竜は詫びを言えなかった
山あいの村で戯れる幼い竜のいたずらが、少年の病む母から最後の望みを奪った。竜は正体を隠し、夜ごと詫びの獲物を届け続けるが、竜を恐れる村の掟が、真実の伝わる前にその命を奪ってしまう。新美南吉『ごん狐』を翻案した贖罪の物語。
一 川霧の朝
白樫村は、四方を低い山に囲まれた、家の数を数えるのにも両手で足りるほどの小さな村だった。村を貫いて流れる小夜川は、雨の少ない年でも涸れることがなく、春には岩魚が、夏には鮠が、そして今時分――晩秋には、下流の淀みに丸々と肥えた鰻が潜むことで知られていた。村人たちは代々、この川の恵みを頼りに生きてきた。田の実りが乏しい年でも、川さえ枯れなければ、なんとか冬を越せる。そう言い伝えられるほど、小夜川は白樫村にとって命の綱だった。
十吉は、その川に朝ごとに仕掛けを見に出るのを日課にしていた。歳は十二。父は十吉がまだ物心つく前に、山の斜面から落ちて命を落とした。以来、機織りの内職と、十吉が獲ってくる川魚とで、母のおふさと二人、どうにか冬を越してきた。今年の冬は、いつもより早く来るらしい。木々の色づきが例年より半月も早く、朝ごとの霜も日を追って厚みを増していた。おふさは十日ほど前から床につき、乾いた咳を繰り返している。医者は村にいない。隣村まで一刻半、薬を買う銭もない。ただ、年老いた産婆が診に来て言うには、精のつく鰻の肝を毎日すこしずつでも食べさせれば、峠は越せるだろうということだった。
「鰻の肝だよ、十吉。あれさえ食べさせりゃ、おふささんの咳もましになる」
産婆の言葉を、十吉は何度も胸の中で繰り返した。だから十吉は、霜の降りた川原に裸足で下りるのも厭わず、毎朝仕掛けの筌(うけ)を検めた。今朝もまだ暗いうちから起き出し、白く立ちこめる川霧をかき分けるようにして川縁を歩いていた。冷えた石を踏む足の裏が痺れるように痛んだが、その痛みを感じているうちは、まだ動けると十吉は自分に言い聞かせていた。
――このあたりに、竜がおるげな。
歩きながら、十吉はふと、去年の秋祭りで聞いた噂を思い出していた。誰が言い出したものか、上流の岩場で夜ごと青白い光が瞬くとか、朝になると畑の隅の霜が妙な形に融けているとか、そんな他愛もない話だった。年寄りたちは、それを聞くたびに顔を曇らせ、「昔のことを思えば、笑い事ではない」と口を揃えた。白樫村には、三代前――村でいちばんの古老でさえ、その父から聞いた話だという――に、天を覆うほどの巨きな竜が村へ舞い降り、実りかけた田畑をひと息に焼き払ったという言い伝えが残っている。その年、村では十七人が飢えで命を落とした。以来、白樫村には「竜を見れば、迷わず討て」という掟が、当たり前の作法として、寄合の場でも、子供への言い聞かせの場でも、繰り返し語られてきたのだった。
十吉はその言い伝えを、恐ろしい昔話としてしか聞いたことがなかった。今どき竜など、山の獣と同じくらい、めったに人前へは出てこないものだと、誰もがどこかで思っている。だから、その朝、川上の岩陰でちらりと動いた金色のものを目にしたときも、十吉はそれを竜だとは思わず、ただ大きな鳥か何かだろうと見過ごした。
その「大きな鳥」は、実のところ、生まれてまだ二年に満たない仔竜だった。琥珀色の鱗はまだ柔らかく艶を持たず、翼も体の丈に見合うほどには育っていない。竜としては赤子も同然の年頃で、山の奥で独り、誰に教わるでもなく飛び方や水の潜り方を覚えている最中だった。仔竜は、人間の子供が水遊びに夢中になるのと同じように、朝ごとに川へ下りては、瀬の魚を追いかけたり、水面すれすれを飛んで水しぶきを上げたりして遊んでいた。悪気などかけらもない。ただ、自分の体がどれほどの力を持っているのか、仔竜自身、まだよくわかっていなかっただけだった。親から離れて久しいその竜には、力の加減を教えてくれる者も、危うさを戒めてくれる者もいなかった。
