物語雳
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·読了目安 16分脇役

竜は妄執の果たし合いを拒まなかった

長年「人喰いの怪物」として恐れられ、狩られるだけだった老竜は、正気を失った老郷士から大真面目な一騎打ちを申し込まれる。滑稽な儀式と信じたそれは、老竜にとって初めて向けられた敬意だった。老郷士が本物の刃に襲われたとき、竜は妄想の外で、現実の忠義を返す。セルバンテス『ドン・キホーテ』を翻案した物語。

一 物語草子の亡者

尾崎郷は、黒嶽と呼ばれる険しい山の裾に、しがみつくようにして拓かれた小さな村だった。田は狭く、実りも乏しかったが、山からの湧き水だけは豊かで、村人たちはその水を頼りに、代々つましく暮らしを繋いできた。秋になると、山肌は紅葉に燃え立ち、朝には決まって深い霧が村を覆う。その霧が晴れる頃合いを見計らって、村人たちは連れ立って野良仕事に出るのが、この地の長い習わしだった。

村の外れ、朽ちかけた冠木門を構えた古い屋敷に、宗兵衛という老いた郷士が住んでいた。若い頃は近隣にも聞こえた弓の名手であったというが、今はもう還暦を過ぎ、腰も曲がりかけている。二年前の冬、長年連れ添った妻の咲を病で亡くしてからというもの、宗兵衛は屋敷の奥にこもり、亡き父が遺した古い草子ばかりを読み耽るようになっていた。

咲が達者であった頃、宗兵衛は口数の少ない、しかし穏やかな人柄で知られていた。縁側に並んで座り、咲が繕い物をする傍らで、宗兵衛はただ黙って庭先の柿の実を眺めているだけで満ち足りているような男だった。咲が息を引き取る間際、「あなた、私がいなくなっても、どうか塞ぎ込まずに」と繰り返し言い遺したことを、宗兵衛は誰よりもよく覚えていた。そして皮肉なことに、その言い遺した言葉を守ろうとするあまり、宗兵衛は現の悲しみから逃れる先を、書物の中の絵空事に見出してしまったのだった。

その草子の名を「英雄記」という。乱世の昔、鬼を討ち、化生を平らげたと伝わる武人たちの物語を集めたもので、宗兵衛は若い時分に一度読んだきり忘れていたそれを、妻を失った悲しみを埋めるようにして繰り返し繰り返し読み返した。灯芯の油を惜しみなく使い、夜が更けても頁をめくる音だけが屋敷に響いた。

読めば読むほど、宗兵衛の中で、書物の中の武人たちと自分自身との境が薄くなっていった。ことに心を奪われたのは、鬼庭主馬(おにわしゅめ)という武人の一節だった。主馬は、村々を脅かす「山の主」なる巨大な竜と、私怨によってではなく、武人としての一分のために一騎打ちを挑み、幾度となく刃を交えたのちに、互いを唯一無二の好敵手と認め合ったという。宗兵衛はその一節を何十遍と読み返すうち、いつしか、自分こそがその主馬の生まれ変わりであり、黒嶽に棲むという竜との宿命の一戦こそ、己に課せられた最後の務めであると信じ込むようになっていた。

「亀吉、聞け。わしはこのたび、山へ征くことに決めた」

ある朝、宗兵衛は屋敷の板間で、こしらえたばかりの具足に袖を通しながら、そう告げた。具足は父の代からの古いもので、ところどころ紐が擦り切れ、動くたびに軋んだ音を立てた。刀の代わりに腰に差しているのは、木刀に紙縒りを巻いて漆で固めただけの、竹光にも劣る代物である。

亀吉は、十六になる孤児の少年だった。幼い頃に流行り病で親を失い、行き倒れかけていたところを咲に拾われ、以来この屋敷で下男として働いてきた。恩ある咲が亡くなってからも、亀吉は宗兵衛のもとを離れず、むしろ主人が壊れていくのを、誰よりも近くで見守り続けてきた一人だった。

