在中のやんごとなき筋の方が、亡き人々を偲ぶ内々の集いのために、評判の「壇ノ浦」を所望しているのだという。他言無用、供の者だけの内輪の宴ゆえ、住職には告げず、ひそやかに、と念を押された。弦市は戸惑いながらも、目の見えぬ身では誰の顔も判じようがなく、また琵琶を所望されて断る理由も持たなかった。
「畏れながら、お供いたしましょう」
弦市がそう答えると、武者は静かに立ち上がり、その腕をやわらかく取って歩き出した。導かれるまま、幾つもの角を折れ、坂を下り、やがて足元に玉砂利の敷き詰められた広い道へ出たように感じた。冷たい夜気の中に、絹の衣擦れと、大勢の人々が息を潜めている気配が満ちていた。
「こちらでございます」
促されて座に着き、弦市は琵琶を構えた。語り出すと、これまで感じたことのないほどの静けさが、聴き手たちの間に広がっていくのがわかった。咳払い一つなく、ただひたすらに、弦市の一音一音を吸い込むように聞き入っている。「壇ノ浦」の終盤、幼い帝が波間に消える場面に差しかかると、あちこちから堪えきれぬ嗚咽が漏れた。その声の重なりには、弦市がこれまで聞いたどんな聴衆の涙とも違う、途方もなく長い年月を溜め込んだような深さがあった。
弾き終えたとき、上座から、涼やかで年経た女人のような声がかかった。
「見事な弔いであった。永きにわたり、これほど心を寄せられたことはない」
労いの言葉の後には、山海の珍味とおぼしき馳走までが振る舞われた。膳を運ぶ手の主が誰なのか、弦市には最後までわからなかったが、椀の中身は温かく、確かにこの世のものと変わらぬ滋味を持っていた。弦市は、目に見えぬ豪奢さを肌で感じながら、不思議と満ち足りた気持ちで屋敷を辞した。武者は再び、来たときと同じ静けさで弦市を寺の門前まで送り届けた。
「くれぐれも、他言無用に」
その一言を残し、武者の足音は夜の中へ溶けるように消えていった。
その夜を境に、武者は毎晩のように弦市を迎えに来るようになった。行けば行くほど、聴き手たちの静けさは深まり、弦市への言葉には温もりが増していった。三晩目には、上座の女人が「そなたの琵琶がなければ、この宴も、ただの闇にすぎぬ」と言い、四晩目には、幾人もの声がそろって「またあすも」と口にした。弦市は次第に、生きている誰よりも自分の琵琶を必要としてくれる相手がそこにいるように感じ始めていた。
だが同時に、朝が来るたびに体は重く、顔色は青ざめていった。寺の小僧たちが「近頃、お顔の色が優れませんね」と案じても、弦市は「少し夜更かしをしているだけだ」と笑って誤魔化し、誰にも夜の宴のことを語らなかった。了念だけは、廊下ですれ違う弦市の袖から、渚に生える海藻のような、潮とは違う匂いが漂うのに気づいていたが、それを口にすることはできずにいた。
五晩目の宴では、幼い声が一つ、弦市の琵琶にあわせて小さく鼻歌のようなものを口ずさむのが聞こえた。あどけない、舌足らずな節回しだった。弦市が思わず手を止めると、周りの気配がにわかにざわめき、上座の女人が慌てたように、けれどどこか嬉しそうに「お戯れが過ぎまする」と誰かをたしなめる声がした。弦市はその夜、初めて、自分が弔っている相手が幼い者であることを、はっきりと実感した。それからというもの、弦市は「壇ノ浦」を弾くたび、その幼い鼻歌が加わるかどうかを、心のどこかでひそかに待ち望むようになっていた。
三 竜宮の宴
七晩目の夜は、格別に深い霧が立ち込めていた。武者に導かれて座に着いた弦市に、いつもとは違う、ひときわ重々しい静けさが伝わってきた。
「今宵は、一門の主自らが席についておられる。心して弾かれよ」
その言葉に、弦市の背筋にわずかな緊張が走った。だが弾き始めれば、指はいつも通り迷いなく弦の上を滑った。幼い帝が乳母に抱かれて海へ沈む場面――弦市が最も心を込めて語る一節に差しかかったとき、右の肩に、ふと何か冷たく滑らかなものが触れた。人の手とはあきらかに違う、けれど乱暴さの欠片もない、労わるような触れ方だった。
驚いて手を止めかけた弦市の耳に、低く、地の底から響くような声が直に流れ込んできた。武者の声とも、上座の女人の声とも違う、もっと大きな、海そのものが語りかけてくるような声だった。