その日も、仔竜は川上で楽しげに水面を叩いていた。尾の一振りが小さな波を立て、その波が瀬をいくつも越えて、下流の十吉の仕掛けにまで届いていることに、仔竜は気づいていなかった。水面に映る自分の影を追いかけ、跳ねる小魚を眺めては嬉しそうに喉を鳴らす。その無邪気な戯れが、村の暮らしのどこに触れているかなど、考えもしないままに。
村の暮らしは、いつもそうした川の恵みと、山の恵みとの、ぎりぎりの釣り合いの上に成り立っていた。稲の刈り入れを終えた田には案山子だけが残り、女たちは軒先で機を織り、男たちは薪を割って冬支度に追われる。子供らは川原で石を投げ合い、日が傾けば家路を急ぐ。十吉もかつては、その子供らの輪の中にいた。だが父を亡くしてからは、遊びよりも仕事を覚えるほうが早く、いつしか村の誰よりも早起きな子供として知られるようになっていた。年配の女たちは、そんな十吉を見るたびに「感心な子だよ」と褒めながらも、その眼差しの奥には、あの若さで苦労を背負う不憫さを隠しきれずにいた。
二 途絶えた夜
その日の仕掛けは、空だった。翌日も、その次の日も同じだった。十吉はおかしいと思いながらも、時期が悪いのだろうと自分に言い聞かせ、仕掛ける場所を変え、餌を変え、それでも一匹の鰻も掛からない日が続いた。実のところ、仔竜が水面ではしゃぐたびに立つ波と、驚いて逃げ惑う魚の群れとが、ちょうど十吉の仕掛けを避けるように瀬を渡っていたのだが、そんなことを知る由もない十吉は、ただ焦りだけを募らせていった。
おふさの咳は日に日に重くなっていた。粥に混ぜる山菜さえ底をつき、十吉は隣家から借りた古米を炊いて、母の枕元へ運ぶ毎日だった。
「十吉、無理をおしでないよ」
おふさは、痩せた頬に薄く笑みを浮かべて言った。「川は逃げやしない。お前まで体を壊したら、それこそ困る」
「大丈夫だ、おっかあ。今日こそはきっと」
十吉は明るく答えたが、川原に立つたび、胸の裡では焦燥がふくれあがっていくのを感じていた。仕掛けを検めるたびに空の筌を見つめ、水面に向かって「頼む、今日こそは」と声に出さずに祈った。夜になれば、痩せていく母の頬を見つめ、明日こそはと自分に言い聞かせる。その繰り返しが、十吉の中で少しずつ、静かな絶望に変わっていった。
獲れない日が七日も続いたある晩、おふさの咳は堰を切ったように激しくなり、夜半、とうとう息が上がらなくなった。十吉が隣家へ走り、村の者たちが総出で駆けつけたときには、もう手の施しようもなかった。おふさは、十吉の手を弱々しく握り返しながら、「十吉……お前は、ひとりでも」と言いかけたきり、それ以上言葉を継ぐことができなかった。
おふさが息を引き取ったのは、その年でいちばん冷え込んだ晩のことだった。十吉は葬いのあいだ、ほとんど声を出さなかった。村人たちが焚く線香の煙を見つめながら、ただ、川に仕掛けを見に行けなかった日、川原に立てなかった日の数を、指折り数えるようにして胸の中で繰り返していた。あの鰻さえ獲れていれば――そう思わずにはいられなかった。誰にもぶつけようのない悔いだけが、十吉の胸の内に、冷たい石のように沈んでいった。
