竜は取り決めを忘れなかった
雷竜国サンダーストライク奥地「八雫の谷」には、生贄を求めた八頭の雷竜を剣士が酒で酔わせて討ったという英雄譚が伝わる。社の裏手に潜む痩せ細った竜の頭は、それが治水の取り決めを破った騙し討ちだったと仄めかすが、観察者レイブンは真偽を判じぬまま両論を記録に残す。
一 八雫の谷、雷鳴の底で
遠雷は、その谷では絶えることがなかった。
レイブンが雷竜国サンダーストライクの街道を外れ、山ひとつ隔てた奥地へと分け入っていくと、空はまだ明るいというのに、谷の底では低く轟く音が絶え間なく響いていた。切り立った岩壁が両側から迫り、谷底を流れる川の瀬音とその遠雷が重なり合って、まるで大地そのものが呼吸をしているかのような気配を作り出している。地図にはようやく名だけが記された小さな集落、「八雫の谷」――雫の一滴一滴が雷光のように谷を穿ってきたのだという、いかにもこの土地らしい謂れを、道すがら出会った猟師が教えてくれた。
「この先の谷に入るなら、気をつけなすった方がいい」猟師はそう付け加えた。「悪い土地ってわけじゃあないが、よそ者には少し、勝手の違う流儀があるでな」
その言葉の意味を、レイブンはまだ量りかねていた。ただ、谷が近づくにつれて空気そのものが張り詰めていくのを、肌で感じ取ってはいた。木々の梢は不自然なほど静まり返り、鳥の声すらほとんど聞こえない。時折、遠く山の端に薄紫の光がちらつき、それを追うように地の底から低い轟きが伝わってくる。
集落に着いたのは、日が傾き始めた頃だった。石を積んだ低い家々が谷筋に沿って並び、軒先には雷除けだという奇妙な形の護符が下げられている。切り込まれた木片に、何かの角を思わせる意匠が彫り込まれた護符だった。レイブンが村の中ほどまで歩を進めると、数人の男たちが大きな甕を天秤棒に担ぎ、山道を登っていくのに行き合った。甕からは、むせるほど濃い酒精の香りが漂っている。
「これは、また随分な量ですね」
思わず声をかけると、一番後ろを歩いていた若者が振り返り、額の汗を拭いながら答えた。
「『竜迎えの宴』の支度でさ。毎年この時季になると、山の社に酒を運ぶんです」
「竜迎え、とは」
「詳しいことは、宿の親父にでも聞いてください。おれたちは、ただ運べと言われたものを運んでいるだけなんで」
若者はそう言うと、それ以上は語らず、仲間たちと共に急な山道の向こうへ消えていった。その後ろ姿を記録帳に書き留めながら、レイブンはかすかな違和感を覚えていた。祭礼の支度にしては、若者たちの表情に浮かれた色がまるでない。むしろどこか、義務を果たすことに似た硬さがあった。すれ違いざま、一人の男が谷の奥、山の頂へと続く道の方角を一瞥し、すぐに目を伏せたのを、レイブンは見逃さなかった。恐れというよりも、目にしてはならないものを避けるような、そんな仕草だった。
その夜、谷でただ一軒の宿に草鞋を脱ぐと、宿の主人は快くレイブンを迎え入れてくれた。囲炉裏の火に炙られた干し魚と、山菜の煮物が膳に並ぶ。しかし「竜迎えの宴」について尋ねると、主人はしばらく箸を止め、それから曖昧な笑みを浮かべた。
「昔から続いている、山の竜さまへの供え物ですよ。うちの谷はそういう土地でしてね」
「山の竜、というのは」
「明日、村の古老を訪ねてごらんなさい。あの人なら、由緒をきちんと語ってくれるでしょう。私が話すと、どうしても間違いが混じる」
「間違いが混じる、とは」
主人は湯呑みに酒を注ぎながら、視線をわずかに落とした。
