物語り
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·読了目安 16分脇役

竜は瑞兆を演じなかった

水竜王国アクアリウスの港市「七宝港」には、七度の大航海を成した提督と、それを先導した巨竜、最後の航海で持ち帰られ麒麟として祭られた幼竜の伝承が残る。入江に棲む老竜は、幼竜も巨竜も嵐に翻弄されただけの存在だったと明かし、観察者レイブンは断定を避けたまま港を去る。

一 七宝港、七度の航海の壁画

水竜王国アクアリウスの海図を広げると、大陸の東の縁に、入り組んだ入江をいくつも抱えた港市がひとつ描かれている。名を七宝港といった。旅の記録者レイブンがその名を初めて耳にしたのは、隣国の宿場で行き交う商人たちの立ち話からだった。「七宝港へ行くなら、広場の壁を見ておくといい。七度の航海を成した提督の話は、あの壁がいちばん雄弁に語ってくれる」――そんな言葉の断片が、レイブンの旅程をそちらへ引き寄せた。

港へ至る道は、潮の匂いが強くなるにつれて賑やかさを増していった。荷を積んだ荷車、異国の香辛料を担いだ行商人、帆布を繕う職人たちの声が入り混じり、七宝港が今もなお交易で栄える土地であることをうかがわせた。埠頭には、遠洋航海用の大型帆船から、近海を行き来する小舟まで、大小さまざまな船が隙間なく並んでいる。積み荷を検める役人の声、荷揚げ人夫の掛け声、異国の言葉で値切り合う商人たちのやり取りが、潮騒と重なり合って港全体をひとつの生き物のように鳴らしていた。街の中心には広い石畳の広場があり、その奥にひときわ大きな石壁が据えられていた。

壁には、七隻の巨大な船団が浮き彫りにされていた。先頭の一隻の舳先には、長い船団を導くように、身をくねらせた一頭の巨竜が刻まれている。船団の後方には、冠と長衣をまとった人物の姿があった。碑文には「提督賢弘、七度海を渡り、万里を統べる」とだけ記されている。

レイブンは記録帳を開き、まず壁全体の構図を書き写した。それから、船団を先導する竜の鱗の彫りに目を留めた。一枚一枚の鱗が、まるで定規で測ったかのように等間隔に並んでいる。これまで各地で目にしてきた竜の実物の鱗は、もっと不揃いで、生きている者らしい歪みを持っていたはずだった。彫り師の技巧によるものか、それとも――レイブンはその違和感を、まだ言葉にしないまま記録帳の片隅に書き留めた。

「珍しいな、記録帳を提げた旅人が来るのは」

声をかけてきたのは、日に焼けた顔をした老人だった。名をオルデンといい、若い頃は遠洋の漁師だったが、今は広場の隅で、通りがかる旅人に土地の言い伝えを語って日銭を得ているのだと言った。

「この壁の話を、聞かせていただけますか」

「聞かせるも何も、この広場に来て、あの話を聞かずに帰る者はまずいないよ」オルデンは杖の先で壁を軽く叩いた。「昔々、七宝港はまだ小さな漁村に過ぎなかった。それを七度の大航海で世界に知らしめたのが、あの提督賢弘という御方だ。西の果ての国々まで船団を送り、珍しい宝物や動物を持ち帰った」

「先頭の竜は」

「艦隊を導いた巨竜だよ」オルデンは目を細めた。「賢弘様の船団がどれほど嵐の海に出ても、この竜が先を泳いでいる限り、決して遭難しなかったと伝わっている。港の漁師たちは、今でも出漁の前にこの壁に手を合わせる者が多い」

「巨竜の姿を、実際に見た者の記録は残っているのでしょうか」

「さてな」オルデンは肩をすくめた。「七度の航海のうち、竜が現れたと記録に残るのは、荒天が続いた数回に限られているそうだ。凪いだ日には、姿を見せなかったという話もある。もっとも、そこまで細かいことを気にする旅人は、あんたが初めてかもしれんよ」

