竜は名を呼ばれなかった
禁忌の秘術で継ぎ接ぎの巨躯に命を吹き込まれた竜は、創造主に一目で見捨てられる。森番の一家をひそかに見守り、独学で得た情愛と、誰にも呼ばれることのない自らの名を胸に抱いたまま、竜は裏切りの果てへと向かう。
一 竜骨山の学者
谷間の村オルダーヴェから見上げる竜骨山は、いつも灰色の雲を頭に巻いていた。峰は年間を通して雪を戴き、その裾野は深い針葉樹の森に覆われている。村の古老たちは、遥か昔この山の裂谷に巨大な竜の群れが眠りに就き、そのまま二度と目覚めなかったのだと語り継いでいる。裂谷には今も白く朽ちた骨と、鈍く光る鱗の欠片が散らばっているという。風の強い夜には、谷の奥から獣の唸りにも似た音が響くと言われ、村人はそこを死者の谷と呼んで、足を踏み入れる者はほとんどいなかった。
学者セドリック・アーレンだけは違った。
幼い頃、母アデルは長い病に伏し、痩せ細っていく体を、幼いセドリックはただ見ていることしかできなかった。母の頬に触れると、かつての温もりはとうに失われ、指先から冷たさだけが伝わってきた。医者も薬師も匙を投げ、最後には枕辺で祈ることしか許されなかった。母が息を引き取った夜、窓の外では雨が地面を叩き続け、セドリックは母の冷たい手を握ったまま、幼い声で誓いを立てた。命とは何か、なぜそれは易々と失われてしまうのか、その根源を自分の手で突き止めてみせると。
長じてセドリックは村外れの古い見張り塔に住み、錬金術と禁じられた古文書を独りで読み耽るようになった。かつて彼を可愛がっていた親戚たちも、次第に彼のもとを訪れなくなった。村人は彼を変わり者と呼び、市場ですれ違っても目を合わせようとしなかったが、セドリックは気にも留めなかった。彼の関心は、生と死の境をまたぐ一点にのみ注がれていた。書物には、命なきものに命を宿す秘術――嵐の夜、天より落ちる雷の力を借りて、死せる肉に息吹を呼び戻す術――が、恐ろしい代償とともに記されていた。
幾年もかけて、セドリックは夜な夜な死者の谷に忍び入り、朽ちた竜の骨と鱗を少しずつ運び出した。谷底は霧が濃く、足を滑らせれば命を落としかねない斜面が続いていたが、セドリックは恐れを感じなかった。むしろ、誰も踏み入らぬ場所にこそ真理が眠っているのだと信じて疑わなかった。竜の肋骨で編んだ骨組みに、剥がれた鱗を一枚ずつ縫い留めていく作業は、気の遠くなるような孤独な仕事だった。谷の奥で見つかる鱗は色も厚みもまちまちで、統一のない継ぎ接ぎにならざるを得なかったが、セドリックはそれを瑕疵とは思わなかった。むしろ、死んだものたちの欠片を集めて一つの命に縫い上げるという行為そのものに、彼は救済にも似た陶酔を覚えていた。
冬が幾度も巡り、骨組みはついに一頭分の巨躯として組み上がった。折れた角の代わりに継いだ別の角は本来の角より大きく歪み、左右の翼は膜の張り方も骨の太さも異なっていた。それでもセドリックの目には、これは自らの手による最高傑作として映っていた。あとは、命を吹き込む夜を待つだけだった。
その夜は、思いのほか早く訪れた。空を覆う雲が渦を巻き、塔の窓硝子ががたがたと震えるほどの嵐だった。セドリックは古文書に記された詠唱を一語一語確かめながら唱え、雷光を導く鉄の杭を骨組みの中枢に打ち込んだ。稲光が杭を伝って走った瞬間、塔全体が震え、継ぎ接ぎの巨躯にゆっくりと熱が巡り始めるのが、セドリックの手のひらにも伝わってきた。
「動け……頼む、動いてくれ」
セドリックは自分の声が震えているのに気づかないまま、そう繰り返した。長い沈黙の後、巨大な瞼が、震えながら持ち上がった。
その瞬間、セドリックは自らの仕事の全貌を初めて正面から見た。左右で丈の違う翼、色も艶も異なる鱗が縫合の痕もあらわに並ぶ胴、片方だけ大きく歪んだ角。書物の挿絵や想像図の中では気高く見えていたはずのその姿は、実際に命を宿し、こちらを見つめ返してくると、耐え難いほどの異形にしか見えなかった。生命の神秘に酔いしれていたはずの学者は、目覚めたものの姿に、腹の底から突き上げる恐怖しか感じられなかった。