その頃、仔竜は山の中腹から、村の様子をぼんやりと見下ろしていた。ここしばらく村から漂ってくる線香の匂いと、低く続く念仏の声に、何か普段と違うことが起きたらしいとは感じていたが、それが自分と関わりのあることだとは思ってもいなかった。
真実を知ったのは、数日後、村外れの井戸端で交わされていた女たちの立ち話を、木立の陰から聞いてしまったときだった。
「十吉んとこのおっかさん、可哀想にねぇ。もうすこし精のつくものが食べられたら」 「あの子も、あんなに毎朝川に通っていたのに、この頃はまるで魚が獲れなかったっていうから。何かの祟りかね」 「祟りだなんて、罰当たりなことをお言いでない。運が悪かっただけだよ」
木の陰で、仔竜は身を固くした。運が悪かった――その言葉が、仔竜の中で別のかたちを取っていく。あの日、あの朝、自分が楽しさに任せて立てた波、逃がした魚たち。それが誰かの命の綱を、静かに断ち切っていたのだということに、仔竜はそのときはじめて思い至った。
その夜、仔竜は月の光も届かぬ谷底で、生まれてはじめて、体の内側が冷たく凍りつくような感覚を味わった。人間の言葉で言うなら、それは紛れもない後悔だった。だが後悔したところで、失われたものは戻らない。仔竜にできることといえば、ただ、これから先の夜を、償いに充てることだけだった。
その晩から、十吉の家の戸口には、毎晩のように何かが置かれるようになった。腹の膨れた岩魚が三匹、あるいは丸々とした栗が一抱え、時には獲れたばかりの兎が一羽。誰が届けているのか、十吉にはわからなかった。はじめのうちは気味悪がって手をつけずにいたが、独り身になった暮らしの心細さと、正直な飢えには勝てず、やがて黙ってそれを頂くようになった。
「山の主様が、哀れんでくださったのかもしれん」
村の年寄りにそう言われ、十吉はなんとなく、その見えない誰かに手を合わせるようになった。朝、戸口の獲物を見つけるたび、十吉の胸にはささやかな温かさが灯った。誰か知らぬ相手ではあったが、自分のことを気にかけてくれる者がいる――それだけで、独りぼっちの冬を越す力になった。
三 名も知らぬ隣人
冬が深まるにつれ、十吉と、見えない届け主とのあいだには、奇妙な暮らしのかたちができあがっていった。十吉は、朝の戸口に何が置かれているかを見るのが、いつしか一日のうちでいちばんの楽しみになっていた。ある朝は艶やかな山栗、またある朝は、こんもりと積まれた零余子。十吉は、ほんの気持ちばかりの礼として、余った古米を紙に包み、戸口の隅にそっと置くようになった。誰に届くとも知れないその礼を包みながら、十吉は「もし山の主様に願いごとが通じるなら」と、心の中で他愛もない祈りを唱えるのが習いになっていた。
仔竜は、いつもその礼を、木立の陰からじっと見ていた。人間の子が、自分の差し出すもののために手を合わせ、包みを用意してくれる。その姿を見るたび、仔竜の胸の奥にはこれまで知らなかった温かさが灯った。それは、償いのために続けているはずの行いが、いつしか自分自身の支えにもなっているという、不思議な感覚だった。
ある晩、仔竜は少し欲を出して、岩魚を届けた帰り際、戸口のすぐ近くまで身を寄せすぎてしまった。折しも厠へ立った十吉が、戸を開ける音に、仔竜は慌てて木立の奥へ飛び退いた。羽ばたきの音に、十吉は目を凝らしたが、月は雲に隠れ、闇の中に大きな影がわずかに揺れたのを見たきりだった。
「……狐か、それとも狸か」