レイブンは筆を走らせながら、続きを促した。

「もうひとつ、話しておかねばならないことがある」オルデンは声をわずかに落とした。「七度目、最後の航海でな、賢弘様は遠い西の国から、それはそれは珍しい生き物を連れ帰ったのだ。幼い竜だったという。その姿が、この国に古くから伝わる瑞獣――麒麟に、あまりにもよく似ていたのでな。時の王は大層お喜びになり、国を挙げてその幼竜を迎え入れたという話だ」

「麒麟、ですか」

「泰平と繁栄をもたらすと言われる、伝説の瑞獣だ」オルデンはうなずいた。「その話は、この壁ではなく、港の記録堂に絵巻として残されている。詳しく知りたいなら、記録堂の管理人に会うといい。あそこの家系は代々、あの絵巻を描き継いできたと聞く」

オルデンはそう言うと、記録堂へ続く石畳の小道を指し示した。レイブンは礼を言い、潮風に混じる異国の香辛料の匂いを縫うようにして、そちらへ歩を進めた。

二 瑞竜の記録帳

記録堂は、広場から少し奥まった石造りの建物だった。分厚い扉を開けると、古い紙と墨の匂いが鼻をついた。壁一面に棚が並び、丸められた絵巻や帳簿が整然と収められている。窓から差し込む光は薄く絞られており、色褪せを防ぐためだろう、天井近くの小窓にも布が張られていた。棚の奥にはさらに奥まった一室があり、そこだけ鍵のかかった木箱がいくつも積まれているのが見えた。

「ようこそ。旅の記録者だと、オルデンさんの遣いから聞いています」

出迎えたのは、若い女だった。名をメイリーといい、この記録堂を管理する家に生まれ育ったのだと自己紹介した。物腰は丁寧だが、目の奥にどこか用心深い光があり、レイブンの記録者としての勘が、そこに何か含みがあることを感じ取った。

「最後の航海で持ち帰られたという、幼竜の話を伺いたいのですが」

メイリーは少し間を置いてから、棚の奥から一巻の絵巻を取り出した。丁寧に広げると、そこには小さな竜を抱きかかえる船乗りたちの姿と、玉座に座る若き王の前にその幼竜が差し出される場面が、鮮やかな彩色で描かれていた。

「これが『瑞竜献上図』と呼ばれる絵巻です」メイリーは静かに言った。「提督賢弘様の船団が、西方の海で嵐に見舞われた際、乗組員のひとりが海面に浮かぶ小さな竜を見つけ、船に引き上げたと伝わっています。船に馴染んだその竜は、体つきも角の形も、この国の言い伝えにある麒麟によく似ていました」

「王はそれを、どう受け止めたのですか」

「当時の王――アルダイン陛下は、即位してまだ日が浅く、七度にわたる遠征の費えを巡って、諸侯の一部から不満の声が上がっていました」メイリーは言葉を選びながら続けた。「船団を維持する費用は、年々の税を圧迫するほどでした。このまま航海を続ければ国庫が傾くと、公然と陛下を諫める重臣もいたそうです。そこへ、まさに瑞獣そのものと見紛う幼竜が届けられた。陛下はこれを、天が自らの治世を祝福した証として、国を挙げて迎え入れることになさいました。この絵巻は、その献上の儀を描いたものです」

「幼竜が届けられたことで、諫言はやんだのですか」

「表向きは、静まりました」メイリーは言った。「瑞獣の到来に異を唱えることは、天意に逆らうにも等しいとされましたから。陛下はその年のうちに、八度目の航海を新たに計画なさったほどです。もっとも、その航海は結局、実現しませんでした」

レイブンは絵巻に描かれた幼竜の姿を、じっと見つめた。角は二又に分かれ、額から首筋にかけて、菱形の斑紋が規則正しく並んでいる。これまで見てきた実物の若い竜たちは、角の形も斑紋の並びも、もっと個体ごとに不揃いで、左右非対称であることが多かったはずだった。

「この絵の角と斑紋は、実際の竜の姿と少し違うように見えるのですが」

メイリーの表情が、わずかに強張った。「……よくお気づきになりました。絵巻を描いたのは、当時の宮廷絵師です。実物の幼竜そのままではなく、この国に伝わる麒麟の図像に寄せて描かれたのではないか、と指摘する研究者も過去にはいました」

