竜は瑞獣を名乗らなかった
水竜王国アクアリウスの港市「七宝港」には、七度の大航海を成した提督と、艦隊を導いた巨大な海竜、瑞獣として迎えられた幼竜の伝説が残る。入り江に棲む竜マレンは、艦隊を導いた竜も献上された祖先も瑞獣などではなかったと語るが、記録者レイブンは真偽を断定せず港を去る。
一 七宝港、壁画の物語
水竜王国アクアリウスの海岸線を南へ辿っていくと、やがて入り江の奥に、幾重にも重なる帆柱の影が見えてくる。旅の記録者レイブンがその港市の名を知ったのは、隣国の宿場で交わされていた船乗りたちの噂話からだった。「七宝港へ行けば、七度の航海を成した提督の壁画が見られる」「あの港はな、竜に守られてきたのさ」――そんな断片が、レイブンの旅程を静かに引き寄せた。
港へ続く街道は、潮の匂いと乾いた木材の香りが入り混じっていた。荷を積んだ荷車が絶えず行き交い、遠くから聞こえる号令の声に合わせて、帆布が畳まれていく。港の規模は、レイブンがこれまで見てきたどの街よりも大きい。埠頭の奥には石造りの倉庫群が連なり、その壁の一面に、色褪せながらも鮮やかさを残す壁画が描かれていた。
大小さまざまな帆船が連なり、波間を進んでいく図だった。先頭の一隻の舳先には、長い髭を持つ人物の姿が描かれ、その頭上を、翼を広げた巨大な竜が舞っている。レイブンは記録帳を取り出し、まずはその壁画の輪郭を丁寧に書き写した。
港の名を「七宝」というのは、この壁画に描かれた艦隊が、七度の航海のたびに七つの異なる宝――香辛料、染料、珍獣、異国の織物、そして時には異国の言葉そのもの――を持ち帰ったことに由来するのだと、後にコラスから聞かされることになる。今もこの街では、婚礼や誕生の祝いの席で、必ず一度は壁画の物語が語られるのだという。子どもたちは物心つく前から、この竜と提督の物語を子守唄のように聞かされて育つ。レイブンはその習わしに、単なる娯楽以上の、街の背骨のような役割を感じ取った。
「珍しいな、絵を写しに来る旅人は」
声をかけてきたのは、日に焼けた肌に深い皺を刻んだ老人だった。名をコラスといい、若い頃はこの港で漁師をしていたが、今は埠頭の隅で網の修理を請け負いながら暮らしているのだという。
「この壁画の由来を、聞かせていただけますか」
「聞かせるも何も、この港に来て、あの話を知らずに帰る者はそういない」コラスは修理中の網から手を離さないまま、顎で壁画を示した。「昔々――といっても、そう遠い昔でもないが――この港から、七度にわたって西の海へ大船団を送り出した提督がいた。名をハイレンという」
「七度の航海、ですか」
「そうとも。一度きりの遠征なら珍しくもないが、七度だ。しかも一度たりとも艦隊を丸ごと失うことなく、毎回何かしらの土産を持ち帰ってきた。交易品、異国の使者、珍しい動物――中には、二度と会えぬはずの故郷の匂いを土産に持ち帰った船乗りもいたと聞く」
レイブンは筆を走らせながら、続きを促した。
「壁画に描かれている竜は」
「艦隊を先導した海竜だと言われている」コラスは網を膝の上に置き、少し声を落とした。「提督の艦隊がどの航海でも嵐に遭わなかったのは、この竜が海の底の様子を読み、安全な航路へ船団を導いていたからだ、とね。埠頭の古い船乗りたちは、今でもそう信じている連中が多い」
「あなたご自身は、どうお考えなのでしょう」
コラスは少し間を置いてから、皺の寄った口元を緩めた。「わしか。わしは、まあ、半分は信じているし、半分は眉唾だとも思っている。長く海に出ていると分かることだが、海竜という生き物は、そもそも船について回る性分のものが多い。導いていたのか、ただついてきていただけなのか、そこは案外、微妙な話だ」
その答えに、レイブンは小さく相槌を打った。港の喧騒の向こうで、鐘が正午を告げている。