「旦那様、山って、まさか黒嶽のことですかい。あすこには、山の主とかいう化け物が棲んでるって話でさあ。近づいた木こりが二人、帰ってこなかったって」

「その山の主こそ、わしの好敵手よ。英雄記に記された鬼庭主馬の宿縁、ようやくこの身に巡ってきたのだ」

亀吉は、主人が語る「英雄記」だの「鬼庭主馬」だのという言葉の意味が半分もわからなかったが、その目に宿る、恐ろしいほど澄んだ光だけは、痛いほどに理解できた。それは、正気の光ではなかった。だが同時に、咲が亡くなってからというもの、腑抜けたように生気を失っていた宗兵衛の瞳に、ようやく灯った光でもあった。

村の者たちは、具足姿で村道を歩く宗兵衛を見て、あからさまに顔をしかめた。

「気の毒にな、奥方様を亡くしてから、すっかりおかしくなっちまって」 「山の主なんぞ、いるかどうかもわからん作り話だべ。放っておいて、怪我でもされたら難儀だ」

村の年寄りの一人が、心配げに亀吉を呼び止めた。

「亀吉、お前がついていって、せめて怪我だけはさせんようにな。旦那様の頭がどうかしとるのは、皆わかっとる。だが、お労しくてなあ」

亀吉は頷くしかなかった。主人の妄執を正すことはできない。ならばせめて、その傍らで、無謀の果てに命を落とすことだけは食い止めよう――そう心に決めて、亀吉は不承不承、老いた主人の供をすることになったのだった。

出立の朝、宗兵衛は屋敷の縁側に立ち、朝靄の向こうにそびえる黒嶽を見上げた。その頂は、いつもより厚い雲を戴いているように見えた。庭先では、咲が生前手ずから世話をしていた柿の木が、誰の手入れも受けぬまま、それでも律儀に赤い実をつけていた。

「亀吉、見よ。山も、我らの来訪を待ちわびておるようだ」

亀吉には、ただの曇り空にしか見えなかったが、何も言わずに、鍬を担ぐような気安さで、荷を背負い直した。屋敷を出しなに、亀吉は咲の位牌にそっと手を合わせ、「奥様、旦那様のこと、なるたけ気張ってお守りしますから」と、誰にも聞こえぬ声で呟いた。二人の後ろ姿を、色づいた柿の葉が、はらはらと追いかけるように舞い落ちていった。

二 山の主への果たし状

黒嶽の登りは、思いのほか厳しかった。老いた宗兵衛の足取りは重く、亀吉が幾度も肩を貸さねばならなかったが、それでも宗兵衛の口から弱音は一つも漏れなかった。むしろ、息が上がるほどに、その声は張りを増していくようだった。道々、色づいた楓の下を抜け、朽ち葉の匂いの立ちこめる沢を渡るたび、宗兵衛は「これぞ英雄記に謳われし、試練の山道よ」と一人悦に入り、亀吉はそのたびに、重い荷と主人の妄言との両方を、黙って背負い続けた。

三日目の夕刻、二人は山の中腹、切り立った岩肌に囲まれた広い平地にたどり着いた。そこには、獣とも人ともつかぬ大きな爪痕が、あちこちの岩を深くえぐっていた。亀吉はその痕を見るなり、顔から血の気を引かせて後ずさった。

「旦那様、これは……」

「よい兆しだ。好敵手の巣が近い証よ」

宗兵衛はそう言うと、腰の竹光に手をかけ、懐から取り出した法螺貝を、大きく息を吸って吹き鳴らした。谷間に、割れんばかりの音がこだました。

「山の主よ! 尾崎郷の郷士、鬼庭主馬が生まれ変わり、宗兵衛ここに参った! 英雄記の縁により、正々堂々、一騎打ちを所望する! 出でよ!」

しばしの静寂ののち、平地の奥、切り立った岩壁の裂け目から、地響きのような唸り声が上がった。岩の隙間を割るようにして現れたのは、全身を鈍色の鱗で覆われた、巨大な竜だった。その名を颪(おろし)という。齢はすでに二百を超え、翼の縁はところどころ裂け、鱗の艶も失われて久しい。何代にもわたり「人喰いの怪物」と恐れられ、里から遣わされる若者たちに、幾度となく槍や弓を向けられてきた老竜だった。

