竜は火刑の日に居合わせなかった
長年の包囲を破った羊飼いの少女は、光竜の声を聞いたと語り伝えられる。だが翌年火刑に処された彼女のもとに、竜はいなかった。レイブンは誇らしい聖女伝承と、竜自身の曖昧な悔恨を併記し、断定しないまま砦町を去る。
一 オルレの砦町、旗を掲げた少女の像
石畳の坂を登りきったところで、レイブンは足を止めた。
光竜神聖国ルミナリアの北の辺境、幾度も囲まれては持ちこたえてきたという砦町「オルレ」は、丘の稜線に沿って城壁を巡らせた、こぢんまりとした町だった。城壁は古く、継ぎ足された石の色がまだらに残っている。何代にもわたって崩されては積み直された跡が、そのまま町の年輪のように刻まれているのだと、門番は誇らしげに語ってくれた。
城門をくぐると、真っ先に目に入ったのは、広場の中央に立つ一体の像だった。鎧をまとい、片手に旗を掲げた少女の姿。そのすぐ傍らの石壁には、翼を大きく広げた竜のレリーフが刻まれている。少女の像は旗を高く掲げ、竜のレリーフはその旗の先を見守るように首をもたげていた。像の高さはレイブンの背丈をわずかに超える程度で、決して壮大なものではなかったが、それだけに、この町の者たちが自分たちの手で日々磨き上げてきたのだろうという親密さが伝わってきた。
旅の記録者を名乗って幾年にもなるレイブンだが、これほど若い姿で銅像に刻まれた人物には、あまりお目にかかったことがなかった。像の台座には、風雨で薄れかけた文字で「導きし者、ここに眠らず」とだけ刻まれている。眠らず、という言葉の意味を、レイブンはしばらく考えたが、答えは出なかった。眠っていないのなら、この像の主はどこにいるのか。あるいは、眠ることを許されなかった、という意味なのか。
広場では、じきに訪れる収穫祭の支度が進められていた。軒先には金と白の布が吊るされ、露店の骨組みが次々と組み上げられていく。荷車から果実の籠を降ろす商人たちの威勢のいい掛け声が、坂の下からも聞こえてきた。子供たちは像の周りを飛び跳ねながら、覚えたての歌を口ずさんでいる。
「乙女は駆けた、旗を手に。竜の声を、道しるべに――囲みは破れ、鐘は鳴る。乙女は還らず、風の中」
歌はそこで途切れ、子供たちは笑いながら別の遊びに移っていった。レイブンは記録帳を開き、聞き取れた歌詞の断片をそのまま書き留めた。この手の童歌には、たいてい土地の言い伝えの核が、ごく単純な形で溶け込んでいるものだった。最後の一節、「乙女は還らず」という言葉が、なぜかレイブンの耳に長く残った。
像の足元には、干からびかけた花がいくつも供えられている。誰かが毎日のように取り替えているらしく、萎れきったものと、まだ瑞々しさの残るものとが入り混じっていた。祭りの華やかな支度と、この控えめな花束と。その取り合わせに、レイブンはわずかな違和感を覚えた。祝祭の対象であると同時に、何かを悼まれてもいる人物なのだろうか。
広場の隅、井戸の縁に腰かけていた老人が、レイブンの視線に気づいて声をかけてきた。
「珍しいな、この時期に旅の記録者が来るのは。像が気になるかね」
老人は名をバルトロといった。若い頃から城壁の見張りを務め、今は隠居して広場の日向で過ごすのが日課なのだという。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、杖を持つ手の甲には、長年の労働で節くれ立った跡がはっきりと見て取れた。レイブンが記録者であり、この町に伝わる話に関心があると告げると、バルトロは像を見上げ、少し目を細めた。
「あの子はな、この町を救った子だ。同時に、この町が救えなかった子でもある」
「両方、ということですか」