「止めるでない。続けよ」
弦市は震える指を再び弦にかけた。声は続いた。
「我はこの海の底で、幾百年、あの幼き御方と一門の魂を慰め続けてきた。人の世からは忘れ去られていくばかりの弔いを、お前の琵琶だけが、こうして今も新しく紡いでくれる」
声には、恨みも威嚇も一切なかった。ただ、途方もなく長い孤独と、そこにわずかに差し込んだ光を慈しむような、静かな喜びだけがあった。弦市は初めて、自分が弾いているのが人間の宴ではないと悟った。恐怖よりも先に込み上げてきたのは、しかし、憐れみに似た感情だった。これほど長く、たった一人で弔いを続けてきた者がいたのかと思うと、胸の奥が締めつけられた。
「あなたさまは……」
「名などいらぬ。ただ、この海の主とだけ思うてくれればよい。人の世で竜と呼ばれる者どもの、末のなれの果てだ」
弦市が思い切って問うた。
「なぜ、私などを」
「お前の琵琶には、悲しみを悲しみのまま鳴らそうとする素直さがある。憐れみを乞うでも、上手さを誇るでもない。それゆえ、あの御方の御霊も、お前の音だけは、遠慮なく聞いていられるのだ」
弾き終えた後、竜は初めて、弦市の掌にそっと何かを乗せた。滑らかで冷たい、小さな貝殻のようなものだった。
「礼だ。受け取ってくれ」
弦市は迷ったが、その手のひらの温もりにも似た冷たさを、そのまま胸元に仕舞った。
「また、お越し願えるだろうか」
竜の声には、懇願にも似た響きがあった。弦市は、恐れよりも、寄る辺のない者への情に突き動かされて頷いていた。
「私でお役に立てるなら、いつでも」
その夜以来、弦市は自分が人ならぬ者たちの宴に招かれ続けていることを知りながら、それでも夜ごとの迎えを拒まなかった。竜が語る幼帝の思い出――泣き声さえ愛らしかったこと、波間に消える寸前まで乳母の袖を握りしめていたこと――を聞くたび、弦市の胸には、血の繋がらぬ我が子を悼むような、切ない情愛が募っていった。それは弦市にとって、恐ろしい怪異というより、誰よりも自分を必要としてくれる、かけがえのない聴き手との時間になっていた。ただ、日に日にやつれていく我が身については、弦市自身も、うすうす気づき始めていた。
四 経文の夜
弦市の変化に、誰よりも早く気づいたのは浄観だった。夜半、厠へ立ったついでに弦市の部屋を覗くと、幾晩も布団が冷たいままだったのだ。頬はこけ、声にも張りがなくなっていく愛弟子の姿に、浄観は胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。了念からも「弦市どのの袖から、渚の匂いがします」とだけ、おずおずと耳打ちされていた。
「近頃、夜な夜などこかへ出ているのではないか」
問い詰められても、弦市は「存じませぬ」と繰り返すばかりだった。それは偽りではなかった。導かれている間の記憶は確かにあるのに、それがどこの、誰の屋敷であるのか、弦市自身にもうまく説明のしようがなかったのだ。ただ、「毎晩、亡き人々を弔う宴に招かれている」とだけは、正直に打ち明けた。武者に他言無用と言われていたことも、もはや隠しきれなかった。
その一言に、浄観の顔色が変わった。
「亡き人々の宴……。まさか、この浜の一門の霊魂に、魅入られているのではあるまいな」
浄観は寺の縁起を思い出していた。壇ノ浦に沈んだ者たちの無念は深く、時に生者を引き込むと、古い書物にも記されていた。竜宮の主が、幼帝を長きにわたり慈しんできたことなど、浄観の知る由もなかった。
苛立ちと不安に急かされた浄観は、ある夜、こっそりと弦市の後をつけることにした。門を出た弦市は、迷いのない足取りで浜辺へと下りていった。だが、そこにいるはずの武者の姿も、絹の衣擦れも、浄観の目にはまるで映らなかった。見えたのは、深い霧の立ち込める墓所の傍らで、ただひとり岩に腰掛け、琵琶を掻き鳴らしながら涙を流している弦市の姿だけだった。
