物語雳
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·読了目安 16分脇役

竜は沈黙を破らなかった

卵の頃から誰にも明かさず育てた竜を、姫は闘技場の奥に囲われたまま愛し続けてきた。恋人が裁きにかけられた日、姫は竜の扉か花嫁の扉か、ただ一つの合図で示さねばならない。フランク・R・ストックトン『貴婦人か虎か』を翻案した、答えなき裁きの物語。

一 卵と灯火

王国の掟は、遠い昔からひとつの形を崩さずに続いてきた。罪を犯した者は円形の闘技場に引き出され、正面に並んだ二つの扉のどちらかを、己の足で選ばねばならない。一方の奥には、王国が「断罪の竜」と呼び習わす獣が牙を研いで待ち、もう一方の奥には、罪人にふさわしいとして王が選んだ花嫁が、白い衣をまとって待っている。竜の扉を選べば裂かれて死に、花嫁の扉を選べば、その場で婚礼の鐘が鳴らされる。どちらの扉の奥に何があるかは、儀式を仕切る神官のほかは誰も知らされない。神の気まぐれとも天の意志とも呼ばれるこの裁きに、王国の民は疑いを持ったことがなかった。

姫リオラは、物心つく前からこの掟を当然のものとして育った。けれど、闘技場の奥で牙を光らせるあの獣が、かつて自分の掌の上で殻を破った一匹の卵だったことを知る者は、宮廷じゅうを探してもリオラのほかに誰もいなかった。

七つの年、リオラは狩りから戻った父王の従者が谷筋で拾ったという、灰色にひび割れた卵を貰い受けた。誰も孵るとは思っていなかった。乳母は気味悪がり、侍女たちは早く捨てるようにと繰り返したが、リオラだけは寝室の暖炉のそばに卵を据え、毎晩みずから灯火をかざしてその殻を覗き込んだ。ひと月ほど経ったある夕暮れ、殻の内側から硬いものが叩く音がした。リオラは震える手で殻の欠片を剥がし、灯りの下に、濡れて光る小さな竜を取り上げた。

「あかり」

とっさに口をついて出たのが、その子の名になった。灯火を頼りに生まれてきたから、灯(あかり)。リオラは誰にも教わらぬまま、その日から自分の食事の一部を分け与え、指先の匂いを覚えさせ、夜泣きするたびに抱いて眠った。

灯はやがて、寝室の隅では収まらぬほどの大きさに育った。宮廷の誰もがその噂を聞きつけ、ついには父王の耳にも届いた。王は喜びも怒りもせず、ただ静かに言った。

「都合がいい。ちょうど、闘技場の獣が老いて牙も鈍っていたところだ」

その日のうちに、灯は闘技場の地下深くへと移された。王国にはもとより、罪人を裁くための獣を飼う慣わしがあり、代替わりのたびに山や谷から捕らえてきた獣を宛てがってきたのだが、人に慣れぬ野生の獣は暴れて手に負えぬことも多かった。人の手で育ち、それでいて隠しようもなく大きく育った灯は、王国にとってこの上ない拾いものだった。

リオラは声も上げられなかった。灯は王国の所有物であり、姫の飼う小鳥や子犬とは違う。父の決定に異を唱える権利など、姫にすら与えられていないことを、その日はじめて思い知った。

けれどリオラは灯を諦めなかった。闘技場の奥、獣の檻へ通じる回廊には、姫だけに許された鍵があった――かつて灯を手放す条件として、せめてもの世話係だけは自分にと、王に願い出て得た小さな特権だった。以来リオラは、月に幾度となく、誰にも知られぬよう夜更けに回廊を渡り、鉄格子の向こうの灯に声をかけ続けた。灯は姫の足音を聞き分け、鎖の許す限り近づいてきては、大きな鼻先を格子に押しつけた。王国じゅうが恐れる「断罪の竜」の、ただ一頭を慰められる者は、この国にただひとりしかいなかった。

宮廷の図書室に、ヴァレンという若い書記官がいた。身分は低く、記録の整理と古い法典の写しを任されているだけの男だったが、姫が幼い頃からの竜にまつわる逸話――卵をどう温めたか、初めて鳴いた声はどんな音だったか――を、他の誰よりも熱心に聞きたがった。リオラが図書室に足を運ぶたび、二人は書架の陰でひそひそと言葉を交わすようになった。それが単なる歓談以上のものへと変わっていくのに、そう長い時はかからなかった。