「なぜ、そのような描き方を」

「陛下が求めたものが、ありのままの幼竜ではなく、麒麟という瑞獣そのものだったからでしょう」メイリーは絵巻を丁寧に巻き戻しながら言った。「絵師にとって、王の望む通りに描くことは、忠義の証でもありました。それが記録として正しいことだったのかどうかは、また別の話です」

レイブンはその答えに、記録帳のページをめくりながら、ふと問いを重ねた。「この絵巻を描いた絵師の家系というのは」

メイリーは一瞬、言葉に詰まった。「……私の、先祖にあたります」

三 メイリーの一族、来たる七百年祭

沈黙が記録堂に降りた。棚の隙間から差し込む午後の光が、埃の粒を浮かび上がらせていた。

「代々、この記録堂を任されてきたのは、そのためです」メイリーはやがて静かに言葉を継いだ。「絵巻を描いた初代の絵師から、記録の管理を一族の務めとして受け継いできました。誇らしくもあり、同時にいくらか重い務めでもあります」

「重い、というのは」

「絵巻が実物とどこか違うかもしれないと知りながら、それを正すことも、隠すこともせず、ただ守り継いできたからです」メイリーは棚の一角を指さした。「あちらに、代々の管理人が書き継いだ帳簿があります。最も古い代の記述には『幼竜、船にて発見さる。王、これを瑞獣と認む』とだけ、簡潔に記されています。ですが代を経るごとに、記述は少しずつ詳しくなっていきました。『幼竜、天より遣わされし瑞兆なり』『麒麟、国の繁栄を約す』――最新の代の記述に至っては、断定の色合いがずっと濃くなっています」

レイブンは帳簿をめくらせてもらい、その変遷を書き写した。この筆致の移り変わりは、以前どこかの谷で見た管理人の帳簿とよく似ている、とふと思った。断定は、記録を重ねるほどに強まっていくものなのかもしれなかった。

「なぜ、そうした変遷が起きたのでしょうか」

「王の血筋を継ぐ者たちにとって、『天に祝福された治世』という物語は、都合が良かったのだと思います」メイリーは目を伏せた。「代々の管理人も、時の為政者の求めに応じて、記述を少しずつ書き足していった。それを恥じる気持ちがないと言えば、嘘になります」

そこへ、記録堂の扉が開き、恰幅のいい中年の男が息を切らして入ってきた。港の代官だという男は、メイリーに深く頭を下げてから、レイブンにも会釈をした。

「旅の記録者殿とお見受けする。ちょうどよかった、少しお耳に入れておきたいことがある」代官は言葉を選びながら切り出した。「数日後、七宝港は建港七百年を祝う祭を控えている。目玉は、修復を終えたばかりのこの『瑞竜献上図』の披露だ。遠方からも多くの旅人や商人が、この祭に合わせて港を訪れる。町の一年の実入りの、少なくない部分がこの数日にかかっている」

「それが、私と何か」

「あなたが記録者として、この絵巻の真偽に疑いを差し挟むような噂を広めれば」代官は言葉を濁しながらも、はっきりと続けた。「祭の意義そのものが揺らぎかねない。無論、真実を記録するあなたの仕事を、邪魔立てするつもりはない。ただ、それが港の暮らしにどれほどの重みを持つか、知っておいてほしいのだ」

「もし私が、絵巻の疑わしさを公に記したなら、どうなるとお考えですか」

代官は苦い顔で答えた。「祭を目当てに訪れる商人や旅人の何割かは、来なくなるだろう。造船所も、土産物の工房も、宿屋も、この数日の実入りを一年の運転資金にあてている家が少なくない。あなたを責める気はない。だが、記録帳の一行が、この港でどれほどの重みを持つか、想像してみてほしいのだ」

その言葉に噓はないのだろう、とレイブンは思った。だからこそ、単純にどちらかを断じることの危うさを、改めて記録帳に書き留めた。

メイリーは何も言わず、ただ帳簿の表紙を指先でなぞっていた。レイブンはその横顔に、家業への誇りと、消し去れない疑念とが、同じ場所に同居しているのを見た気がした。

「入江の奥に、この幼竜の末裔と伝えられる竜が棲んでいると聞きました」レイブンは静かに言った。「その竜自身の言葉を、記録に残したいと思います。真偽の判断は、その後に考えさせてください」