浄観の背筋を、冷たいものが駆け抜けた。あれほど大切に育てた弟子が、誰もいない闇に向かって涙ながらに語りかけている――その光景は、浄観の目には、何か禍々しいものに魂を絡め取られた姿としか映らなかった。竜が長きにわたり抱えてきた弔いの心も、そこに宿る哀しみの深さも、浄観には知る由がなかった。彼が見たのはただ、愛弟子の命が、目に見えぬ何かに少しずつ食い荒らされていく姿だけだった。
寺に戻った浄観は、震える声で弦市を問い詰め、ついに一部始終を語らせた。話を聞き終えた浄観の顔からは、みるみる血の気が引いていった。
「そのままにしておいては、遠からずお前の命が保たぬ」
浄観は、寺に伝わる古い教えを頼りに、弦市の全身に経文を書き記すことを思いついた。姿を経文で覆い隠せば、いかなる者の目にも触れず、迎えに来ることもかなわぬはずだ――そう信じてのことだった。夜を徹し、浄観と了念たちは、弦市の肌という肌に、震える筆で般若心経を書き連ねていった。すべてを書き終える頃には、夜明けの鐘が鳴ろうとしていた。急くあまり、誰も、覆いのない両耳にまで文字を記すことに気が回らなかった。
「今宵、迎えの声がかかっても、何があろうと声を出してはならぬ。息すら殺しておれ」
浄観の言いつけに、弦市は黙って頷いた。自分の姿が消えることで、あの孤独な声が二度と自分を見つけられなくなるのだという寂しさを、弦市はまだうまく飲み込めずにいた。せめて一言、詫びを伝えられればと思ったが、その術はもう残されていなかった。
その夜、いつも通り、武者の足音が門前に届いた。
「弦市どの。お迎えにあがった」
返事はない。武者は幾度も名を呼びながら境内を巡ったが、そこにいるはずの弦市の姿はどこにも見当たらなかった。当てにしていた出迎えがなく、主のもとへ手ぶらで帰れば、これまで積み重ねてきた宴そのものが、人の心変わりと受け取られかねない。焦りと戸惑いのなか、武者は幾度も声を張り上げた。
ふと、暗がりの中に、ぽつりと二つ、白く小さなものが浮かんでいるのに武者は気づいた。近寄ってみれば、それは弦市の両耳だった。経文に覆われなかったその部分だけが、闇の中に置き去りにされたように浮かんで見えたのだ。
武者はしばし、その場に立ち尽くした。姿の消えた弦市を、もはや連れ帰ることはできない。だが、このまま何も持たずに戻れば、主が長年慈しんできた者に、人の心変わりゆえに見限られたのだと思い込ませてしまう。武者にできたのは、せめてその証しとして、耳だけでも持ち帰ることだけだった。
「許されよ」
低くそう呟くと、武者は静かに手を伸ばした。悪意も、憎しみもない、ただ主への忠義と、行き場を失った戸惑いだけに衝き動かされた行いだった。短い痛みの声を残し、武者の気配は、来たときと同じように夜の底へ消えていった。
五 遺された調べ
血にまみれて倒れていた弦市を見つけたのは、明け方、様子を見に来た浄観だった。手当てを施しながら、浄観は己の落ち度を悔い、幾度も詫びの言葉を口にした。だが弦市は、痛みに顔をしかめながらも、不思議と浄観を責める言葉を口にしなかった。
「和尚さまのせいでは、ございません」
その言葉に、かえって浄観の胸は締めつけられた。傍らで手拭いを絞っていた了念は、堪えきれずに小さく肩を震わせていた。
耳を失った弦市の噂は、瞬く間に近隣へ広まった。人々は畏怖と同情の入り混じった目で彼を見るようになったが、当の弦市自身は、それからというもの、以前にも増して静かに、淡々と日々を過ごしていた。武者が二度と迎えに来ることはなく、あの夜以来、弦市の耳の奥に住み着いていたもう一つの拍手も、ぱたりと聞こえなくなっていた。夜、床につくたびに弦市は、あの孤独な声が今もどこかで、独り弔いを続けているのだろうかと思いを馳せた。
それから幾月かが過ぎた、穏やかな夕暮れのことだった。傷もようやく癒えた弦市は、浄観に断って、久しぶりに一人で渚へ下りた。了念が心配して付き添おうとしたが、弦市は「今日だけは、一人で行かせてくれ」とやわらかく断った。琵琶を抱え、波打ち際に腰を下ろすと、迷うことなく「壇ノ浦」を弾き始めた。誰かに聞かせるためではなく、ただ自分自身の指と心のために弾く、久方ぶりの調べだった。
