竜は唸り声を託宣とは呼ばなかった
風竜共和国エアリアル・セプト辺境「双角の谷」には、荒ぶる竜を鎮め、古い結び目を断ち切り、祠で天啓を受けたという若き征服王の三段の伝承が残る。祠に棲む老いた風竜は前の二つを認めつつ、最後の神託だけは自分が与えた覚えがないと語り、観察者レイブンは真偽を断定しないまま谷を去る。
一 双角の谷、王と竜の浮き彫り
風竜共和国エアリアル・セプトの地図を広げると、辺境の一角に、二つの尖った峰が向かい合うように描かれた場所がある。旅の記録者レイブンがその場所を「双角の谷」と知ったのは、国境の宿場町で耳にした馭者たちの噂話からだった。「あの谷に近づくと、風の音が人の声のように聞こえることがある」「昔、竜を従えた王がいたという話も残っているらしい」――酒場の隅で交わされていたそんな言葉の断片が、レイブンの旅程を静かに引き寄せた。
谷に至る道は、思いのほか穏やかだった。風が絶えず吹き抜けているせいか、草木は谷の奥へ向かってなびくように傾いて生えており、まるで道そのものが谷の奥へと誘っているように見えた。二つの峰は、近づくほどに角のような鋭さを増していき、なるほどこれが「双角」という名の由来なのだろうと、レイブンは記録帳に書き留めた。
谷の入口には、古い岩壁があった。風雨に長く晒されてなお、そこに刻まれた浮き彫りの輪郭ははっきりと残っている。若い王冠を戴いた人物が片手を掲げ、その前で翼を大きく広げた竜が後ろ足で立ち上がっている図だった。竜の目には、彫り師が意図的に刻んだとおぼしき、怯えたような線が幾筋も入っていた。岩壁の下には、干からびかけた供花がいくつも並べられており、この浮き彫りが今も土地の者たちに敬われ続けていることをうかがわせた。
風はここでも絶え間なく吹いていたが、耳を澄ませると、その音の中に、確かに低い唸り声のような響きが紛れ込んでいるように聞こえた。空耳だろうか、とレイブンは思ったが、記録帳の余白には、念のためその印象だけを書き留めておいた。
「珍しいな、記録帳を提げた旅人が来るのは」
声をかけてきたのは、革の外套を羽織った老人だった。名をトバイアスといい、若い頃は谷の周辺で猟師をしていたが、今は谷の入口の小屋で、通りがかる旅人に土地の言い伝えを語って暮らしを立てているのだと言った。
「この浮き彫りの話を、聞かせていただけますか」
「聞かせるも何も、この谷に来て、あの話を聞かずに帰る者はまずいないよ」トバイアスは杖の先で浮き彫りを軽く叩いた。「昔々、この谷は一頭の荒ぶる風竜のものだった。誰も近づけなかった。近づいた者は、理由もなく引き裂かれるように吹き飛ばされたそうだ」
「理由もなく、というのは」
「そう見えていた、というだけの話だ」トバイアスは少し声を落とした。「ある年、遠い国から若い王がこの谷にやってきた。まだ即位して間もない、荒々しい評判ばかりが先に立つ王だったそうだ。家臣たちは口々に、竜を討つべきだと進言した。だが王は、討つ前にひと晩、谷の入口で竜の様子を見ていたいと言い出した」
レイブンは筆を走らせながら、続きを促した。
「王は気づいたんだ。竜が暴れるのは、決まって松明の火を掲げたときだけだということに。昼間、日差しの下では、竜は驚くほどおとなしかった。王は家臣たちに松明を消させ、自分ひとりで、明るい日中に谷へ足を踏み入れた。竜は最初こそ唸り声を上げたが、王がじっと動かずにいると、やがて警戒を解き、王の差し出す手のひらに鼻先を寄せてきたという」
「竜は、自分の影に怯えていた、と」
「王自身がそう見抜いたと伝わっている。夜、松明の火に照らされて壁や岩に映る竜自身の影が、竜には得体の知れない敵に見えていたんだろう、とね。王はそれを見抜いて、竜を光の下へ導いた。それだけの話だ。だが、それだけの話が、この谷ではひとつの伝説の始まりに過ぎない」
「その後、竜は王に従うようになったのでしょうか」
