物語雳
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·読了目安 15分主役

竜は財宝に手を伸ばさなかった

翼を封じられて生きるは死より過酷か。宴の口論から始まった賭けにより、若い竜・銀爪は望月の塔に十五年の幽閉を誓う。書物だけを友とした歳月の果てに竜が悟ったのは、かつて誰よりも焦がれていた財宝の、思いのほかの軽さだった。

一 十五夜の宴

鴉尾郷の秋は、収穫を終えた田の匂いと、宗兵衛の館から漏れる灯りの匂いとで満ちていた。十五夜の宴は、この郷で生まれた者なら誰もが指折り数えて待つ、一年で最も贅を尽くした夜である。庭には篝火が並び、酒樽の栓が次々と抜かれ、招かれた家臣や近隣の名主たちは、宗兵衛の富をあらためて目の当たりにしては、感嘆とも羨望ともつかぬため息を漏らした。

「黄金宗兵衛」――それが、この地の領主に人々が密かに与えた異名だった。蔵には金銀のみならず、遠国から取り寄せた織物や、名のある職人の打った刀、値のつけようもない古の経典までが積み上げられているという。宗兵衛自身、それを隠す気は毛頭なかった。むしろ宴の折には決まって蔵の錠前を開け放ち、招いた客の前で財宝の目録を諳んじてみせるのを何よりの楽しみとしていた。目録を読み上げる声は、年を追うごとに滑らかになり、聞く者の顔に浮かぶ羨望の色が濃いほど、宗兵衛の頬はいっそう緩んだ。

その夜、宴の中庭には、もう一つ人目を惹く存在があった。銀の鱗を持つ若い竜、銀爪である。鴉尾郷の裏山には古くから竜の一族が棲み、人と長く縁を結んできた。銀爪はその中でもとりわけ美しい鱗と、誰よりも速い飛翔を誇る若竜として知られていた。宴には毎年招かれ、火を吐いて余興を務めるかわりに、上等な酒と肉とを振る舞われるのが常だった。今年もまた、月が中天に差し掛かる頃合いを見計らって、銀爪は空高く舞い上がり、篝火の照り返しを鱗にまとわせながら、幾重にも輪を描いてみせた。集まった客たちは、その優美な軌跡に酔いしれるように喝采を送った。

銀爪は舞い終えると篝火の傍らに悠然と寝そべり、運ばれてくる酒を舐めながら、上機嫌に自らの飛翔を語っていた。

「今年もまた、隣郷の峰を三つ越えて戻ってきた。誰も俺の速さには追いつけぬ。空こそ俺の玉座よ」

「竜殿の翼は結構だが」宗兵衛は杯を傾けながら、皮肉めいた笑みを浮かべた。「翼など、しょせん飛ぶための道具に過ぎぬ。まことに人が――いや、竜が誇るべきは、蔵に積まれた財の重みであろう。翼一つに何ほどの値打ちがある」

銀爪の瞳が、火影の中でわずかに険しさを帯びた。

「値打ちだと。翼は俺そのものだ。飛べぬ竜など、もはや竜ではない。仮令死んだとて、翼あるままに死ぬほうが、封じられて生き永らえるより、よほどましというものだ」

その一言に、宗兵衛は膝を打って笑い出した。傍らに控えていた家臣の何人かも、つられたように追従の笑いを漏らしたが、宗兵衛の目の奥には、笑いとは裏腹の鋭い光が宿っていた。

「面白いことを言う。ならば竜殿に問おう。死と、翼を封じられて生きる幽閉と、いずれがより堪えがたいと思うか」

「無論、幽閉の方だ」銀爪は迷わず答えた。「飛べぬまま生かされるくらいなら、俺は今この場で死んだほうがいい」

「本当にそう思うなら」宗兵衛の目に、酔い以上の光が宿った。「試してみればよかろう。竜殿、賭けをせぬか」

宴の喧騒が、その一言で不意に静まった。篝火の爆ぜる音だけが、やけに大きく響いた。銀爪は面白がるように鱗を鳴らした。

「賭けとは」

「竜殿があの裏山の見張り塔――望月の塔に、十五年間、飛ぶことも人と交わることもなく幽閉されてみせよ。日々の糧は書物のみとする。もしその歳月を全うできたなら、この宗兵衛の財産、蔵に積まれたものすべてを竜殿に譲ろう。だが途中で音を上げ、みずから塔を出るならば、竜殿は負けを認め、二度とこの鴉尾郷の宴には招かれぬものとする」