「そういうことになる」バルトロは杖の先で石畳を軽く叩いた。「長い話になる。急ぎの旅でなければ、聞いていくといい。どうせこの歳になると、話し相手が減って困っていたところだ」
レイブンは記録帳を持ち直し、井戸端の縁に腰を下ろした。丘を渡る風が、供えられた花の匂いを微かに運んできた。遠くで祭りの支度の槌音が、途切れることなく響いていた。
二 羊飼いの少女と、囲まれた砦
「昔、この砦町は、何年ものあいだ包囲されていた」バルトロは遠くを見るように語り始めた。「隣国の軍勢に城壁の外側をぐるりと囲まれ、援軍も届かず、当時のこの地の领主――若きアランド様は、日に日に追い詰められていた。城壁の内側では、兵糧が尽きかけ、井戸の水位すら下がっていた。子供や年寄りから順に、体を壊す者が増えていった時期だ。皆が、諦めかけていた」
「そこに、あの像の少女が現れた、と」
「リゼルという名の、羊飼いの娘だった」バルトロは頷いた。「城壁の外れ、古い塔の跡がある牧草地で、羊の番をして育った子だ。両親はとうに亡く、遠縁の家に厄介になりながら、ただ黙々と羊を追う日々を送っていたという。目立つ子ではなかった、と当時を知る者は皆口を揃える。ある日、その娘が城門の前に現れて、『光竜の声を聞いた。この包囲は破れると』と言い出した」
レイブンは筆を止めずに問うた。「领主は、すぐに信じたのでしょうか」
「まさか」バルトロは苦笑した。「最初は門前払いだったそうだ。羊飼いの小娘が、竜の声だと。誰だって眉唾ものだと思う。門番は追い返そうとしたし、側近の中には、正気を疑う者すらいた。だが、その娘は諦めなかった。三日三晩、城門の前に座り込んで、雨に打たれても同じことを言い続けた。しびれを切らした兵の一人が、いっそ本人に前線を見せてやれ、と冗談半分に城壁の上へ連れて行ったところ――」
「そこで、何かが」
「娘は敵陣を指差して、包囲の一番手薄な場所を言い当てたのだそうだ。誰に聞いたわけでもなく、な」バルトロの声が、わずかに低くなった。「それで、领主の側近たちの態度が変わった。物見のできる者たちが確かめたところ、確かにその一角の守りは薄かった。それでも领主は、すぐには頷かなかったと聞いている。一介の娘の言葉ひとつで兵を動かすことの重さを、誰よりも分かっていたのだろう。だが、他に打つ手もなかった。飢えはもう、待ってはくれなかった」
町の歴史にしては、あまりに芝居がかった話だと、レイブンは思わないでもなかった。だが、目の前の老人の口ぶりに、誇張を楽しむような色はなかった。ただ淡々と、幾度も語り慣れた話を語っているだけの声だった。
「领主は最後には、娘を先頭に立てた夜襲を許した」バルトロは続けた。「娘は、剣を振るったわけではないと聞いている。ただ、借り物の胴当てを着けて、旗を掲げて、先頭を歩いただけだそうだ。それでも、後に続く兵たちの足取りが、まるで違ったという。竜の声を聞いたという娘が先を歩いているのだ、負けるはずがない――そう思い込んだ者たちの足には、それまでにない力が宿っていたそうだ。士気が違えば、囲みなど呆気なく破れるものだ、と、あの夜襲に参加した年寄りは皆そう言う」
「包囲は破れたのですね」
「破れた」バルトロは像を仰いだ。「夜明け前、敵陣の一角が崩れ、そこから雪崩を打つように味方が押し出した。翌朝には、囲みは完全に解けていた。アランド様はその後、この地の正統な王として戴冠なさった。リゼルの導きがなければ、そんなことにはなっていなかっただろう、と誰もが言う。戴冠の儀の折には、リゼルもまた式典に招かれ、王の傍らに立ったと伝わっている。あの日ばかりは、この町の誰もが、心から誇らしかったはずだ。だからこそ、あの像がある。旗を掲げた娘の姿を、町の誰もが誇りに思っている」