「従う、というのとは少し違うと聞いている」トバイアスは目を細めた。「王が谷を去ったあとも、竜はこの谷に留まり続けた。誰かの命令で飼い慣らされたというより、光の下で暮らす方が楽だと、竜自身が選び直したのだ、と語る古老もいる。もっとも、それが本当に竜の側の選択だったのか、それとも王の力に屈しただけだったのか、私が生まれるよりずっと前の話だから、確かめようもないがね」
トバイアスはそう言うと、谷の奥を指し示した。風が一段と強く吹き抜け、草がざわめいた。
「この先には、もう二つの話が待っている。結び目の話と、祠の話だ。だが、その二つを語るのは、私の役目じゃない。結び目の話は谷の管理人に、祠の話は――まあ、行けば分かる」
トバイアスは意味深にそう言って、それ以上を語ろうとはしなかった。レイブンは礼を言い、風になびく草の間を縫うようにして、谷の奥へと歩を進めた。
二 断たれた結び目
谷の中腹に差しかかる頃には、風の向きが変わり、両側の岩壁に沿って渦を巻くように吹き下ろしてくるのが分かった。足元の草丈も低くなり、代わりに白っぽい岩肌が剥き出しになった斜面が続いている。この一帯だけ植生が薄いのは、風がひときわ強く吹き抜けるせいだろうと、レイブンは記録帳に書き留めながら歩を進めた。
谷の中腹には、木組みの小さな管理小屋が建っていた。その脇には、風化して灰色になった太い綱の遺構が、複雑に絡み合った塊のまま、台座の上に据えられている。近づいてよく見ると、綱はところどころ鋭利な刃物で断ち切られたような跡があった。
「ようこそ、双角の谷へ。記録者だとトバイアスの伝令で聞いています」
小屋から出てきたのは、若い男だった。名をセドリクといい、この谷の言い伝えや遺構を代々管理する家に生まれたのだと自己紹介した。物腰は丁寧だが、言葉を選ぶときにわずかな間を置く癖があり、レイブンの記録者としての勘が、そこに何か含みがあることを感じ取った。
「この綱は、何のためのものですか」
「『結界紐』と呼ばれています。かつてこの谷を封じていたとされる、儀礼上の結び目です」セドリクは綱に手を触れながら言った。「言い伝えでは、この結び目を解いた者が、谷全体の正統な支配者になるとされていました。何世代にもわたって、多くの者がこれを解こうと試みては、失敗してきたそうです」
「けれど、この綱には、刃物で断たれたような跡が」
セドリクは小さくうなずいた。「よくお気づきになりました。竜を鎮めたと伝わる、あの若い王――ここでは『征服王ヴァルド』と呼び習わされていますが――は、この結び目を前にして、しばらく考え込んだのち、腰の剣を抜いて、一刀のもとにこれを断ち切ったと伝わっています」
「解いたのではなく、断った」
「そうです。ヴァルドはそれを『解いた』と宣言しました。誰も文句をつけられなかった。なぜなら、結び目はもう存在しなかったからです。ヴァルドはその場で、自らをこの谷の正統な支配者だと宣言し、居合わせた者たちも、それを認めるほかありませんでした」
レイブンは記録帳のページをめくりながら、ふと問いを重ねた。「谷の人々は、それをどう受け止めたのでしょうか」
「今も割れています」セドリクは苦笑めいた表情を浮かべた。「力ずくで難題を退けたことを、大胆で英雄的な決断だったと語る者もいれば、それは『解く』という本来の意味を踏みにじった、ただの詭弁に過ぎないと語る者もいる。私の一族の記録係も、代々どちらの立場にも与さず、両方の見方を書き残すよう努めてきました」
「あなた自身は、どちらだとお考えですか」
セドリクは少し考えてから、慎重に言葉を選んだ。「私は、どちらでもないと思っています。ヴァルドは難題の前提そのものを疑った。『解く』とは本当に紐をほどくことだけを意味するのか、と。それは知恵とも、屁理屈とも呼べる。境目は、見る者の立場次第でしょう」
その答えに、レイブンは小さく相槌を打った。谷の風がまた強く吹き、綱の遺構が微かに音を立てた。