居並ぶ客たちがどよめいた。誰もが、これがただの座興では済まぬ賭けだと悟ったからである。ある古老は「若い竜殿、酔いに任せて安請け合いなさるな」と諫めようとしたが、その声はざわめきに紛れて誰の耳にも届かなかった。銀爪はしばし宗兵衛を見据えていたが、やがて低く笑った。

「面白い。俺の誇りにかけて、受けて立とう。財宝など、俺にとってはさして望むものでもないが――幽閉ごときに屈する竜と侮られては、我が一族の名折れというもの」

こうして、十五夜の宴の席で、あまりに突飛な賭けが交わされた。証人として居並んだ客たちの前で、宗兵衛と銀爪は誓いを立てた。銀爪は望月の塔に入り、十五年の後、約束の刻限を過ぎるまで自らその扉を開かぬこと。その間、外との唯一の繋がりは、日に一度、書庫番の志乃が差し入れる書物のみとすること。

その夜のうちに、銀爪は望月の塔へと登った。かつて敵の来襲を見張るために築かれた石造りの塔は、竜が身を丸めるにはやや窮屈だったが、それでも雨露をしのぐには十分な広さがあった。塔の扉には宗兵衛みずからの手で錠がかけられ、鍵は郷の名主たちの立会いのもと、蔵の奥深くに封じられた。

銀爪は塔の狭間から見える星空を見上げながら、内心では高をくくっていた。十五年など、竜の齢からすればほんの瞬きに過ぎぬ。書物さえあれば退屈もしのげよう。むしろ財宝がまるごと手に入るのなら、安いものだと。狭い石壁の中に身を丸めながらも、銀爪の胸には、遠からず手にするであろう黄金の輝きへの、確かな期待だけがあった。

その考えが、いかに浅はかであったかを銀爪が思い知るのは、まだ随分と先のことである。

二 望月の塔の書物

最初の一年、銀爪は苛立ちに満ちていた。狭い塔の中で身をよじり、届けられる書物を苛立たしげにめくっては、外の風の匂いを恋しがった。夜ごと、格子の隙間から見える星の位置を数えては、まだ十五年のうちの、ほんのわずかしか過ぎていないことに舌打ちした。志乃が窓辺の格子越しに書物を差し入れるたび、銀爪は決まって同じことを尋ねた。

「宗兵衛の蔵には、今いかほどの財が積まれておる」

志乃は白髪の交じった髪を結い、いつも同じ静かな声で答えた。

「存じませぬ。私はただ、書庫番として書物をお届けするのみにございます」

「つまらぬ女子だ」銀爪は鼻を鳴らしたが、それでも志乃が運んでくる書物には、次第に目を通すようになっていった。最初は暇つぶしのつもりで手に取った文字の手ほどきの書が、いつしか物語や歴史の書へと変わり、二年目を過ぎる頃には、銀爪は自ら望んで算術や天文の書を求めるようになっていた。

「志乃、次はあの星の巡りを記した書をもらえぬか」

「ご用意いたしましょう」

志乃は多くを語らぬ女だったが、書物を選ぶ目には確かなものがあった。銀爪が興を示した分野を覚えておき、次にはさらに深い書を選んで届けてくれる。ある冬の夜、激しい雪が塔を叩きつけた折には、志乃は約束の一冊に加えて、自ら編んだ小さな綿入れの布を格子の隙間から差し入れた。竜に暖など要らぬはずだと知りながらも、その心配りに、銀爪はやがて奇妙な安らぎを覚えるようになった。

