竜は若返りの真偽を語らなかった
水竜王国アクアリウスの湧水地「常若の淵」に伝わる、不死の草を竜に奪われた王の伝説。旅の記録者レイブンは、淵に棲む竜自身から「脱皮はただの習性で、草の逸話とは無関係かもしれない」という醒めた証言を聞き、真偽を断定しないまま淵を後にする。
一 常若の淵、棘を手にした王の像
水竜王国アクアリウスの奥地には、地図にも大きくは記されない小さな窪地がある。窪地の底には澄んだ水が絶えず湧き出ていて、里の者たちはそこを「常若の淵」と呼んでいた。旅の記録者レイブンがその名を最初に耳にしたのは、隣の街で買い求めた古い旅行記の片隅、ほんの数行の記述の中でのことだった。「淵の水に触れた者は老いを忘れるという。ただし、それを確かめに行った者の記録は、いずれも道半ばで途絶えている」――そう記されていた一文が、なぜか記録帳の余白に書き留められたまま、レイブンの旅程に長く居座り続けていた。
淵に至る道は、思っていたよりも険しかった。街道を外れてからは道標もなく、灌木の茂る斜面を下り、湿った岩肌を幾度も踏み外しそうになりながら進む。途中、荷を背負った身なりの良い旅人の一団と幾度もすれ違った。杖をついた老人を中心に、家族らしき数人が寄り添うように歩いていく姿もあった。彼らもまた、同じ淵を目指しているのだろうと、すぐに察しがついた。すれ違うたびに、老人たちの目には共通した何かが浮かんでいるように見えた。縋るような、それでいてどこか諦めきれない光だった。
やがて視界がひらけ、円形の窪地とその底に湛えられた水面が見えてくる。水は驚くほど澄んでいて、底の岩の一つひとつまで数えられそうなほどだった。風もないのに水面には絶えず小さな輪が幾重にも広がっていて、まるで淵そのものが静かに呼吸しているかのようだった。窪地を囲む岩壁には、古い時代に彫られたとおぼしき文様がいくつも刻まれており、そのどれもが、脱ぎ落とされた鱗を象っているように見えた。
レイブンはこれまでの旅で、幾つもの淵や谷を訪ね歩いてきた。だが、そのどれもに共通していたのは、竜にまつわる出来事の真偽が、最後まで判然としないまま語り継がれているということだった。真偽の判じられない話ほど、なぜか長く生き続けるものらしい――そんな考えが、この淵に近づくにつれ、あらためて頭の中で膨らんでいくのを感じていた。
窪地の縁、水を見下ろす形で、一体の古い石像が据えられていた。すでに角の丸くなった石の王が、両手で棘のある草を捧げ持つように立っている。台座には文字が刻まれていたが、風雨に晒された年月のせいで、半分ほどは判読できなくなっていた。かろうじて読み取れたのは、「還らざりし若さ」という一節だけだった。像の足元には、真新しい花が一輪、供えられていた。
「珍しいお客さんだね、こんな辺鄙な淵まで。――といっても、近頃は珍しくもないか」
声をかけてきたのは、水汲みの桶を提げた小柄な老婆だった。深い皺の刻まれた顔に、好奇心を隠さない目をしている。名をミラと名乗り、この淵のほとりで生まれ、今も一人で暮らしているのだと言った。杖をついた旅人たちの一団を見送ってきたところなのだと、桶を置きながら付け加えた。
「あの方々も、この淵の水を求めて」
「そう。この十年ほどで、随分と数が増えたよ。昔はこんな辺鄙な場所まで来る者は、物好きな学者か、よほど切実な事情を抱えた者くらいだったのに」
レイブンが記録者だと告げると、ミラは像を指差して、待っていたかのように口元を緩めた。
「その像の話が聞きたいんだろう。ここに来る旅人は、たいていそうだ」
「差し支えなければ、ぜひ」
「差し支えるものかね。むしろ、誰かに聞かせておかないと、そのうち私と一緒に話も朽ちてしまう」
ミラはそう言って、水辺の平たい岩に腰を下ろした。レイブンも記録帳を開き、その傍らに座った。水面を渡る風もないのに、淵の底からはかすかな水音が絶えず立ち上っていて、二人の会話に低い伴奏をつけているようだった。
「話す前に、一つだけ言っておく」ミラは水面を見つめたまま言った。「この話には、二つの終わり方がある。私が知っているのは、一つだけだ。もう一つの終わり方を聞きたければ、淵の奥に自分で確かめに行くしかないよ」
その言い回しに、レイブンは記録帳のページを繰る手を止めた。淵の奥、という言葉の響きに、単なる比喩以上の何かが含まれている気がしたからだった。だがミラはそれ以上を語らず、ゆっくりと、王と盟友の物語を語り始めた。