颪は、鼻先を鳴らして目の前の二人を検分した。武具らしきものを纏った小柄な人間が一人、その後ろに震える若者が一人。今までにも、こうして自ら山へ踏み込んでくる愚かな人間は幾度もあった。名を挙げようとする若武者、家宝の刀を試そうとする浪人、村を救う英雄になろうとする猟師――そのすべてを、颪は生き延びるためだけに、返り討ちにしてきた。命乞いをする者もいれば、呪詛の言葉を吐きながら息絶える者もいた。忘れもしない、幾十年か前には、幼い我が子を守ろうとしたつもりが、逆に手負いにしてしまい、二度とその子を目にすることのなかった冬もあった。そのたびに、颪の中には、拭いようのない疲弊だけが積もっていった。生きるとは、ただ憎まれ、恐れられ、それに応えて牙を剥くことの繰り返しでしかない――颪は、いつの頃からか、そう思い定めるようになっていた。

だから、颪は今度もまた同じことが繰り返されるのだろうと思っていた。前脚を持ち上げ、目の前の老人を一息に薙ぎ払おうとした、まさにその時――颪の動きが、ふと止まった。

宗兵衛が、微塵も怯むことなく、まっすぐに颪の目を見上げていたからだった。

これまでの人間たちの目には、決まって恐怖か、憎悪か、あるいは功名心が宿っていた。だが、この老人の瞳にあるのは、そのいずれでもなかった。そこにあったのは、まるで長年の朋輩を見るような、深い敬意だった。

「よくぞ出られた、山の主どの。貴殿と刃を交えることこそ、我が生涯の宿望であった」

宗兵衛は、竹光を捧げ持つようにして構え、深々と一礼した。颪は、生まれてこのかた、人間からそのような仕草を向けられたことが一度もなかった。振り上げた前脚を、颪はゆっくりと下ろした。

殺してしまえば容易いことだった。だが、颪の中に湧いた戸惑いは、殺意よりも強く、その脚を押しとどめた。試しに――そう、ただの気まぐれのつもりで、颪は宗兵衛へと軽く前脚を振るった。爪の先が、宗兵衛の握る竹光を、あっさりと叩き折った。

木片が宙を舞い、宗兵衛はよろめきながらも尻もちをつくにとどまった。颪は、そのまま老人にとどめを刺すこともできたが、なぜか、そうする気になれなかった。ただ、低く一声吼えると、踵を返して岩壁の奥へと戻っていった。

「まいった! この一戦、拙者の負けにござる!」

折れた竹光を握りしめたまま、宗兵衛は満面の笑みを浮かべて叫んだ。「されど、山の主どのの武勇、まことに見事。次なる月、必ずやこの雪辱を果たしにまいる!」

亀吉は、命拾いしたことにへたり込みながらも、内心では首を傾げていた。あの巨大な化け物は、なぜ、旦那様を殺さなかったのだろうか。

岩壁の奥、颪もまた、自らの胸のうちに芽生えた奇妙な感覚を持て余していた。恐怖でも憎悪でもなく向けられた、あの老人の眼差し。二百年の生のうちで、初めて味わう感触だった。

三 月に一度の果たし合い

その日から、宗兵衛は毎月一度、決まった日に黒嶽へ登るようになった。折れた竹光を新しく削り直し、具足の紐を締め直し、山の主への果たし状という体で、亀吉を伴って山を登る。それは、村人たちの目には相も変わらぬ老いの狂気としか映らなかったが、亀吉だけは、その繰り返される「一騎打ち」の様子を、誰よりも間近で見続けていた。

颪は、二度目、三度目と回を重ねるうちに、宗兵衛の来訪を、いつしか心のどこかで待つようになっていた。宗兵衛が法螺貝を吹き鳴らし、大仰な口上を述べるたび、颪は岩壁の奥から姿を現し、儀式めいた「一戦」に付き合った。無論、本気で戦えば、老いた郷士の命など瞬く間に潰えてしまう。だから颪は、爪先を老人の頭上すれすれで止め、尾の一振りで足元の岩を割ってみせるにとどめ、決して直に触れることはなかった。宗兵衛はそのたびに、木刀を打ち合わせ、時に転び、時に膝をつき、そのすべてを己の武勇の証として、満足げに山を下りていった。

「颪殿、此度もまた、良き戦いであった」

宗兵衛は、颪の唸り声を、まるで人語のように聞き取っては、勝手にその意を汲み取り、律儀に応じた。颪の側からすれば、それはただの唸りに過ぎなかったが、不思議と、その勘違いを正す気にはなれなかった。