「なぜ、それほどまでに書を選ぶことに心を砕く。お前にとって、俺はしょせん幽閉された賭けの道具に過ぎぬだろうに」

「私にも、若い頃に学びたくて叶わなかったものがございました」志乃は静かに答えた。「竜様の求める書に触れるたび、私自身もまた、その先を知りとうなるのです」

三年目、四年目と歳月が過ぎる中で、銀爪は物語の書に描かれた人の悲喜、歴史の書に記された興亡の理を、繰り返し読み込んでいった。ある夜、志乃は珍しく自らのことを語った。幼い頃に流行り病で親を失い、字を教えてくれた人もまた早くに世を去ったこと。以来、書物だけが自分にとっての師であり友であったこと。

「されば、俺とお前とは、思いのほか似た者同士かもしれぬな」銀爪はぽつりと言った。「俺もまた、この塔の中では、書物のほかに師と呼べるものを持たぬ」

四年目の冬、銀爪は塔の湿気にあてられて高い熱を出し、幾日も伏せったまま起き上がれぬことがあった。志乃は日課の書物のほかに、乾いた薬草を格子の隙間から幾度も差し入れ、扉越しに容態を尋ね続けた。

「志乃、賭けの約定には、看病の一項などなかったはずだが」熱にかすれた声で銀爪は言った。「なぜそこまでする」

「約定に定めがなくとも、私の役目は、竜様に息災でいていただくことにございます」志乃はそう答えるだけだった。熱が引いた朝、格子の外に立つ志乃の影を見たとき、銀爪の胸には、これまで感じたことのない安堵が満ちた。財宝を手にする日を指折り数えていたはずの己が、いつの間にか、この日々の小さな心配りを恃みとするようになっていることに、銀爪はまだ気づいていなかった。

五年目を過ぎる頃、銀爪の言葉から財宝の話は徐々に減っていった。かわりに、書物に記された遠い国々の話や、人の営みの不思議を志乃に語って聞かせることが増えた。

「志乃、この書に記された言葉によれば、人はみな、いずれ土に還るという。竜もまた同じであろうか」

「竜のことは存じませぬが」志乃は格子の隙間からわずかに見える銀爪の瞳を見つめた。「私もいずれは、この身を終えましょう。それだけは、人も竜も違わぬのかもしれませぬ」

「ならばなぜ人は、それほどまでに財を積み、名を残そうとする」

「私にはわかりかねます。ただ、竜様は近頃、随分と変わられたように思います」

「変わっただと」

「以前は、財宝のことばかりをお尋ねになりました。今は、星のことや、人の心のことばかり」

銀爪は、その指摘に自らでも戸惑った。振り返れば、いつの間にか塔の外にある財宝のことなど、めっきり考えなくなっていた自分に気づいたからである。狭い石壁の中で過ごす一夜一夜が、かつて空を飛び回っていた頃よりも、むしろ豊かなものに思えてくるのを、銀爪はまだうまく言葉にできずにいた。

三 十年目の対話

十年目を迎える頃には、望月の塔は書物で埋め尽くされていた。銀爪はもはや算術や天文だけでなく、哲学の書、様々な信仰の教え、遠国の詩歌にまで手を広げていた。狭い塔の中で身を丸めながら、銀爪は幾晩も、書物の記す言葉と自らの半生とを照らし合わせては考え込んだ。

「志乃、ある賢者の書にはこうある。財とは、それを持つ者の心を映す鏡に過ぎぬと。俺はかつて、翼こそが我が誇りだと思っていた。だが今にして思えば、あの誇りもまた、財と同じく、俺の外にあるものを恃みにした、脆いものだったのやもしれぬ」

「では竜様は、今、何を恃みとしておられますか」

銀爪はしばし答えなかった。格子の外で、志乃は静かに次の言葉を待っていた。

「わからぬ。だが、少なくとも、この十年で読んだ書物の一行一行は、誰にも奪えぬ。それだけは、確かなことのように思える」

志乃はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと尋ねた。

「竜様は、十五年が過ぎ、賭けに勝たれたなら、何をなさるおつもりですか」

「かつての俺なら、財宝を独り占めにして、鴉尾郷の誰よりも豪奢に暮らすことを思い描いたであろうな」銀爪は静かに答えた。「だが今は、そのような日々を思い描いても、少しも胸が躍らぬ。むしろ、この塔で過ごした歳月をそのまま失うことの方が、よほど惜しいものに思える」