二 王と盟友、そして奪われた若さ
「大昔、この地の周辺一帯を治めていた王がいた。名はウルタム。若い頃から武勇に優れ、恐れを知らぬ王として知られていたが、たった一人だけ、心を許した友がいた。名をテムニルという。もとは辺境の荒くれ者だったとも言われているが、いつしかウルタムの右腕となり、戦場でも政でも、常に二人で並び立っていたそうだよ」
ミラの声は淡々としていたが、その抑揚には、幾度も語ってきた者だけが持つ滑らかさがあった。
「ある年、遠征先で流行り病が広がり、テムニルもそれに倒れた。ウルタムは名のある医師をあちこちから呼び集め、自ら夜を徹して看病を続けたそうだが、友の体はしだいに衰えていくばかりだった。息を引き取る間際、テムニルはウルタムの手を握って、こう言ったと伝わっている。『私は先に闇に還る。だがお前だけは、まだ光の中に留まっていろ』。テムニルはその言葉を最後に、静かに息を引き取った」
「王は、深く嘆いたでしょうね」
「嘆いた、というだけでは足りないくらいにね。ウルタムは幾日も食も口にせず、玉座にも座らず、ただ友の亡骸の傍らに座り込んでいたという。だが、それだけでは終わらなかった。友の死を目の当たりにして、初めて『自分もいつか同じように死ぬ』ということに、身をもって気づいてしまったんだ。それまで恐れを知らなかった王が、突然、死そのものを恐れるようになった」
「それで、不死を求める旅に出た、と」
「その通り。ウルタムは玉座を捨て置いて、荒野をさまよい歩いた。あちこちで賢者や隠者に会っては、老いを免れる術はないかと尋ね続けた。ある者は『そんなものは存在しない』と一笑に付し、ある者は『死を恐れるより、生きた証を残すことを考えよ』と諭したという。ウルタムはそのどちらも聞き入れず、なお先へ先へと歩き続けた」
ミラは一度、乾いた喉を湿らせるように、傍らに置いた水甕から一口を飲んだ。
「幾つもの国を経て、ようやく辿り着いたのが、大洪水を生き延びたという伝説を持つ、ある年老いた隠者のもとだった。隠者はウルタムの憔悴した姿をひとしきり眺めたあと、こう告げたという。『お前が求めているものは、この世に一つだけ存在する。この淵の底、深い水の中に、棘のある草が生えている。それを食べれば、老いた肉体もひとときの若さを取り戻す』とね」
ミラは淵の水面を指し示した。
「ウルタムはさっそくここへ来て、体に重い石を括り付けて淵の底に沈んだ。息の続く限り水底を探り、指先が切れるほどに岩の間を探り続けて、ようやくその棘の草を見つけて引き抜いたそうだ。地上に戻ってきたとき、王の手は棘で幾筋も傷つき、血が滲んでいたという。それでもウルタムは、その痛みよりも、ようやく手にした希望の重さの方を、はるかに強く感じていたに違いない」
「王は、その草をすぐに口にはしなかったのですよね」
「よく知っているね。その通り。ウルタムは自分のためだけにそれを使おうとはしなかった。まずは都に持ち帰り、年老いた者に食べさせて効き目を確かめようと考えたんだ。『もし効き目が本物なら、この地の年老いた者たちにこそ、真っ先に若さを取り戻させてやりたい』――道中、そう独り言のように呟いていたと、後年の記録には残っている」
「思っていたより、慎重で、そして情のある人物だったのですね」
「一度死を見つめた者は、案外そういうものかもしれないね」ミラは小さく笑った。「けれど、都までの道のりは長かった。強い日差しと乾いた風の中を、幾日も歩き続けなければならなかった。途中、この淵のほとりまで戻ってきたとき、ウルタムは長旅の汗と埃を洗い流そうと、草を岩の上に置いて、静かに水に身を浸した」
そこでミラは一度言葉を切り、水面をじっと見つめた。輪が幾重にも広がり、やがて静かに消えていく。
「そのとき、一頭の水竜が、草の匂いに気づいて岩の上に這い上がってきた。竜はためらう様子もなく、その棘の草を丸ごと呑み込んでしまったそうだ。ウルタムが水音に気づいて顔を上げた時には、もう遅かった。竜は目の前で、古い鱗を脱ぎ捨てるようにするすると滑り落とし、見る間に若々しい輝きを取り戻して、淵の奥深くへ姿を消していった」
「王は、それを止められなかった」