「もうひとつ、壁画には描かれていない話がある」コラスは続けた。「提督の四度目の航海の際、西方の遠い国から、一頭の幼い竜が献上されたという話だ。その竜が、当時の王のもとで大変な騒ぎになったと聞いている」
「騒ぎ、というのは」
「その話は、わしの口からよりも、海事文庫で聞いた方が正確だろう」コラスは網を再び手に取りながら、埠頭の奥にある石造りの建物を指し示した。「あそこの管理人が、代々の記録を守っている。行ってみるといい」
レイブンは礼を言い、埠頭の喧騒を抜けて、コラスが示した建物へと足を向けた。
二 献上の絵巻、幼竜への違和感
海事文庫は、埠頭の喧騒から一歩退いた、静かな石畳の小路の先にあった。分厚い木の扉を押し開けると、古い紙とインクの匂いが漂ってくる。棚という棚に、航海日誌や交易記録らしき巻物がびっしりと収められていた。
「記録者だとお聞きしています。コラスさんの遣いの方ですね」
奥から現れたのは、白髪を後ろで束ねた女性だった。名をイネスといい、この文庫を管理する家系に生まれ、幼い頃からここで育ったのだと自己紹介した。物腰は落ち着いているが、質問を向けられるたびに、答える前にわずかな沈黙を挟む癖がある。レイブンはその沈黙に、単なる思慮深さ以上の何かを感じ取った。
「壁画に描かれていない、幼竜献上の話を伺いたいのですが」
イネスは小さくうなずくと、棚の奥から一巻の絵巻物を取り出し、長い卓の上に丁寧に広げた。色鮮やかな絵の具で描かれたその絵巻には、玉座に座る王と、その前に跪く使者、そして使者の傍らに佇む一頭の幼い竜の姿が描かれていた。
「提督ハイレンの四度目の航海の折、西方の遠い国から、この幼竜が献上されました」イネスは絵巻を指でなぞりながら語った。「当時の宮廷は、この竜の姿を、古くから伝わる瑞獣――国に平和と繁栄をもたらすとされる伝説の生き物――そのものだと見なし、盛大な儀式をもって迎え入れたと記録されています」
「瑞獣、ですか」
「ええ。角の形、鱗の斑紋、佇まいの穏やかさ――そのすべてが、古い書物に描かれた瑞獣の特徴と一致すると、当時の学者たちは口を揃えて主張しました。王はこれを、自らの治世が天に認められた証だと宣言し、以後何年にもわたって、この出来事は宮廷の権威を語る際の大きな柱のひとつとなりました」
レイブンは絵巻に描かれた幼竜の姿を、じっと見つめた。長旅の中でいくつもの竜と対話を重ねてきた記録者の目に、ふと小さな違和感が引っかかる。
「この角の形なのですが」レイブンは絵の一点を指した。「螺旋を描くように根元から二重に巻いているように見えます。私がこれまで見てきた水竜の角は、根元から一本、緩やかに後方へ反っているものがほとんどでした」
イネスの表情が、わずかに動いた。「よくお気づきになりました。実は、その点を指摘した記録者は、これまでにもわずかながらいたのです。ただ、宮廷の記録に異を唱えることは、当時も今も、あまり歓迎される行為ではありませんでした」
「鱗の斑紋についても、少し」
「そちらも、指摘の通りです」イネスは静かに認めた。「絵師が瑞獣の伝承画を参考にしながら描いたため、実物よりも意匠的に整えられている、というのが穏当な見方でしょう。ただ、それだけで済む話なのかどうか――正直なところ、私にも判じかねる部分があります」
レイブンはふと、棚に並ぶ古い記録帳の背表紙に目を留めた。年代の異なる複数の帳簿が、同じ棚に収められている。
「これらは、代々の管理人が書き継いだ記録でしょうか」
「ええ」イネスは頷いた。「よろしければ、見比べてみますか」
イネスが取り出した最も古い帳簿には、簡潔な一文だけが記されていた。「幼竜、船にて保護さる。宮廷へ献上」――それだけだった。だが代を経るごとに、記述は少しずつ詳しくなっていった。「幼竜、瑞兆の相を示す」「幼竜、天より遣わされし瑞獣なりと認定さる」――最も新しい代の記述に至っては、「瑞獣、王の徳を天下に示す」とまで書かれている。