その兆しに、リオラ自身がいつ気づいたのかは定かでない。ただ、灯に会いに行く夜が増えるのと同じ速さで、図書室に立ち寄る昼も増えていったことだけは、確かだった。

王都の暮らしは、表向きにはいつも通り穏やかに流れていた。市の広場では商人たちが声を張り上げ、子供たちは石畳の上を駆け回り、季節の変わり目には神殿の鐘が朗々と鳴り渡る。だが、その平穏の底には、常に円形闘技場の存在が横たわっていた。裁きの日が近づくたび、王都の空気はにわかに張り詰め、人々は噂話に興じながらも、どこか祭りを待つような浮ついた高揚を隠さなかった。誰が裁かれるのか、扉の向こうに何が待つのか――その残酷な賭けごとを、王国の民は何百年ものあいだ、飽きることなく楽しんできたのだった。

リオラは物心つく頃から、その賭けごとの残酷さに、漠然とした違和感を覚えていた。乳母に連れられて初めて闘技場の裁きを見物した日、幼いリオラは扉の奥から響いた獣の咆哮に泣き出し、以来しばらくは闘技場に近づくことすら怖がった。それでも年を重ねるにつれ、その違和感は宮廷の作法の中に溶かされ、口に出すことすら憚られる感情へと変わっていった。灯を手放さねばならなかったあの日、リオラの中で眠っていたその違和感は、形を変えてもう一度目を覚ましたのかもしれなかった。

二 鱗に触れる者

「その子は、あなたの声を覚えているのですか」

ある夜、ヴァレンがそう尋ねた。リオラは驚いて振り返った。誰にも打ち明けたことのない秘密の回廊を、いつの間にかヴァレンが後をつけてきていたのだ。

「見つかれば、二人とも重い罰を受けます」

「では、見つからなければよいのでしょう」

ヴァレンは笑って言った。その物怖じしない態度に、リオラは呆れながらも、心のどこかで安堵していた。誰かにこの秘密を分かち合ってほしいと、ずっと願っていたのかもしれなかった。

リオラは迷った末に、ヴァレンを鉄格子の前まで連れて行った。灯は見知らぬ人間の気配に、初め低く喉を鳴らして威嚇の姿勢を見せた。だがリオラが「大丈夫」と囁き、ヴァレンの手を取って自分の手に重ねさせると、灯はゆっくりと鼻先を近づけ、格子越しにその指先の匂いを嗅いだ。長い沈黙のあと、灯は喉の奥でくぐもった音を立てた。威嚇ではなく、警戒を解いたときだけに出す、あの音だった。

「怖くはないのですか」

「怖いより先に、可哀想だと思ってしまうのです」

ヴァレンはそう言って、格子の隙間からそっと灯の鼻面を撫でた。灯は目を細め、まるで甘えるようにその手に鼻先を押しつけた。リオラは、自分だけのものだと思っていた灯の信頼を、他の誰かと分け合う不思議な喜びを、そのとき初めて知った。

それからというもの、ヴァレンは幾度もリオラと共に回廊を訪れるようになった。灯はヴァレンの足音を覚え、声を覚え、やがては彼が持ってくる干し肉の匂いにまで、期待するように鼻を鳴らすほどになった。誰も知らぬ地下の暗がりで、姫と書記官と一頭の竜だけが分かち合う時間は、リオラにとって王宮のどこよりも安らげる場所になっていった。

「この国の掟は、正しいと思いますか」

ある夜、ヴァレンが古い法典の写しを手に、ふとそう尋ねた。

「闘技場の裁きのことですか」

「ええ。罪人自身に扉を選ばせ、あとは天の気まぐれに任せる。公平なようでいて、実のところは、扉の割り当てを知る誰かの胸ひとつで、結末はいくらでも変わる仕組みだ」

「そんなことを口にすれば、不敬だと咎められますよ」

リオラは窘めながらも、内心ではヴァレンの言葉に頷いていた。姫として生まれた自分でさえ知らされない扉の秘密を、この国では神官だけが握っている。もし自分がその秘密を握る立場だったら――そんな詮無い想像を、リオラはそれまで一度もしたことがなかった。