「それは、寂しいことにございましょうか」

「わからぬ」銀爪は目を閉じた。「ただ、寂しいと思うこと自体が、以前の俺には無縁のものだったのは確かだ」

一方、塔の外では、宗兵衛の身代に、静かな翳りが差し始めていた。竜を十五年も幽閉し続けるという評判は郷の内外に広まり、遠方から噂を聞きつけた旅の学者や商人が、わざわざ望月の塔を一目見ようと訪れることも増えた。それを誇らしく思う気持ちの裏で、宗兵衛は見栄と外聞のために、際限のない出費を重ねるようになっていった。近隣の領主を招く宴はいよいよ豪奢になり、銀爪が望むという書物を諸国から取り寄せるための費えも、決して安いものではなかった。加えて、隣郷との小さな諍いに幾度か兵を出したこともあり、蔵の財は、宗兵衛自身が思っていたよりずっと速く目減りしていった。

十三年目の初夏、宗兵衛は珍しく一人で裏山まで足を運び、遠く塔を見上げたことがあった。近づけば約定を違えることになると承知していたため、麓に立ち止まったまま、しばらく塔の輪郭を眺めていた。かつて誇り高く鱗を輝かせていた若竜の姿を思い出そうとしたが、格子の奥はただ静かで、風の音のほかに何も聞こえてはこなかった。その静けさが、かえって宗兵衛の胸をざわつかせた。

十二年目のある夜、宗兵衛の嫡男である太郎丸が、父の居室を訪れた。

「父上、蔵の財が随分と減っております。このままでは、竜との賭けに勝ったところで、譲るべき財そのものが底を突きましょう」

「わかっておる」宗兵衛は苦々しげに杯を呷った。

「いっそ」太郎丸は声を低めた。「今のうちに、あの塔の始末をつけてはいかがでしょう。竜が眠っている隙に――さすれば賭けそのものが消え、財を失うこともございませぬ」

「馬鹿を申すな」宗兵衛は語気を強めたが、その声には、自らに言い聞かせるような響きが混じっていた。

太郎丸は父の顔色を窺いながら、なおも食い下がった。

「父上とて、夜ごと蔵の目減りを気に病んでおられるのは、私も存じております。ここで手を打たねば、この鴉尾郷の行く末にも関わりましょう」

「下がれ」宗兵衛は短く命じたが、太郎丸が去った後も、その言葉は棘のように胸に残り続けた。

その夜以来、宗兵衛の胸には、消しがたい影がわだかまるようになった。あと数年、竜が耐え抜けば、自らの築いた財産のすべてを失う。だが誓いを違えれば、郷の名主たちの前で立てた約束を破ることになり、領主としての信を失う。宗兵衛は昼は平静を装いながら、夜ごと、その両端を行き来する恐怖に苛まれるようになっていった。

四 明け方の刃

十五年目の秋、約束の刻限まで、ついに数刻を残すのみとなった。宗兵衛は幾晩も寝つけぬ日々を過ごし、頬はやつれ、目の下には濃い隈が刻まれていた。太郎丸の進言は、拒んだはずの言葉であったにもかかわらず、夜ごと形を変えて彼の耳の奥で繰り返された。

その夜、宗兵衛はとうとう眠れずに寝所を抜け出し、誰にも告げぬまま、裏山への道を一人歩いた。懐には、家宝として伝わる短刀を忍ばせていた。夜気は冷たく、木々の間を抜ける風の音が、まるで誰かに見咎められているかのように耳につきまとった。この一夜さえ乗り切れば、竜は賭けに勝つ。すべての財を失う。その考えが、長年抑え込んできた恐怖と欲を、抗いがたい大きさで押し上げていた。