「ご覧の通りです」イネスは静かに帳簿を閉じた。「記述は、代を経るごとに、より断定的に、より劇的になっていきました。私の一族も、その変遷に無縁ではいられませんでした。時の宮廷の求めに応じて、あるいは求められずとも先回りして、少しずつ言葉を書き足していった時期があったことを、否定はできません」
「なぜ、そのようなことが」
「正確な記録よりも、都合の良い記録の方が、時に重宝されるからでしょう」イネスは目を伏せた。「それを恥じる気持ちがないと言えば、嘘になります」
「この幼竜は、その後どうなったのでしょうか」
イネスは絵巻を静かに巻き戻しながら答えた。「宮廷で数年を過ごしたのち、この港へ移されたと記録にはあります。以来、この地に棲みついたと伝わっており、その末裔とされる竜が、今も港外れの入り江に暮らしているそうです」
「お会いすることは、できますでしょうか」
「会おうと思えば、会えるはずです」イネスは少し言葉を選ぶように間を置いた。「ただ、あの竜は、あまり自分から多くを語る性分ではないと聞いています。無理に聞き出そうとはなさらないよう、お願いします」
レイブンはその忠告を丁寧に記録帳へ書き留め、礼を言って文庫を後にした。港外れの入り江へ向かう道すがら、先ほどの違和感が、まだ胸の奥に小さく引っかかったままだった。
三 入江の老竜との対話
港の喧騒を抜け、岩がちの海岸線をしばらく歩くと、切り立った崖に囲まれた静かな入り江に出た。波は港のそれよりずっと穏やかで、透き通った水の底に、白い砂と丸い石が揺らめいて見える。人の気配はなく、代わりに海鳥の鳴き声だけが、崖に反響していた。
レイブンが岩場に腰を下ろし、記録帳を開いたとき、水面が静かに盛り上がった。現れたのは、青みがかった灰色の鱗を持つ、一頭の年老いた竜だった。角は根元から一本、緩やかに後方へ反っている――イネスの見せてくれた絵巻の幼竜とは、明らかに異なる形だった。
「珍しいな、この入り江まで足を運ぶ人間は」竜は低く、しかし穏やかな声で言った。「名はマレン。ここに棲む者だ」
「レイブンと申します。七宝港で、提督の伝説と、献上された幼竜の絵巻を見てまいりました」
マレンは少しの間、レイブンを見つめた。その目には、警戒というよりも、どこか諦めに似た色が浮かんでいるように見えた。
「イネスの遣いか。それとも、コラスの」
「両方です。壁画の話、絵巻の話、それぞれ伺いました」レイブンは静かに続けた。「絵巻に描かれた幼竜と、あなたの角の形が違うことに気づきました。もしよろしければ、その理由を伺えないでしょうか」
マレンは長い首を巡らせ、崖の向こうに広がる海を見やった。しばらくの沈黙があった。波の音だけが、二人の間を埋めていく。
「お前は、記録者としてここへ来たのか。それとも、瑞獣の真偽を暴きに来た興味本位の旅人か」竜はやがて、そう尋ねた。
「記録者として来ました」レイブンは即座に答えた。「真偽を暴くことも、断定することも、私の望みではありません。ただ、見聞きしたことを、できる限り正確に書き留めたいだけです」
マレンはその答えを、しばらく吟味するように黙っていた。それから、ゆっくりと岩場の縁に身を横たえた。
「その言葉を、これまでに何度も聞いてきた」竜は言った。「学者、詩人、宮廷の使者――誰もが最初は同じようなことを言う。だが、最後には皆、自分の欲しい答えだけを持ち帰っていった」
「私も、そうなるかもしれません」レイブンは正直に言った。「ですが、少なくとも今は、あなたの話を、あなたの言葉のまま書き留めたいと思っています」
マレンは、初めて小さく息を漏らすように笑ったように見えた。竜の表情を読み取るのは難しかったが、少なくともレイブンにはそう感じられた。
「壁画の話と、絵巻の話――どちらから聞きたい」