「谷で生まれ育った者なら誰でも、幼い時分に一度は聞かされる話です。ですが、大人になるにつれ、皆それぞれ少しずつ違う覚え方をしている。祖父から聞いた話と、隣の家の伝え方が、微妙に食い違っていたりする。私の話も、きっとどこかで歪んでいるはずです」
それきり主人は口をつぐみ、話題を明日の天気のことへとすり替えてしまった。夕餉の膳を下げる主人の背中に、レイブンは何か、触れてはならないものに触れかけた者の気配を感じた。
食事を終えたレイブンは、宿の前の広場に出て、月明かりの下で谷を見渡した。広場の隅には大きな一枚岩があり、表面には古い浮き彫りが刻まれている。目を凝らすと、それは長い胴をくねらせた竜の姿らしいと分かった。頭の数を数えようとしたが、風化が進みすぎていて判然としない。四つとも、八つとも見える、曖昧な線が岩肌に残されているだけだった。その下には、剣を振り上げる人影と、うずくまる小さな人影がひとつ。娘を守る剣士の場面だろうと当たりはつくが、うずくまる人影の表情までは、もはや読み取れなかった。
窓の外では、相変わらず遠雷が谷底に響き続けている。記録帳の新しい頁に、レイブンは短く書きつけた。「八雫の谷。竜迎えの宴、酒を運ぶ習わし。村人、語ることを避ける気配。同じ伝説でも、家ごとに細部が食い違うらしい。広場の浮き彫り、頭の数は風化して判読不能」。
二 古老が語る英雄と八つの首
翌朝、教えられた通りに谷の奥へ進むと、苔むした岩屋を背にした一軒家に、白髪の古老が独り住んでいた。名を五十嵐という、谷の生き字引のような老人だった。訪いを入れると、老人は皺だらけの顔をわずかにほころばせ、囲炉裏端に招き入れてくれた。土間の隅には、雷除けの護符と同じ意匠を彫り込んだ木箱がいくつも積まれ、内職の途中らしいことが窺えた。
「記録屋が、この谷まで来るとはな。ならば聞かせてやろう。竜迎えの宴の、本当の謂れを」
老人は火箸で炭を整えながら、ゆっくりと語り始めた。
「大昔――谷の暦で数えても、二十代も三十代も前のことだ。この八雫の谷には、八つの頭を持つ雷竜が棲みついておった。谷を統べる主として、な。だが、その統治は生易しいものではなかった。毎年、雷鳴の季節が巡ってくるたびに、竜は谷の娘を一人差し出せと村に迫った。差し出さねば、谷そのものを雷と洪水で焼き尽くすと脅してな」
「その脅しに、村は従うほかなかったのですね」
「幾世代もの間、な。娘を持つ家は、順繰りに籤を引いて差し出す娘を決めておったという。むごい話じゃが、それが谷の生きる術じゃった。だが、ある年のことだ。旅の剣士がこの谷に迷い込んできた。次に生贄に選ばれるはずだった娘の家族が、その剣士に泣きついた。剣士は娘を妻に迎えるという約束と引き換えに、竜を討つと請け合った」
古老の声には、代々語り継がれてきた者だけが持つ、揺るぎない誇りの響きがあった。
「剣士の策は、こうだ。谷の入り口に八つの門を作らせ、それぞれに強い酒を満たした甕を据えさせた。八雫の酒、と呼ばれる強酒でな。竜が現れ、八つの頭をそれぞれの甕に突っ込んで酔い潰れたところを、剣士は隠し持っていた剣で、一つずつ首を刻んでいった。最後に尾を断ち割ったとき、中から現れたのが、雷を纏うという神剣よ。今、山の社に祀られているのが、まさにその剣じゃ」
「その宴は、竜にとってもいつも通りのものだったのですか。それとも、初めから怪しまれていたと」