塔の麓に立ったとき、宗兵衛の足はしばし止まった。十五年前、この扉に自らの手で錠をかけたときの記憶が、鮮明に蘇った。あのとき自分は、竜が音を上げるまで、せいぜい数年のことだと高をくくっていた。それがいつの間にか、竜ではなく自分自身が、この賭けに追い詰められる番になっていた。

塔の錠前は、宗兵衛自らが封じたものだった。震える手でそれを外し、扉をわずかに開くと、月明かりが石の床に差し込んだ。

そこにあったのは、山と積まれた書物の中で、静かに身を丸めて眠る銀爪の姿だった。かつて誇り高く火を吐いていた竜の面影は、そこにはなかった。鱗はいくらか艶を失い、体はひとまわり瘦せて見えたが、その寝顔には、宗兵衛の記憶にある苛立ちや傲慢の色はどこにもなかった。ただ、深い眠りに落ちた、一頭の老成した竜がいるだけだった。

宗兵衛は短刀の柄に手をかけたまま、その場に立ち尽くした。手が震え、刃を鞘から抜くことすらできなかった。ふと、傍らの文机に一枚の紙が置かれているのに気づいた。竜の爪で刻まれたその文字を、宗兵衛は月明かりを頼りに読んだ。

「宗兵衛殿。この十五年、俺は多くの書物を読み、多くのことを学んだ。かつて俺は、翼こそが我が誇りであり、財こそが我が値打ちだと信じていた。だが今、俺にはもはや、財宝にも、この幽閉から解き放たれる自由にすら、さして値打ちを見出せずにいる。もし賭けに勝ったとて、俺はその財を受け取るまい。この十五年で得たものは、蔵に積める類のものではなかったからだ。志乃には、長きにわたる骨折り、深く礼を申しておいてくれ。銀爪」

その文字を読み終えたとき、宗兵衛の手から、短刀が滑り落ちた。乾いた音が石の床に響いたが、銀爪は目を覚まさなかった。

宗兵衛は、しばらくその場に膝をついたまま動けなかった。自らが企てようとしたことの浅ましさと、目の前で静かに眠る竜の変貌ぶりとが、彼の胸の内でせめぎ合っていた。財を失う恐怖よりも、いま刃を振るえば取り返しのつかぬ何かを失うのだという予感の方が、はるかに重く彼を押しとどめた。窓の外では、東の空がわずかに白み始めていた。

宗兵衛は短刀を拾い上げると、来た時よりもさらに重い足取りで塔を降り、誰にも告げぬまま館へと戻った。振り返ることはしなかった。

五 翼が破った夜明け

約束の刻限を数刻残した明け方、望月の塔の見張りに立っていた家臣が、けたたましい物音に飛び起きた。石塔の壁の一部が内側から突き破られ、崩れた瓦礫の中に、竜の姿はどこにもなかった。

騒ぎを聞きつけた宗兵衛が駆けつけたとき、東の空はすでに白み始めていた。崩れた壁の隙間から差し込む朝日の中に、竜が去った跡だけが残されていた。塔の中には、山と積まれた書物と、あの一枚の文が、そのままの姿で残されていた。

「竜は――負けたのですか、勝ったのですか」

集まった家臣の一人が、恐る恐る尋ねた。宗兵衛はしばし答えなかった。約定の上では、期限を待たずに自ら塔を破って出た以上、銀爪は賭けに敗れたことになる。財を受け取る権利は、もはや竜にはない。

だが宗兵衛には、それがまるで勝ち負けの外側にある出来事のように思えてならなかった。

「いや」宗兵衛はようやく口を開いた。「竜は、負けたのでも勝ったのでもない。ただ、賭けそのものに、興を失っただけだ」

蔵の財は、結局そのままの姿で残された。宗兵衛はその後、以前ほど財を誇ることをしなくなった。宴の折に目録を諳んじる代わりに、望月の塔から運び出された書物の山を、館の一角に書庫として残し、望む者には誰にでも読ませるようにした。