灯との時間を重ねるほどに、ヴァレンへの想いも深まっていった。互いの身分の隔たりは、二人ともよくわかっていた。姫が一介の書記官と結ばれることなど、この王国では許されない。それでも夜ごとの回廊での逢瀬は、二人にとって唯一、身分も掟も忘れられる時間だった。灯はその秘密のすべてを、鉄格子の向こうで静かに見守っていた。

宮廷には、リオラに輿入れを望む諸侯の使者が幾人も訪れていた。中でも隣国の若い領主に嫁がせようという話が、父王の間でひそかに進められているらしいという噂を、リオラは侍女づてに耳にした。同じ頃、ヴァレンにも縁談が持ち上がっていた。宮廷に仕える貴族の娘、ミレイという名の女官が、以前からヴァレンに好意を寄せているという話は、リオラも薄々知っていた。ミレイは美しく聡明な女性で、王の覚えもめでたかった。

「もしお前が私と結ばれることを望まぬのなら、ミレイ様のような方こそふさわしいのでしょうね」

冗談めかしてリオラが言うと、ヴァレンは真顔で首を振った。

「ふさわしさで測るなら、私はそもそも姫にふさわしくありません。それでも、私が望むのはあなただけです」

その言葉に、リオラは胸の奥が締めつけられるのを感じた。叶わぬとわかっていながら、二人は互いへの想いを止められずにいた。

秋の終わり、王都で年に一度の収穫祭が催された夜のことを、リオラは長く忘れられずにいた。祭りの喧噪に紛れれば、身分を超えた逢瀬もいくらか気楽になる。二人は人目を避けて庭園の外れに抜け出し、遠くから聞こえる楽団の音色に耳を澄ませながら、しばし言葉もなく夜空を見上げていた。

「もし私たちが、他の身分に生まれていたなら」

ヴァレンがぽつりと呟いた。リオラはその先を続けさせなかった。

「詮無いことを言わないで。今夜だけは、そういうことを考えたくないのです」

代わりにリオラは、灯の話をした。今日の昼、灯が新しく生えかけた鱗を格子にこすりつけて、ひどく痒がっていたこと。三年前の冬、暖炉の灰の中に丸まって眠っていたある冷え込んだ夜のこと。そうした他愛のない記憶をひとつひとつ辿るたびに、ヴァレンの表情も少しずつ和らいでいった。灯という一頭の竜が、いつしか二人だけの共通の宝物のようになっていることに、リオラはそのとき改めて気づかされた。

「あなたと灯と、この庭園と。それだけがあれば、私は他に何もいらないのに」

リオラがそう漏らすと、ヴァレンは静かに笑って、彼女の手をそっと握った。遠くの楽団の音色が、風に乗って途切れ途切れに聞こえてくる。二人の間には、この幸福がいつまでも続くはずがないという予感が、すでに影のように差し始めていたのかもしれない。それでもその夜だけは、互いにその影を、口にすることを避けていた。

三 露見の夜

秘密というものは、どれほど注意深く守っていても、いつか綻びを見せる。

その夜、ミレイは偶然、いや、あるいは長らく抱いていた疑念を確かめるために、姫の部屋の周辺を見張っていた。リオラが夜更けに部屋を抜け出し、人目を避けるように奥の回廊へ向かうのを見咎めたミレイは、後を追った。鉄格子の向こうで灯に寄り添うヴァレンと、その傍らで笑うリオラの姿を目にしたとき、ミレイの胸にあったのは、単なる正義感だけではなかった。長らく抱いてきた想いを、一介の書記官が姫に注いでいたという事実への、鋭い嫉妬もまた、その足を父王のもとへと向かわせた一因だった。

翌朝、ヴァレンは兵に囲まれて連行された。王の前に引き出されたリオラは、初めて父の本当の怒りを見た。

「姫であるお前が、身分違いの男と密会していたと聞く。それも、王国の獣を私的に飼い慣らし、その回廊にまで男を引き入れていたと」

「父上、ヴァレンは何も――」

「掟は掟だ。姫の恋人であろうと、王国の獣を私すること、そして分をわきまえぬ想いを姫に向けたことは、断じて見過ごせぬ」

王の声には、怒りと同時に、隠しきれない苦渋も滲んでいた。娘可愛さと、王としての立場との間で、王自身もまた引き裂かれていることを、リオラは悟った。だがその苦渋は、慈悲には変わらなかった。