「言い伝えでは、竜は喜んで八つの甕に顔を突っ込んだとされておる。毎年供えられる酒を楽しみにしていた、とな。だからこそ、剣士の策にまんまと乗せられたのだ、と儂らは教わってきた」老人はそこで一度言葉を切り、火箸で灰をかき混ぜた。「もっとも、なぜ竜がそこまで無防備に酒を楽しみにしていたのか、と問われれば――正直、儂にもその先はよく分からぬ。ただ酒に目がない怪物だった、とだけ聞かされてきたのでな」
「娘は、救われたのですね」
「もちろんじゃ。剣士と娘は夫婦となり、その血筋は今も谷のどこかに続いておるという。以来、村は毎年『竜迎えの宴』を開き、討たれた竜への鎮めとして酒を社に供え続けておる。英雄への感謝と、竜への鎮魂と――両方の意味を込めてな」
「剣士自身は、その後どうなったのですか」
「谷を去ったとも、娘とともにこの地に留まり続けたとも言われておる。伝えは一様ではない。もっとも、儂が子供の頃に聞いた話では、剣士は討伐を終えた後、しばらくの間、夜ごと魘されるようになったそうだ。何を見て魘されていたのかまでは、語り継がれておらぬがな」
古老はそこで初めて、わずかに眉をひそめた。長年語り継いできた誇らしい英雄譚の中に、ふと紛れ込んだその一節だけが、どこか異質な影を落としているように、レイブンには思えた。
「鎮魂、ですか。討たれた者を、なぜそこまで手厚く弔うのでしょう」
古老はその問いに、わずかに間を置いてから答えた。
「それは……祟りを恐れてのことじゃろうな。討たれた竜の恨みが、いつか谷に返ってくるやもしれぬ。だから、毎年欠かさず酒を供え、機嫌を損ねぬようにしておるのだ」
「討たれた竜が、まだ怒っているかもしれない、と」
「さあ、な。そこまでは、儂にも分からぬ」
語り終えた古老は、満足げに茶をすすった。だがレイブンは、その語りの端々に、微妙な言い澱みがあったことを見逃さなかった。竜が「なぜ生贄を求めたのか」という理由については、古老は一度も具体的に語らなかった。ただ「主であったから」と、それだけを繰り返すばかりだった。祟りを恐れて鎮魂を続けるというのなら、討たれたはずの竜への恐れは、今もこの谷のどこかに生き続けているということになる。その矛盾が、レイブンの胸の内で小さな棘のように残った。
三 祭りの夜、社の裏への視線
竜迎えの宴の当日、谷は普段とは打って変わった賑わいに包まれた。松明の灯が谷筋に連なり、太鼓の音が遠雷と呼応するように谷底に反響する。村人たちは山道を登り、頂の社へと大甕を運び入れていく。祭りというよりは、儀式に近い静かな熱気が、行列全体を包んでいた。子供たちですら、はしゃぐことなく、大人たちの背に隠れるようにして山道を歩いていた。
社は思いのほか質素な造りだった。古びた木の鳥居をくぐった先に、小さな拝殿が一つ。その奥に、雷を纏うと伝わる剣が、幾重にも結界縄を巻かれて安置されている。拝殿の脇には、これまで供えられてきた酒甕が積み重ねられ、崩れかけた古い甕の山は、まるで小さな塚のような様相を呈していた。
社の前まで登ったレイブンは、そこで一人の若い巫女に出会った。緋色の装束を纏った彼女は、村人たちの行列を見送りながら、どこか落ち着かない様子で社の裏手――岩壁が迫り、闇の濃い一角――へとたびたび視線を投げていた。
「あちらには、何が」
思わず尋ねると、巫女は弾かれたように顔を上げ、それから硬い声で答えた。
「あの奥は、決して覗いてはいけない場所です。古くからの、この谷の掟ですから」
「なぜ、覗いてはいけないのですか」
「理由は……私も、詳しくは教えられておりません。ただ、社の裏手には近づくな、それだけを、母からも祖母からも言い聞かされて育ちました。破れば、谷全体に祟りが及ぶと」