「一瞬のことだったからね。ウルタムはただ、脱ぎ捨てられた古い鱗と、遠ざかる水面の波紋を見つめることしかできなかったという。彼はその場に座り込んで、長く泣いたそうだ。友の死を悲しんだとき以上に、深く、そして虚しく」
ミラは一度、乾いた唇を湿らせた。
「その後、ウルタムに従っていた家臣たちが、竜の消えた水面を幾日も見張り続けたという話も残っている。網を投げ、篝火を焚いて夜通し淵を見張ったが、水竜の姿は二度と現れなかった。家臣の一人は『あれはもう、この世の淵にはいない獣なのだ』と諦めたように呟いたそうだよ」
「けれど、王はいつまでも泣き続けたわけじゃない。やがて涙を拭って立ち上がり、こう言ったと伝わっている。『不死は、私のものにはならなかった。だが、私が築いたこの地の城壁にこそ、私の名を刻む価値がある』。そうしてウルタムは都へ戻り、二度と若さの草を求めなかった。城壁の一角に自らの功績を刻ませ、それを己の生きた証とした――それが、私の知っている終わり方だ」
レイブンは記録帳に筆を走らせながら、ふと顔を上げた。
「先ほど、二つの終わり方があると仰いましたね。もう一つは」
ミラは水汲みの桶を引き寄せ、ゆっくりと腰を上げた。
「私が語れるのは、伝わってきた話だけだ。竜自身がどう思っているかまでは、私には分からない。それを知りたければ、淵の奥に行くしかないと言ったのは、そういう意味だよ」
そう言うと、ミラは窪地の奥、水音の一段と大きくなる方角を指し示した。そこには、古びた小さな祠が、岩壁に埋め込まれるように建っているのが見えた。祠の入り口には、脱ぎ捨てられた鱗を模した装飾が施され、その前には干からびた供花と、真新しい供花、そして小さな賽銭箱が並んで置かれていた。
「あの祠には、若さと健やかさを願う参拝客が、今でも絶えず訪れる。竜が本当に若返ったのなら、その恩恵にあずかりたいと思うのは、人として無理もないことだろう」
ミラはそう言い残し、桶を提げて自分の小屋へと戻っていった。レイブンは祠の前にしばらく立ち尽くし、賽銭箱の底に積もった硬貨の量が、思いのほか多いことに気づいた。硬貨の間には、遠い異国の刻印を持つものまで混じっていた。
三 淵のほとりの竜
祠の脇で記録帳を整理していると、若い神官が声をかけてきた。名はハルシュといい、この祠を代々守る家に生まれたのだと自己紹介した。物腰は柔らかいが、その目には常に何かを計算しているような鋭さが潜んでいた。祠の裏手には、参拝客の名と願いを書き留めた古い帳簿が幾冊も積まれているのが見えた。
「ミラ婆さんの語りをお聞きになったのですね。あの語りは、この里で一番の見物ですよ」
「見物、ですか」
「参拝の方々には、まずミラ婆さんの語りを聞いていただき、それから祠に案内するのが習わしでしてね。若さを取り戻したいと願う旅の方々にとって、あれほど筋の通った物語は、他になかなかありませんから」
その言い方には、レイブンの記録者としての勘が小さく引っかかるものがあった。「筋が通っている」という評価は、時に「都合よく整えられている」という意味を含むことがある。
「先ほどの帳簿には、随分と昔からの記録が残っているようですね」
「ええ、五代前の神官の頃からのものが、途切れることなく」ハルシュは少し誇らしげに言った後、ふと声を落とした。「ただ、正直に申し上げれば……古い帳簿を遡ると、王と竜の逸話そのものの語られ方が、代を経るごとに少しずつ変わっていることに気づきます。ある代の帳簿では、竜が草を『奪った』とだけ記され、別の代の帳簿になると、竜が『天の意志によって選ばれた』という言い回しが加えられている。参拝客を呼び込むために、話の輪郭が徐々に整えられてきたのではないか――そう疑うだけの理由が、帳簿の中にはございます」
「それを、公にはしていない」
「声高に語る者は、おりません。参拝の方々が求めているのは、真偽の検証ではなく、希望の物語ですから」
その言葉が終わるかどうかというとき、淵の奥の水面が大きく揺れた。波紋が幾重にも広がり、やがて水中から、一頭の水竜が悠然と姿を現した。青みを帯びた鱗が夕暮れの光を弾いて、淵全体が一瞬、淡く発光したように見えた。ハルシュが慌てて頭を垂れる横で、レイブンはただ、その姿に見入っていた。
竜は縁の岩に身を横たえ、値踏みするようにレイブンを見た。