亀吉もまた、少しずつ、颪への恐れを別のかたちに変えていった。ある月、亀吉は思い立って、干し魚を一包み、岩壁の隅にそっと置いてみた。颪がそれを見つけ、一口で平らげるのを目にしたとき、亀吉はなぜか、安堵にも似た温かさを覚えた。それからは毎月、亀吉は宗兵衛に気取られぬよう、山の主への供物と称して、干し魚や木の実を届けるようになった。

冬が近づき、木々の葉が落ちきった頃、颪はふと、宗兵衛に問うてみたい衝動に駆られた。無論、言葉は交わせぬ。それでも颪は、その日、宗兵衛が竹光を構える前に、低く長く、これまでにない鳴き声を上げた。宗兵衛は、その声にしばし耳を澄ませ、深く頷いた。

「なるほど、颪殿。貴殿もまた、幾百の戦いの果てに、真に心を許せる相手を得られなんだと申されるか。察するに余りある」

見当違いも甚だしい解釈だったが、颪はなぜか、それを訂正する気になれなかった。この老人の前でだけ、颪は「怪物」でも「化生」でもなく、名誉ある宿敵――「山の主」として遇された。それがどれほど心地よいものか、颪自身、うまく言葉にできずにいた。

初雪の降った月の果たし合いは、ことに二人の記憶に深く刻まれることになった。白く染まった平地に立つ颪の姿は、常にも増して厳めしく、宗兵衛は法螺貝を吹き鳴らす手が凍えて震えるほどだったが、それでも一歩も退かなかった。颪は、雪を蹴立てて宗兵衛の周りを一巡し、尾で降り積もった雪を大きく巻き上げて見せた。真っ白な粉雪の中に立ち尽くす宗兵衛は、まるで神話の一場面のように誇らしげで、亀吉はその光景を、恐ろしさよりも、どこか美しいものとして目に焼きつけた。

村へ戻ると、名主が亀吉を呼び止め、「まだ山へ通わせておるのか、大概にせい」と眉をひそめた。だが亀吉は、うつむきながらも、はっきりと答えた。

「旦那様は、あすこでだけ、生きておられるんです。あっしには、それを取り上げることはできません」

名主はしばらく亀吉の顔を見つめていたが、それ以上、何も言わなかった。

夜、山を下りながら、亀吉は松明の灯りを頼りに、宗兵衛の横顔を盗み見た。折れかけた竹光を大事そうに懐に収め、足取りは疲れていながらも、その顔つきには、以前のような虚ろさがなかった。

「旦那様、あの山の主ってのは、本当に旦那様を好敵手だと思ってるんですかね」

「思うも思わぬもない。あれほどの一騎打ちを重ねて、なお通じ合わぬ心があろうか」

亀吉には、その確信がどこから来るものか、依然としてわからなかった。ただ、この奇妙な月一度の儀式が、老いた主人に、生きる張りを与えていることだけは、痛いほど伝わっていた。

四 陣屋の手先

その年の秋は、稲の実りが極めて悪かった。長雨と冷夏が続き、尾崎郷の蔵には、冬を越すにも心もとない量の米しか蓄えられていなかった。それにもかかわらず、この地を治める陣屋からは、例年と変わらぬ、いやそれ以上の年貢が申し渡された。宗兵衛と亀吉が黒嶽通いを続けるあいだにも、村の暮らしは静かに、しかし確実に、追い詰められつつあった。田の畦に立つ村人たちの顔からは、次第に笑みが消えていった。

「今年は不作にございます。せめて、いくばくかの据え置きを」

村の名主が、涙ながらに訴えても、陣屋から遣わされた手代の蟹江は、鼻先で笑うばかりだった。

「不作は毎年のことよ。上のお指図には逆らえぬ。滞りなく納めよ、さもなくば、田畑を差し押さえるまでだ」

蟹江の連れてきた屈強な取り立ての手先たちは、村の蔵という蔵をこじ開け、冬越しのための蓄えまで容赦なく運び出していった。抗おうとした若者は殴り倒され、泣き叫ぶ女子供にも、手先たちは平然と怒鳴り散らした。

その騒ぎに、山から下りてきた宗兵衛と亀吉が行き合わせたのは、まさにその只中でのことだった。

「これは何事か」

宗兵衛の目に映ったのは、白刃をちらつかせて村人を脅す、屈強な男たちの姿だった。長年、英雄記の物語だけを糧に生きてきた宗兵衛の目には、それは年貢の取り立てなどではなく、非道の限りを尽くす「鬼の手下」が、罪なき里人を蹂躙する光景としか映らなかった。