十吉はそう独りごちて、それ以上は詮索しなかった。まさか、その正体が竜であるなどとは、十吉の想像の外にあることだった。仔竜は、心の臓が縮み上がるほどの思いをしながらも、その夜以来、いっそう気配を殺すことを覚えていった。近づきすぎてはいけない。正体を知られてはいけない。それは、仔竜自身のためというより、十吉のためだった。もしこの温かい贈り物の主が竜だと知れれば、十吉は喜ぶどころか、恐れ、あるいは村の掟に従って、自分を討たねばならなくなるだろう。仔竜には、そのことがはっきりとわかっていた。
冬のあいだ、十吉は少しずつ、独りの暮らしに慣れていった。機織りの仕事は隣家のおかみに教わりながら細々と続け、川の仕掛けも、母のためではなく、自分と、見えぬ恩人への礼のために続けた。悲しみが消えたわけではなかったが、朝ごとの小さな贈り物が、十吉の毎日に、細い糸のような支えを通していた。
「山の主様は、きっと俺のことを見ていてくださる」
十吉は、そう信じることで、独りの寒さを凌いでいた。仔竜はその言葉を、木立の向こうから聞くたびに、喜びと、それに勝るとも劣らない痛みを、同時に感じていた。十吉が向けている感謝は、本当は、母の命を奪った自分に向けられるべきではない、償いにすぎないものだったからだ。それでも仔竜は、夜ごとの届け物をやめなかった。詫びの言葉を、竜の身では紡ぐことができない以上、これが自分にできる、唯一の詫びの形だった。
雪が本格的に降り始めるより少し前、十吉は珍しく、戸口で「山の主様」に向けて、声に出して語りかけたことがあった。仕事の帰り、誰もいないはずの闇に向かって、十吉はぽつりと呟いたのだ。
「なあ、山の主様よ。俺はいつか、あんたに会えるんだろうか。会って、ちゃんと礼を言いたいんだ」
木立の陰で、仔竜は息を詰めた。姿を見せたい、名乗り出たい――そんな衝動が、仔竜の中で幾度も頭をもたげた。だが、そのたびに、村の掟の言葉が重石のように胸にのしかかった。竜を見れば、迷わず討て。もし今、目の前に姿を現せば、十吉の胸に灯ったこの温かさごと、すべてを壊してしまうかもしれない。仔竜は結局、その夜も、闇の中で静かに踵を返すよりほかなかった。会いたいという願いは、届けるべき獲物と同じだけ、仔竜の胸の裡に積もっていった。
四 篝火の夜
冬が深まるにつれ、仔竜の翼も、鱗の艶も、目に見えて育っていった。もはや赤子の姿ではない。夜ごと村へ下りて獲物を届ける道すがら、爪が土を割り、羽ばたきが梢を揺らすほどの力を、仔竜は少しずつ身につけていた。それは仔竜にとって、ただの成長だったが、村人たちにとっては違った意味を持った。
畑の隅の霜が奇妙な形に融けていること、山際の下草が焦げたように倒れていること、そうした小さな異変が、この数日で重なって報告されるようになっていた。実際には、育ち盛りの仔竜が眠りの中で無意識に吐く小さな熱の息が、下草をわずかに焦がしていただけのことだったが、村人たちの目には、それは紛れもない凶兆と映った。
「あれは、獣の仕業とは思えん」
村の長老、源蔵が、寄合の場でそう言った。皆が囲炉裏を囲み、その言葉に息を呑んだ。「三代前の言い伝えを思い出せ。竜が舞い戻ってきたのかもしれん。畑を焼かれてからでは遅い。今のうちに、狩り出すべきだ」
異を唱える者はいなかった。十七人が飢えた年の記憶は、たとえ本人が経験していなくとも、白樫村の誰の骨にも染み込んでいた。若い衆が篝火と槍を手に、夜ごと村の周りを見張ることになった。十吉もその中に加わった。母を失って以来、十吉の中には、ぼんやりとした怒りの置き場のなさがくすぶっていた。運が悪かった、それだけのことだと自分に言い聞かせながらも、心のどこかで、何か大きなものを憎まずにはいられなかった。竜の噂は、その行き場のない感情に、ちょうどよい形を与えてくれた。