「ヴァレンを、闘技場の裁きにかける」

その一言で、リオラの目の前は真っ暗になった。

「お待ちください! ヴァレンは罪人ではありません、ただ私を――」

「姫を欺き、たぶらかした罪は重い。この国の掟に、身分の例外はない」

嘆願はことごとく退けられた。リオラは幾晩も父の前に跪き、涙を流して許しを乞うたが、王の決意は変わらなかった。むしろ、王女の相手にふさわしい花嫁を、この機に王自らが選んで用意するという話まで持ち上がった。誰が選ばれるのか、リオラには知らされなかったが、宮廷ではミレイの名が最有力だと囁かれていた。密告者が褒美として選ばれるという皮肉を、リオラは歯を食いしばって聞くほかなかった。

牢に囚われたヴァレンとの面会は、たった一度だけ許された。薄暗い牢の格子越しに、リオラはヴァレンの顔を見た。やつれてはいたが、その目にはまだ、あの図書室の書架の陰で交わした言葉と同じ光が残っていた。

「後悔していますか」

リオラが震える声で尋ねると、ヴァレンは首を振った。

「一度も。あなたと、灯と過ごした時間を、私は後悔したことなど一度もありません。たとえこの先どうなろうとも」

「私が、あなたをこんな目に遭わせた」

「違います。私が、覚悟の上で選んだ道です」

牢番が面会の終わりを告げるまで、二人は互いの手を格子越しに握り合ったまま、それ以上多くを語らなかった。語るべき言葉は、もはや二人ともに尽きていた。ただ、リオラの胸の内には、ひとつだけ固まった決意があった。ヴァレンを救う手立てがどこにもないのなら、せめて彼の運命を左右する扉の真実だけは、この手でつかみ取らなければならない。

裁きの日取りが決まると、リオラは残された時間のすべてを使って、扉の秘密を探ろうとした。闘技場を管理する神官のひとりが、幼い頃から姫に目をかけてくれていた老人だったことが、せめてもの救いだった。リオラは自らの持つ宝飾のすべてを差し出し、涙ながらに頼み込んだ。老神官は長く渋っていたが、最後にはその願いを聞き入れた。

「向かって右の扉の奥に、花嫁が控えております。左の扉には……」

老神官はそこで言葉を切り、悲しげに目を伏せた。それ以上、続きを口にする必要はなかった。

裁きの前夜、リオラはひとり、地下の回廊へと降りていった。灯は姫の気配に気づき、鎖の許す限り格子へと近づいてきた。リオラはその大きな鼻面に額を寄せ、長い間、言葉もなく立ち尽くした。

「あなたが、ヴァレンを覚えていることだけが、いまの私の望みです」

灯は答える代わりに、静かに喉を鳴らした。姫の涙の匂いを嗅ぎ分けているのか、それとも別の何かを感じ取っているのか、リオラにはわからなかった。ただ、灯の目には、いつもと変わらぬ穏やかな光があるように見えた。それが救いなのか、なんの意味もない気のせいなのか、答えは誰にもわからなかった。

四 二つの扉

裁きの日、円形の闘技場は隙間なく民で埋め尽くされた。誰もがこの日を待ち望んでいた。姫が心を寄せた男が、いかなる天の裁きを受けるのか――王国じゅうの好奇の目が、正面に並んだ二つの扉に注がれていた。

王は玉座から静かに見下ろし、その傍らにリオラが座した。父の顔には、もはや怒りの色はなく、ただ重々しい沈黙だけがあった。娘が真実を知る立場にあることを、王もまた薄々察していたのかもしれない。それでも王は、掟を曲げることをしなかった。

正面には、あの二つの扉が並んでいた。分厚い木の扉には、鉄の帯が幾筋も打ちつけられ、長い年月の裁きの記憶を刻むように黒ずんでいる。左右どちらの扉も、外から見る限りは寸分違わぬ姿をしていた。装飾も、金具の位置も、木目の色さえも、見分ける手がかりは何ひとつない。それこそが、この裁きを成り立たせている残酷な公平さだった。