竜は――まだ言葉を持たぬそれは――塔の暗がりの中で、初めての呼吸をし、初めての瞬きをし、生まれて初めて誰かの顔を探すように首をもたげた。それはセドリックの顔を、ただ見つめただけだった。敵意も殺意もない、生まれたばかりの困惑だけがそこにあった。竜の喉から漏れたのは唸りではなく、赤子の泣き声にも似た、頼りない吐息だった。
だがセドリックはその眼差しに耐えられなかった。悲鳴を吞み込み、後ずさりに後ずさりを重ね、塔の扉を叩き閉め、雨の中を転げるように逃げ出した。竜が最初に浴びたのは、祝福の言葉ではなく、創造主の背中だった。
嵐の音にまぎれて、竜の低い唸りが塔の奥に長く尾を引いた。それが誰かに向けられた声だったのか、ただの困惑の吐息だったのか、確かめる者はもう誰もいなかった。
二 森番小屋の灯
竜が塔を出たのは、それから幾日か経った、月の冴えた夜のことだった。誰も戻ってこない暗闇の中で飢えと寒さに耐えかね、崩れかけた戸口を自ら押し破ったのだ。
外の世界は、竜にとってすべてが初めてだった。木々のざわめき、川のせせらぎ、月光が葉裏を銀色に染める様。手探りで木の実をもぎ、渓流の水を舐め、雨に打たれて震え、そのたびに竜は何かを学び取っていった。焚き火の残り火に近づいて温もりを覚え、うっかり炎に触れて痛みを知り、痛みの後にはやはり温もりが恋しくなることも知った。痛みも、飢えも、美しさへの震えも、誰に教わったわけでもなく、竜自身の中に一つずつ積み重なっていった。
山を下る途中、竜は森の際に建つ一軒の小屋を見つけた。木こりの一家が暮らす森番小屋だった。竜は物音を立てぬよう、小屋に寄り添うように建つ古い薪小屋の陰に身を潜め、そこから板の隙間越しに、一家の暮らしを覗き見るようになった。最初は好奇心だけだったその眼差しは、季節を経るごとに、もっと切実な渇望へと変わっていった。
そこには、盲いた祖父ヨーランと、その孫で木こりのダリオ、そしてダリオの妹リゼルが暮らしていた。両親はとうに流行り病で亡くしたのだと、ある晩リゼルが祖父に語るのを竜は聞いた。貧しい暮らしではあったが、三人の間には竜が生まれてこのかた一度も浴びたことのない温もりがあった。夕餉の後、ヨーランが古い笛を取り出して素朴な調べを吹き、ダリオがそれに合わせて拍子を取り、リゼルが小さく歌う。そんな何でもない夜が、竜にとっては世界で最も美しい光景だった。
夜ごと、リゼルは古い本を膝に広げ、祖父に読んで聞かせた。ヨーランは目こそ見えなかったが、その物語のひとつひとつを孫娘の声を通して味わい、時に涙し、時に笑った。
「今日は、遠い異国を旅する商人の話よ、お祖父様」
「ほう。今宵はどこまで連れて行ってくれるのかな」
そんなやり取りの後、ランプに火を灯すたび、リゼルは決まってこう言った。
「灯をつけるわね、お祖父様」
その一言を、竜は幾晩も繰り返し聞いた。灯。それは闇の中にひとつだけ許された温もりの名だった。竜は自分にはまだ名がないことに、このとき初めて思い至った。創造主でさえ、一度もその口で自分を呼んではくれなかった。誰にも呼ばれたことのない身に、せめて自分だけでも名を与えたい――竜はその夜以来、胸の裡でひそかに自らを「灯(ともし)」と呼ぶようになった。誰の耳にも届かぬ、竜だけの名だった。
季節が巡るうちに、灯は人の言葉を、一語また一語と拾い集めていった。「ありがとう」「すまない」「愛している」。それらの言葉が交わされるたびに宿る表情の温度を、灯は板の隙間からじっと見つめ、胸に刻んだ。同時に、貧しさゆえの苦労も見た。薪が尽きかけて震える夜、ダリオが傷めた足を庇いながら斧を振るう朝、リゼルが自分の食事をひと匙減らして祖父の椀に足す夕暮れ。誰も見ていないと思っているその瞬間にこそ、人の優しさは最も深く現れるのだと、灯は学んでいった。
灯にできることは、正体を明かさずに手を貸すことだけだった。夜更け、一家が寝静まった頃を見計らって、灯は裏山から薪を運び、崩れかけた柵を直し、罠にかかった兎を戸口に置いていった。ある晩には、羊小屋に迫っていた狼の群れを、姿を見せぬまま唸り声だけで追い払ったこともあった。冬の嵐の晩、屋根の一部が剥がれかけているのを見つけ、朝までかけてこっそり葺き直したこともあった。
