竜は鎖の奥を語らなかった
氷竜公国フロストクラウンの集落「鎖影の谷」には、暴君の両肩に生えた双頭の蛇竜を英雄が討たず封じたという伝承が伝わる。氷洞の最奥で出会った衰弱した竜は、自分も暴君の渇きに取り込まれた存在かもしれないと仄めかすが、それ以上を語ろうとしない。観察者レイブンは二つの真実を記録に残したまま、祈りの鐘が響く谷を後にする。
一 鎖影の谷、記念碑の下で
氷竜公国フロストクラウンの北の果て、山という山が白く尖った牙のように連なる一帯に、鎖影の谷と呼ばれる集落はあった。谷の名は、その奥にひっそりと口を開ける氷洞の入口に刻まれた古い記念碑に由来する。粗く削られた石の表面には、幾重にも絡み合う鎖の意匠が浮き彫りにされ、長い歳月に磨かれてなお、鎖の輪の一つ一つがはっきりと数えられるほどだった。
レイブンが谷に着いたのは、日暮れ間際のことだった。切り立った崖に挟まれた細い道を、幾度も足を滑らせながら抜けると、不意に視界が開け、灰色の岩肌にへばりつくように建つ木造の家々が見えてくる。屋根には万年雪が分厚く積もり、家々の軒先からは、いつ削られたとも知れない氷柱が刃のように垂れ下がっていた。谷底を吹き抜ける風は肌を刺すように冷たく、記録帳を提げた手の指先がすぐにかじかんだ。それでも、この土地に足を運んだのには理由がある。旅の記録者として各地の伝承を集めて回るうち、レイブンは「討たれず、封じられた暴君」という珍しい型の英雄譚がこの谷に伝わっていると耳にしていたのだ。討伐譚の多くは、怪物を滅ぼすことで物語を閉じる。だがこの谷では、暴君も竜も、生かしたまま封じられたのだという。その一点だけで、レイブンの記録者としての勘は、確かめずにはいられぬほど疼いていた。
記念碑の前に立つと、鎖の意匠の下に、小さな文字でこう刻まれているのが読み取れた。「封は破れず、祈りは絶えず」。碑の周囲には、真新しい花と、燃え尽きた蝋燭の跡が幾つも残っている。碑の背後には、氷に縁取られた洞窟の入口が、暗く口を開けていた。中を覗き込もうとしたレイブンの耳に、ふと、水桶を抱えた足音が近づいてくるのが聞こえた。
「旅の方? めずらしいわね、この時季にこの谷まで来る人は」
声をかけてきたのは、頬を赤くした若い娘だった。娘はセラと名乗り、記念碑を見上げるレイブンの視線を追うように、同じ方角へ目をやった。
「旅の記録者です。この鎖の意匠にまつわる話を、詳しく知りたいのですが」
「それなら、オーレン翁がいいわ。この谷で一番、あの奥の伝承に詳しい人だから」
セラはそう答えながらも、ふと表情を曇らせた。手にした水桶の水面が、小さく波立つ。
「ただ、今年は少し様子が変なの。祭りの支度をしている間、洞窟の奥から、いつもとは違う軋むような音が聞こえてくるのよ。氷が鳴っているだけだと年寄りたちは言うけれど……子供の頃から聞き慣れたはずの音とは、なんだか違う気がして」
その一言に、レイブンは記録帳のページを繰る手を止めた。長年の旅で培った勘が、この谷に何か見過ごせないものが潜んでいることを、静かに告げていた。
「今年は、ちょうど封印祭の年なのですね」
「そう。明日の夜が本番よ。谷じゅうの家から、代わる代わる祈りを捧げに来るの。うちのお祖父ちゃんも、朝から鐘の手入れをしているわ」
セラは水桶を揺らしながら、広場の奥にある一軒の家を指差した。軒先で薪を割る、白い顎髭を蓄えた老人の姿が、夕闇の中にぼんやりと浮かんでいた。
「オーレン翁よ。今日はきっと、暇にしているはずだから」
礼を言って歩き出したレイブンの背後で、記念碑に刻まれた鎖の意匠が、夕闇の中にゆっくりと沈んでいった。振り返ると、洞窟の入口から漏れ出す冷たい空気が、白い息のように地を這っているのが見えた。