砂の敷かれた闘技場の中央に、ヴァレンが引き出された。鎖につながれてはいたが、その足取りに卑屈な様子はなかった。ヴァレンは群衆にも王にも目をくれず、ただ一心に、桟敷に座るリオラだけを見上げた。

その視線に、リオラは息を呑んだ。ヴァレンは知っていた。この国の誰もが知らぬこと――姫だけが扉の真実を知る立場にあることを。灯と過ごした夜々の記憶が、リオラの脳裏を駆け巡った。

もし右を示せば、ヴァレンは生きて花嫁を得る。だがその花嫁の隣で、ヴァレンは二度とリオラのもとへ戻らない。誰かの妻となった男を想い続ける歳月を、リオラは思い描くだけで気が遠くなった。

もし左を示せば――そこには灯がいる。姫だけが心を許した、あの優しい竜が。

けれど、とリオラは思った。灯はヴァレンの匂いを知っている。声を知っている。幾夜も分け合った干し肉の記憶を、覚えているかもしれない。もしかしたら、灯は牙を振るう前に、ためらうかもしれない。あるいは、そのためらいさえも、闘技場という異様な熱気と喧噪の中では、何の意味もなさないかもしれない。祭りの熱に浮かされた獣が、飼い主の恋人を見分けられる保証など、どこにもなかった。

確信などどこにもない。ただ、二つの絶望のあいだで、リオラはどちらかを選ばねばならなかった。

もし自分がこの秘密を知らぬ立場だったなら、どれほど楽だったろうかと、リオラは場違いにもそう思った。何も知らぬまま、ただ天に運命を委ねて祈ることさえできれば、この選択の重みを自分ひとりで背負わずに済んだのに。だが老神官から真実を聞き出したのは、他ならぬ自分自身だった。知らずにいることを選ばなかった報いを、リオラは今まさに、この桟敷の上で受けているのだった。

隣に座る父王の横顔を、リオラはちらりと見た。王もまた、娘が今どれほどの葛藤を抱えているか、察していないはずはなかった。それでも王は、掟の番人としての沈黙を守り、視線ひとつ寄越そうとはしなかった。その硬い横顔もまた、王なりの苦しみの形なのだろうと、リオラは思った。

群衆のざわめきが静まり、闘技場に重い沈黙が満ちた。ヴァレンの視線が、痛いほどにリオラへ注がれている。リオラは震える指先を握りしめ、目を閉じた。灯と過ごした七年の歳月と、ヴァレンと過ごした短い季節とが、心の中でせめぎ合った。

やがてリオラは、目を開けた。

その右手が、わずかに、しかし確かに動いた。

群衆のどよめきが波のように広がる中、ヴァレンはその小さな仕草を見逃さなかった。彼は迷う様子もなく、示された方角へと足を踏み出した。一歩、また一歩と、砂を踏みしめる音だけが、静まり返った闘技場に響いていく。

ヴァレンの手が、扉の取っ手にかかった。

五 開かれぬ答え

扉が開かれた、その先で何が起きたのか――闘技場に集った幾千の民のうち、誰ひとりとして、確かなことを語れる者はいなかった。

ある者は、獣の低い唸り声を聞いたと言った。ある者は、女の衣擦れの音を聞いたと言った。またある者は、その両方を同時に聞いたのだと言い張り、隣に座っていた者と口論になった。砂塵が舞い上がり、群衆の悲鳴とも歓声ともつかぬ声が入り混じって、扉の奥の光景を覆い隠してしまったのだと、誰もが口を揃えた。物見高い者たちは何日もその話に興じ、やがて幾通りもの筋書きが、酒場や市場の噂話として語り継がれるようになった。だが、真実を語れる者は、最後までひとりも現れなかった。

リオラ自身、あの日の記憶を鮮明には思い出せない。目を開けたと思った次の瞬間には、扉が開かれ、群衆がどよめき、そして気づけば侍女に支えられて自室へと運ばれていた。父王がその後どのような沙汰を下したのか、ヴァレンがどうなったのか、ミレイがどう振る舞ったのか――宮廷で交わされるはずのそれらの言葉を、リオラは誰からも聞かされなかった。誰も彼女の前でその話をしなくなり、それがかえって、何よりも雄弁な答えのように、リオラには思えた。