「見過ごせぬ! 我こそは尾崎郷の郷士、宗兵衛! 弱き者を虐げる所業、この一命に代えても許しはせぬ!」

「旦那様、いけません!」

亀吉が止める間もなく、宗兵衛は折れかけの竹光を抜き放ち、蟹江たちの前に躍り出た。もとより、これまでの「一騎打ち」は、颪が加減を尽くしていたからこそ成り立っていた茶番である。だが目の前の男たちは、正真正銘の白刃を手にした、生身の人間だった。

「気の触れた年寄りだ。痛い目を見なければわからんとみえる」

蟹江が顎をしゃくると、手先の一人が抜き身の刀を無造作に振るった。宗兵衛は辛うじて身をかわしたが、肩口を浅く斬られ、その場に崩れ落ちた。

「旦那様!」

亀吉は宗兵衛に駆け寄ろうとしたが、手先の一人に突き飛ばされ、地面に転がった。倒れた宗兵衛に、もう一人の手先が刀を振り上げる。もはや猶予はなかった。

亀吉は、恐怖に震える足で立ち上がると、一目散に村を飛び出し、黒嶽へと向かって駆け出した。理屈など考えている暇はなかった。ただ、山の主ならば、あの颪ならば――そう祈るような一念だけが、亀吉の足を動かしていた。

山の中腹、いつもの平地までたどり着くと、亀吉は声の限りに叫んだ。

「颪様! 颪様、お願いだ、旦那様が――旦那様が殺される!」

これまで、儀式めいた一騎打ちの日以外に、人間の声がこの場所に響いたことはなかった。だが颪は、亀吉の叫びに込められた必死さを、瞬時に聞き分けた。それは、月に一度の茶番めいた口上とはまるで違う、剥き出しの恐怖と願いの声だった。

颪は、この二百年、自ら山を下りたことは一度もなかった。人里に姿を見せれば、それがどれほどの騒動を招くか、身に染みてわかっていたからだ。だが颪は、迷わなかった。翼を大きく広げると、颪は生まれて初めて、己の意思で山を下りる決断を下した。

五 まことの一太刀

村の広場に、巨大な影が舞い降りたとき、蟹江たちは、悲鳴すら上げる間もなく凍りついた。それは、これまで幾人もの猟師や武者を退けてきたという、あの「人喰いの怪物」に他ならなかった。

颪は、倒れ伏す宗兵衛と、その傍らに立ちすくむ亀吉を確かめると、蟹江たちに向けて、これまで宗兵衛にすら見せたことのない、腹の底から響く咆哮を上げた。その一声だけで、屈強なはずの手先たちは我先にと得物を投げ捨て、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。蟹江もまた、腰を抜かしながら、命からがら村を後にした。

颪は、逃げ惑う男たちを追おうとはしなかった。ただ静かに、宗兵衛の傍らに身を屈めると、その傷の様子を確かめるように、鼻先をそっと近づけた。加減を知り尽くした爪でも牙でもない、あの月に一度の一騎打ちで見せてきたのと同じ、抑えられた優しさがそこにはあった。

宗兵衛は、朦朧とした意識の中で、目の前にある巨大な鱗の顔を見上げた。長らく思い描いてきた「山の主」の勇姿と、目の前の、傷だらけで、疲れ果てた老いた竜の姿とが、その瞬間、初めて重なり合った。

「颪殿……まことに、貴殿であったか」

声は掠れていたが、そこには、これまでの大仰な口上とは違う、静かな響きがあった。颪は答える代わりに、低く長く息を吐いた。それは唸りでも咆哮でもなく、ただの、深い吐息だった。

亀吉が慌てて駆け寄り、宗兵衛の肩の傷に晒しを巻きつけた。颪は、二人がそうしているあいだ、じっとその場を動かずに見守っていた。村人たちは遠巻きに、恐る恐るその光景を眺めていたが、誰一人として、颪に石を投げる者はいなかった。

宗兵衛は、その夜のうちに屋敷へと運ばれた。傷そのものは深くはなかったが、老いた体には堪えたのだろう、それから数日、床から起き上がれぬ日々が続いた。だが、その眼差しからは、もはやあの妄執の光は消えていた。