二 オーレン翁の伝承、闇に灯る囁き
オーレン翁の家は、暖炉の火が絶えず爆ぜる音を立てる、質素な造りだった。壁には、色褪せた織物が幾つも掛けられている。老人は茶を勧めながら、レイブンの問いに応じて、囲炉裏の火を見つめるようにして、ゆっくりと語り始めた。
「この谷の始まりを知りたければ、あの碑の鎖の意味から話さねばなるまいな」
はるか昔、この谷を治めていたのは、まだ若く聡明な君主だったのだという。民を大切にし、隣の谷々からも慕われていたその君主のもとに、ある夜、正体を隠した影の精霊が現れた。精霊は旅の賢者を装い、いつまでも色褪せぬ力を授けようと囁いた。疑うことを知らなかった君主がそれを受け入れると、精霊は褒美と称して、君主の両肩に静かに口づけた。その口づけの跡から、双頭の蛇竜が生え出でたのだ。
「蛇竜は片時も君主を離さず、絶えず疼くような激痛でその身を苛んだという。痛みを鎮める術はただ一つ、村から選ばれた若者を捧げ、その命を蛇竜に与えることだけだった。最初のうちは、君主も己の身に起きたことを悔い、涙ながらに詫びていたそうだ。だが、幾度も若者を捧げるうち、いつしか悔いの色は消え、ただ痛みから逃れることだけを望む、恐ろしい暴君に成り果てていったという」
「それから幾世代もの間、この谷の人々は、順番に若者を差し出し続けねばならなかった。安穏な暮らしは遠い昔語りとなり、家々の戸口には、いつ我が子が選ばれるかという恐れだけが根を張った」
オーレン翁は一度言葉を切り、囲炉裏の火に目を落とした。
「わしの祖母から聞いた話では、選ばれた若者を送り出す夜、親たちは決して声を上げて泣かなかったという。声を上げれば、その悲しみごと蛇竜に食い尽くされてしまうと信じられていたからだ。ただ黙って、我が子の背を見送るだけ。そういう夜が、幾つも幾つも積み重なった末に、ようやくカルヴェという名の若者が現れたのだ」
オーレン翁は、暖炉の火に薪を一本くべながら、声を低めた。
「苦しみに耐えかねた谷の民の中から、鍛冶職人の血を引く青年カルヴェが立ち上がった。カルヴェは、己の家に伝わる鎚と炉の技をもって武具を打ち、近隣の谷々に散らばった同胞たちに檄を飛ばし、ついに兵を挙げる。激しい戦いの末、カルヴェは君主を打ち倒したが、その命までは奪わなかった。代わりに、双頭の蛇竜もろとも、君主をこの氷洞の最奥深くへと引き立て、幾重もの鎖で永遠に繋いだのだという」
「なぜ、討たなかったのでしょうか」
レイブンの問いに、オーレン翁はしばし言葉を探すように黙り込んだ。
「言い伝えでは、カルヴェは、君主の目にまだかすかな悔いの色を見たのだと言われている。命を奪うことは容易い。だが、封じたまま生かしておくことこそが、真の罰であり、また同時に、いつか赦しへ至る道を残すことでもある――そうカルヴェは考えたのだそうだ。それ以来、この谷では毎年、封印祭を催す。鎖が緩まぬよう、封が破れぬようにと、祈りを捧げるためにな。碑の文字は、その祈りそのものよ」
オーレン翁は誇らしげにそう締めくくったが、レイブンはふと、壁に掛けられた古い織物に目を留めた。そこには、山に巻きつく双頭の姿が織り込まれている。牙を剥き爪を立てる怪物というよりも、むしろ何かに縋りつくような、痛ましい姿に見えた。
「あの織物の竜は、ずいぶんと苦しげな姿に見えますが」
「昔の織り手の技量の問題だろうよ」
オーレン翁はそう答えたが、その声にはわずかな硬さが滲んでいた。それ以上は語りたくない、というように、老人は茶碗に口をつけ、話を締めくくった。