けれど、と老人はそこで言葉を切った。杖を握る指先に、わずかに力がこもるのが見えた。
「けれど、それで話が終わっていれば、あの花は供えられていない」
レイブンは黙って続きを待ったが、バルトロは深く息を吐いただけで、それ以上は語ろうとしなかった。
三 記録係フィオナと、書き足された伝承
バルトロは、それ以上は語りたがらなかった。代わりに、町の礼拝堂の奥で古い記録を管理している者がいると教えてくれた。名をフィオナといい、代々この町の記録係を務める家に生まれた、まだ若い女だった。
礼拝堂の裏手にある小さな書庫で、レイブンはフィオナに迎えられた。壁一面の棚には、革表紙の記録帳が年代順に並んでいる。埃と古い紙の匂いが、狭い室内に満ちていた。フィオナは迷いなくその一冊を取り出すと、埃を払って机に広げた。
「包囲が破れた年の記述は、これだけです」
指し示されたページには、ごく簡潔な一文があるだけだった。「羊飼いの娘、包囲の薄き処を告ぐ。夜襲、成る」。それだけだ。
「けれど、代を経るごとに、記述は増えていきました」
フィオナは次々とページをめくって見せた。十年後の記録には「娘、竜の声を聞きしと自ら語る」とあり、さらに数十年後の記録には「娘、光竜の御使いとして遣わされしなり」とまで書かれている。もっとも新しい代の記述に至っては、リゼルはほとんど聖女として描かれ、竜との対話の様子まで、まるで見てきたかのように詳細に綴られていた。
「なぜ、これほど書き足されていったのでしょうか」
「アランド様の血筋にとって、都合が良かったのだと思います」フィオナは静かに答えた。「竜に選ばれた王、という物語は、後の代の统治の正統性にとって、何よりの支えになりましたから。代々の記録係も、時の求めに応じて、少しずつ筆を重ねていった。私の家も、その片棒を担いできたことを、否定はできません」
レイブンはページの余白に目を落とした。誇らしい伝承の裏側に、誰かの意図が幾重にも塗り重ねられている感触が、指先から伝わってくるようだった。
「像の足元に、花が供えられていました」レイブンは切り出した。「祭りの支度をしている町の様子とは、少し不釣り合いに思えたのですが」
フィオナの表情に、初めてはっきりとした陰りが差した。彼女は棚の奥から、もう一冊、表紙の色が違う帳面を取り出した。開いた拍子に、乾いた紙の擦れる音がした。
「これは、あまり人には見せない記録です」
そこに記されていたのは、包囲が破れた翌年の出来事だった。リゼルは国境近くの小競り合いで、敵対勢力に捕らえられた。引き渡された先の宗教裁判にかけられ、「竜の声を騙った異端者」という罪状で有罪とされ、火刑に処されたという一節。日付と場所が、事務的な筆致で淡々と記されているだけだった。感情らしいものは、どこにも書き添えられていなかった。
「町は、彼女を助けられなかったのでしょうか」
「助けようとした者もいたと聞いています。身代金を集めようとした市井の者たちの記録も残っています。けれど、当時のこの町には、遠方の裁判所に口を挟むだけの力がありませんでした」フィオナは帳面を閉じた。「アランド様ご自身も、公にはほとんど動かれなかったと伝わっています。既に王位は確立されていて、羊飼いの娘一人のために、政治的な波風を立てたくなかったのではないか――そう囁く記録も、実はこの書庫の奥に眠っています。私の先祖の一人は、日記の隅に『王は沈黙を選ばれた』とだけ記し、それ以上は何も書き残しませんでした」
レイブンは黙って記録帳に書き写した。誇らしい像と、色褪せた花と。その両方の意味が、ようやく繋がった気がした。