代官は不服そうな顔をしたが、それ以上は何も言わず、深く一礼して記録堂を出ていった。メイリーは顔を上げ、レイブンをまっすぐに見た。

「私も、ご一緒してよろしいでしょうか」メイリーは言った。「一族の描いてきたものが、どこまで本当のことなのか――私自身も、確かめたことがなかったのです」

四 入江の老竜、ラグーンの証言

港の外れ、葦の茂る静かな入江へ続く道を、レイブンとメイリーは連れ立って歩いた。夕刻が近づき、水面は橙色に染まり始めていた。潮の引いた干潟には、白い水鳥が点々と羽を休めている。港の喧騒が遠ざかるにつれ、聞こえてくるのは葦の擦れる音と、遠く寄せては返す波の音だけになった。メイリーは道すがら、ほとんど口を開かなかった。その横顔には、これから聞く話への期待とも恐れともつかない硬さが浮かんでいた。

入江の最奥、切り立った岩の陰に、古びた小さな祠があった。祠の前で足を止めたとき、水面が大きく波立ち、一頭の竜がゆっくりと頭をもたげた。灰緑色の鱗を持つ、老いた竜だった。角は片方が欠け、首筋の斑紋も左右で形が違っている。絵巻に描かれていた整った姿とは、似ても似つかなかった。

「久しいな、記録者と名乗る人間が来るのは」竜は低く、しかしよく通る声で言った。「名は、ラグーン。この入江を住処とする者だ」

「レイブンと申します。港で、七度の航海を成した提督と、それを導いた巨竜、そして麒麟として迎えられた幼竜の話を聞いてまいりました」

「随分と欲張りに集めたものだ」ラグーンは目を細め、メイリーの方へ視線を移した。「その娘は、記録堂の家の者だな。顔つきでわかる」

「はい」メイリーは緊張した声で答えた。「私の先祖が、あの絵巻を描きました」

ラグーンはしばらく沈黙した。それから、静かに水面へ視線を落とした。

「では、まず幼竜の話からしようか」竜は言った。「あれは私の祖先にあたる者の話だ。船団に拾われたというのは、事実だ。だが、天から遣わされた瑞兆などではない。あれはただ、群れからはぐれ、嵐に何日も揉まれて弱り切った、気弱な子竜に過ぎなかった」

「群れから、はぐれた」

「幼い竜というのは、時折、季節の渡りの最中に嵐で仲間を見失うことがある」ラグーンは言った。「あの子は運悪く、渡りの群れから遠く流され、力尽きて海面に浮いていたところを、たまたま通りかかった賢弘の船団に助け上げられた。恐怖で震え、誰にも懐かなかったと、一族に伝わる記憶は語っている。それを王宮の者たちが、麒麟だ瑞兆だと言い出したのは、船団が港へ戻った後のことだ」

メイリーが小さく息を呑む音が聞こえた。手にした帳簿を、無意識にきつく抱えているのが見て取れた。

「角の形も、斑紋の並びも、絵巻とは違うのですね」レイブンは静かに問うた。

「当たり前だ」ラグーンは苦笑めいた響きを声に混ぜた。「私たちの角も鱗も、生きているものである以上、左右対称になどならない。絵師が描いたのは、幼竜そのものの姿ではなく、この国の言い伝えにある麒麟の図像だったのだろう。王が求めていたものが、そもそもそちらだったのだからな」

「では、船団を先導したという巨竜の話は」

「それも、似たような話だ」ラグーンは水面に浮かぶ夕焼けを見つめながら言った。「私の一族は、渡りの季節になると、群れをなして遠洋を泳ぐ。ちょうど賢弘の船団が同じ海域を航行していた年、嵐を避けようとした私たちの群れの一頭が、たまたま船団の進路と同じ方向へ泳いでいた。船乗りたちには、それが自分たちを導いているように見えたのだろう。実際には、その竜もまた、ただ嵐から逃れようとしていただけだ」