「先に、艦隊を先導したとされる巨大な海竜の話を伺いたいです」
「それは、私の祖先の物語ではない」マレンは静かに言った。「だが、無関係でもない。少し長い話になるが、構わないか」
レイブンは記録帳の新しいページを開き、筆を構えた。「どうぞ、お聞かせください」
崖の上を、一羽の海鳥が横切っていった。波が岩場に静かに打ち寄せ、引いていく。マレンは長い沈黙のあと、ゆっくりと語り始めた。
四 瑞獣の正体、先導の真実
「提督ハイレンの艦隊は、確かに七度の航海のいずれでも、大きな海竜に遭遇している」マレンは語り始めた。「だが、その海竜が艦隊を『導いていた』というのは、正確な言い方ではない」
「では、実際には」
「当時、この海域には、季節ごとに大きく移動する海竜の群れがいた」マレンは言った。「嵐を避け、餌を求めて、決まった時期に決まった航路を泳ぐ。提督の艦隊は、たまたまその群れの移動と重なる時期に出航していたに過ぎない。群れの一頭が、船団のすぐ近くを並走することもあっただろう。人間の目には、それが『先導している』ように見えたのだろうな」
「意図的な先導ではなかった、と」
「少なくとも、私が一族の記憶から聞き知っている限りでは、そうだ」マレンは頷いた。「海竜たちにとって、船が近くにいることは、さほど珍しくも、特別なことでもなかった。ただ泳ぐ方向がたまたま同じだった。それだけの話が、七度も繰り返されるうちに、いつしか『艦隊を守護する竜』という物語に育っていったのだろう」
レイブンは筆を走らせながら、次の問いを重ねた。「では、あなたご自身の祖先――献上されたという幼竜の話は」
マレンの目が、わずかに翳った。長い沈黙があった。
「その話は、もう少し込み入っている」竜は低く言った。「私の祖先は、瑞獣などではない。ただ、嵐で群れとはぐれ、迷った末に力尽きかけていた、若く気弱な竜だったと、一族の記憶は語っている」
「はぐれた竜、ですか」
「提督の艦隊が四度目の航海の途中、遠い西方の海域で嵐に見舞われた夜のことだ」マレンは続けた。「波は山のように高く、雷鳴が絶え間なく海面を叩いていたと一族の記憶は語っている。艦隊のいくつかの船は帆を失い、漂流しかけたほどの嵐だったという。翌朝、ようやく海が凪いだころ、船員の一人が、海面に力なく浮いている一頭の幼い竜を見つけた。飢えと疲労で、ほとんど身動きも取れない有様だったという。角は泥にまみれ、片方の翼は嵐の中で傷ついていたとも伝わっている。船員たちはそれを甲板へ引き上げ、水と乾いた魚肉を与えて介抱した。それが、すべての始まりだった」
「その幼竜が、瑞獣として献上されたのですね」
「そうだ」マレンは苦さの滲む声で言った。「艦隊が本国へ帰還したとき、誰かが――提督自身だったのか、随行の学者だったのか、それは伝わっていない――この幼竜の角の形と鱗の斑紋を、古い伝承に描かれた瑞獣の特徴になぞらえた。角は本来まっすぐだったものを、宮廷の絵師が描く際に螺旋型に描き変え、鱗の色も実際より鮮やかに彩色されたと聞いている」
「絵巻に違和感を覚えたのは、そのためだったのですね」
「おそらくな」マレンは頷いた。「王はこれを、自らの治世が天に認められた証だと宣言した。当時、隣国との緊張が高まっていた時期でもあったと聞く。天の祝福を得た王という物語は、民の心をまとめ、諸侯の不満を抑えるために、都合が良かったのだろう」
レイブンは記録帳に、マレンの言葉を一字一句書き留めていった。「あなたは、その扱われ方を、どうお感じになっているのでしょうか」
マレンは、しばらく答えなかった。波の音だけが、入り江に満ちていく。
「複雑だ、というのが正直なところだろうな」竜はやがて、静かに言った。「私の祖先は、確かに救われた。嵐の海で死にかけていたところを、人間に拾われ、命を長らえた。そのこと自体には、恨みも憤りもない。だが、救われた恩義と、瑞獣に仕立て上げられた屈辱とは、また別の話だ」