「リゼルは、町外れの古い塔跡でよく一人になっていたそうです」フィオナは窓の外、丘の西側を指し示した。「羊の番をしていた頃も、包囲が破れた後も。周りの子供たちと馴染めなかった彼女にとって、あそこだけが心を許せる場所だったのだろう、と古い記録には書かれています。あそこには今も、光竜が棲んでいると言われています。もし彼女が本当に竜の声を聞いていたのだとしたら――その竜が、今もあそこにいるのかもしれません」
「あなた自身は、竜に会いに行ったことは」
フィオナは首を横に振った。「記録係の務めは、書き残されたものを守ることです。塔まで足を運ぶのは、記録者であるあなたの役目でしょう。私はここで、あなたが戻るのを待っています」
四 塔跡の竜、告げられなかった声
町外れの牧草地を抜けた先に、崩れかけた石塔の跡があった。かつては見張り台として使われていたのだろう、崩れた壁の断面には、狭間の跡がわずかに残っている。風化した石段を登った先、開けた頂上の一角に、灰白の鱗を持つ一頭の光竜がうずくまっていた。夕日を浴びたその鱗は、燃え残りの炭のような、くすんだ光を帯びていた。レイブンの足音に気づくと、竜はゆっくりと首をもたげた。
「久しいな。記録者と名乗る人間が、ここまで登ってくるのは」
竜は静かな、しかしよく通る声で言った。「私はメレディス。この塔を棲みかとする者だ。お前の用向きは、おおよそ見当がつく」
「オルレの町で、リゼルという娘の話を伺いました」
メレディスは長い沈黙を挟んだ。夕刻の風が、崩れた石段の隙間を吹き抜けていく。
「あの娘のことは、覚えている」竜はやがて口を開いた。「羊の番をしながら、よくこの塔の下に座っていた。誰にも打ち明けられない孤独を抱えた娘だった。両親を亡くし、預けられた家でも肩身の狭い思いをしていたことは、見ていれば分かった。私はただ、この塔にいるだけで、時折り娘の方を見ていた。声をかけることもなく、ただ見ていただけだ」
「それでも、娘はあなたの『声』を聞いたと語っていたそうです」
「そこが、私にも判然としないところだ」メレディスの声に、初めて迷いのような響きが混じった。「私は確かに、あの娘に気配を向けたことがある。孤独な人間の子に、竜の存在が何がしかの支えになるのなら、それでいいと思っていた。だが、それを『声』と呼び、『包囲は破れる』という明確な言葉として受け取ったのは、娘自身だ。私が、はっきりとそう告げた覚えはない」
レイブンは筆を止めた。「では、包囲の薄い場所を言い当てたことは」
「それも、私には分からない」メレディスは静かに首を振った。「あの子は誰よりも長く、この塔からこの土地を眺めて育った。日々、遠くの陣の炊煙の量や、見張りの交代の間隔を、無意識のうちに数えていたのかもしれない。羊を追いながら、来る日も来る日も、同じ景色を見つめ続けた者にしか気づけないことが、きっとあったはずだ。それを『竜に教えられた』と語ったのか、それとも本当に、私の気配の中から何かを読み取ったのか――正直に言えば、私自身にも確信が持てない」
「孤独な娘が、あなたのかすかな気配を、都合よく言葉に置き換えた可能性もある、と」
「そうかもしれない。そうではないかもしれない」竜は目を伏せた。「私はただの一頭の竜に過ぎない。人の心の奥で、何が天啓に変わり、何が独り言のままで終わるのか、見分ける術など私には持ち合わせがない。ただ、あの娘が、誰かに――何かに――信じてもらいたがっていたことだけは、確かだったように思う」
その声には、単なる困惑以上の、もっと重いものが滲んでいるように、レイブンには感じられた。
「あなたは、火刑の日のことをご存じですか」
メレディスの体が、わずかにこわばった。長い首がゆっくりと垂れ、灰白の鱗が夕日を受けて鈍く光った。しばらくのあいだ、竜は何も言わなかった。石塔の周りを風だけが吹き抜けていった。