「もし本当に竜が出たら、俺が仕留めてやる」
十吉は、そう言って槍の柄を強く握った。仲間たちは、母を亡くしたばかりの十吉の意気込みを、痛ましさ半分、頼もしさ半分で見ていた。誰も、十吉が毎朝手を合わせている「山の主様」と、村中が恐れている「竜」とが、同じ一頭の生き物であるとは思いもしなかった。十吉自身、そんなことを疑いすらしなかった。
見張りの三日目の晩、十吉は村外れの自分の家の近くを受け持つことになった。母がいなくなってからも、戸口には相変わらず獲物が届けられ続けていたが、その晩は、いつもより気配が長引いていた。物音を殺すように歩を進める何かの足音、乾いた小枝を踏む微かな音。十吉は槍を構え、闇の奥へ目を凝らした。
仔竜は、その夜、いつもより上等な贈り物を用意していた。冬支度の仕上げにと、山の奥で見つけた大きな山栗をひとかかえと、川で捕らえたばかりの岩魚を数匹。もうすぐ雪が降る。雪が積もれば、しばらくは思うように山を下りられなくなる。だからこそ、今のうちにと、仔竜はいつも以上に気を張って、村への道を急いでいた。見張りが出ていることにも、篝火の匂いが漂っていることにも、仔竜は気づいていなかった。詫びの届け物のことで頭がいっぱいで、自分の周りに張られた人間たちの警戒に、思いが及ばなかったのだ。
雲間から覗いた月明かりが、木立の隙間を縫うようにして射し込んだ。その光の中に、鈍く光る鱗の一片が見えた瞬間、十吉の頭からはすべての思案が消え失せた。
竜だ。
母を死なせた、あの祟りが、今この村を焼こうとしている。十吉の胸に、これまで積もりに積もった悲しみと怒りが、堰を切ったように噴き出した。考えるより先に、体が動いていた。十吉は闇に向かって槍を突き出し、確かな手応えとともに、それを深く突き刺していた。
低い呻き声が、夜気を震わせた。木立の向こうで、大きなものが崩れ落ちる音がした。十吉は肩で息をしながら、篝火を手に、恐る恐るその場所へ近づいていった。
そこに横たわっていたのは、まだ育ちきらぬ、仔竜だった。
五 遺された栗
篝火に照らされたその体は、思っていたよりもずっと小さかった。琥珀色の鱗は、月明かりの下で、ひどく穏やかな光を帯びていた。十吉は槍を握ったまま、しばらくそこに立ち尽くしていた。仕留めた、という達成感は、なぜか少しも湧いてこなかった。ただ、名状しがたい寒気だけが、足元から這い上がってくるのを感じていた。
竜の傍らに、十吉は見覚えのあるものを見つけた。丸々とした栗が一抱え、腹の膨れた岩魚が数匹、土の上に丁寧に並べられている。まるで、これから誰かの家の戸口に届けるつもりだったかのように。
その瞬間、十吉の中で、すべてがひとつにつながった。
山の主様――そう呼んで手を合わせてきた、あの見えない恩人。毎朝戸口に置かれていた獲物。厠に立ったあの晩、木立の奥へ飛び退いた大きな影。独りぼっちの冬を越す力をくれた、あの温かさ。それのすべてが、今、自分の槍の下に倒れている、この小さな竜のものだったのだ。
「おまえ……」
声が震えた。十吉は膝をつき、竜の傍らに横たわる栗の一つを、震える手で取り上げた。竜の大きな瞳が、かすかに開いてこちらを見ていた。何かを言おうとするかのように、喉の奥が微かに震え、薄い煙のような息が、傷口から漏れ出ていた。だが、その息は言葉にならなかった。人と竜とのあいだには、最初から、言葉を交わす術などなかったのかもしれない。あるいは、竜にはまだ、人の言葉で詫びを紡ぐだけの力が残っていなかっただけかもしれない。