「私の一族にも、複雑な感情があります」セドリクは綱の切り口に指先で触れながら続けた。「代々の管理人の中には、この結び目を実際に解こうと試みた者もいたと記録に残っています。誰ひとり解けなかった。だからこそ、それを断ち切ったヴァルドの決断は、ある意味では一族の努力を踏みにじる行為でもあった。それでも、谷に平穏をもたらしたのは事実です。恨みと感謝が、同じ場所に同居しているような心地がします」
「あなたご自身は、その両方を受け継いでいらっしゃるのですね」
「そうかもしれません」セドリクは小さく笑った。「だからこそ、私はどちらの立場にも肩入れせず、ただ記録を残す側でいたいと思っています。レイブン様と、似た立場かもしれませんね」
その言葉に、レイブンは初めて、この若い管理人に対して親しみに近いものを感じた。
「もうひとつ、伺いたいことがあります。トバイアスは、この先に祠があると仄めかしていました」
セドリクの表情に、初めてはっきりとした緊張が浮かんだ。「ええ。谷の最奥、二つの峰が最も近づく場所に、古い祠があります。そこには今も――竜が棲んでいます」
「かつて鎮められた竜の、末裔でしょうか」
「そう伝わっています」セドリクは声を落とした。「ただし、祠の話については、私の口からは詳しくお話しできません。そこから先は、竜自身に聞いていただくほかない部分がありますから」
レイブンはその言い回しに、単なる遠慮以上の何かを感じ取ったが、それ以上を問うことはせず、記録帳を閉じて、谷の最奥へと続く小道に足を向けた。
三 祠の竜、レイブンとの対話
谷の最奥は、二つの峰がほとんど触れ合わんばかりに迫った、狭く薄暗い場所だった。風がここでひときわ強く渦を巻き、まるで谷そのものが呼吸しているかのような音を立てている。その奥に、風化した石造りの祠が、峰の岩肌に埋め込まれるようにして建っていた。
祠の前で足を止め、レイブンが記録帳を開いたとき、頭上で大きな影が動いた。見上げると、灰褐色の鱗を持つ一頭の竜が、峰の合間から滑るように舞い降りてくるところだった。翼が風を切る音は驚くほど静かで、着地の際にもほとんど土埃を立てなかった。
「久しいな、記録者と名乗る人間が来るのは」竜は低く、しかしよく通る声で言った。「名は、シロッコ。この祠を住処とする者だ」
「レイブンと申します。谷の入口とここまでの道で、王と竜にまつわる二つの話を聞いてまいりました」
「トバイアスとセドリクの話だな」シロッコは目を細めた。「二人とも、それぞれの立場から丁寧に語る者たちだ。悪くない」
「最初の話――竜が影に怯えていたという話は、真実なのでしょうか」
シロッコは少しの間、沈黙した。それから、静かに首を垂れた。
「真実だ。私はその竜の血を引く者だが、一族に伝わる記憶の中にも、同じ話が残っている。夜、松明の火が壁や岩に落とす影に怯え、見えない敵と戦っているつもりで暴れていた、若く愚かな祖先の姿がな。恥じるべきことではないと、今の私は思っている。だが当時は、それが恥だと思われていた時期もあったようだ」
「王は、それを見抜いて、光の下へ導いた」
「その通りだ」シロッコは頷いた。「辛抱強い若者だった、と一族の記憶は語っている。すぐに剣を抜くこともできたはずなのに、ひと晩、ただ座って竜の様子を見ていたという。それだけの辛抱を払える人間は、当時も今も、そう多くはない」
レイブンはその言葉に、意外な響きを感じた。「王への評価は、悪いものではないのですね」
「悪くはない」シロッコは静かに答えた。「力で解決したことを、私は責めるつもりはない。竜が理不尽に暴れていたのなら、誰かがそれを止める必要はあっただろう。問題は、その先の話にある」
竜はそう言うと、翼を軽く畳んで、祠の前の平たい岩に身を横たえた。レイブンも記録帳を持ったまま、少し離れた岩に腰を下ろした。風が二人の間を吹き抜けていく。
「先ほど、影に怯えていた祖先を『恥じるべきことではない』と仰いました」レイブンは静かに言葉を継いだ。「ですが、あなた自身は、その祖先の血を引くことを、どう感じておられるのでしょうか」