その晩、祭りの支度で忙しく立ち働く広場の片隅で、老婆の一人が誰にともなく呟くのを、レイブンは聞き逃さなかった。
「あの双頭の竜も、まだ生きているというなら、哀れなものかもしれないねぇ」
老婆はハンナと名乗った。レイブンが問いかけると、ハンナは薪を焚べる手を止めずに、独り言のように続けた。
「わしの婆さまがまだ小娘だった頃、坑道の奥から、まるで泣いているような音が聞こえてきた年があったそうだ。年寄りたちはこっそり噂し合っていたよ。あれは君主に憑いた精霊のせいで、竜自身も苦しめられていたんじゃないかってね。表立っては、誰も口にしないけれど」
「なぜ、表立っては語られないのですか」
「カルヴェ様が君主を討たず封じてくださったおかげで、この谷に平穏があるという話は、村の誇りそのものだからね。それを揺るがす話は、誰も好んで口にしないものさ」ハンナはため息のように呟いた。「さあてね、竜が本当のところどう思っているかなんて、わしにも分からないよ。ただ、この谷には、そういう言い伝えもあるってだけの話さ」
近くで祭りの飾りを結わえていた若い男が、二人の話に割って入った。
「婆さま、そんな話、祭りの前にするもんじゃない。カルヴェ様が君主を封じてくださったからこそ、この谷に平穏があるんだ。それを疑うような真似は、罰当たりだよ」
「疑ってなどおらぬよ」ハンナは静かに笑った。「ただ、罰というものは、誰か一人だけのものではないと、年寄りは知っているというだけのことさ」
若い男はそれ以上何も言わず、不服そうに飾りの結び目へと戻っていった。レイブンは記録帳に、オーレン翁の語った英雄譚と、ハンナの仄めかした異説とを、並べて書き留めた。どちらが真実なのか、この時点ではまだ判断のしようがなかった。
三 氷洞の最奥、鎖に繋がれた双頭
翌朝、封印祭の支度が本格的に始まる中、レイブンは記念碑の前で、白い外套を纏った女性と行き合った。カルヴェの末裔として、代々洞窟の点検を担う役目を負っているのだという、祭司のミラーシャだった。彼女もまた、今年の氷の軋みを気にかけていた。
「毎年、祭りの前には必ず奥まで検めに行きます。よろしければ、ご一緒なさいますか。記録者としての目も、時には役に立つでしょうから」
松明を手に、二人は記念碑の裏手から氷洞へと足を踏み入れた。入口を抜けてすぐ、外の光は嘘のように断たれ、代わって松明の炎が、青白い氷壁に揺らめく影を投げかけた。奥へ進むにつれ、壁面を覆う氷は青みを増し、灯りを通すたびに複雑な陰影を落とした。天井から下がる氷柱は、まるで無数の牙のように鋭く、時折、はるか頭上で小さく崩れ落ちる音が反響する。軋むような音は、確かに奥から響いてくる。ミラーシャの表情が、松明の灯りの中で、次第に強張っていった。
「毎年、同じ道を歩いているはずなのに、今日はどこか違って感じます」
ミラーシャは足を止め、壁面に触れた。氷の表面には、長年の点検の跡なのか、無数の細い引っ掻き傷のようなものが刻まれている。
「先祖代々、この壁に触れて、封の強さを確かめてきました。掌に伝わる冷たさで、鎖の緩みが分かるのだと、母からそう教わったのです。ですが今日は、いつもより冷たさが弱い気がします」
「それは、危険な兆候なのでしょうか」
「分かりません。ただの気のせいであってほしいと、今は願うばかりです」
ミラーシャは松明を掲げ直し、狭い通路の奥へと視線を向けた。灯りの届かない闇の先から、低く長い呻きのような音が、途切れ途切れに響いてくる。それは獣の唸りとも、氷そのものが軋む音とも判別のつかない、曖昧な響きだった。二人はしばらく無言のまま、その音に耳を澄ませていた。