巫女の声には、単なる伝統への畏れだけではない、もっと個人的な、切実な怯えが滲んでいた。レイブンがさらに問いを重ねようとすると、彼女は一瞬だけ視線を泳がせ、それから小さく付け加えた。
「私の祖母は、若い頃に一度だけ、あの裏手から物音を聞いたことがあると言っていました。誰かが低く唸るような、それでいて何かを訴えかけるような声だったと。祖母はその話を、生涯誰にもせぬようにと言い残して逝きました。私が今、あなたに話しているのは……本当は口にしてはならないことなのかもしれません」
それだけ言うと、彼女はそれ以上何も語らず、供物の列に加わるべく、逃げるようにその場を離れていった。
行列の中には、腰の曲がった年配の女もいた。彼女は他の村人たちから少し遅れて歩き、社の前に酒甕を据えるたびに、両手を合わせて何かをつぶやいていた。レイブンが耳を澄ませると、それは謝罪に似た響きの言葉だった。「毎年のことじゃが、許してくだされ。許してくだされ」。誰に向けた言葉なのか、女自身にも判然としていないのかもしれない。ただ、その所作には、単なる形式では片付けられない重みがあった。
夜が更け、酒宴が最高潮を迎える頃、レイブンは大甕の並ぶ社の前で、村人たちが酒を捧げながら口ずさむ低い歌を聞いた。歌詞は聞き取りにくかったが、繰り返される一節だけは辛うじて拾えた。「鎮まれ、鎮まれ、まだ怒りを忘れぬものよ」。討たれたはずの竜に向けられたにしては、あまりに切実な祈りの言葉だった。歌う村人たちの表情は、祝祭というより、何かに詫びているようにも見えた。太鼓の音が徐々に緩やかになり、松明の炎が谷風に揺れるたび、集まった人々の影が岩壁に大きく伸び縮みした。
祭りが一段落し、村人たちが山を下り始めた頃、レイブンは一人、松明の灯を頼りに社の裏手へと足を向けた。掟を破ることへの躊躇いがなかったわけではない。だが、記録屋としての性分が、目にした違和感を放置することを許さなかった。岩壁の隙間に、人ひとりがようやく通れるほどの裂け目が黒く口を開けているのが見えた。裂け目の縁には、長年にわたって誰かが供えてきたらしい、小さな酒器の欠片がいくつも散らばっていた。
四 岩穴に潜む、痩せ細った頭
裂け目の奥は、思いのほか広い岩穴になっていた。松明の灯を掲げて進むと、奥の暗がりに、何か大きなものがうずくまっているのが見えた。近づくにつれ、それが竜の姿をしていることが分かった。ただし、伝承にあるような八つの頭を持つ威容ではない。ただ一つ残った首は、肉の削げ落ちた、痩せ細ったものだった。鱗は艶を失い、あちこちが欠け落ち、そこから覗く皮膚には古い傷跡が幾筋も刻まれている。
「久しいな、人が此処まで来るのは」
竜が発した声は、しわがれてはいたが、はっきりとした言葉だった。レイブンは驚きを抑え、記録帳を握り直した。岩穴の壁には、無数の爪痕が刻まれている。長い年月をかけて、何かを数えるように、あるいは何かを堪えるように引っ掻かれ続けてきたのだろう傷跡だった。
「あなたが、討たれたはずの竜ですか」
「討たれたのは、私の兄弟たちだ。八つの首のうち、七つがこの谷の底で酒に溺れて死んだ。私だけが、たまたま酔いが浅かったのか、あるいは剣士の刃が届かなかったのか、生き延びてしまった。それ以来、この穴の奥で、供えられる酒の匂いだけを頼りに生きながらえておる」
竜は疲れきった様子で、しかし逃げも隠れもせず、レイブンをじっと見据えた。