「亀吉、わしはとんだ思い違いをしておったようだ」

ある晩、宗兵衛は静かにそう言った。「鬼庭主馬でも、伝説の武人でもない。ただの、老いぼれた郷士が一人、生きる張りを求めて、絵空事にすがっておっただけのこと。じゃが颪殿は――颪殿だけは、その絵空事に、律儀に付き合うてくださった。そして、絵空事では済まぬところで、まことの一太刀ならぬ、まことの情けを、わしにくださった」

「旦那様……」

「亀吉、次に山へ登るときがあれば、伝えてくれ。宗兵衛、貴殿を好敵手と呼べたこと、生涯の誉れであったと」

床に伏せる日々のあいだ、宗兵衛はときおり、うわ言のように咲の名を呼んだ。だが、それはもう、鬼庭主馬の物語に酔いしれる声ではなく、ただ一人の老いた男が、亡き妻を懐かしむ、素朴な呟きに過ぎなかった。亀吉はその声を聞くたびに、主人がようやく、絵空事の鎧を脱いで、ただの宗兵衛として最期の日々を過ごしているのだと感じた。

それから半月ほどのちの、静かな朝のことだった。宗兵衛は、眠るように息を引き取った。長患いというほどのこともなく、まるで、張っていた糸がふっと緩むような、穏やかな最期だった。

葬いの日、亀吉は、誰に頼まれるでもなく黒嶽へ登り、いつもの平地で、あの折れかけた竹光を岩の上にそっと置いた。しばらくすると、岩壁の奥から、颪がゆっくりと姿を現した。颪は、竹光の傍らにしばし佇み、それから、亀吉にも聞き取れぬ低さで、長く一声だけ鳴いた。

それ以来、颪が村里の近くに姿を見せることは、二度となかった。それでも、尾崎郷では、いつしか「山の主に石を投げてはならぬ」という新しい言い伝えが語り継がれるようになった。宗兵衛の墓には、毎年、季節が巡るたび、誰が置いたとも知れぬ山の木の実が、一つだけ供えられているという。

黒嶽の頂には、今も颪が棲んでいる。里へ下りることも、人と刃を交えることも、もはやない。ただ、月に一度、あの平地に佇み、誰もいない虚空に向かって、静かに一声だけ、低く長く鳴くのだという。

あとがき

ミゲル・デ・セルバンテス『ドン・キホーテ』は、騎士道物語の耽読によって正気を失った初老の郷士アロンソ・キハーノが、風車を巨人と思い込むなど数々の妄想的な冒険を重ねながらも、最終的には正気を取り戻して静かに息を引き取るという結構を持つ。本作では、この「妄想と現実の往還」という核を保ちつつ、キホーテが巨人と信じて挑む相手を、実在する老いた竜に置き換えた。

原作でドン・キホーテの従者を務めるサンチョ・パンサは、本作では亀吉として登場させ、主人の妄執を止めきれぬまま見守り、やがてその危うさを本当に理解して竜のもとへ走る役割を担わせた。また、ドゥルシネーアへの一途な献身に相当する要素として、本作では「山の主」への騎士道的な敬意そのものを据え、竜自身がその対象となるよう改変している。

翻案にあたり最も重視したのは、長年「人喰いの怪物」として恐れられ、狩られるだけの存在だった老竜が、正気を失った老武士から向けられた大真面目な敬意によって、生涯で初めて恐怖ではなく敬意を経験するという構図である。原作の風車との戦いのような滑稽な茶番を、両者が暗黙のうちに了解し合う「儀式化された一騎打ち」として描き、その関係が、終盤の現実の危機において、竜による正気の判断と現実の忠義へと転じる展開を新たに加えた。原作終盤でキホーテが正気を取り戻して死を迎える結末は、本作でも老武士が竜の真の姿を悟り、静かに息を引き取る結びとして踏襲している。

登場人物の名前、地名、竜の設定、物語の細部はすべて独自に創作したものであり、原文からの翻訳や逐語的な引用は一切行っていない。


本作はミゲル・デ・セルバンテス著『ドン・キホーテ』(Don Quixote, John Ormsby訳, Project Gutenberg #996)を参考にした翻案作品です。

本作はミゲル・デ・セルバンテス(Miguel de Cervantes)の『ドン・キホーテ(Don Quixote)』を参考にした作品です。原典