「この先です。祈りの度に、ここまで足を運びます」
ミラーシャの声が、心なしか震えている。狭い通路を抜けると、不意に天井が高く開け、広間のような空間に出た。最奥の広間に辿り着いたとき、松明の灯りの中に、太い鎖に幾重にも巻かれた巨大な影が浮かび上がった。双頭の竜だった。かつての力強さはとうに失われ、二つの首はうなだれるように垂れ、鱗は所々罅割れて白く乾いている。太い鎖は氷の柱に幾重にも巻きつけられ、その表面には、長い歳月の間に張り付いた霜が、幾層もの結晶を作っていた。それでも、片方の首がゆっくりと持ち上がり、灰色の瞳がレイブンとミラーシャを見据えた。
「珍しい客だ」
低く掠れた声が、洞窟に反響した。ミラーシャが息を呑んで後ずさる中、レイブンは一歩前に出た。
「旅の記録者です。この谷に伝わる伝承を調べています。あなたは、かつての君主に取り憑いた蛇竜なのですか」
竜はしばらく沈黙した。氷が軋む音だけが、広間を満たしていった。
「取り憑いた、というのは正しくないな」
もう一方の首が、ゆっくりと持ち上がる。
「我らは、あの者が招き入れた欲望そのものから、生まれ落ちた。あの者が力を、痛みを免れる術を、誰かの命を奪ってでも安寧を得る術を、心の底で求め続けたがゆえに、我らはこの姿を得たのだ。我らもまた、あの者と同じ檻に閉じ込められていた。あの者の渇きが疼くたび、我らの喉もまた、共に灼けるように渇いた」
「では、本当に断罪されるべきは、竜ではなく、君主自身だったと」
「さて、な」
竜は答えをはぐらかすように、灰色の瞳を伏せた。
「我らのどちらが先に渇きを求めたか、今となっては、我ら自身にも判然としない。生まれ落ちた瞬間から、我らはすでにあの者の一部であったのやもしれぬ。あの者を憎むことも、憐れむことも、我らにはもはや意味を失っている」
「谷の言い伝えでは、あなたがたは英雄カルヴェに討たれ、封じられたとされています」
「討たれた、というのは正しいのかもしれぬ」竜は低く息を吐いた。「だが、我らを打ち倒したあの若者の目には、憎しみだけではない何かが宿っていたことを、覚えている。剣を振るう手が、ほんのわずかに震えていたこともな」
そのとき、洞窟全体が低く震え、天井から細かな氷の欠片がぱらぱらと降り注いだ。ミラーシャが小さく悲鳴を上げ、松明を握る手に力を込めた。竜の二つの首がびくりと強張った。
「鎖が緩んでいるのですか」
レイブンの問いに、竜は初めてわずかに動揺したように見えた。
「鎖ではない。この封は、鎖の強さだけで保たれているわけではない。谷の民が、代々変わらず祈りを捧げ続けてきた、その積み重ねそのものが、我らを繋ぎ止めている。……今年は、その糸が、心なしか細っているように感じる」
「なぜでしょうか」
「知らぬ。若い者たちの間で、古い言い伝えを軽んじる声が増えているのやもしれぬ。あるいは、ただの氷の伸び縮みか」
竜はそう言うと、深く息を吐いた。二つの首が、疲れたようにわずかに垂れ下がる。片方の首の付け根には、長い年月をかけて鎖が食い込んだと思しき、深い傷痕が刻まれていた。傷口は完全には塞がらず、そこだけ鱗が異様に薄く、痛々しい光沢を帯びている。レイブンはその傷痕から目を離せずにいた。封じるということが、ただ動きを止めるだけでなく、これほどまでに身を削る行為であったことを、記録の上の言葉としてではなく、目の前の傷として初めて理解した気がした。
「頼みがある。我らが仄めかしたことを、そのまま谷に持ち帰らないでくれ。我らが哀れな存在だと知れば、あるいは民の憐れみが、逆に祈りの真剣さを緩ませるやもしれぬ。それは、我らにとっても、谷の民にとっても、良いことではない」