「屈辱、と感じておられるのですね」
「祖先自身がどう感じていたかは、正直、私にも分からない」マレンは目を伏せた。「一族の記憶に残っているのは、事実の断片だけで、感情までは正確には伝わっていない。ただ、私自身がこの話を聞かされて育った身として言えば――救われた恩と、実物とは違う姿で崇められ続けたこととは、どちらも本当のことであり、どちらか一方だけを選んで語ることは、私にはできない」
「宮廷の記録を、訂正しようとは思わなかったのですか」
「思わなかった、と言えば嘘になる」マレンは静かに答えた。「だが、竜が人間の書いた記録に異を唱えるという行為自体が、この地では前例のないことだった。それに、瑞獣の物語は、すでに何世代もの人々の記憶に深く根を下ろしていた。今さら私が『あれは作られた話だ』と告げたところで、誰がそれを信じただろうか。むしろ、竜が心変わりをして王家を貶めようとしていると受け取られたかもしれない」
レイブンは筆を止め、マレンの横顔を見つめた。夕暮れの光が、崖の向こうから静かに差し込み始めていた。
「あなたは、誰かを恨んでいるわけではないのですね」
「恨んではいない」マレンは言った。「ただ、正確でありたいだけだ。祖先は嵐に拾われた、気弱な子竜だった。艦隊を導いたとされる海竜も、ただ同じ方向へ泳いでいた群れの一頭に過ぎなかった。そのどちらも、瑞獣や守護竜と呼ばれるほどのものではない。それでも、人間たちがそこに物語を見出し、それによって何かを守り、何かをまとめてきたのなら――私がその物語を、頭ごなしに否定する権利があるとも思えない」
「難しい立場ですね」
「難しくはない」マレンは静かに首を振った。「ただ、正直であろうとすると、単純な答えにはならない、というだけのことだ」
五 記録帳に残す、断定なき航跡
夕闇が入り江に降り始めていた。マレンは長い体を岩場に横たえたまま、静かに海を見つめている。レイブンも記録帳を閉じ、少し離れた岩に腰を下ろした。
「もうひとつ、伺ってもよいでしょうか」レイブンは言った。「あなたは、この話を、これまで誰かに話したことがあるのでしょうか」
「何度かはある」マレンは答えた。「だが、最後まで聞き届けた者は、そう多くない。多くの者は、瑞獣の伝説を壊されることを恐れて、途中で耳を塞いでしまう。あるいは逆に、伝説がすべて嘘だったと、単純化して受け取ってしまう」
「私は、どちらとして書き残せばよいのでしょうか」
「それは、お前が決めることだ」マレンは静かに言った。「私にできるのは、分かっていることは分かっている、分からないことは分からないと、正直に語ることだけだ。それをどう記録するかは、記録者であるお前の役目だろう」
レイブンはしばらく黙って、暮れていく海を眺めていた。壁画に描かれた勇壮な艦隊と竜の姿、絵巻に描かれた瑞獣としての幼竜、そして今、目の前で静かに語るマレンの姿。そのどれもが、同じひとつの出来事から生まれた、異なる断面のように思えた。
「両方を、書き残そうと思います」レイブンはやがて言った。「艦隊を守護したという伝説と、ただ同じ航路を泳いでいただけだったというあなたの証言。瑞獣として迎えられた幼竜の物語と、嵐に拾われた気弱な子竜だったというあなたの記憶。どちらか一方を正しいと決めるのは、私の役目ではないと思うからです」
マレンはレイブンをしばらく見つめ、やがて小さく頷いた。
「それでいい」竜は言った。「むしろ、それがいい。断定は、いずれ誰かの都合によって、また書き換えられるだろう。だが、断定しないという記録の仕方だけは、そう簡単には書き換えられない」
翌朝、レイブンは七宝港を発つ支度を整えた。埠頭では、コラスが網を繕いながら見送りに出てきてくれた。
「入り江まで行ったのだろう」コラスは手を止めずに言った。「マレンの奴め、また例の話をしたか」