「その竜は、船を守ろうという意志を持っていたわけでは」

「持っていたとしたら、それは船乗りたちの都合の良い解釈だ」ラグーンは静かに言った。「竜が人の船団の安全を気にかけて先導するなど、聞いたためしがない。だが、それを否定して回ることもできない。私たちには、人の言葉で公に何かを訂正する術がないのでな」

「凪いだ日には、巨竜が姿を見せなかったという記録も残っているそうです」

「それは道理だ」ラグーンは軽く鼻を鳴らした。「嵐を避けて泳いでいたのだから、嵐が去れば、その海域を離れる。船乗りたちには、まるで竜が仕事を終えて姿を消したように見えたのだろうが、竜の側には、そもそも仕事という発想自体がない」

レイブンは記録帳に、ラグーンの言葉を一字一句書き留めていった。

「ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」メイリーが震える声で口を開いた。「先祖が描いた絵は、間違っていた、ということになるのでしょうか」

ラグーンは長い首をもたげ、メイリーをじっと見つめた。

「間違っていた、とまでは言わない」竜は言った。「幼竜が船に拾われたことも、群れの一頭が同じ海を泳いでいたことも、事実には違いない。お前の先祖が描いたのは、その事実に、王が求める意味を重ねたものだ。それを咎めるつもりは、私にはない。人間が、説明のつかない出来事に、都合の良い意味を当てはめずにはいられない生き物だということは、長く生きてきた私にも分かる」

メイリーは唇を噛み、しばらく黙り込んでいた。祠の傍らにしゃがみ込み、水面に映る自分の影をじっと見つめている。生まれてからずっと誇りとしてきたものの土台が、静かに、しかし確かに揺らいでいくのを、レイブンは彼女の背中から感じ取った。

「ただ」ラグーンは付け加えた。「私自身は、麒麟と呼ばれたいと望んだことは一度もない。祖先も、そう望んではいなかっただろう。ただ嵐に流され、助けを求めていただけの子竜だ。その子竜を瑞兆に仕立て上げたのは、あくまで人間の側の物語だ」

夕闇が入江の水面に降り始めていた。

五 演じなかった瑞兆

「あなたは、その扱われ方を、快く思っていないのですね」レイブンは静かに尋ねた。

「快くは思わない」ラグーンは認めた。「だが、それを町中に触れ回って正す術も、私は持たない。私にできるのは、こうして聞かれたときに、分かっていることは分かっている、分からないことは分からないと、正直に答えることだけだ」

「それで、十分だと思います」

ラグーンはしばらくレイブンとメイリーを見比べていたが、やがて小さく頭を垂れた。

「娘よ」竜は言った。「お前の一族を、恨んではいない。絵師は絵師の務めを果たしたに過ぎない。ただ、これから絵巻を披露するというなら、片隅にでも、小さな註を添えてはくれないか。『竜自身の証言は、これと異なる』とだけでいい」

メイリーは涙をこらえるように目を伏せ、やがて深くうなずいた。「そういたします。一族が積み重ねてきた誇りを消すことはできませんが、それに小さな正直さを添えることは、今からでもできるはずです」

代官が案じていた祭の騒ぎにはならないだろう、とレイブンは思った。町の伝承を根底から覆すのではなく、その隣に、もうひとつの声を添えるだけのこと。それは、これまでレイブンが旅の先々で選んできたやり方と、同じものだった。祭そのものを中止させるほどの証拠でもなければ、記録者にそこまでの権限もない。ただ、後から真実を知りたいと望む者のために、道をひとつ残しておくことならできる。

「あなたは、これから何を記録に残すつもりだ」ラグーンが問うた。「町の伝承通りに書くのか、それとも私の証言だけを正しいものとして書くのか」

「どちらも、記録に残すつもりです」レイブンは答えた。「七度の航海を成し、瑞兆を得て国を富ませた提督の伝承と、瑞兆など演じたつもりはないというあなた自身の証言、その両方を。どちらが真実かを決めるのは、私の役目ではありません」

ラグーンは満足げに、静かに水面へ身を沈めていった。

翌朝、レイブンは港を発つ支度を整えた。メイリーは記録堂の前まで見送りに出てきて、修復されたばかりの絵巻をもう一度広げて見せてくれた。片隅には、まだ乾ききらない墨で、小さな一文が書き添えられていた。「――竜自身の証言、これと異なる由。詳細は記録者レイブンの記録帳に譲る」