志乃は、その書庫の番人として、変わらずそこに留まった。ある日、書庫を訪れた太郎丸が、棚に並んだ書物の背表紙をなぞりながら尋ねたことがある。

「志乃殿は、十五年もの間、あの竜と何を語り合っておられたのですか」

「大したことではございませぬ」志乃は微笑んだ。「星の巡りのこと、遠い国の話、それから、時折は互いの来し方のことも」

「竜が、財宝に目もくれず塔を去ったこと、志乃殿には得心がいきましたか」

「得心などいたしませぬ」志乃は静かに首を振った。「ただ、あの方が十五年をかけて辿り着いた場所を、私もほんの少しだけ、共に歩かせていただいたように思うております」

時折、裏山の方角から、若い頃のように速く、しかしどこか静かになった飛翔の影が横切るのを見かけることがあった。それが銀爪であるかどうか、志乃には確かめる術もなかったが、そのたびに、格子越しに交わした十五年分の対話を思い出すのだった。

太郎丸は父の変わりようを見て、多くを問うことはしなかった。だが、あの明け方に父が短刀を懐にして裏山へ向かったことを、密かに知る者が一人だけいた。太郎丸自身である。父の後をつけようとして途中で見失い、そのまま朝を待って館へ戻った父の顔に、それまで見たことのない疲労と、どこか憑き物の落ちたような静けさが同居しているのを見て取ったとき、太郎丸は、あの夜に何があったのかを問うことを、生涯にわたって自らに禁じた。後年、自らが領主の座を継いだとき、彼は蔵の財を誇る宴を二度と開くことはなかったという。

鴉尾郷には、それから幾年もの間、こう語り継がれるようになった。

「望月の塔の竜は、財宝より重いものを、書物の中に見つけたそうな。何を見つけたのかは、竜自身にしかわからぬがな」

裏山の頂では、今も時折、銀色の鱗が夕日に光るのが見えるという。誰もそれ以上のことを知らず、また、誰もそれ以上を知ろうとはしなかった。

あとがき

アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフの短編「賭け」は、ある夜会で死刑と終身刑のいずれがより人道的かを巡って口論になった銀行家と若い弁護士が、突飛な賭けを交わす物語である。弁護士は十五年間の完全な幽閉を自ら引き受け、期限を全うすれば銀行家から莫大な金を受け取る約束をするが、幽閉先で言語・科学・哲学・信仰・文学を読み耽るうちに知識と精神性を深め、ついには財産にも自由にも価値を見出せなくなり、期限を待たずに自ら姿を消すという結末を迎える。

本作では、死刑と終身刑を巡る論争を、鴉尾郷の宴の席での「翼を封じられて生きることは、竜にとって死より過酷か」という口論に置き換え、賭けの当事者を、財に執着する領主・宗兵衛と、誇り高い若竜・銀爪とした。銀爪が十五年の幽閉の中で、書物のみを友として学び、かつて誇りとしていた財宝や飛翔への執着を、内面の変容を通じて自発的に手放していく構図は、原作の核をそのまま活かしている。

本作独自の要素として、書物の差し入れ役である書庫番・志乃という人物を配し、竜と人との間に、単なる契約関係を超えた静かな対話と信頼が育まれていく様子を描いた。また、原作の銀行家に相当する宗兵衛については、財の目減りと嫡男・太郎丸による進言という形で、彼が誘惑と恐怖の間で揺れ動く過程をより具体的に描写し、明け方に刃を持って塔を訪れながらも、竜の変貌ぶりに触れて思いとどまるという転換点を、原作同様に配置した。結末においても、竜が期限を待たずに自らの意志で塔を破って去り、財宝が手つかずのまま残されるという原作の余韻を踏襲しつつ、その後の宗兵衛と書庫番・志乃のそれぞれの変化を加えることで、竜の不在の後にも続いていく人間側の物語として締めくくった。舞台・人物名・地名・情景はすべて独自に創作したものであり、原文の翻訳や逐語的な引用は行っていない。


本作はアントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(Anton Pavlovich Chekhov)著「賭け(Пари)」を参考にした翻案作品です。

本作はアントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(Anton Pavlovich Chekhov)の『賭け(Пари)』を参考にした作品です。原典