「久しぶりに、記録者と名乗る人間が来たものだ」竜は低く、しかし澄んだ声で言った。「名は、ナイア。この淵に棲む者だ。お前が今しがた抱いた疑いも、だいたい見当がついている」
「疑い、というのは」
「あの伝承が本当なのか、それとも祠を守るための都合の良い話なのか――そういう類の疑いだろう。神官殿の帳簿の話も、そこまでこの水面に響いていたよ」
ハルシュが小さく肩を震わせた。ナイアはそれを咎めるでもなく、ただ静かに続けた。
「私たち一族には、季節が巡るごとに古い鱗を脱ぎ、新しい鱗へと入れ替わる性質がある。それは太古から変わらぬ、ただの習性だ。誰かが草を食べたから若返った、というような特別な出来事ではない」
「では、王が持ち帰った草を、竜の祖先が奪って食べたという話は」
「その部分だけは、私にも判じきれない」ナイアは目を細めた。「大昔のこと故、私自身が見たわけではない。祖先の誰かが、たまたまその時期に鱗を脱いだ姿を、王が居合わせて目にしたのかもしれない。あるいは、本当にその棘の草を食んだ祖先がいて、それがたまたま脱皮の時期と重なっただけかもしれない。どちらであっても、外から見れば同じ光景に映るだろう」
「王が手ぶらで都へ帰った理由を説明するために、後から結びつけられた話である可能性も」
「それも否定はしない」ナイアは初めて、微かに苦笑めいた響きを声に混ぜた。「人というものは、説明のつかない出来事に出会うと、都合の良い物語を当てはめずにはいられないものらしい。それは咎めるべきことでもないだろう。ただ、私自身がその物語に確信を持てないというだけの話だ」
レイブンは記録帳の頁を見つめながら、なおも問いを重ねた。
「一族の間でも、その真偽については語られてこなかったのですか」
「語られたことは、あるにはあった」ナイアは水面に映る自分の姿へ、視線を落とした。「私が若かった頃、年長の一頭が、祠の逸話について同じ問いを口にしたことがある。だが答えは出なかった。誰も見ていない出来事について、竜同士で言い争ったところで、真実に近づけるわけではないからだ。それ以来、この問いは一族の中で、あえて語られないまま留め置かれている」
「留め置かれることに、あなた自身は苦しさを感じていますか」
その問いに、ナイアは初めて長い沈黙を挟んだ。
「苦しい、というよりは……落ち着かない、という方が近いかもしれない。私は誰かに『簒奪者の末裔』と呼ばれても、『瑞兆をもたらす者』と拝まれても、そのどちらの呼び名にも、実感を持てたことがない。ただ季節が来れば鱗を脱ぎ、それだけのことを繰り返してきた。その繰り返しの上に、人が勝手な物語を積み重ねていくのを、遠くから眺めているような心地がする」
ハルシュがそこで、意を決したように口を開いた。
「ナイア様、私が帳簿の記述を変えてきた代々の神官たちを、心のどこかで軽んじていたことを、正直に申し上げます。ですが、彼らもまた、里の暮らしを支えるために、この祠を必要としていたのだと思うのです。参拝の献納がなければ、この里は何代も前に立ち行かなくなっていたでしょう」
「分かっている」ナイアは静かに答えた。「お前を咎めているわけではない。ただ、私にできることは、聞かれれば私の分からないことをそのまま伝えることだけだ。それ以上の役目を、私は引き受けられない」
「他の地でも、似たような話を語る竜がいると聞いたことがあります」レイブンは静かに問いを重ねた。「若さや不死にまつわる草を、竜が奪ったという伝承は、この淵に限った話ではないのかもしれません」
「それも耳にしたことはある」ナイアは水面越しにレイブンを見つめた。「同じような話が、遠く離れた土地にもあるのだとすれば、それは案外、竜という生き物そのものが、人にとって『説明のつかないものを説明するための便利な相手』なのかもしれないな。脱皮も、消え方も、人の目には不思議に映るものばかりだ。だからこそ、物語を当てはめやすいのだろう」
「その役目を、あなた自身はどう感じていますか」
「便利に使われることを、快いとは思わない。だが、それを止める術も、私は持たない。私にできるのは、こうして聞かれた時に、分からないことは分からないと答えることだけだ」
夕闇が窪地に降り始め、淵の水面はしだいに藍色へと沈んでいった。ナイアは長い身を静かに水中へ滑り込ませ、幾重の波紋だけを残して姿を消した。ハルシュはようやく顔を上げ、小さく息を吐いた。
「今のお話は、記録に残されるのですか」