「知っている」竜はようやく、低く言った。「知っているというのは、正確ではないかもしれない。私は、あの日、その場に居合わせなかった」
「行こうとは、思わなかったのですか」
「思わなかった、と言えば嘘になる」メレディスの声は、初めて震えを帯びた。「あの娘が捕らえられたと聞いたとき、私はこの塔から飛び立とうとした。爪の先まで力を込めて、翼を広げかけた。だが、遠方の裁判所は国境の向こう、他国の領内にある。一頭の竜が国境を越えて姿を現せば、それだけで新たな戦を招きかねない――そう考える者たちに、幾度も引き止められた。アランド自身も、竜が動けば事態がより悪くなると、使者を寄越して私を制した」
「それで、あなたは」
「留まった」メレディスは目を閉じた。「留まって、何もしなかった。理屈では、正しい判断だったのだろう。私が国境を越えれば、この地全体を巻き込む争いになっていたかもしれない。だが、あの娘が最後に何を思ったのか、私は知らない。声を聞いてくれる者を求めて、あの子は最後まで私の名を呼んだのかもしれない。それとも、とうに見限っていたのかもしれない。どちらであっても、私はその場にいなかった。それだけが、動かしようのない事実だ」
風が石塔の隙間を吹き抜け、低く唸るような音を立てた。レイブンは、その音の中に、竜の声にならない何かが混じっているような気がしたが、それを言葉にすることはできなかった。
「町の像は、あなたを『娘を導いた光竜』として、誇らしげに刻んでいます」
「知っている」メレディスは静かに答えた。「それを否定するつもりはない。私が娘に気配を向けたことも、娘がそれを支えにしたことも、おそらく事実だろう。だが、あの像が語らないことが、ひとつだけある。導いたとされる竜は、娘が最も竜を必要としたはずの日に、どこにもいなかったということだ。誇らしい物語を刻んだ石は、都合の悪い沈黙までは刻まない。それは、この町を責めているのではない。私自身への戒めとして、そう思っているだけだ」
五 記録帳に残す、誇りと悔いの両方
夕闇が塔の周りに降り始めていた。メレディスは長い沈黙の後、ゆっくりと顔を上げた。
「お前は、これをどう記録するつもりだ」竜は尋ねた。「町の伝承通り、娘を導いた誇らしい竜として書くのか。それとも、火刑の日に居合わせなかった、悔いを抱えたままの竜として書くのか」
「どちらも、記録に残すつもりです」レイブンは静かに答えた。「娘に気配を向けたことも、包囲を破る力になったであろうことも。そして、最も必要とされた日に、あなたがそこにいなかったことも。どちらか一方だけを選ぶことは、私の役目ではありません」
メレディスはしばらくレイブンを見つめていたが、やがて微かに頷いた。
「それでいい」竜は言った。「悔いを隠して誇りだけを語るのも、誇りを打ち消して悔いだけを語るのも、どちらもきっと娘には誠実でない。私にできるのは、分かっていることは分かっている、分からないことは分からない、居なかった日には居なかったと、正直に言うことだけだ」
レイブンは記録帳を閉じ、一礼して石段を降り始めた。振り返ると、メレディスは再び翼を畳み、崩れた石塔の影に体を沈めていくところだった。その姿は、まるで長い年月そこに座り続けてきた古い石の一部のようにも見えた。
翌朝、レイブンは町を発つ前に、もう一度広場に立ち寄った。祭りの支度はすっかり整い、旗を掲げた少女の像は、金と白の布に囲まれて、いつにも増して誇らしげに見えた。その足元には、相変わらず、干からびかけた花が控えめに供えられている。朝の光を受けて、像の旗の輪郭が、くっきりと空に浮かび上がっていた。