シロッコはしばらく沈黙してから、ゆっくりと答えた。「複雑だ、というのが正直なところだろうな。私が若い頃、年長の一頭から、その祖先の話を聞かされたことがある。『お前の中にも、影に怯える性分が眠っているかもしれない』と。私はそれを、脅しのようにも、忠告のようにも受け取った。今でも、月のない夜、松明の灯りが岩壁に落とす影を見ると、わずかに胸が騒ぐことがある。血というのは、案外そういうものなのかもしれない」
「それを、誰かに話したことは」
「お前が初めてだ」シロッコは静かに言った。「祠の番人という立場上、弱さを見せることは、あまり歓迎されない。だが記録者というのは、弱さも含めて書き留める仕事なのだろう。だから話した。それだけのことだ」
レイブンはその言葉を、丁寧に記録帳に書き写した。竜がこれほど率直に胸の内を明かすことは、これまでの旅でも稀だった。
「結び目の話については、どうお考えでしょうか」
「あれも、まあ悪知恵とまでは言わないが、力業には違いない」シロッコは苦笑めいた響きを声に混ぜた。「結び目を『解く』という約束事を、剣で『断つ』ことにすり替えた。狡いと言えば狡いが、そういう狡さを持つ者でなければ、そもそもこの谷を平定することなどできなかったのかもしれない。私はそこに、さほど強い怒りは覚えない」
そこまで語ったところで、シロッコは初めて長い沈黙を挟んだ。風の音だけが、しばらく谷に満ちていた。
「あなたと話していると、王という人物の輪郭が、少しずつはっきりしてくるように感じます」レイブンは静かに言った。「辛抱強く、そして狡猾でもある。ですが、まだ最後の話――祠での出来事については、何も伺っていません」
シロッコの目が、わずかに細くなった。
「それは、私が最も語りたくない話だ」竜は低く言った。「だが、記録者に何も語らずに帰すのも、それはそれで不誠実だろうな」
夕暮れの気配が、双角の峰の間から静かに忍び寄ってきていた。
四 託宣の真相
「あの若者は」シロッコはゆっくりと語り始めた。「結び目を断ち切ったその足で、この祠にやってきた。当時、私はまだ若く、力を認められて祠の番をするようになったばかりだった。若者は私の前に膝をつき、こう問うた。『この谷を治める資格が、自分にあるかどうか教えてほしい』と」
「あなたは、何と答えたのですか」
「何も、答えなかった」シロッコの声には、隠しようのない苦さがにじんでいた。「正確に言えば、答えようがなかった。私はただの一頭の竜に過ぎない。人間の資格の有無を判じる術など、持ち合わせてはいない。長旅の疲れと、結び目を断った緊張とで、私はただ低く唸っただけだった。あるいは、それさえもせず、ただ黙って若者を見つめていただけだったかもしれない。正直に言えば、その瞬間の記憶さえ、今の私にははっきりしない」
レイブンは筆を止め、シロッコの表情を見つめた。
「谷の言い伝えでは、その場面が『竜が、若者を天の子であると告げる神託を下した』という話に変わっています」
「知っている」シロッコは吐き捨てるように言った。「若者は、私の唸り声か沈黙かを、都合よく汲み取ったのだろう。祠を出た後、彼はすぐさま家臣たちに向かって、『祠の竜より、我が支配の正統性について託宣を受けた』と宣言した。私は、その場に居合わせていない。彼が何と言い触らしたのかを知ったのは、ずっと後になってからのことだ」
「訂正しようとは、思わなかったのですか」
「思わなかった、と言えば嘘になる」シロッコは目を伏せた。「だが、竜が人間の言葉で公に何かを訂正するという行為自体が、この谷では前例のないことだった。それに、若者はすでに谷の支配者として認められ始めていた。今さら私が『そんなことは言っていない』と告げたところで、誰が信じただろうか。むしろ、竜が心変わりをして王を裏切ろうとしていると受け取られたかもしれない」
そこへ、足音が近づいてきた。振り返ると、セドリクが息を切らしながら立っていた。
「お邪魔して申し訳ありません。シロッコ様がこの話をなさっていると、風の音で分かったものですから」セドリクはそう言うと、抱えていた古い帳簿を差し出した。「レイブン様、これをご覧いただけますか」