「残します。あなたの祠の事情も、竜自身の言葉も、どちらも」
ハルシュは少しの間、思案するような表情を浮かべていたが、やがて静かに頭を下げた。
「それが、正直な記録者のなさることなのでしょうね」
四 記録帳に残す二つの真実
翌朝、レイブンは淵を発つ支度を整えた。ミラは水汲みの途中で見送りに出てきて、旅の無事を短く祈ってくれた。
「昨夜、ナイアに会ったのだろう」ミラは杖代わりの木の枝を突きながら言った。「あの子は昔から、そういう性分でね。私の語りを黙って聞いていることもあるが、一度も『その通りだ』と頷いたことはない。それでも、この里に留まってくれているのだから、ありがたいことだと思っているよ」
「あなた自身は、あの伝承をどこまで信じているのですか」
ミラはしばらく黙って、淵の方を見つめた。
「正直に言えば、私にも分からない。ただ、私が子供の頃、祖母から聞いた話と、私が今語っている話とは、細部が少しずつ違っている。おそらく、私自身も、知らぬ間に語りを整えてしまっているのだろう。それを恥じるべきなのか、それもまた語り継ぐということの一部だと思うべきなのか、答えは出せていない」
ハルシュも祠の前に立ち、深く一礼した。
淵を見下ろす石像の傍らで、レイブンは最後にもう一度足を止めた。棘の草を捧げ持つウルタム王の像は、朝の光を受けて、昨日よりもいくぶん柔らかな表情を浮かべているように見えた。
記録帳の最後のページを開き、レイブンは筆を走らせた。
――常若の淵には、若さを奪われた王の悲劇と、それを奪ったとされる竜の伝承が伝わっている。だが淵に実際に棲む竜自身は、その因果を確信していない。鱗を脱ぐことは、ただの習性に過ぎないのかもしれない。王が手ぶらで都へ帰った理由を語るために、後の代の者が竜と草の逸話を結びつけたのかもしれない。あるいは、伝わる通りのことが、本当にあったのかもしれない。祠を守る者たちの帳簿には、代を経るごとに語りが整えられてきた形跡さえある。
いずれが真実であるかを、私が決めることはできない。ただ、確かめようのないことに確かめようのない相槌を打ちたくないという、竜自身の醒めた態度だけは、この淵で得た確かな手触りとして、記録に残しておきたいと思う。
窪地を出る手前で振り返ると、淵の水面はまだ静かに輪を広げ続けていた。祠の賽銭箱に硬貨を投げ入れる、一組の旅人らしき人影が遠くに見えた。彼らがどちらの終わり方を信じてこの淵を訪れたのか、レイブンには知る術がなかった。それでも、その静かな水音だけは、王が生きた時代からずっと変わらず、この場所に流れ続けているのだろうと思えた。
灌木の茂る斜面を登り返しながら、レイブンは一度も後ろを振り向かなかった。淵の水音が完全に聞こえなくなる頃には、記録帳の中の二つの真実だけが、確かな重みを持って旅の荷に加わっていた。
あとがき
本作は、メソポタミアの口承叙事詩『ギルガメシュ叙事詩』(粘土板文書として紀元前2100年頃以降に成立したとされる)に伝わる逸話――喪った盟友を悼み、死を恐れた王ギルガメシュが不死の草を求めて旅立ち、海(あるいは淵)の底からそれを得るものの、帰路の泉で水浴びをしている隙に一匹の蛇が草を食べて脱皮し、若返って去っていくという逸話――を下敷きにした翻案である。
本作では舞台を水竜王国アクアリウスの湧水地「常若の淵」に移し、草を奪う存在を蛇から水竜に変えた。また、原典では語られない「竜自身の視点」を新たに設け、脱皮という現象がただの習性なのか、伝承にある通りの出来事だったのかを、竜自身も判じきれないという内省的な証言として描いている。さらに、祠を参拝地として運営する神官の存在や、語り部の記憶と帳簿の記述が代を経るごとに少しずつ整えられてきた可能性という要素は、本作独自の創作である。登場する人物名・竜の名(レイブン、ミラ、ハルシュ、ウルタム、テムニル、ナイアほか)はすべて本作のための創作名であり、原典の固有名詞をそのまま用いた部分はない。原典や特定の翻訳文からの逐語的な引用・翻訳は行っていない。
本作はメソポタミア文明に伝わる口承叙事詩『ギルガメシュ叙事詩』(粘土板文書、原文の英訳例: https://sacred-texts.com/ane/eog/index.htm)に伝わる不死の草と脱皮する蛇の逸話を参考にした翻案作品です。