「村の言い伝えでは、あなたたちは娘を生贄に求めた怪物だったと」
「その話は、半分は真実で、半分は違う」竜の声に、初めて低い響きが混じった。「我らは生贄を求めたのではない。谷を暴れさせる川を鎮め、雷雲を退け、洪水から村を守る――その代わりに、年に一度の供物を受け取る。それが、私の父祖の代から結ばれていた取り決めだった」
「取り決め、ですか」
「娘を一人差し出せなどとは、一言も口にしたことはない。供物は米と酒、それだけで十分だった。だが、いつからか村の語り草では、我らが娘を求める怪物にすり替えられていた。誰がそう語り始めたのか、私にも分からぬ。剣士がこの谷を訪れたとき、彼は取り決めの話など聞く耳を持たなかった。ただ、我らを討つべき魔物として扱い、八つの門に酒を仕込んだ」
竜の目には、怒りというよりも、深く沈んだ悲しみが宿っていた。
「兄弟たちは、供物として運ばれてきた酒だと信じて、疑いもせず飲み干した。取り決め通りの、いつもの宴だと思っていたのだ。宴の夜は、いつも穏やかだった。人々の顔にも、笑みがあった。だからこそ、誰も剣を隠し持っているとは思わなかった。酔い潰れたところを、次々と首を刻まれていった。悲鳴を上げる間もなく、な。私は、その一部始終をここから見ていた。逃げることも、助けることもできなかった」
「なぜ、あなただけが生き延びたのですか」
「分からぬ。ただ、酔いが浅かったのか、あるいは剣士がすでに疲れ果てていたのか。気づいたときには、兄弟たちの首が谷底に転がり、私だけがこの穴に逃げ込んでおった。それからずっと、この暗がりで息を潜めて生きてきた。村人の目に触れれば、また同じ運命を辿るだろうと恐れて」
「取り決めがあったというなら、なぜ剣士にそれを告げなかったのですか。言葉が通じなかったわけではないでしょう」
竜は自嘲するように、低く喉を鳴らした。
「告げようとした兄弟もいた。宴の最中、酔いの浅い一頭が、剣士に向かって『我らは約束を違えぬ、貴殿こそ何を企む』と問うたそうだ。だが剣士は答えず、ただ剣を構えるばかりだった。あの者にとって、我らはすでに討つべき怪物と決まっていた。取り決めの話など、聞くまでもないことだったのだろう。娘の家族に請われた時点で、我らの言い分に耳を貸す道理は、あの者の中にはなかったのだ」
「なぜ、あなたは名乗り出て、その話をこれまで誰にも語らなかったのですか」
竜はしばらく沈黙し、それから力なく首を振った。
「語ったところで、誰が信じる。村にとっては、剣士は英雄で、我らは討たれるべき怪物でなければ、物語の辻褄が合わなくなる。それに――正直に言えば、私自身も確信が持てぬのだ。取り決めが本当にあったのか、それとも敗れた者の言い訳として、後から自分に都合よく作り上げた記憶なのか。長い年月の間に、酒の匂いだけを頼りに生きてきた歳月が長すぎて、自分でも分からなくなっている」
「けれど、村は今も酒を供え続け、『まだ怒りを忘れぬものよ』と歌っています。祟りを恐れているということは、討たれた竜への負い目が、今もこの谷に残っているということでは」
竜はその言葉に、初めてわずかに顔を上げた。
「……それは、私にも救いのように聞こえる話だ。だが、負い目があるからといって、それが取り決めを反故にした事実を認めたことにはなるまい。村人たちにとって、酒を供え続けることは、罪の告白ではなく、ただの習わしとして続いているだけかもしれぬ」
「もし、あなたが望むなら、私はこの話をありのままに記録し、いずれ谷の外にも伝えることができます。あなたの言い分を、正史として残すことも」