フィオナが見送りに出てきて、静かに一礼した。「メレディス様と、お会いになれたのですね」
「はい。あの方は、火刑の日に居合わせなかったことを、今も悔いておられました」
フィオナは像を見上げ、しばらく黙っていた。「町の誰もが、その話までは語りません。誇らしい伝承だけを、子供たちに歌い継がせています」
「それでいいのだと、私は思います」レイブンは言った。「誇りも、悔いも、どちらも本物なのでしょうから。私はただ、その両方を記録に残すだけです」
バルトロが杖をつきながら見送りに現れ、像を一瞥して言った。「あの子が本当に竜の声を聞いたのかどうか、生きている者には、もう誰にも確かめようがない。それでも、あの子が旗を掲げて歩いた朝のことだけは、確かに多くの者が見ている。それだけは、疑いようのない事実だ」
レイブンは記録帳を開き、最後のページに筆を走らせた。
――オルレの砦町には、光竜の声に導かれ、長年の包囲を破った羊飼いの娘の伝承が伝わる。娘は后に领主を王位へと導いたが、翌年、異端の罪で火刑に処された。塔跡に棲む竜は、娘に気配を向けたことは認めるが、それが天啓だったのか、孤独な娘の独り歩きした解釈だったのかは、竜自身にも判然としないという。そして竜は、娘が最も竜を必要としたはずの火刑の日、その場に居合わせなかったことを、今も悔いている。
町の誇らしい像と、足元に供えられた花。その両方が、この土地の記憶の正しい形なのだろう。どちらか一方を選び取ることは、私にはできない。ただ、両方の重さを、旅の荷に加えて持ち帰るほかない。
城門を出る手前で振り返ると、朝日を浴びた像の旗が、かすかに風にはためいているように見えた。それが本当に風のせいなのか、それとも見送る誰かの視線のせいなのか、レイブンにはもう判じようがなかった。坂を下りながら、レイブンは一度だけ、丘の西の塔跡の方角を振り仰いだ。そこには、変わらぬ静けさだけが横たわっていた。
あとがき
本作は、百年戦争末期のフランスに実在したジャンヌ・ダルク(1412年頃〜1431年)にまつわる史実――ロレーヌの農村の少女が、13歳の頃から「声」を聞いたと語り、王太子シャルルのもとへ赴いて信を得、包囲されていたオルレアンを1429年に解放し、王太子をランスで正式に国王シャルル7世として戴冠させるに至った経緯、そして翌年コンピエーニュで捕らえられ、宗教裁判の末に1431年ルーアンで火刑に処された顛末――を下敷きにした翻案である。
本作では舞台を光竜神聖国ルミナリアの辺境「オルレの砦町」に移し、ジャンヌが聞いたとされる「声」を、塔跡に棲む光竜メレディスがかすかに向けていた「気配」に置き換えた。史実では明確にされない「声を発したとされる存在の側の視点」を新たに設け、竜自身がそれを明確な天啓として与えた自覚がなく、孤独な娘が竜の気配を言葉として汲み取った可能性を否定できずにいる、内省的な証言として描いている。また、竜が火刑の日にその場へ赴けなかった経緯と、それを今も悔いているという設定、代を経て記録が徐々に「盛られていった」経緯を示す帳面の存在は、本作独自の創作である。登場人物・竜の名(レイブン、バルトロ、フィオナ、リゼル、メレディス、アランドほか)、地名(オルレの砦町、ルミナリア等)はすべて本作のための創作であり、史実に登場する固有名詞をそのまま用いた部分はない。史実や特定の裁判記録・年代記からの逐語的な引用・翻訳は行っていない。
本作はジャンヌ・ダルクにまつわる史実(ルーアン異端審問裁判記録、1431年、英訳例: https://sourcebooks.fordham.edu/basis/joanofarc-trial.asp )を参考にした翻案作品です。