帳簿には、代々の管理人が書き継いだ記録が収められていた。最も古い代の記述には、簡潔にこう記されている。「王、祠にて竜と対面す。竜、声を発す」――それだけだった。だが代を経るごとに、記述は少しずつ詳しくなっていった。「竜、王に対し是なる旨を示す」「竜、王を天より遣わされし者と認む」――最も新しい代の記述に至っては、「竜、王を天の子と宣す」とまで書かれていた。
「ご覧の通りです」セドリクは静かに言った。「記述は、代を経るごとに、より劇的に、より断定的になっていきました。私の一族も、その変遷に加担してきたことを、否定はできません」
「なぜ、そうした変遷が起きたのでしょうか」
「王の血筋を継ぐ者たちにとって、『竜の神託を受けた正統な支配者』という物語は、都合が良かったのでしょう」セドリクは目を伏せた。「代々の管理人も、時の支配者の求めに応じて、記述を少しずつ書き足していった。それを恥じる気持ちがないと言えば、嘘になります」
シロッコは長い首をもたげ、帳簿を一瞥した。
「私は、誰かを咎めるつもりはない」竜は静かに言った。「人間が、説明のつかない沈黙や唸り声に、都合の良い意味を当てはめずにはいられない生き物だということは、長く生きてきた私にも分かる。ただ、私自身がその物語に確信を持てないというだけの話だ。私は誰も『天の子』などと呼んだ覚えはない。あの若者が、私の唸り声か沈黙かを、都合よく言葉に置き換えただけのことだ」
レイブンは記録帳に、シロッコの言葉を一字一句書き留めていった。
「力ずくで竜を鎮め、力ずくで結び目を断った王が、最後には力ではなく、竜の沈黙を都合よく解釈することで、自らの正統性を打ち立てた――そういうことになりますでしょうか」
「おおよそ、その通りだろうな」シロッコは低く答えた。「力で解決できることには、限りがある。谷を平定することはできても、人々にそれを長く認めさせるためには、別の種類の物語が必要だったのだろう。私の唸り声は、その物語にとって、都合の良い材料のひとつに過ぎなかった」
五 記録帳に残す、力と物語の境界
夕闇が双角の峰の間に降り始めていた。セドリクは帳簿を抱え直し、深く一礼すると、先に管理小屋へと戻っていった。祠の前には、レイブンとシロッコだけが残された。
「あなたは、その扱われ方を、快く思っていないのですね」
「快くは思わない」シロッコは静かに認めた。「だが、それを止める術も、私は持たない。私にできるのは、こうして聞かれたときに、分かっていることは分かっている、分からないことは分からないと、正直に答えることだけだ」
「それだけで、十分だと思います」
シロッコは初めて、微かに笑ったように見えた。竜の表情の機微を読み取るのは難しかったが、少なくともレイブンにはそう感じられた。
「ひとつ、聞いてもよいか」竜は言った。「お前は、これから何を記録に残すつもりだ。谷の伝承通りに書くのか、それとも私の証言だけを正しいものとして書くのか」
「どちらも、記録に残すつもりです」レイブンは答えた。「力ずくで解決し、それを神話として権威づけた征服王の伝承と、神託など与えていないというあなた自身の証言、その両方を。どちらが真実かを決めるのは、私の役目ではありません」
シロッコはしばらくレイブンを見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「それでいい。むしろ、それがいい」竜は言った。「断定は、いずれ別の代の誰かによって、また都合よく書き換えられるだろう。だが、断定しないという記録の仕方だけは、そう簡単には書き換えられない」
翌朝、レイブンは谷を発つ支度を整えた。トバイアスは入口の小屋の前で見送りに出てきて、旅の無事を短く祈ってくれた。
「祠まで行ったのだろう」トバイアスは杖をつきながら言った。「シロッコの奴め、また唸り声の話をしたか」
「ご存知だったのですか」