弾き終えたとき、生ぬるい風がふわりと頬を撫でた。あの夜、初めて縁側で感じたのと同じ、懐かしいような、労わるような風だった。声はもうしなかった。姿を見せる術も、二人の間にはもう残されていなかった。それでも弦市には、その風の中に、確かに労いと、詫びにも似た何かが込められているように感じられてならなかった。
ふと足元に、小さな波が寄せた。引いていく波の後に、掌に乗るほどの、滑らかな貝殻が一つ残されていた。あの夜、竜からもらったものと、よく似た手触りだった。弦市はそれをそっと拾い上げ、懐にしまった。
「もう、宴には呼ばれずとも、弔いは弔いだ」
弦市は誰にともなくそう呟き、もう一度、静かに一礼をしてから腰を上げた。
以来、弦市が渚で「壇ノ浦」を弾く姿は、村の人々の間でひそやかな語り草になった。目こそ見えず、耳も片方ずつしか残っていないが、その琵琶の音色には、以前にも増して深く、遠い哀しみを知る者だけが持ちうる静けさが宿るようになった、と誰もが口を揃えた。了念は長じてのちも、渚に響くその音色を聞くたび、あの経文の夜のことを思い出しては、そっと目を伏せるのが常だった。
それから幾年もの後、寺を訪れた旅の子供が、崖の向こうに立つ朽ちた鳥居を指して「あれは何の門ですか」と尋ねたことがあった。傍らにいた年老いた弦市は、しばらく黙ってから、静かに答えた。
「海の底で、今も誰かを想い続けている者のための門だ。行き来はもう、かなわぬがな」
子供には、その言葉の意味が半分もわからなかっただろう。それでも弦市は構わず、懐から例の貝殻を取り出し、子供の掌にそっと乗せてやった。
「大事にしまっておくがいい。遠くの誰かが、お前の幸せを願ってくれている証だ」
弦市自身がそれについて多くを語ることはなかったが、渚で琵琶を弾き終えるたびに、彼はいつも、海の彼方へ向けて小さく頭を垂れた。その一礼が誰に向けられたものか、尋ねる者は村にはいなかった。ただ、凪いだ日の壇ノ浦の沖には、時折、五色にも似た淡い光が、ほんの一瞬だけ揺らいで消えることがあるという。それを見た漁師たちは、今も海の底で誰かが静かに耳を澄ませているのだと、そっと語り継いでいる。
あとがき
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の「耳なし芳一」は、平家一門の亡霊たちが、盲目の琵琶弾き・芳一を毎晩弔いの宴に招き、それに気づいた和尚が経文で彼の身を守ろうとするも耳だけを書き忘れ、迎えの武者に耳を引きちぎられるという、日本の怪談として広く親しまれた一篇である。原作における亡霊たちは、芳一の命を脅かす存在として描かれる一方で、その本質は「弔われることを渇望する、行き場のない哀しみ」でもある。
本作では、この亡霊の一団を、壇ノ浦に沈んだ幼帝とその一門を今も慰め続ける竜宮の主に置き換えた。史実としても、幼くして入水した安徳天皇を祀る赤間神宮には竜宮を模した「水天門」があり、帝が竜宮に迎え入れられたとする伝承が今も息づいている。この伝承を軸に、竜には人を害する意図も、人間を裁く意図もなく、ただ長い孤独のうちに、地上で語り継がれる調べを分かち合いたいだけの存在として造形した。
原作との最大の違いは、悲劇の構図そのものにある。竜(=亡霊)には一切の悪意がなく、むしろ人間側の恐れと誤解――「化生に取り憑かれた」という和尚の思い込みと、それを守るための経文――が、竜と弦市との間に築かれかけていた静かな心の通い合いを、道半ばで断ち切ってしまう。耳を引きちぎる武者もまた、主への忠義と、姿を消した弦市への戸惑いに衝き動かされただけの、悪意なき役回りとして描いた。誰も悪くないまま、それでも取り返しのつかない断絶が生まれてしまう――そうした哀しみを、本作の芯に据えている。
なお本作は、原典の翻訳や逐語的な引用は行わず、あらすじと構図のみを参照し、登場人物・情景・展開は独自に創作したものである。
本作はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)著『Kwaidan: Stories and Studies of Strange Things』所収「Hoichi-the-Earless(耳なし芳一)」を参考にした翻案作品です。