ミラーシャは震える手で松明を握り直し、それ以上何も言わなかった。レイブンは記録帳を胸に抱いたまま、竜に向かって静かに頷いた。
「あなたの言葉を、そのまま真実だと記す必要はない、ということですね」
「お前が見た、この光景だけを、正しく記せばよい」
竜はそう言い残すと、二つの首を再びうなだれさせ、闇の奥へと沈むように動きを止めた。氷の軋む音も、いつしか静まっていった。ミラーシャは肩の力を抜き、洞窟の壁に手を添えながら、小さく息を吐いた。
「毎年ここに来ますが……あんなふうに、話しかけられたのは初めてです」
「よくあることではないのですね」
「ええ。いつもは、ただ鎖の様子を確かめて、祈りを捧げるだけ。竜が声を発するのを聞いたのは、私も初めてでした」
二人は無言のまま、来た道を戻り始めた。振り返ると、松明の灯りの届かない闇の奥で、双頭の影が、ゆっくりと呼吸するように、かすかに揺らめいているのが見えた気がした。
「ミラーシャ様は、竜が語ったことを、どう思われますか」
通路を抜けながら尋ねると、ミラーシャはしばらく黙り込んでから、ようやく口を開いた。
「正直に言えば、分かりません。ですが、代々この役目を継いできた私の家には、口伝えの片隅に、こんな言葉が残っています。『封じるとは、赦しを先延ばしにすることである』と。子供の頃はただの決まり文句だと思っていましたが、今日、あの竜の声を聞いてから、少し違う意味に思えてきました」
「先延ばしにされた赦しは、いつか誰かの手で果たされるべきものなのでしょうか」
「それは、私には荷が重すぎる問いです」ミラーシャは小さく笑った。「私にできるのは、今年もまた鎖を検め、祈りを絶やさぬことだけ。その先のことは、いずれこの谷に生きる誰かが、決めることになるのでしょう」
四 封印祭の夜、記録帳に残された二つの声
洞窟を出ると、谷にはすでに篝火が灯され、封印祭の支度が整いつつあった。ミラーシャは記念碑の前で祈りの言葉を唱え、鎖の意匠に新しい花を供えた。谷の民が代わる代わる碑に手を合わせ、太鼓と笛の音が夜気に響き渡る。誰もが、カルヴェの英雄譚を口ずさみ、討たれず封じられた暴君の伝承に、変わらぬ畏れと感謝を捧げていた。
レイブンは踊りの輪から少し離れた場所に腰を下ろし、記録帳を開いた。ページには、オーレン翁が語った英雄譚――兵を挙げたカルヴェが暴君を討たず、双頭の蛇竜もろとも氷洞の最奥に封じたという話――が、丁寧な筆致で記されている。その隣に、レイブンは新たな一文を書き加えた。竜自身が仄めかした、彼らもまた暴君の渇きに取り込まれ、共に苦しみ続けてきた存在だったのかもしれないという異説を。どちらの言葉も、等しい重みをもって記録帳の上に並んでいた。
「何を書いていらっしゃるの」
セラが、踊りの合間に、湯気の立つ椀を差し出しながら声をかけてきた。レイブンは記録帳を閉じ、小さく笑った。
「この谷に伝わる、二つの伝承についてです。どちらが正しいのか、私には決めることができませんでした」
「二つ? 私はお祖父ちゃんの話しか知らないけれど」
「いつか、あなた自身の目で確かめる日が来るかもしれません」
セラは不思議そうな顔をしたが、それ以上は問わず、椀をレイブンの手に押しつけると、また踊りの輪へと戻っていった。記念碑の前では、まだ祈りの列が続いている。誰もが、目に見える形の英雄――君主を討たず封じたカルヴェの決断――に感謝を捧げていた。その傍らで、誰にも気づかれぬまま鎖の奥に沈み続けてきたはずの者たちのことを、レイブンはしばらくの間、ただ黙って思い描いていた。もし本当に、あの双頭の竜が幾世代にもわたって暴君と同じ渇きを分かち合ってきたのだとすれば、この祈りの賑わいそのものが、名もなき苦しみの上に成り立っているということになる。だが、それを声高に語ったところで、谷の祈りを揺るがすことにしかならないだろう。レイブンにできることは、ただそれを記録帳の片隅に、静かに書き留めておくことだけだった。