ただひとつ、確かなことがあった。あの日を境に、闘技場の地下深く、灯の飼われていた獣舎は固く閉ざされ、二度と誰も立ち入ることを許されなくなった。姫だけに与えられていたはずの鍵は、いつの間にか取り上げられていた。灯がその後どうなったのか、生きているのか、それとも――王家の記録にすら、その顛末は記されなかった。

ミレイもまた、あの日を境に宮廷から姿を消した。国境の遠い修道院に身を寄せたとも、隣国に嫁いだとも噂されたが、真偽を確かめる者はいなかった。かつて姫の恋を妬み、密告した女官の顛末を、宮廷の誰もが半ば忘れたふりをして口をつぐんでいた。裁きの日に何が起きたにせよ、それを最も間近で見届けたはずのミレイの証言さえも、結局は他の誰の言葉とも変わらぬ、ひとつの噂として埋もれていった。

年を経て、リオラは幾度となく、あの夜の自分の指先の動きを思い返した。右手をどちらへ動かしたのか、自分自身の記憶さえもが、歳月とともに揺らぎ、二つの可能性の間で溶け合っていくようだった。ヴァレンが花嫁と共に生きているという想像も、ヴァレンが灯の牙にかかったという想像も、等しい鮮やかさでリオラの夜を訪れた。

そしてもうひとつ、リオラの胸にだけ、誰にも語らぬまま棲みついた想像があった。もし左の扉が開かれ、その奥に灯がいたのだとしても――ヴァレンの匂いを、声を、幾夜も分け合った記憶を、灯が本当に忘れていなかったのだとしたら。あの日、灯は牙を振るう前に、ほんの一瞬でもためらったのではないか。祭りの熱狂の中、誰にも気づかれぬほどの、ごくわずかな躊躇い。それが何をもたらしたのか、もたらさなかったのか、リオラには永遠に確かめる術がなかった。竜は言葉を持たず、たとえ生きていたとしても、その答えを姫に語ることは決してできないのだから。

宮廷を退いたのちも、リオラは老いるまで、月に一度、誰にも告げずに闘技場の跡を訪れ続けた。固く閉ざされた獣舎の扉の前に立ち、かつて自分の掌で殻を割った小さな竜のことを思う。灯という名を、その扉の奥にいる誰かが、まだ覚えていてくれるだろうか。

答えのない問いを胸に抱いたまま、リオラは今日もまた、扉の前で灯りをかざす。かつて卵の殻の内側から響いた、あの小さな叩く音を待つように。竜は、最後まで一度もその姿を見せず、ただ沈黙だけを、姫に残していった。

あとがき

フランク・R・ストックトンの『貴婦人か虎か』は、罪人が二つの扉のどちらかを自ら選び、天の気まぐれに運命を委ねるという裁きの構図を軸に、扉の真実を知る唯一の人物である姫の胸の内を、結末を明かさぬまま読者に投げかける短編である。本作では、原作における虎を、姫が卵の頃から誰にも知られず育て上げ、唯一心を通わせてきた竜に置き換えた。王国の掟によって闘技場の「断罪の獣」として召し上げられながらも、姫だけには気を許し続けるという設定に、姫の恋人自身もまたその竜と密かに絆を結んでいたという要素を加えることで、原作にはなかった第三の余白――竜が恋人の匂いや声を覚えていたなら、牙を振るう前にためらったかもしれないという、確かめようのない可能性――を結末に残すことを試みた。

原作の核心である「扉の真実を知る者の選択と、それを知らぬまま扉を開ける者の運命」という緊張構造、そして結末を一切明かさぬまま幕を閉じる構成は保ちながら、人物名・王国の背景・竜の由来と造形、姫と竜、姫と恋人それぞれの関係の掘り下げは、すべて独自に創作したものである。

なお本作は、原典の翻訳や逐語的な引用は行わず、あらすじと構図のみを参照し、文章・情景・展開は独自に創作したものである。


本作はフランク・R・ストックトン著『貴婦人か虎か(The Lady, or the Tiger?)』を参考にした翻案作品です。

本作はフランク・R・ストックトン(Frank Richard Stockton)の『貴婦人か虎か(The Lady, or the Tiger?)』を参考にした作品です。原典