「今年は森の精霊が味方をしてくれているようだ」
ある朝、積み上げられた薪の山を見つけたヨーランがそう呟くのを聞いたとき、灯は薪小屋の暗がりで、初めて胸の内に小さな光が灯るのを感じた。ダリオは首をかしげながらも「悪いことでなければ、ありがたく頂戴しておこう」と笑い、リゼルは戸口に置かれた兎の毛並みを撫でながら、誰にともなく「ありがとう」と呟いた。その声は、板の隙間を抜けて、確かに灯の耳に届いた。
もしかしたら、いつか。もしかしたら自分も、あの温かな食卓の一員になれる日が来るかもしれない――そう夢見ることを、灯はこの一年で覚えてしまっていた。夜ごと物陰から見つめるだけの日々に、いつしか耐えがたいほどの焦がれが積み重なっていった。
三 差し出した手
冬の初め、木々の葉がすっかり落ちた頃、リゼルはひとり薪拾いに森の奥まで入り込んだ。灯はいつものように物陰から見守っていたが、やがて痩せた狼の群れが彼女の匂いを嗅ぎつけ、じりじりと輪を狭め始めるのに気づいた。リゼルは薪を抱えたまま後ずさり、足を滑らせて凍った斜面に倒れ込んだ。
迷う暇はなかった。灯は一年間守り続けてきた沈黙を、自らの手で破った。
咆哮とともに藪から躍り出た灯は、狼たちを蹴散らし、倒れ込んだリゼルの前に大きな体を割り込ませた。爪を振るい、牙を剥き、群れが完全に散るまで一歩も退かなかった。リゼルは悲鳴すら上げられず、ただ呆然と、月明かりに浮かぶ継ぎ接ぎの鱗と不揃いな翼を見上げていた。狼の唸り声が遠のいたあと、灯はゆっくりと首を垂れ、怯えるリゼルに、傷つけるつもりのないことを伝えようと、そっと鼻先を近づけた。
その時だった。騒ぎを聞きつけたダリオが斧を手に駆けつけ、盲いたヨーランも杖を頼りに後を追ってきた。ダリオは妹に鼻先を寄せる異形の巨躯を見るなり、恐怖に顔を歪めて叫んだ。
「化け物だ! リゼルから離れろ!」
「兄さん、違う、この子は私を助けてくれたの、狼から――」
リゼルの声は、ダリオの振り下ろした斧の音にかき消された。刃は灯の顔の脇を浅く裂き、鱗の継ぎ目から黒い血が滴った。灯は逃げることも、言葉を発することもできず、ただその場に立ち尽くした。守ったはずの手が、なぜ剣呑な刃に変わるのか、灯にはどうしても理解できなかった。
「お前が……お前が私たちの周りをうろついていた獣なのか!」
盲目のヨーランでさえ、震える声でそう叫んだ。杖を振り上げるその手も、恐怖に小刻みに震えていた。一年間、姿を見せずに支え続けてきた献身は、この一瞬の恐怖の前に、跡形もなく踏みにじられた。灯は血を流しながら後ずさり、リゼルがなおも「待って、この子は」と叫ぶ声を背に、森の闇の中へと消えていった。
その夜、灯は雪の積もる岩陰でひとり丸くなり、初めて自分の口から人の言葉を吐き出した。
「なぜだ。なぜ、助けても、恐れられるのか」
答える者はいなかった。ただ雪が音もなく降り積もり、傷口を凍えさせていくばかりだった。灯の胸の中で、これまで積み重ねてきた優しさが、音を立てて崩れていくのを、灯自身がはっきりと感じ取っていた。優しさを学んだ者ほど、拒絶の痛みは深く突き刺さるのだと、灯はこの晩、初めて思い知った。
四 継がれざる約束
傷が癒えるのを待って、灯は山を下り、麓の町アルヴォンへと向かった。人づてに聞き集めた噂から、灯は創造主の居所を突き止めていた。セドリックは町の一角に居を構え、幼なじみの娘エルサと婚約し、年若い義弟ノアとともに、あの嵐の夜の秘術などなかったかのような穏やかな暮らしを送っていた。人伝てに聞くセドリックの評判は、心優しい兄であり、誠実な婚約者であるというものだった。灯にとって、それは自分の存在をなかったことにする暮らしぶりに他ならなかった。
灯が屋敷の裏庭に姿を現したのは、月のない夜だった。木々の影から、継ぎ接ぎの巨躯がゆっくりと歩み出た。
「セドリック・アーレン。お前が私に命を与え、そして私を見捨てた」