竜の瞳から、すうっと光が薄れていった。詫びの言葉は、とうとう十吉の耳に届くことはなかった。ただ、傍らに積まれた栗と岩魚だけが、何よりも雄弁に、その沈黙を埋めていた。
十吉は、その場から動くことができなかった。篝火の炎が爆ぜる音だけが、いつまでも夜のしじまに響いていた。膝をついたまま、十吉は栗を握りしめた手を額に押し当て、声にならない嗚咽を漏らした。母を亡くした夜と同じ、取り返しのつかなさの匂いが、そこにはあった。
村の男たちが駆けつけたとき、十吉は事の次第を語らなかった。ただ、竜を仕留めたとだけ告げた。源蔵をはじめ村人たちは、その報せに安堵し、十吉の働きを称えた。三代前の惨劇が繰り返されずに済んだのだ、と誰もが胸を撫で下ろした。十吉は、その称賛を、うつむいたまま黙って受け流した。誰にも、あの栗と岩魚のことを話さなかった。話したところで、誰も本当の意味では、わかってくれないだろうと思ったからだ。
それから何年かが過ぎても、十吉は毎年、母の命日が近づく頃になると、小夜川の上流までひとり足を運ぶようになった。竜を葬った場所――村の誰にも明かさず、独りで木の根元に埋めた、あの晩の光景を、十吉は何度も思い返した。そのたびに、詫びを言えなかったのは、果たしてどちらだったのだろうかと、十吉は自問した。声を持たなかった竜だったのか、それとも、闇の中で誰であるかを見極める勇気を持てなかった自分だったのか。
十吉は長じて村を出ることもなく、川漁と機織りを生業に、独りで年を重ねていった。誰かに所帯を持てと勧められても、十吉は曖昧に笑って首を振るばかりだった。夜、戸口に何も置かれていないことを確かめてから眠りにつくのが、いつしか十吉の習いになった。かつて温かかったその場所に、今はただ夜露だけが降りている。それでも十吉は、戸を閉める前に必ず、闇の奥へ向かって小さく頭を下げた。詫びも礼も、もはや届く相手のない仕草だったが、それをやめてしまえば、あの冬の記憶までもが、跡形もなく消えてしまう気がしたからだった。
川面には、今日も静かに霧が立ちこめている。晩秋の朝、白樫村の戸口には、もう誰の獲物も届けられることはない。ただ、十吉の胸の裡にだけ、あの琥珀色の鱗の温もりが、消えることなく残り続けていた。
あとがき
新美南吉『ごん狐』は、悪意なきいたずらが取り返しのつかない結果を招き、その償いの心が、正体を隠したまま最後まで相手に伝わらないという構造に、この作品の核がある。本作では、いたずら好きの小狐ごんを、まだ力の加減を知らない幼い竜に置き換えた。狐は本来、身近な里山の獣として人と隣り合わせに生きているが、竜は「討伐すべき祟り」として、最初から人との間に越えがたい断絶を抱えている存在である。この断絶のぶんだけ、償おうとする竜の孤独と、真実を知る前に手を下してしまう人間側の悲劇性は、より深いものになると考えた。
原作でごんが火縄銃に撃たれ、兵十がその死にざまのそばに積まれた栗を見て初めて真実を悟る結末は、本作でも大きな軸として踏襲している。ただし、竜という設定を活かし、「竜を見れば迷わず討て」という村の掟そのものが、両者の間に横たわる最大の壁として機能するように書き改めた。十吉が竜を撃つのは個人の過ちというより、村ぐるみの恐怖と言い伝えに動かされた行為であり、そこにもうひとつの、伝わらなさの層を加えたつもりである。
本作は新美南吉『ごん狐』を参考にした翻案作品です。