「これで、いくらか肩の荷が下りた気がします」メイリーは言った。「先祖の絵を、否定せずに済みました。それでいて、嘘をつき続けずにも済みます」

広場の壁の前で、レイブンは最後にもう一度足を止めた。船団を導く竜の彫刻は、朝の光を受けて、昨日よりもいくぶん静かな表情を浮かべているように見えた。記録帳の最後のページを開き、レイブンは筆を走らせた。

――七宝港には、七度の大航海を成した提督と、それを先導した巨竜、最後の航海で持ち帰られ麒麟として祭られた幼竜という、三つ組みの伝承が伝わっている。入江に棲む竜自身の証言によれば、幼竜は嵐に群れからはぐれた気弱な子竜に過ぎず、先導したという巨竜もまた、嵐を避けて同じ海を泳いでいた群れの一頭に過ぎなかったという。瑞兆として演じることを、竜の側は一度も望んでいない。

権威を欲する者は、説明のつかない偶然に、都合の良い物語を重ねずにはいられないのかもしれない。その物語がどこまで真実で、どこから神話に変わったのか、私が断定することはできない。ただ、竜自身の醒めた証言と、代を経て少しずつ書き足されていった記録堂の帳簿、その両方を、確かな手触りとして書き残しておきたいと思う。伝承を守り続けてきた一族の誇りも、それに正直な註をひとつ添えたメイリーの決断も、どちらも軽んじられるべきものではないだろう。

港を出る船の甲板から振り返ると、広場の壁がまだ朝日を受けて輝いているのが見えた。船団を導く竜の彫刻は、遠ざかるにつれて次第に小さくなり、やがて霞の向こうへ溶けていった。それが本当に何かを導いていたのか、ただ嵐から逃げていただけなのか、レイブンにはもはや確かめようがなかった。

甲板の手すりに寄りかかりながら、レイブンは一度も港を振り向かなかった。潮風が記録帳のページを静かにめくり、竜の証言と町の伝承、その両方の文字が、朝の光の中で等しく色を保っていた。

あとがき

本作は、明代の宦官提督・鄭和にまつわる史実(『明史』巻三百四鄭和伝等に記録)――永楽帝の命により七度にわたり大船団「下西洋」を率い、東南アジアからインド洋を経て東アフリカ沿岸まで到達した逸話、および1414年頃にベンガル王国から献上されたキリン(動物)が、中国の伝説上の瑞獣「麒麟」と同名であることから瑞兆として盛大に歓迎されたという逸話――を下敷きにした翻案である。

本作では舞台を水竜王国アクアリウスの港市「七宝港」に移し、キリン(動物)の献上を、嵐で群れからはぐれた幼竜が船団に拾われ、麒麟に見立てられて祭り上げられる逸話に置き換えた。また、艦隊を先導したという伝承上の巨竜を、嵐を避けて同じ海域を泳いでいた竜の群れの一頭という、偶然が重なった存在として描いている。原典では明確にされない「瑞兆とされた存在の側の視点」を新たに設け、竜自身が瑞兆を演じることを望んだことは一度もないと語る内省的な証言として構成した。絵巻を代々描き継いできた記録堂の一族、来たる建港七百年祭を案じる代官、絵巻に註記を添えるメイリーの決断は、本作独自の創作である。登場する人物名・竜の名(レイブン、オルデン、メイリー、ラグーン、提督賢弘、王アルダインほか)、地名(七宝港、アクアリウス等)はすべて本作のための創作であり、原典や特定の翻訳文からの逐語的な引用・翻訳は行っていない。


本作は明代の宦官提督・鄭和にまつわる史実(『明史』巻三百四鄭和伝、原文参照: https://zh.wikisource.org/wiki/明史/卷304)に伝わる、七度の大航海と麒麟献上の逸話を参考にした翻案作品です。

本作は張廷玉等 撰の『明史 巻三百四 鄭和伝(清代官修正史、1739年成立)』を参考にした作品です。原典