竜はゆっくりと首を振った。
「それは望まぬ。私の言葉を正しいものとして押し通せば、今度は村の側が汚名を着せられることになる。剣士の血を引く者たちは、今も谷のどこかで生きているのだろう。彼らに、先祖が騙し討ちをしたのだと言って聞かせることに、何の意味がある。ただ――誰かが、この谷にはもう一つの言い分があったと、覚えていてくれるだけでよい。それ以上のことを、私は望まぬ」
その声には、恨みよりも諦めに近い響きがあった。長い歳月の孤独が、竜から怒りを削ぎ落とし、代わりに乾いた諦観だけを残していったのかもしれない。レイブンには、その諦観こそが、竜の語る記憶の真偽よりも雄弁な何かを物語っているように思えた。
その言葉には、嘘をつく者の強張りはなかった。だが同時に、真実を語る者だけが持つはずの確信もまた、そこにはなかった。レイブンは記録帳を閉じ、しばらく岩穴の暗がりに立ち尽くした。どちらの言い分にも、拠って立つべき確たる証拠はない。ただ、痩せ細った一頭の竜が、七つの死をこの岩穴から見つめ続けてきたという事実だけが、動かしようもなくそこにあった。
五 両論を記し、谷を去る
夜明け前、レイブンは八雫の谷を発った。まだ暗い山道を下りながら、最後にもう一度、社の方角を振り返る。頂に灯る灯りは既に消え、ただ遠雷だけが、変わらぬ調子で谷底に反響していた。
宿を出る際、記録帳の頁を開き、レイブンは昨夜のうちに書き記した一節を読み返した。「八雫の谷。竜迎えの宴――英雄が生贄を求める怪物を酒で討ち、娘を救ったという言い伝え。一方、社の裏手に生き延びた竜は、それが治水の取り決めを反故にされた騙し討ちであったと語る。いずれの記憶も、当人たちの確信は揺らいでおり、外部の者が断ずるべき筋合いのものではない。村が今も酒を供え続け、『怒りを忘れぬものよ』と歌う事実だけを、判断の材料として併記しておく」
どちらか一方を選び取ることは、レイブンの役目ではなかった。村の誇りに満ちた英雄譚を否定する証拠もなければ、竜の悲哀に満ちた証言を裏付ける証拠もない。ただ、両者の言葉をそのままに記録へ留め、判断は後の誰かに委ねる――それが、観察者としてレイブンが選び得る、唯一誠実なやり方だった。
宿を発つ間際、昨夜出会った若い巫女が、見送りのために道の端に立っていた。彼女はレイブンに軽く頭を下げただけで、多くを語ろうとはしなかった。ただ、その眼差しには、昨晩よりもわずかに落ち着いた色が浮かんでいるように見えた。何かを打ち明けたことで、長年抱えてきた重荷の一端が、ほんの少しだけ軽くなったのかもしれない。レイブンもまた、それ以上の言葉を交わすことなく、静かに一礼して山道を下り始めた。
谷を抜け、街道に戻る頃には、遠雷の音も次第に遠のいていった。それでも、耳の奥にはまだ、あの痩せ細った竜の声が残っている。取り決めだったのか、生贄だったのか。あるいは、その両方が少しずつ真実で、少しずつ誤りなのかもしれない。長い歳月の中で、勝者の物語と敗者の記憶は、互いに削り合いながら形を変えていく。八雫の谷に残された二つの言い伝えも、いずれそうして、もう一段と輪郭を失っていくのだろう。
振り返ってももう社は見えず、朝靄の向こうに、八雫の谷はゆっくりと呑み込まれていった。レイブンは記録帳を懐にしまい、次の土地を目指して歩き出した。背後で、最後にひときわ大きな雷鳴が谷底に響き、それきり静かになった。まるで、七つの声がようやく鳴り止んだかのような、そんな静けさだった。