椀から立ちのぼる湯気の向こうに、篝火に照らされた谷の民の顔が、次々と浮かんでは消えていく。老いも若きも、誰もが同じ祈りの言葉を口ずさみ、同じ仕草で碑に手を合わせていた。その一様な祈りの連なりの中に、あの氷洞の奥で見た、傷ついた双頭の姿を重ねずにはいられなかった。祈りを捧げる者たちの誰一人として、自分たちの安寧が、名もなき苦しみの上澄みに過ぎないかもしれないとは、想像だにしていないだろう。それでいい、とレイブンは思った。すべての土地の、すべての伝承が、その裏側まで暴かれる必要はない。ただ、記録者として見聞きしたものだけは、正確に書き留めておく――それが、レイブンにできる唯一のことだった。
翌朝、レイブンは荷をまとめ、鎖影の谷を後にした。見送りに出たミラーシャは、記念碑の前で足を止め、最後にもう一度だけ尋ねてきた。
「結局、あの竜は、悪者だったのでしょうか。それとも――」
「私にも、まだ分かりません」レイブンは正直にそう答えた。「ただ、この谷の祈りが、今日も途切れることなく続いているということだけは、確かなように思います」
ミラーシャは少し考え込むような顔をしたが、やがて小さく頷き、碑へと向き直った。振り返ると、記念碑に刻まれた鎖の意匠が、朝日を浴びて鈍く輝いているのが見えた。どちらの伝承が真実であったとしても、この谷の祈りが絶えることなく積み重ねられてきたことだけは、確かな事実だった。記録帳に記された二つの声は、答えを持たぬまま、レイブンの旅と共に次の土地へと運ばれていった。
あとがき
本作は、古代ペルシアの伝承「ザッハーク伝承」(ゾロアスター教以前の伝承に起源を持ち、フェルドウスィー『シャー・ナーメ(王の書)』10〜11世紀成立によって文献化された)を下敷きにした翻案である。
原典では、悪魔アフリマンにそそのかされた王子ザッハークが父王を殺して玉座を奪い、正体を隠した悪魔に両肩へ口づけされたことで二匹の黒い蛇が生え出でる。蛇は人間の脳髄を与えられねば激痛でザッハークを苦しめ、彼は日々二人の若者を生贄に差し出させる暴君として千年にわたり君臨したと伝えられる。圧政に耐えかねた鍛冶屋カーヴェの蜂起をきっかけに、英雄フェリドゥーンが兵を挙げてザッハークを討つが、彼を殺さず、ダマーヴァンド山の洞窟深くに永遠に鎖で封じたとされる。
本作では、この「討たれず封じられた暴君」という英雄譚の構図をそのまま用いつつ、封じられた双頭の蛇竜自身に焦点を当て、「自分たちもまた暴君の渇きに取り込まれ、共に苦しみ続けてきた存在だったのかもしれない」という異説を、当人の言葉を通して仄めかす形で描いた。原典では単一の登場人物であった暴君討伐の英雄を、鍛冶職人の血を引く青年カルヴェという一人の人物に統合し、討たず封じるという決断の背景に、僅かな迷いと赦しへの願いを加えている。観察者レイブンは、谷に伝わる表向きの英雄譚と、竜が仄めかした異説の両方を記録に併記するにとどめ、どちらが真実かの判断は意図的に保留したまま物語を閉じている。
登場人物・地名・竜の名などはすべて独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は行っていない。
本作は古代ペルシアの伝承「ザッハーク伝承」(フェルドウスィー『シャー・ナーメ』所収)を参考にした翻案作品です。