「谷に長く住んでいれば、誰でも薄々気づくものさ」トバイアスは肩をすくめた。「だが、それを声高に語る者は少ない。谷の外から来る旅人たちが求めているのは、真偽の検証ではなく、力強い英雄譚の方だからね」
セドリクも見送りに姿を見せ、深く一礼した。「今回の記録が、いずれ誰かの目に触れたとき、この谷の伝承を見る目が、少しでも複雑なものになれば幸いです」
谷の入口の浮き彫りの前で、レイブンは最後にもう一度足を止めた。片手を掲げた若い王と、後ろ足で立ち上がる竜の図は、朝の光を受けて、昨日よりもいくぶん静かな表情を浮かべているように見えた。
記録帳の最後のページを開き、レイブンは筆を走らせた。
――双角の谷には、荒ぶる竜を鎮め、古い結び目を断ち切り、祠にて天啓を受けたという、三段構えの征服王の伝承が伝わっている。前の二つについては、祠に棲む竜自身もおおよそ事実であったと認めている。だが最後の神託については、竜は「そのようなものを与えた覚えはない」と明言する。あの日、疲れて発した低い唸り声か、あるいはただの沈黙かを、若き王が自らの正統性のために都合よく言葉に置き換えたのではないか――竜はそう推測しているが、確信はないという。
力による解決には、限界がある。だからこそ人は、それを物語によって権威づけようとするのかもしれない。その物語がどこまで真実で、どこから神話に変わったのか、私が断定することはできない。ただ、竜自身の醒めた証言と、代を経て少しずつ書き足されていった帳簿の記述、その両方を、確かな手触りとして記録に残しておきたいと思う。
谷を出る手前で振り返ると、二つの峰の間を風が抜けていくのが見えた。まるで谷そのものが、まだ何かを語り足りないかのように、低く唸り続けているようだった。それが本当に唸り声なのか、それとも風の音に過ぎないのか、レイブンにはもはや判じようがなかった。
灌木の斜面を下りながら、レイブンは一度も後ろを振り向かなかった。谷の風音が完全に聞こえなくなる頃には、記録帳の中の二つの証言だけが、確かな重みを持って旅の荷に加わっていた。
あとがき
本作は、古代マケドニアの王アレクサンドロス3世(大王)にまつわる伝承――プルタルコス『対比列伝(英雄伝)』等に伝わる、誰も乗りこなせなかった荒馬ブケパロスを、影に怯えているだけだと見抜いて手なずけた逸話、フリギアの都ゴルディオンで「結び目を解いた者がアジアの王になる」という伝説の結び目を剣で断ち切った逸話、そしてエジプトのシワ・オアシスのアンモン神殿で「神の子」であるとの神託を受けたと伝えられる逸話――の三つを下敷きにした翻案である。
本作では舞台を風竜共和国エアリアル・セプトの辺境「双角の谷」に移し、荒馬を風竜に、ゴルディオンの結び目を谷を封じていたとされる「結界紐」に、シワの神託を谷の祠での出来事に置き換えた。原典では明確にされない「神託を受けたとされる存在の側の視点」を新たに設け、竜自身が「天の子」という言葉を与えた覚えがなく、疲労による唸り声や沈黙を若き王が都合よく解釈したのではないかと自ら推測する、内省的な証言として描いている。また、力ずくで難題を解決したことへの評価が谷の中で割れていることや、祠の記録が代を経るごとに少しずつ「盛られていった」経緯を示す帳簿の存在は、本作独自の創作である。登場する人物名・竜の名(レイブン、トバイアス、セドリク、シロッコ、ヴァルドほか)、地名(双角の谷、エアリアル・セプト等)はすべて本作のための創作であり、原典の固有名詞をそのまま用いた部分はない。原典や特定の翻訳文からの逐語的な引用・翻訳は行っていない。
本作は古代マケドニアの王アレクサンドロス3世(大王)にまつわる伝承(プルタルコス『対比列伝(英雄伝)』アレクサンドロス伝、原文の英訳例: https://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Plutarch/Lives/Alexander*.html)に伝わる、荒馬の調教・ゴルディオンの結び目・シワの神託の逸話を参考にした翻案作品です。