「ご存知だったのですか」
「長くこの港で暮らしていれば、薄々気づくものさ」コラスは肩をすくめた。「だが、それを声高に語る者は少ない。港を訪れる旅人たちが求めているのは、真偽の検証ではなく、勇壮な航海譚の方だからな」
海事文庫の前を通りかかると、イネスも扉の前に姿を見せ、静かに一礼した。「今回の記録が、いずれ誰かの目に触れたとき、この港の伝承を見る目が、少しでも複雑なものになれば幸いです」
港の壁画の前で、レイブンは最後にもう一度足を止めた。朝の光を受けた壁画の竜は、昨日よりもいくぶん穏やかな表情を浮かべているように見えた。
記録帳の最後のページを開き、レイブンは筆を走らせた。
――七宝港には、七度の大航海を成した提督ハイレンの伝説と、艦隊を導いたという巨大な海竜、そして瑞獣として迎えられた献上の幼竜、三つの物語が伝わっている。入り江に棲む竜マレンの証言によれば、海竜は艦隊を意図的に導いたのではなく、同じ航路を泳ぐ群れの一頭に過ぎず、幼竜もまた瑞獣ではなく、嵐に拾われた気弱な子竜だったという。だが、その証言もまた、一族の記憶という、確かめようのない伝聞の上に成り立っている。
権威づけのために物語が形作られることは、珍しいことではないのかもしれない。だが、その物語の陰で、実物とは違う姿を長く背負わされてきた者がいたとすれば、それもまた、記録に残しておくべき事実だろう。どちらが真実で、どちらが虚構なのか、私が断定することはできない。ただ、壁画の勇壮な物語と、竜自身の醒めた証言、その両方を、確かな手触りとして残しておきたいと思う。
港を出る手前で振り返ると、埠頭の向こうに、入り江の方角がかすかに霞んで見えた。マレンが今も同じ場所で、静かに海を眺めているのだろうかと、レイブンはふと思った。それを確かめる術はなかったが、確かめる必要もないように思われた。
荷を背負い直し、レイブンは街道を歩き始めた。記録帳の中の二つの証言だけが、確かな重みを持って、旅の荷に加わっていた。
あとがき
本作は、明代の宦官提督・鄭和(ていわ)にまつわる史実――『明史』鄭和伝や馬歓『瀛涯勝覧』等に伝わる、永楽帝の命により七度にわたり大船団を率いて南シナ海からインド洋、東アフリカ沿岸まで到達した大航海の記録、および第四次航海前後にベンガル王国から明の宮廷にキリン(動物)が献上され、その姿が伝説上の瑞獣「麒麟」と同名であることから瑞兆として盛大に歓迎されたという逸話を下敷きにした翻案である。
本作では舞台を水竜王国アクアリウスの港市「七宝港」に移し、鄭和を提督ハイレンに、献上されたキリンを西方の国から贈られた「幼竜」に、瑞兆としての熱狂を宮廷による物語化の過程に置き換えた。原典では動物の誤認や政治的演出として語られがちなこの逸話に対し、本作では竜自身の視点を新たに設け、瑞獣に仕立て上げられた幼竜の末裔マレンが、祖先は嵐に拾われた気弱な子竜に過ぎなかったと自ら語る、内省的な証言として描いている。また、艦隊を先導したとされる巨大な海竜の正体を、季節移動する海竜の群れの一頭に過ぎなかったとする解釈、記録画に残る角や斑紋の違和感から真相に迫る展開、海事文庫の管理人イネスや波止場の古老コラスとのやり取りは、本作独自の創作である。登場する人物名・竜の名(レイブン、コラス、イネス、マレン、提督ハイレンほか)、地名(七宝港、アクアリウス等)はすべて本作のための創作であり、原典の固有名詞をそのまま用いた部分はない。原典や特定の翻訳文からの逐語的な引用・翻訳は行っていない。
本作は明代の宦官提督・鄭和にまつわる史実(『明史』鄭和伝、馬歓『瀛涯勝覧』等に記録された南海大遠征、および永楽帝期のキリン献上と瑞兆としての歓迎の逸話)を参考にした翻案作品です。参考: https://en.wikipedia.org/wiki/Zheng_He