低く這うような声に、セドリックは震え上がった。逃げようとした足がすくみ、彼は初めて、自らが生み出したものと正面から向き合わざるを得なくなった。
「離れろ、化け物め。お前など、生むべきではなかった」
「その言葉を、私は一年間、木の陰から人の温もりを盗み見ながら聞き続けた。優しさも、憎しみも、私は独りで学んだ。お前が私に与えなかったものを、私は自分の力で拾い集めた。それなのに、差し出した手さえも、この身の姿ひとつで斧を向けられた」
灯はこの一年の彷徨と、森番小屋での献身と、その果ての裏切りを、静かに、しかし容赦なく語った。セドリックは膝から崩れ落ちそうになりながら、それでも耳を塞ぐことができなかった。かつて逃げ出した背中の記憶が、今ようやく、彼自身の胸に重くのしかかってきた。
「頼みがある」灯は言った。「もう一頭、私のように継ぎ接がれた同胞を作れ。醜くともいい。心を分かち合える者が一頭でもいれば、私はもう二度と人里には近づかない。誓って、この国から姿を消す。お前の平穏な暮らしにも、二度と触れはしない」
セドリックは長い沈黙の後、罪の重さに耐えかね、頷いた。彼は人里離れた海沿いの洞窟に材料を運び込み、再び禁忌の秘術に手を染めた。灯は洞窟の外で、幾晩も辛抱強くその完成を待ち続けた。波の音を聞きながら、灯は初めて未来に希望らしきものを抱いた。もう一頭、自分と同じ孤独を分け合える者がいれば、この身が異形であることも、もはや呪いではなくなるのではないか、と。
だが、骨組みに命を吹き込む寸前、セドリックの手が止まった。もし二頭の竜が番い、この世に無数の継ぎ接ぎの命が溢れたら――その恐怖が、彼の良心をあっさりと呑み込んだ。彼の脳裏には、いつか自分の血を引く子らが、この化け物じみた種族に脅かされる未来までもが浮かんだ。セドリックは震える手で松明を掲げ、完成間際の同胞を炎の中に投げ込んだ。
洞窟の外からその一部始終を見ていた灯は、声にならない咆哮を上げた。焼け落ちていく骨組みの影を、灯はただ立ち尽くして見つめることしかできなかった。一度の裏切りは絶望を生んだが、二度目の裏切りは、灯の胸に眠っていた優しさそのものを焼き尽くした。
「お前は約束をも継ぎ接ぎにする男か。ならば私も、お前から同じだけのものを奪おう」
その言葉を最後に、灯は闇へと姿を消した。
数日後、屋敷の森でノアの亡骸が見つかった。悲しみに沈む町では、まもなく屋敷勤めの無実の小間使いに疑いがかけられた。彼女が以前ノアと些細な諍いを起こしていたというだけの理由で、証拠もないまま処刑台へと引き立てられていった。真実を知るセドリックは、灯の仕業だと確信しながらも、誰にも信じてもらえぬことを恐れ、口を噤んだ。その沈黙もまた、彼が積み重ねた継ぎ接ぎの罪の一つになった。
処刑の日、セドリックは群衆の後方でその一部始終を見届けた。少女が縄を掛けられる瞬間、彼女の怯えた瞳が一度だけ群衆の中の彼を捉えた気がした。その夜から幾晩も、セドリックは眠りの底で少女の声を聞いた。「私は何もしていません」と。目覚めるたびに、彼は自分が沈黙によって選び取った罪の重さを数え直した。婚約者エルサに真実を打ち明けようと幾度も口を開きかけたが、灯を生み出したのが他ならぬ自分だという事実が、そのたびに彼の舌を凍らせた。灯を止める術を知っているのは自分だけだというのに、その灯への恐れが、真実を語る勇気よりも常に勝った。この沈黙が、やがて婚礼の夜に彼自身を巻き込む破局への、静かな伏線となっていることに、セドリックはまだ気づいていなかった。
葬儀の晩、灯は再びセドリックの前に姿を現した。憎しみに焼かれたその瞳には、もはや救いを乞う色はなかった。
「お前の婚礼の夜、私はそばにいる」
そう告げて、灯は夜の底へと消えていった。
五 氷原の果て
脅しの言葉から逃れられぬまま、セドリックはエルサとの婚礼を早めた。灯が狙うのは自分の命に違いないと思い込んだセドリックは、婚礼の夜、剣を手に自らの寝室で夜通し警戒を続けた。エルサには、別間で休むようにとだけ告げて。窓の外を睨み続ける彼の耳に、屋敷のどこかで扉が軋む音が届いたが、それが何を意味するのか、彼はあまりにも遅く気づいた。
夜半、屋敷の奥から短い悲鳴が響いた。
駆けつけたセドリックが見たのは、変わり果てたエルサの姿だった。窓辺には、月を背にした巨大な影が佇んでいた。
「私が奪われた孤独を、お前にも同じだけ味わわせたかった。お前は私の命を狙うと思い込んでいたようだが、私が本当に奪いたかったのは、お前の傍らにある温もりの方だ」
灯はそれだけを告げ、夜空へと羽ばたいて消えた。セドリックの慟哭は、屋敷の壁を虚しく打ち続けた。
それから、セドリックの人生は復讐だけに費やされた。町を捨て、家を捨て、灯の残す痕跡だけを頼りに、彼は北へ、さらに北へと山野を彷徨い続けた。竜骨山を越え、人の踏み入らぬ氷原の果てまで、幾月もかけて追い続けるうちに、かつて穏やかな暮らしを送っていた学者の面影は、彼自身の顔からも失われていった。頬はこけ、瞳だけがぎらぎらと執念に光り、その姿はもはや、彼が恐れていた異形とさして変わらぬものになっていた。
雪原の只中で、セドリックはついに力尽きた。倒れ伏した彼の傍らに、灯はゆっくりと舞い降りた。復讐を遂げた者の顔に、しかし勝利の色はなかった。あるのはただ、底の見えない虚しさだけだった。
「お前を追い詰めれば、この胸の穴が埋まると思っていた」セドリックは掠れた声で言った。「だが、何も埋まらなかった。エルサを失っても、ノアを失っても、穴はただ広がるばかりだった」
「私も同じだ」灯は答えた。「お前を苦しめても、あの森番小屋の食卓の温もりは、二度と私の元には戻らなかった。憎しみで埋められる穴などないのだと、私はようやく悟った。悟るのが、あまりに遅すぎた」
セドリックの息が、白く小さくなっていく。灯はその最期を、憎しみでも慈しみでもない、ただ静かな眼差しで見届けた。
「私には、名がある」灯は誰に語るでもなく呟いた。「灯という名だ。森番の娘が、灯りをともすたびに口にしていた言葉から、私自身が選んだ名だ。だが、その名を呼んでくれる者は、ついに一人もいなかった。お前でさえも」
セドリックは何かを言いかけたが、声にはならなかった。ただ、かすかに首を横に振ったのが、詫びだったのか、それとも最後の拒絶だったのか、灯にはもう確かめる術がなかった。やがてセドリックの瞳から光が消えたとき、灯は長い首を垂れ、雪原にひとつだけ残った足跡を静かに見つめた。それから翼を広げ、誰にも見送られることのないまま、白い吹雪の奥へと飛び立っていった。
その姿は、瞬く間に雪の帳の向こうに溶けて消えた。灯という名を知る者は、この世にもう誰もいなくなった。
あとがき
メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』は、生命の創造に取り憑かれた学者が、目覚めた被造物の異形を恐れて見捨て、拒絶され続けた被造物が復讐へと転じていく悲劇である。本作では、この「創造物」を、死せる巨竜の骨と鱗を繋ぎ合わせて生まれた一頭の竜に置き換え、竜自身が物語の主役となるよう構成した。
原作の骨格――創造主による即座の遺棄、盲目の老人を含む森番の一家を物陰から見守り言葉と情愛を独学する日々、ひとたびの善意の表明が恐怖と暴力で迎えられる転換点、同胞の創造を巡る二度目の裏切り、婚礼の夜の悲劇、そして極北への追跡と対話による幕引き――は保ちながら、人物名・地名・エピソードの細部と、竜が自らに与える名「灯」という要素はすべて独自に創作したものである。特に、誰にも呼ばれることのなかった名という着想を通じて、怪物性の根源が悪意ではなく「見捨てられた孤独」そのものにあることを強調するよう努めた。
なお本作は、原典の翻訳や逐語的な引用は行わず、あらすじと構図のみを参照し、文章・情景・展開は独自に創作したものである。
本作はメアリー・シェリー(Mary Shelley)著『Frankenstein; or, The Modern Prometheus(フランケンシュタイン)』を参考にした翻案作品です。